ガラガラと飛び出した四筋の鎖
闇に佇んだ弓之助は、考え込まざるを得なかった。「女勘助、紫紐丹左衛門、稲葉小僧新助、火柱夜叉丸、それからもう一人鼠小僧外伝、これへ神道徳次郎を入れれば、江戸市中から東海道、京大坂まで名に響いた、いわゆる天明の六人男だ。ううむ偉い者が集まったぞ。ははあそれではこの屋敷は、彼奴ら盗賊の集会所だな。いやよいことを嗅ぎ付けた。叔父へ早速知らせてやろう。一網打尽、根断やしにしてやれ」 スルスルと彼は家蔭を出た。 「いやいや待て待て、考え物だ。これから叔父貴の屋敷へ行き、事情を語っているうちには、夜が明けて朝になる。せっかくの獲物が逃げようもしれぬ。逃がしてしまってはもったいない。ちょっとこいつは困ったなあ」彼ははたと当惑した。 「気にかかるのは女勘助だ。島田髷に大振り袖、美人の装いをしていたが、大奥の後苑へ現われて、上様を誘拐したという、その女も島田髷、振り袖姿だということである。……関係があるのではあるまいかな? ……いよいよ此奴は逃がせねえ。うむそうだ踏み込んでやろう。有名の悪漢であろうとも、たかの知れた盗賊だ。掛かって来たら切って捨て、女勘助一人だけでも、是非とも手擒にしてやろう」 彼は剣道には自信があった。それに彼は冒険児であった。胸に出来ている塊を、吐き出したいという願いもあった。どぎった事をやってみたい。こういう望みも持っていた。 彼は潜り戸へ身を寄せた。それから彼らの真似をして、指でトントンと戸を打った。中は森閑と静かであった。人のいるような気勢もなかった。彼は塀へ手を掛けた。ヒラリと上へ飛び上がった。腹這いになって窺った。眼の下に小広い前庭があり、植え込みが飛び飛びに出来ていた。その奥の方に主屋があった。どこにも人影は見えなかった。で弓之助は飛び下りた。植え込みの蔭へ身を隠し、さらに様子を窺った。やはりさらに人気はなかった。玄関の方へ寄って行った。戸の合わせ目へ耳をあて、家内の様子を窺った。無住の寺のように寂しかった。試みに片戸を引いてみた。意外にも、スルリと横へ開いた。「これは」と弓之助は吃驚した。「いやこれはありそうなことだ。泥棒の巣窟へ泥棒が忍び込む気遣いはないからな、それで用心しないのだろう」彼は中へはいって行った。玄関の間は六畳らしく燈火がないので暗かった。隣室と仕切った襖があった。その襖へ体を付けた。それからソロソロと引き開けた。その部屋もやはり暗かった。十畳あまりの部屋らしかった。隣室と仕切った襖があった。その襖をソロソロと開けた。燈火がなくて暗かった。全体が手広い屋敷らしかった。しかも人影は皆無であった。どの部屋にも燈火がなかった。一つの部屋の障子を開けた。そこに一筋の廻廊があった。その突きあたりに別軒[#ルビの「べつむね」は底本では「べねむね」]があった。離れ座敷に相違ない。廻廊伝いにそっちへ行った。雨戸がピッタリ締まっていた。その雨戸をそっと開けた。仄明るい十畳の部屋があった。隣り部屋から漏れる燈が部屋を明るくしているのであった。弓之助はその部屋へはいった。隣り部屋の様子を窺った。やはり誰もいないらしい。思い切って襖を開けた。はたして人はいなかった。机が一脚置いてあった。そうしてその上に紙があった。紙には文字が記されてあった。
川大丁首
こう書いてあった。 「はてな、どういう意味だろう?」 で、弓之助は首を傾げた。突然ガチャンと音がした。部屋の片隅の柱の中から、鎖が一筋弧を描き弓之助の方へ飛んで来た。右手を上げて打ち払った。キリキリと手首へまきついた。「しまった!」と呻いたそのとたん、反対側の部屋の隅、そこの柱の中央から、またもや鎖が飛び出して来た。キリキリと左手へまきついた。またもや鎖の音がした。もう一本の柱から、同じように鎖が飛び出して来た。それが弓之助の胴をまいた。ともう一本の柱から、またもや鎖が飛び出して来た。それが弓之助の足をまいた。四筋の鎖にまき縮められ、弓之助はバッタリ畳へ仆れた。身動きすることさえ出来なかった。 だが屋敷内は静かであった。咳一つ聞こえなかった。行燈の燈は光の輪を、天井へボンヤリ投げていた。どうやら風が出たらしい、裏庭で木の揺れる音がした。……いつまで経っても静かであった。人の出て来る気勢もなかった。 「どうもこいつは驚いたなあ」心が静まるに従って、弓之助の心は自嘲的になった。「人間を相手に切り合うなら、こんな不覚は取らないのだが、鎖を相手じゃあ仕方がない。……これは何んという戦法だろう? とにかくうまいことを考えついたものだ。敵ながらも感心感心。……といって感心していると、どんな酷い目に合うかもしれない。さてこれからどうしたものだ。どうかして鎖を解きたいものだ」 彼は体を蜒らせた。鎖が肉へ食い込んだ。
恋文を書く銀杏茶屋のお色
「痛え痛え、おお痛え。滅多に体は動かせねえ。莫迦にしていらあ、何んということだ。仕方がねえから穏しくしていよう。……だがそれにしても泥棒どもは、どこに何をしているのだろう? 姿を見せないとは皮肉じゃあないか。ひどく薄っ気味が悪いなあ。これじゃあどうも喧嘩にもならねえ。……考えたって仕方がねえ。もがくとかえってひどい目を見る。おちついて待つより仕方がねえ、うんそうだ、こんな時には、何かで心を紛らせるがいい。紙に書かれた『川大丁首』よしこの意味を解いてやろう」そこで彼は考え出した。だがどうにもわからなかった。「こんな熟字ってあるものじゃねえ。川は川だし大は大さ。丁は丁だし首は首だ。音で読めば川大丁首。川大にして丁の首? こう読んだって始まらねえ。……こいつ恐らく隠語なんだろう」 依然屋敷は静かであった。
銀杏茶屋のお色は奥の部屋で、袖垣をして恋文を書いていた。まだ春の日は午前であった。店の客も少なかった。部屋の中は明るかった。春陽が丸窓へ射していた。小鳥の影が二三度映った。彼女は大分ご機嫌であった。顔の紐が解けていた。頬にこっぽりした笑靨が出来うっかり指で突こうものなら指先が嵌まり込んで抜けそうもなかった。彼女はひどく嬉しいのであった。千代田城中に大事件が起こり、田沼主殿頭が狼狽し、お色を妾にすることなど、とても出来まいということを――もちろんハッキリといったのではないが、とにかくそういう意味のことを、田沼の家の用人から、今朝方知らせがあったからであったのみならず、養母に渡したところの、手附けの金は手附け流れ、返すに及ばぬということであった。で、養母もご機嫌であった。そこでお色はこの事情を、恋しい男の弓之助へ告げ、今日いつもの半太夫茶屋で、逢おうと巧んでいるのであった。 「恋しい恋しい」という文字や「嬉しい嬉しい」という文字も、目茶目茶に恋文へ書き込んだ。 「あらあらかしく、お色より、恋しい恋しい弓様へ」こう結んで筆を置いた。封筒へ入れて封じ目をし、さも大事そうに懐中へ入れた。それから他行きの衣裳を着、それから店へ出て行った。 「ちょっとお母さん出て来てよ」 「さあさあどこへなといらっしゃい」長火鉢の前へ片膝を立て、お誂え通りの長煙管、莨を喫かしていた養母のお兼は、黒い歯茎で笑ってみせた。「おやおや大変おめかしだね。ふふん、さてはあの人と……」 「いらざるお世話、よござんすよ」 「観音様へ参詣しお賽銭ぐらいは上げるだろうね」 「おや、そいつは本当だね」 いい捨ててお色は戸外へ出た。プーッと春風が鬢を吹いた。で彼女は鬢を押さえた。プーッと春風が裾を吹いた。今度は前を抑えなければならない。「風さえ妾を嬲っているよ」彼女はそこでニッコリとした。鳩がポッポと啼いていた。彼女の周囲へ集まって来た。 「厭だねえこの鳩は、邪魔じゃないか歩くのにさ」 御堂の前で掌を合わせた。帯の間から銭入れを抜き、賽銭箱へお宝を投げた。 「どうも有難う、観音様。みんなあなたのご利益よ」 で彼女は歩いて行った。 「何て今日はいい日なんだろう。みんな妾に笑いかけているよ。何だか知らないが有難うよ」 往来の人が囁き合った。 「あれが評判のお色だよ」「どうでえどうでえ綺麗だなあ」「今日は取りわけ美しいぜ」 「はいはい皆さん有難うよ」彼女は笑って口の中でいった。 「でもね、皆さんお生憎さまよ、見せる人はほかにあるんですよ」
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