逢ってくれない弓之助
走り使いの喜介の家は、二丁目の露路の奥にあった。お色は煤けた格子戸を開けた。 「ちょいと喜介どん、頼まれて頂戴」 菊石面の四十男、喜介がヒョイと顔を出した。「へいへいこれはお色さん」 「これをね」とお色は恋文を出した。「いつもの方の所へね。……これが駕籠賃、これが使い賃、これが向こうのお屋敷の、若党さんへの心付け」 「これはこれはいつもながら。……お気の付くことでございます。……そこで益ご繁昌」 「冗をいわずと早くおいでな」 喜介は門を飛び出した。お色は両国を渡って行った。「春の海終日のたりのたり哉」……「海」を「河」に置き代えよう。「春の河終日のたりのたり哉」まさに隅田がそうであった。おりから水は上げ潮で河幅一杯に満々と、妊婦の腹のように膨れていた。荷足、帆船、櫂小船、水の面にちらばっていた。両岸の家並が水に映り、そこだけ影がついていた。 「いい景色、嬉しいわね」お色は恍惚と河を見た。「まるでお湯のように見えるじゃあないの」――嬉しい時には何も彼も、水さえ湯のように見えるものであった。「おや都鳥が浮いているよ。可愛いわねえ、有難うよ」またお色は礼をいった。嬉しい時には有難く、有難い時には礼をいう。これは大変自然であった。そこでお色は橋を越した。まだ広小路は午前のことであんまり人が出ていなかった。それがまたお色には嬉しかった。芝居、見世物の小屋掛けからは、稽古囃しが聞こえて来た。 横へ外れると半太夫茶屋で、ヒラリと渋染めの暖簾を潜った。 「おやお色さん、早々と」女将が驚いて顔を長くした。眉を落とした中年増唇から真っ白い歯を見せた。 「さあお通り。……後からだろうね?」 ヒョイと母指を出して見せた。 「私今日は嬉しいのよ」お色はトンと店へ上がった。 「そうだろうね。嬉しそうだよ」 「うんとご馳走を食べるよ」 「家の肴で間に合うかしら」 「そうして今日は三味線をひくわ」 「一の糸でも切るがいいよ。身受けされるっていうじゃあないか」 「その身受けが助かったのよ」 いつもの部屋へ通って行った。ちんまりと坐って考え込んだ。 「私あの人を嘗め殺してやるわ」 恐ろしいことを考え出した。 「逢い戻り! いいわねえ」――いいことばかりが考えられた。「初めてあの人と逢うようだわ」自分で自分の胸を抱いた。ちょうどあの人に抱かれたように。「だが何んだか心配だわ」今度は少し心配になった。「あの人何んておっしゃるだろう」これはちょっと問題であった。「のっけに私はこういうわ。もういいのよ。済んだのよ。お妾に行かなくってもいいのだわ」するとあの人おっしゃるかも知れない。「お色、大変気の毒だが、おれには他に情婦が出来たよ」……厭だわねえ、困っちまうわ。彼女は本当に困ったように部屋の中をウロウロ見た。「おやこの部屋は四畳半だわ」毎々通る部屋だのに、彼女は初めて気が附いたらしい。「ああでもないと四畳半! いいわねえ。嬉しいわ」嬉しい方へ考えることにした。 「でも随分待たせるわねえ」 まだ十分しか待たないのに。 床に海棠がいけてあった。春山の半折が懸かっていた。残鶯の啼音が聞こえて来た。次の部屋で足音がした。 「いらっしゃったか、やっとのこと」彼女は急いで居住居を直した。だが足音は引っ返した。 「莫迦にしているよ。人違いだわ」彼女はだんだん不機嫌になった。 長いこと待たなければならなかった。女中が茶を淹れて持って来た。 でもとうとうやって来た。弓之助でなくて喜介であった。 「どうもお色さんいけません。昨日お出かけになったまま、今日まだお帰りにならないそうで」 喜介の報告はこうであった。お色は一時に気抜けした。じっと首をうな垂れた。
両国橋の乞食の群
女将が声を掛けたのに、ろくろく返事をしようともせず、お色はフラリと茶屋を出た。同じ道を帰って行った。 「案じた通りだ、出来たんだわ、ええそうよ、ほかに女が」まず彼女はこう思った。「そういうものだわ。男というものは」別れ話を持ち出したのが、彼女自身だということを、彼女はここで忘れていた。 「何んだか眼の前が真っ暗になったわ」両国橋へ差しかかった。橋の欄干へ身をもたせた。「河なものかまるで溜だわ……!」隅田川の風景も、もう彼女には他人であった。「きっと河は深いんだろうねえ」ゾッとするようなことを考えた。「身を投げたらどうだろう?」死んでからのことが考えられた。「あの人泣いてくれるかしら?」決して泣くまいと決めてしまった。「では随分つまらないわねえ」手頼りなくてならなかった。 「ドボーンと妾が身を投げたら、誰か助けてくれるかしら。そうよ今は昼だから。助けてくれたその人が、あの方だったらいいのにねえ」 ダラリと袖を欄干へ垂らし、ぼんやり河面を眺めやった。やはり都鳥が浮かんでいた。やはり舟がとおっていた。皆々他人であった。急に眼頭がむず痒くなった。眼尻がにわかに熱を持って来た。ボッと両の眼が霞んで来た。瞳へ紗でも張られたようであった。家々の形がひん曲がって見えた。見える物がみんな遠く見えた。そうしてみんな[#「そうしてみんな」は底本では「そうしてみんな」]濡れて見えた。 涙を透して見る時は、すべてそんなように見えるものであった。 体の筋でも抜かれたように、グンニャリとした歩き方で、お色は橋を向こうへ越した。すぐ人波に渦き込まれた。 お色の倚っていた欄干から、二間ほど離れた一所に、五、六人の乞食が集っていた。往来の人の袖に縋り、憐愍を乞う輩であった。 一個の手ごろの四角い石と、十個の小さい円石とで、一人の乞食が変なことをしていた。 やや離れた欄干に倚り、それを見ている老武士があった。編笠で顔を隠しているので何者であるかは解らなかった。 乞食は角石を右手へ置いた。それから小石を三個だけ、その左手へタラタラと並べた。 老武士が口の中で呟いた。 「銅銭会茶椀陣、その変格の石礫陣。……うむ、今のは争闘陣だ」 乞食はバラバラと石を崩した。角石をまたも右手へ置き、その左手へ二つの小石を、少し斜めにピッタリと据えた。それから指で二の字を描いた。 と、老武士は口の中でいった。「雙龍玉を争うの陣だ」 すると塊まっていた数人の乞食の、その一人が手を延ばし、ツと一つの小石を取った。それを唇へ持って行った。それから以前の場所へ置いた。他の乞食が同じことをした。次々に小石を取り上げた。それを唇へ持って行った。それから以前の場所へ置いた。「茶を喫するという意味なのだ」老武士は口の中で呟いた。「雙龍玉を争うにより、その争闘に加わるよう。よろしいといって承知した意味だ。ふむ、何かやると見える」 乞食は手早く石を崩した。小石ばかりを三個並べた。その後へ二つ円を描いた。 「ははあ同勢三百人か」口の中で老武士はいった。 乞食はまたも石を崩した。角石を取って右手へ置いた。一個の小石を左手へ置いた。その左手へ四個の小石を、四角形に置き並べた。そうして四角形の石の周囲へ、指で四角の線を引いた。 と、老武士は呟いた。「これ患難相扶陣だ。今度の争闘は患難だによって、相扶けよという意味だ」 乞食はまたも石を崩した。それから再び石を並べた。三個の小石を左手に並べ、三個の小石を右手へ並べた。中央へ二個の小石を置いた。 「これすなわち梅花陣だ」
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