北町奉行曲淵甲斐守
彼の屋敷は本所にあった。 「お帰り遊ばせ」と若党がいった。 「ああ」と受けて部屋へはいった。小間使いが茶を淹れて持って来た。 「お父様は?」と弓之助は訊いた。 「はい、ご書見でございます」 「お兄様は?」と彼は訊いた。 「はい、ご書見でございます」 「みんな勉強しているのだな。何んのために勉強するのだろう? 論語を読んでどうなるんだろう? どこかの世界で役立つかしら? どうもおれには疑問だよ。そんな事より行儀でも習って、頭の下げっ振りでも覚えるんだね。そうでなかったら幇間でも呼んで、追従術を習うんだね。こいつの方がすぐ役立たあ。お菊お前はどう思うな?」 「若旦那様何をおっしゃるやら、ホッホッホッホッ、そんな事」小間使いのお菊は無意味に笑った。 「ホッホッホッホッそんな事か? なるほど、こいつも処世術だ。語尾を暈して胡麻化してしまう。偉いぞお菊、その呼吸だ。御台所に成れるかもしれねえ。俺はお前の弟子になろう、ひとつ俺を仕込んでくれ」 「厭でございますよ、若旦那様」小間使いのお菊は逃げてしまった。 弓之助は寝ることにした。 「どぎった事はないものかしら? ひっくり返るような大事件がよ。俺はそいつへ食い下がってゆきたい。何んだか知らねえがおれの心には変てこな塊が出来ている。ともかくもこいつを吐き出したいものだ。つまり溜飲を下げるのさ」
北町奉行曲淵甲斐守、列代町奉行のその中では、一流の中へ数えられる人物、弓之助にとっては叔父であった。 その翌日のことであった、弓之助は叔父を訪問した。屋敷内が騒がしかった。与力が右往左往した。同心どもが出入りした。重大な事件でも起こったらしい。弓之助は叔母の部屋へ行った。 「叔母様、何か取り込みで?」 「おやこれは弓之助さんかい。何んだか妾には解らないが、大変なことが起こったようだよ」 弓之助には母がなかった。五年ほど前に逝ってしまった。で、弓之助はこの叔母を、母のように、懐しんでいた。 「お茶でも淹れよう、遊んでおいで。叔父さんも帰って来ようからね」 「ええ有難うございます」 お茶を飲んで世間話をした。叔父は帰って来なかった。御殿へ詰め切りだということであった。夜になってようやく帰って来た。その顔色は蒼褪めていた。弓之助は叔父の部屋へ行った。 「毎日ご苦労に存じます」 「おお弓之助か、近ごろどうだ」こうはいったがいつものように、優しく扱かってはくれなかった。いわゆる心ここにあらず、何か全く別のことを、考えているような様子であった。 「これは大事件に相違ない」弓之助は直覚した。「何か大事件でも起こりましたので」顔色を見い見い訊いて見た。 「うん」と甲斐守は物憂そうにいった。「前古未曽有の大事件だ」 「いったいどんなことでございますな?」 「絶対秘密だ。いうことは出来ない」甲斐守は苦り切った。
変な噂は聞かなかったかな?
甲斐守は深沈大度、喜怒容易に色に出さぬ、代表的の役人であった。今度に限ってその甲斐守が、まざまざ憂色を面に現わし、前古未曽有の大事件で、絶対秘密というからには、よほどの事件に相違ない。弓之助の好奇心は膨れ上がった。しかし甲斐守の性質として、一旦いわぬといったからには、金輪際口を開かぬものと、諦めなければならなかった。そこで弓之助は一礼し、甲斐守の部屋を出ようとした。 「これ弓之助ちょっと待て、少し聞きたいことがある」甲斐守は急に止めた。 「はい、ご用でございますか」弓之助は座に直った。 「お前は随分道楽者で、盛り場や悪所を歩き廻るそうだな」 「おやおや何んだ、面白くもない。紋切り形の意見かい」弓之助は苦笑したが、 「これはどうも恐れ入ります。はい、さようでございますな。いくらかは道楽も致しますが、決して親や兄弟へは、迷惑などは掛けないつもりで」 「いやいや意見をするのではない。若いうちは遊ぶもよかろう。親父のようにかたくなでは、ろくな出世は出来ないからな。どうだ情婦でも出来ているか」 「おやおやこいつは変梃だぞ。妙な風向きになったものだ。叔父貴としては珍らしい。ははあわかった、手段だな。いわせて置いてとっちめる。ううんこいつに相違ない。町奉行なんか叔父に持つと、油断も隙も出来やあしない。甥に対してさえお白洲式の、訊問法を採るのだからな。構うものか、逆捻を食わせろ」そこで弓之助はニヤニヤした。 「実はね、叔父さん、出来ましたので。茶汲み女ではありますが、どうしてどうして一枚絵にさえ出た、素晴らしい別嬪でございますよ。だがね、叔父さん、つい最近、縁を切られてしまいました」 「切られたというのは変ではないか、お前が縁を切ったんだろう。冗なことをしたものだ」 「いいえそうじゃありません。女から引導を渡されたんで」 「ほほうそうか、それは偉い」 「偉い女でございますよ」 「いやいや偉いのはお前の方だ」 「叔父さん冷かしちゃあいけません」 「冷かすものか、本当のことだ。遊びもそこまで行かなければ、堂に入ったとはいわれない」 「振られて帰る果報者。叔父さん、こいつをいっているんですね」 「いやいやそれとは意味が異う。男へ引導を渡すような女だ、いずれ鉄火に相違あるまい。そういう女をともかくも、占めたということは偉いではないか」 「これはどうも恐れ入りました」弓之助は変に気味悪くなった。「この叔父貴変梃だぜ。金仏のような風采でいてそれで消息には通じている。ははあ昔は遊んだな」 その時甲斐守は一膝進めた。 「そこでお前に訊くことがある。盛り場ないし悪所などで近ごろ何か変わった噂を耳にしたことはなかったかな?」 「さあ、変わった噂というと?」 「銅銭会というようなことを」 「あっ、それなら聞きました。いや現在見たんです」 「ふうむ、そうか、知っているのか。……ひとつそいつを話してくれ」ピタリと甲斐守は坐り直した。 そこで弓之助は昨日、上野山下一葉茶屋で、怪しい振る舞いをした町人のことと、老武士のこととを物語った。じっと聞いていた甲斐守は、一つ大きく頷いた。 「いやよいことを教えてくれた。ついては弓之助頼みがある。これから大至急谷中へ行き、大岡侯の下屋敷へ伺候し、その老体と面会し、もっと詳しく銅銭会のことを、聞き出して来てはくれまいかな」 「はい、よろしゅうございます。しかしはたしてその老人、会って話してくれましょうか」 「俺から書面をつけることにしよう」 「へえ、それでは叔父様は、その老人をご存知で?」こう弓之助は不思議そうに訊いた。
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