玻璃窓の平八江戸を離れる
「聞きてえものだ。教えてくだせえ」 「どこかで大船を造っているのさ」 「へへえ、ナーンだ、そんなことですかい」 「なんだとはなんだ。なんだではないよ」 「だがね、旦那、少しおかしいや。なにも大船を造るのに、大工を攫わなくてもよさそうなものだ」 「いやいや、それがそうでない。造り主が大変者なのだ」 「大変者って、何者なので?」 松五郎はいくらか熱心になった。 「一口にいうと日蔭者だ」 「どうも私には解らねえ」 すると平八は声を落としたが、 「教えてやろう。海賊だ」 「ははあ、海賊? ナール、日蔭者だ」 「しかも一通りの海賊ではない。やはりこれは赤格子だ。そうでなければその余党だ。そいつがどこかでご禁制の船を、建造しているに相違ない」 益声を落としたが、 「小松屋、そこで頼みがある。あすかないしはあさって頃、船脚が遅くて小さな船で、そうして金目を積み込んでいる、つまり海賊に襲われそうな船が、どこかの問屋から出はしないか、そいつを調べて来て貰いたい」 「変なご注文でございますね」 「是非今夜中に知りたいのだ」 「ようございます。すぐ行って来ましょう」 松五郎はとつかわ出て行ったが、真夜中になって戻って来た。 「旦那、一隻みつかりました」 「それはご苦労。どこの船だな」 「へい、淀屋の八幡丸で」 「あ、そうか、それは有難い。……いいから帰って休んでくれ」 松五郎が帰ると平八は、すぐに変装にとりかかった。髯を剃り、髪を結い変え、紺の腹がけに同じ股引、その上へ革の羽織を着たが、まさに一カドの棟梁であった。 夜のひきあけに家を出ると、深川の淀屋まで歩いて行った。 「許せ」 と声だけは武士のイキで、 「俺はな、南町奉行所吟味与力の石本だ、仔細あって犬吠へ行く。ついては八幡丸へ乗せてくれ」 「よろしい段ではございません。ご苦労様に存じます」 淀屋では異議なく承知した。
こうして名探索玻璃窓は、江戸から足を抜いたのであった。
阪東米八と和泉屋次郎吉
ここは両国の芝居小屋、阪東米八の楽屋であった。 午後の陽が窓からさしていた。あけ荷、衣桁、衣裳、鬘、丸型朱塗りの大鏡台、赤を白く抜いた大入り袋、南京繻子の大座布団、ひらいたままの草双紙、こういった物が取り乱されてあったが、女太夫の部屋だけに、ひときわ光景がなまめかしい。 「ねえ、お前さん、ねえ吉っあん、ほんとに気色が悪いじゃないか。妾アつくづく厭になったよ」 燃え立つばかりの緋縮緬、その長襦袢をダラリと引っかけ、その上へ部屋着の丹前を重ね、鏡台の前へだらしなく坐り、胸を開けて乳房を見せ、そこへ大きな牡丹刷毛で、ヤケに白粉を叩きつけているのは、座頭阪東米八であった。年はおおかた二十五、六、膏の乗った年増盛り、大柄で肉付きよく、それでいて姿のぼやけないのは、踊りで体を鍛えたからであろう。肉太の高い鼻、少し大きいかと思われたが、それがかえって役者らしい。紅をさした玉虫色の口、それから剃り落とした青い眉、顔の造作は見事であったが、とりわけ眼立つのはその眼であって、上瞼が弓形をなし、下瞼が一文字を作った、びっくりするほど切れ長の眼は、妖艶婀娜たるものであった。※々[#「白+光」、204-4]という形容詞が、そっくりそのままあてはまるような、光沢を持った純白な肌は、見る人の眼をクラクラさせた。 「妾アつくづく厭になったよ」くり返して彼女はこういった。 「いや俺も驚いた」 こう合い槌を打ったのは、彼女にとっては旦那でもあり、且つは嬉しい恋人でもある、魚屋の和泉屋次郎吉であった。唐棧ずくめの小粋ななり、色の浅黒い眼の鋭い、口もとのしまった好男子で、年はそちこち四十でもあろうか、小作りの体は敏捷らしく、五分の隙もない人品であったが、座布団の上へ腹這いになり、莨をプカプカ吹かしていた。 「つぶてでなし手裏剣でなし、なんでいったいぶち抜いたものかな。看板と板壁とを突き通すなんて、ほんとにこいつ素晴らしい芸だ」 「そんなことどうでもよござんすよ。それより、妾癪にさわるのは、選りに選って妾の顔へ、あんな大きな穴をあけて……」 「ナーニそれとて曰くはないのさ。あんまりお前が綺麗なので、それでいたずらをしたってやつさ」 「ヘン、おっしゃいよ、おためごかしを」 米八は横目で睨む真似をした。 「そうはいうものの惜しいことをした。あれは俺から五渡亭に頼んで、わざわざ描かせた看板だからな」 「そんなことどうでもよござんすよ」まだ米八は機嫌が悪い。「それに妾にはこの芝居、なんだか小気味が悪くってね」 「へえ、どうしてだい、おかしいね。いりだってこんなにあるじゃないか」今度は次郎吉が不満そうにした。 「だって、あんまりなまなましいんですもの」 「なまなましいって? どうしてかい?」 「だってお前さんそうじゃないか。泥棒芝居の鼓賊伝、ところで主人公の鼓賊ときては、現在江戸を荒し廻っていて、お上に迷惑をかけてるんでしょう」 「うん、そうさ、だからいいのさ。つまり何んだ、はしりだからな。そうとも素敵もねえ際物だからな。……もっとも他にも筋はある」 「ええ、そりゃありますとも。追分唄いの甚三馬子だの、宿場女郎のお北だの、あくどい色悪の富士甚内だの。……」 「それから肝腎の探索がいらあ」 「ええ、見透しの平七老人」 「で、素晴らしくいい芝居さ」次郎吉はツルリと顎を撫でたが、にわかにズンと声を落とし、「実はおいらの道楽から行くと、その『見透しの平七』を『玻璃窓の平八』にしたかったのさ。だが、それじゃあんまりだからな。で、平七に負けてやったやつさ」 「おや変ですね、玻璃窓といえば、郡上の旦那じゃありませんか」米八は不思議そうに見返った。 「うん、そうさ、その旦那さ。あけすけにいえばこの芝居はだ、その玻璃窓に見せたいばっかりに、おいら筋立てをしたんだからな」
深い怨みの敵討ち
「その玻璃窓の旦那なら、おとつい観に来たじゃありませんか」 「百も承知だ。待っていたんだからな。そこで早速秀郎の野郎に例の鼓を打たせたのさ。アッハハハ、いい気味だった。あの鼓を聞いた時の玻璃窓の爺の顔といったら、今思い出しても腹がよじれる。いいみせしめっていうやつさな」さもおかしいというように、揺り上げ揺り上げ笑ったものである。 米八には意味がわからなかった。 「でもどうして玻璃窓の旦那に、こんどの芝居を見せたいんでしょう?」 「それか、それには訳がある。……ひらったくいうとまずこうだ。彼奴、としよりの冷水で、鼓賊を追っかけているんだよ。ところがさすがの名探索も、こんどばかりは荷が勝って、後手ばかり食らっているやつさ。それを俺は知ってるんだ。うん、そうさ、ある理由からな。ところで俺はあの爺に五年前から怨みがあるんだ。で、そこで敵討ちよ。つまり彼奴のトンマぶりを、そっくり芝居に仕組んだあげく、彼奴の眼の前にブラ下げたって訳さ。胸に堪える五寸釘! そいつがこれだ。『名人地獄』だ!」 「どんな怨みだか知らないけれど、つまらない事をしたものね」米八は浮かない顔をした。 「それはそうと、ねえお前さん、秀郎さんの鼓賊のつくり、何から何までお前さんじゃないか」 「俺が注文したからよ」次郎吉はそこでニタリとした。 「どうしてだろう? ねえお前さん」 「それも玻璃窓に見せたかったからさ」 「なんだか妾にゃあ解らない」きまずそうに眉をひそめ、「とにかく妾にゃあこの芝居は、気になることばかりで面白くないよ」 「それじゃ明日から芸題替えだ」次郎吉は煙管のホコを払い、「もう玻璃窓に見せたんだから、俺の目的はとげられたってものさ。いつ替えたって惜しかあねえ」 「アラそう、それじゃ替えようかしら」 「それがいい、つき替えねえ」 米八はいくらか愁眉をひらき、チラリと鏡を覗いてから、次郎吉の方へ膝を向けた。 「まだあるのよ、気になることが」 「文句の多い立おやまさね」次郎吉はちょっとウンザリしたが、「おおせられましょう、お姫様、とこう一つ行くとするか」 「真面目にお聞きよ、心配なんだからね」 「おい、どうするんだ、邪慳だなあ。煙管ならそっちにあるじゃねえか」 「お前さんの煙管でのみたいのさ」 「へん、安手な殺し文句だ」 「でも、まんざらでもないでしょうよ」 「こんどは押し売りと来やがったな。あッ、熱い! なにをしやがる!」 左の頬を抑えたのは、雁首の先をおっつけられたからで。 「いい気味いい気味、セイセイしたよ」 「地震の後はどうせ火事だ。諦めているからどうともしなよ」 ゴロリと次郎吉はあおむけになった。 「節穴の多い天井だなあ。暇にまかせて数えてやるか。七ツ八ツ九ツ十」 「莫迦にしているよ、呆れもしない」 「そのまた莫迦が恋しくて、離れられないというやつさ」 「いい気なものさ、しょってるよ」 「あっ、畜生、五十八もあらあ」 とうとうみんな数えたらしい。
腑に落ちない色々の事
「ほんとにそうだよ」と米八は、何をにわかに考え出したものか、しみじみとしていい出した。 「どこがよくって惚れたのか、妾にゃまるっきり見当がつかない」 「オヤ、今度は恩にかけるのかい」 次郎吉はもっけな顔をした。 「なあに、そうじゃないけれどね、お前さんのためにゃほんとにほんとに、髪まで切られているんだからね」 「おっと、そいつアいいっこなしだ」 こうはいったが次郎吉も、これには多少こたえたらしい。 「どうだ、それでもすこしは伸びたか?」 「三月や半年で女の髪が、なんでそうそう伸びますかよ」米八は額で睨むようにした。 「あれは一生の失敗だった」むしろ次郎吉は慨然と、「厭がるお前を無理にすすめ、一幕うったほどでもねえ、たいした儲けもなかったんだからな」 「罪もない観世様をそそのかし、色仕掛けで巻き上げたまでは、まあまあ我慢をするとして、ご親友だとかいう平手さんに、駕籠から雪の中へ引き出され、鼓を取られたあげくのはてに、ブッツリ髷を切られたんだもの、悪い役ったらありゃしない」 「あんまり来ようが遅いので、心配をして迎えに出たら、アッハハハ、あの活劇さ」 「助けにも来ず、薄情者! 思い出すと腹が立つよ」 「そっと仕舞って置くことさな。だが全くあの時は、見ていた俺さえ冷汗をかいた」 「今こそ笑って話すけれど、あの時妾は殺されるかと思った」 「だがな、あんな時俺が出たら、騒ぎは大きくなるばかりさ。そこでゆっくり拝見し駕籠が来たので付き添って、茶屋へ行ってからは思う存分、可愛がってやったからいいじゃねえか」 「だがね」と米八は探るように、「どうしてお前さんはあの鼓を、そうまで苦心して欲しがったのだろう?」 「なに、そんなことはどうでもいい」 次郎吉はヒョイと横を向いた。 「妾ア気がかりでならないんだよ」 「ふふん」というと舌なめずりをした。 「そうかと思うと今年の夏中、フイと姿を消したりしてさ」 「旅へ行ったのさ、信州の方へな」 「その旅から帰ったかと思うと、例の鼓を持っているんだもの」 「ナーニ、そいつあ観世さんから、相談ずくで譲って貰ったのさ」 「そりゃあそうだろうとは思うけれど、それから間もなく起こったのが、鼓泥棒の鼓賊なんだもの……」 「ふん、それがどうしたんだい?」 次郎吉はギロリと眼をむいた。 「だから気が気でないんだよ」 その時チョンチョンと二丁が鳴った。 「おやもう幕が開くんだよ。それじゃ妾は行かなけりゃならない」 「では俺もおいとまとしよう」 次郎吉はポンと立ち上がった。 「オイ、はねたら飲みに行こうぜ」 「ええ」 というと部屋を出た。 チェッと次郎吉は舌打ちをしたが、 「あぶねえものだ、火がつきそうだ」 ちょっとあたりを見廻してから、部屋を出ると廊下へかかり、裏梯子を下りると裏口から、雪のたまっている往来へ出た。 プーッと風が吹いて来た。 「寒い寒い、ヤケに寒い」 チンと一つ鼻をかみ、 「さあて、どっちへ行ったものかな」 あてなしにブラブラ歩き出した。がその眼には油断がない。絶えず前後へ気をくばっていた。
バッタリ遭ったは河内山
「おお和泉屋、和泉屋ではないか!」 こう背後から呼ぶ者があるので、次郎吉はヒョイと振り返って見た。剃り立て頭に頭巾をかむり、無地の衣裳にお納戸色の十徳、色の白い鼻の高い、眼のギョロリとした凄味のある坊主、一見すると典医であるが、実は本丸のお数寄屋坊主、河内山宗俊が立っていた。 「おや、これは河内山の旦那で」 こうはいったが和泉屋次郎吉、たいして嬉しそうな顔もしない。むしろ酸っぱい顔をした。 「どこへ行くな、え、和泉屋」 黒塗りの足駄で薄雪を踏み、手は両方とも懐中手、大跨にノシノシ近寄って来たが、 「穴ッぱいりか、え、和泉屋、羨ましいな、奢れ奢れ」 「えッヘッヘッヘッ、どう致しまして。ちょっとそこまで野暮用で」 「冗談だろう、嘘をいえ。野暮用というなりではない。ここは浅草雷門、隅田を越すと両国盛り場。聞いたぞ聞いたぞその両国に、新しい穴を目つけたそうだな。羨ましいな一緒に行こう」 始末につかない坊主であった。 「それはそうと、オイ和泉屋、近来ちっとも顔を出さないな」 「へえ、ちょっと、稼業の方が……」 「ナニ稼業? そんなものがあるのか」そらっ呆けてやり込めた。 「やりきれねえなあ、魚屋で」 「いや、それなら知ってるよ。だが、そいつあ表向き、お上を偽く手段じゃねえのか」 「とんでもないこと、どう致しまして」次郎吉はいやアな顔をした。 「ほんとに魚を売るのかえ」 「売る段じゃございません」 「塩引きの鮭でも売るのだろう」 「ピンピン生きてるたいやこちをね」 「おお、そうだったか、それは気の毒。アッハハハ、面白いなあ」 益厭味に出ようとした。 「なにの、俺は、お前の稼業は、こいつだろうと思っていたのさ」壺を振るような手付きをし、 「ソーレどうだ、袁彦道!」 「そいつあ道楽でございますよ」 「ふふん、なるほど、道楽だったのか。それはそれはご結構なことじゃ。……それにしても思い切ったものだ。ちっとも賭場へ顔を出さないな」 「なあにそうでもございませんよ」気がなさそうに笑ったが、「やっぱりチョクチョク出かけているので」 「それにしては逢わないな」 「駆け違うのでございましょうよ」 「ちげえねえ、そうだろう。……だが細川へは行くまいな」こういうと宗俊はニヤリとした。これには意味があるのであった。 はたして次郎吉は厭な顔をしたが、 「七里けっぱいでございますよ」 「ハッハッハッハッ、そうだろうて。……そこでいいことを聞かせてやる。気に入ったらテラを出せ」 「へえ、何んでございましょう?」 「玻璃窓の平八がいなくなったのさ」 「おっ、そりゃあほんとですかい?」思わず次郎吉は首を伸ばした。 「どうして旦那、ご存知で?」 「碩翁様からお聞きしたのさ」 「ははあなるほど、さようでございますか」 「どうだどうだ、いい耳だろう。十両でいい、十両貸せ」 「お安いご用でございますがね、……ようございます、では十両」 紙に包んで差し出した。 「安いものさ、滅法安い」チョロリと袖へ掻き込んだが、「オイ和泉屋、羽根が伸ばせるなあ」 しかし次郎吉は返事をしない。 「お前にとっては苦手の玻璃窓、そいつが江戸から消えたとあっては、ふふん、全く書き入れ時だ。盆と正月が来たようなものだ。なあ和泉屋、そんなものじゃねえか」 宗俊はネチネチみしみしとやった。
鼓賊と鼠小僧は同一人
「旦那」と次郎吉は探るように、「いったいどこへいったんですい?」 「え、誰が? 玻璃窓か?」 「あの好かねえじじく玉で」 「どうやら大分気になるらしいな。聞かせてやろうか、え、和泉屋」 「ききてえものだ。聞かせておくんなせえ」 「が、只じゃあるめえな」 「十両あげたじゃありませんか」 「これか、こいつあさっきの分だ。一話十両といこうじゃねえか」 「厭なことだ、ご免蒙りましょう」 「よかろう、それじゃ話さねえまでだ」 「旦那も随分あくどいねえ」とうとう次郎吉は憤然とした。「悪党のわりに垢抜けねえや」 「お互い様さ、不思議はねえ」 宗俊はノコノコ歩き出した。 「旦那旦那待っておくんなさい」 未練らしく呼び止めた。 「何か用か、え、和泉屋、止まるにも只じゃ止まらねえよ」 「出しますよ、ハイ十両」 「感心感心、思い切ったな」 「で、どこへ行ったんですい?」 「海へ行ったということだ」 「え、海へ? どこの海へ?」 「そいつはどうもいわれねえ」 「へえ、それじゃそれだけで、私から二十両お取んなすったので?」 「悪いかな、え、和泉屋、悪いようなら、ソレ返すよ」 「ナーニ、それにゃ及ばねえ。それにしても阿漕だなあ。……ようごす、旦那、もう十両だ、詳しく話しておくんなさい」 「莫迦をいえ」と宗俊は、苦笑いをして首を振り、「いかに俺があくどいにしろ、そうそうお前から取る気はねえ。……詳しく話してやりたいが、実はこれだけしか知らねえのさ。いかに中野碩翁様が、俺らの親分であろうとも、秘密は秘密、お堅いものだ。実はこれだけ聞き出すにも、たいてい苦労をしたことじゃねえ。……だが、この俺の考えでは、お前もとうから聞いていよう、ひんぴんと起こる海賊沙汰、それと関係があるらしいな」 「へへえ、なるほど、海賊にね。いや有難うございました。そこでついでにもう一つ、いつ江戸をたったので?」 「今朝のことだよ。あけがたにな」 「いつ頃帰って参りましょう」 「仕事の都合さ、俺には解らねえ」 「それはそうでございましょうな」 次郎吉はじっと考え込んだ。 「オイ和泉屋」と宗俊は、にわかにマジメな顔をしたが、「気をつけろよ気をつけろよ。あいつのことだ、じき帰って来よう。そうしたらやっぱりこれまで通り、お前をつけて廻そうぜ。あの細川の下屋敷以来、お前は睨まれているんだからな」 「ほんとに迷惑というものだ」次郎吉は変に薄笑いをしたが、「人もあろうに私のことを、鼠小僧だっていうんですからね」 「そいつあどうともいわれねえ」宗俊も変に薄笑いをし、「鼠小僧だっていいじゃねえか。俺ア鼠小僧が大好きだ。腐るほど持っている金持ちの金を、ふんだくるなあ悪かあねえよ」 「ほんとに迷惑というものだ」パチリと頬を叩いたが、「この片頬の切り傷だって、あの爺に付けられたんでさあ」 「あれはたしか五年前だったな」 「ほんとに迷惑というものだ」 「ところがことしの秋口から、鼠小僧は影をかくし、代りに出たのが評判の鼓賊、オイ和泉屋、玻璃窓はな、その鼓賊と鼠小僧を、同じ人間だといってるぜ」 「ふふん、どうだって構うものか。私の知ったことじゃねえ」 「おおそうか、それもいいだろう。が宗俊は苦労人だ。よしんばお前がなんであろうと、洗い立てるような野暮はしねえ。だからそいつあ安心しねえ。……長い立ち話をしたものさ。どれ、そろそろ行こうかい。和泉屋、それじゃまた逢おう」 宗俊はノシノシ行ってしまった。 後を見送った和泉屋次郎吉、 「ふん、あれでもお直参か」吐き出すように呟いたが、「だがマアそれでもいいことを聞いた。鬼のいぬ間の洗濯だ。あばれて、あばれて、あばれ廻ってやろう」
その夜、江戸の到る所で、鼓の音を聞くことが出来た。そうして市内十ヵ所に渡って、大きな窃盗が行われた。
気味の悪い不思議な武士
品川を出た帆船で、銚子港へ行こうとするには、ざっと次のような順序を経て、航海しなければならなかった。 千葉、木更津[#ルビの「きさらづ」は底本では「きさらず」]、富津、上総。安房へはいった保田、那古、洲崎。野島ヶ岬をグルリと廻り、最初に着くは江見の港。それから前原港を経、上総へはいって勝浦、御宿。その御宿からは世に名高い、九十九里の荒海で、かこ泣かせの難場であった。首尾よく越せば犬吠崎。それからようやく銚子となり、みちのりにして百五十里、風のない時には港へ寄って、風待ちをしなければならなかった。 で、玻璃窓の平八の乗った、淀屋の持ち船八幡丸も、この航路から行くことにした。海上風波の難もなく、那古の港まで来た時であったが、一人の武士が乗船した。 本来八幡丸は貨物船で、客を乗せる船ではないのであったが、やはり裏には裏があり、特に船頭と親しいような者は、こっそり乗ることを許されていた。 武士の年齢は四十五、六、総髪の大髻、見上げるばかりの長身であったが、肉付きはむしろ貧しい方で、そのかわりピンと引き締まっていた。着ている衣裳は黒羽二重。しかし大分年代もので、紋の白味が黄ばんでいた。横たえている大小も、紺の柄絲は膏じみ、鞘の蝋色は剥落し、中身の良否はともかくも、うち見たところ立派ではない。それにもかかわらずその人品が、高朗としてうち上がり、人をして狎れしめない威厳のあるのは、学か剣か宗教か、一流に秀でた人物らしい。 船尾の積み荷の蔭に坐り、ぼんやりあたりを見廻していた、郡上平八の傍まで来ると、ふとその武士は足を止めた。 「職人職人よい天気だな」声をかけたものである。 「へい、よい天気でございます」平八はちょっと驚きながらも、こう慇懃に挨拶をした。 「どこへ行くな? え、職人?」ひどくきさくな調子であった。 「へい、銚子まで参ります」 「うん、そうか、銚子までな」こういうと武士は坐り込んだが、それからじっと平八を眺め、「なんに行くな、え、銚子へ?」 「へい、いえちょっと、仕事の方で。……それはそうとお武家様も、やはり銚子でございますかな?」 「いやおれはすこし違う」武士は変に笑ったが、「ところでお前は何商売だな?」 「へい、船大工でございます」こうはいったが平八は、気味が悪くてならなかった。 「なに船大工? 嘘をいえ」武士はいよいよ変に笑い、「これ、大工というものはな、物を見るのに上から見る。ところがお前は下から見上げる。アッハハハ、これだけでも異う。どうだ、これでも大工というか?」 これを聞くと平八は「あっ、しまった」と胸の中でいった。武士の言葉に嘘はない。すべて大工というものは、棟の出来栄へまず眼をつけ、それからずっと柱づたいに、土台の仕組みまで見下ろすものであり、それが万事に習慣づけられ、人を見る時には頭から眺め、足に及ぼすものなのであった。これに反して与力、同心、岡っ引きなどというようなものは、何より先に足もとを見、その運びに狂いがないかを、吟味するのに慣らされていた。しかるに平八は思うところあって棟梁風にやつしてはいたが、ついうっかりとその点へまで、心を配ることをうち忘れ、武士を見る時にも与力風に、まず足から見たものであった。 「それにしてもこの侍、いったいどういう人物であろう?」改めて平八はつくづくと、武士を見守ったものである。 その混乱した平八の様子が、武士にはひどく面白いと見え、奥歯をかむようにして笑ったが、 「どうだ、これでも船大工かな」 「へい、大工でございますとも、だってそうじゃございませんか、旦那に嘘を申し上げたところで、百も儲かりゃあしませんからね」いわゆるヤケクソというやつで、こう平八はつっぱねた。
たたみ込んだ船問答
「おお、そうか、これは面白い、ではお前へ訊くことがある。どうだ、返辞が出来るかな」 「へい、わっちの知っていることなら、なんでもお答えいたしますよ」「知ってることとも、知ってることだよ、お前がほんとに船大工なら、いやでも知らなければならないことだ」 こういうと武士は懐中から、一葉の紙を取り出した。見れば絵図が描かれてあった。船体横断の図面であった。 「さあ、これだ、よく見るがいい」武士は一点を指差したが、「ここの名称は何というな?」 「へい、腰当梁でございましょうが」平八は笑って即座にいった。己が姿を船大工にやつし、敵地へ乗り込もうというのであるから、忙しいうちにも平八は、一通り船のことは調べて置いた。 「それならここだ、ここは何というな?」「へい、赤間梁と申しやす」「うん、よろしい、ではここは?」「三間梁でございますよ」「感心感心よく知っている。ではここは? さあいえさあいえ」「下閂でございまさあ」「ほほう、いよいよ感心だな。ここはなんという? え、ここは?」 「なんでもないこと、小間の牛で」「いかにもそうだ、さあここは?」「へい、横山梁にございます」「うん、そうだ、さあここは?」「ヘッヘッヘッヘッ、蹴転でさあ」「ではここは? さあわかるまい?」「胴じゃございませんか。それからこいつが轆轤座、切梁、ええと、こいつが甲板の丑、こいつが雇でこいつが床梁、それからこいつが笠木、結び、以上は横材でございます」 ポンポンポンといい上げてしまった。 「ふうむ、感心、よく知っている。さては多少しらべて来たな。……よし今度は細工で行こう。……縦縁固着はどうするな?」 「まず鉋で削りやす。それからピッタリ食っつけ合わせ、その間へ鋸を入れ、引き合わせをしたその後で、充分に釘を打ち込みやす。漏水のおそれはございませんな」 「上棚中棚の固着法は?」 「用いる釘は通り釘、接合の内側へ漆を塗る。こんなものでようがしょう」 「釘の種類は? さあどうだ?」 「敲き釘に打ち込み釘、木釘に竹の釘に螺旋釘、ざっとこんなものでございます」 「螺旋釘の別名は?」 「捩じ込み釘に捩じ止め釘」 「船首の材には何を使うな?」 「第一等が槻材」 「それから何だな? 何を使うな?」 「つづいてよいのは檜材、それから松を使います」 「よし」というと侍は、またも懐中へ手を入れたが、取り出したのは精妙を極めた、同じ船体の縦断面であった。 「さあここだ、なんというな?」 航と呼ばれる敷木の上へ、ピッタリ指先を押しあてた。 「なんでもないこと、それは航で」「いかにも航だ。ではここは?」「へい、弦でございます。そうしてその下が中入れで、そうしてその上が弦押しで」「矧ぎ付きというのはどのへんだな?」 「弦押しの上部、ここでございます」「では、ここにある一文字は?」「船の眼目、すなわち船梁」 「もうよろしい」といったかと思うと、武士は図面を巻き納めた。と、居住居を正したが、にわかに声を低目にし、「正直にいえ、職人ではあるまい」 「くどいお方でございますな」平八は多少ムッとしたが「なにを証拠にそんなことを。……わっちは船大工でございますよ」 「そうか」というとその武士は、平八の右手をムズと掴んだ。 「これは乱暴、なにをなされます」
<< 上一页 [11] [12] [13] [14] 下一页 尾页
|