京師殿と甲斐守
「恐らく今度の事件なるものは、日本における会員の、不良分子の所業であろうが、どういう径路で将軍家をどうして奪ったかわからない。どこに将軍家を隠しているか、それとも無慚に弑したか、これでは一向見当が付かない。……一人でもよいから銅銭会員をどうともして至急捕えたいものだ」 甲斐守は沈吟した。 その時近習がはいって来た。 「京師殿と仰せられるご老人が、お目にかかりたいと申しまして……」 「何、京師殿、それはそれは。叮嚀にここへお通し申せ」 近習と引き違いにはいって来たのは、両国橋にいた老人であった。 「おおこれは京師殿」 「甲斐守殿、いつもご健勝で」 二人は叮嚀に会釈した。 「さて」と京師殿は話し出した。「銅銭会の会員ども、今夜騒動を始めますぞ」 「何?」と甲斐守は膝を進めた。「銅銭会の会員がな? してどこで? どんな騒動を?」 「今夜五更花川戸に集まり、ある家を襲うということでござる。同勢おおかた三百人」 両国橋での出来事を、かいつまんで京師殿は物語った。 「銅銭会員にご用ござらば、即刻大至急にご手配なされ、一網打尽になさるがよかろう」 「よい事をお聞かせくだされた。至急手配を致しましょう」 「何か柳営に大事件が、勃発したようでございますな」 「さよう、非常な大事件でござる。実は一昨夜上様が……」 「いやいや」と京師殿は手を振った。 「愚老は浮世を捨てた身分、直接柳営に関することは、どうぞお聞かせくださらぬよう」 「いかさまこれはごもっともでござる」 そこで甲斐守は沈黙した。 間もなく京師殿は飄然と去った。 さてその夜のことであった。 花川戸一帯を修羅場とし、奇怪な捕り物が行われた。 歴史の表には記されてないが、柳営秘録には相当詳しく記されてあるに相違ない、この捕り物があったがため幕府の政治が一変し、奢侈下剋上[#ルビの「げこくじょう」は底本では「げこくじやう」]の風習が、勤倹質素尚武となり、幕府瓦壊の運命を、その後も長く持ちこたえたのであった。 この捕り物での特徴は、捕られる方でも、捕る方でも、一言も言葉を掛け合わなかったことで、八百人あまりの大人数が、長い間格闘をしながらも、花川戸一帯の人達は、ほとんど知らずにおわってしまった。しかも内容の重大な点では、慶安年間由井正雪が、一味と計って徳川の社稷に、大鉄槌を下そうとした、それにも増したものであった。捕り方の人数六百人! この一事だけでも捕り物の、いかに大袈裟なものであり、いかに大事件であったかが、想像されるではあるまいか。一口にいえば銅銭会員と幕府の捕り方との格闘なのであった。 その夜はどんよりと曇っていた。月もなければ星もなかった。家々では悉く戸を閉ざし、大江戸一円静まり返り燈火一つ見えなかった。 と、闇から生まれたように、浅草花川戸の一所に、十人の人影が現われた。一人の人間を真ん中に包み丸く塊まって進んで来た。一軒の屋敷の前まで来た。黒板塀がかかっていた。門がピッタリ閉ざされていた。屋根の上に仄々と、綿のようなものが集まっていたがどうやら八重桜の花らしい。 その前で彼らは立ち止まった。 とまた十人の一団が一人の人間を真ん中に包み、闇の中から産まれ出た。それが屋敷へ近付いて来た。先に現われた一団と後から現われた一団とは、屋敷の門前で一緒になった。互いに何か囁き合った。わけのわからない言葉であった。
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