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組んだその腕をパラリと解くと、 「素性を明かしておくんなせえ」 丁寧な語調で問いかけた。だが、態度には隙がない。 「さればさ」と云ったが沈痛であった。 「上州産れの乞食だと、こうもう私が云ったところで、合点をしては下さるまいねえ。……永らく私の住んでいた、その土地の名でも申しましょう。……遠い他国なのでございますよ」 「と云って唐でもありますめえ」 「いやその唐だよ、上海だ!」 「上海?」 「左様」 「そうでしたかねえ」 「この国へ帰ったのは一年前」 いよいよ沈痛の顔をしたが、 「追っかけて来たのでございますよ」 「何をね?」と松吉は突っ込んだ。 「大事なものを!」とただ一句だ。 「で、眼星は?」 「まず大体。……」 「付いた? 結構! 方角は?」 「あの方角で! 霊岸島!」 「うむ」と云うと岡引の松吉は、十手と取縄とを懐中へ蔵い、 「霊岸島には用がある。おいお菰さん、一緒に行こう」 「へい」と云ったが空を見た。 「夏は日永で暮れませんねえ」 「ホイ、ホイ、ホイ、そうでしたねえ、日のある中は何にも出来ねえ」 だがその日もとうとう暮れ、夜が大江戸を領した時、いう所の、「ぶちこわし」――掠奪、放火、米騒動の、恐ろしい事件が勃発した。
最初に暴動の起こったのは、霊岸島だということである。 ここはその霊岸島で…… 今、一団の群集が、柏屋の裏口から走り出した。 五十人余りの人数である。 真先に立ったのは巫女姿のお久美で、点火した龕を捧げてい、御弊を片手に持っている。懐刀仕込みの御弊である。 白衣、高足駄、垂らした髪、ユラユラユラユラと歩いて行く。 傍に添ったのは市郎右衛門で、脇差を腰にさしている。 それを囲繞した五十余人が、東北の方へ走って行く。 大音に叫ぶはお久美の声で…… 「おお信者らよ、教法を守れ! 破壊しようとするものがある! おお信者らよ、教法を守れ! ……有司の驕慢、幕府の横暴、加うるに天災、世は飢饉! 天父がお怒りなされたのだ! 恐れよ、慎め、おお人々よ! 天父をお宥め申し上げろ! ……続け、続け、我に続け! 浄土が見えよう、我に続け! 飢えたる者よ、我に来よ! 死したる者よ、甦るだろう! 病める者よ、癒されるであろう! ……食を見付けよ! 到る所にあろうぞ! 我に来る者よ、幸福であろうぞ! ……」 東北の方へ進んで行く。次第に人が馳せ集まり、百人、百五十人、二百人となった。 「世の建て直しだ!」と誰か叫んだ。 「焼打ち! 焼打ち! 焼打ちにかけろ!」 ボーッと一所から火が上った。 「浮世を照らせ! 浮世を照らせ!」 火事が見る見る燃え拡がる。 群集を掻き分け狂信者の一団は、東北へ東北へと走って行く。 火事の凄じい紅の光! 青い火が一点縫って行く。お久美の捧げた龕の火だ! 叫声! 悲鳴! 鬨の声! ドンドンドンと破壊の音! それが一つに集まって、ゴーッと巨大な交響楽となる。 一瞬の間に霊岸島は、修羅の巷と一変した。 と、その時、鮫島大学の、屋敷の門がひらかれて、 「さあ方々、出動なされ! 面白い芝居が打てましょうぞ!」 こう叫んだ男がある。他ならぬ鮫島大学であった。 と、ムラムラと出て来たは、大学一味の無頼漢であった。 「火の手は上った! 燃え上った! 役目をしようぞ、風の役目を!」 同じく鮫島大学である。 一団となって東北の方へ、走って行こうとした折柄、漲る暴徒を掻き分けて、こっちへ走って来る人影があった。 岡引の松吉と「上州」である。
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岡引の松吉と上州と、そうしてお久美の一団とは、当然衝突しなければならない。 「上州、お前は自由にするがいい、俺は逃げるぜ。相手が悪い!」 云いすてると岡引の松吉は、露地へ一散に駈け込んでしまった。 「いやはやまたも逃げ出しの番か、今日は朝からげんが悪い。……こいつがあたりまえの連中なら、何の俺だって逃げるものか。……ところが相手は大変者だ。のみならず今夜は大勢で、しかも狂人になっている。取り囲まれたら助からない」 そこで、一散に走るのであったが、お久美を頭に狂信者の群が、その後を追って走って来た。 「今朝方秘密の道場を、看破った人間にございます。連雀町の松吉だと、自分から宣って居りました。岡引に相違ございません」 こう云ったのは市郎右衛門で、脇差を抜いてひっ下げている。 「岡引といえば、官の犬、犬に嗅ぎ出された上からは、手入れをされると思わなければならない。手入れをされないその前に、是非とも命を取ってしまえ!」 龕を捧げたお久美である。 「今朝方仰せをかしこみまして、追いかけましてございますが、とうとうとり逃がしてしまいました。懲りずにまたも近寄りましたは、何より幸いにございます。今度こそ逃がさず追い詰めて、息の根を止めるでございましょう」 狂信者の群を見廻したが、 「向こうへ逃げて行くあの男こそ、我々にとっては無二の敵、教法を妨げる法敵でござる。追い付いて討っておとりなされ」 狂信者の群が後を追う。 背後を振り返った岡引の松吉は、 「いけないいけない追っかけて来る。いよいよ今朝方と同じだ。さあてどっちへ逃げたものだ。まさかにもう一度扇女さんの家へ、ころがり込むことも出来ないだろう。一体ここはどこなんだろう?」 霊岸島の一ノ橋附近で、穢い小家が塊まっている。火事の光でポッと明るく、立騒いでいる人の姿が、影絵のように明暗して見える。 「火事だ火事だ!」 「ぶちこわしだ!」 「さあ押し出せ!」 「ぶったくれ!」 などという声々が聞こえてくる。 軒に倒れている人間がある。飢えた行路人に相違ない。家の中からけたたましい、赤子の泣き声が聞こえてくる。乳の足りない赤子なのであろう。 そこを走って行く松吉である。 と、右へ曲がろうとした。するとそっちから叫び声がした。 「こっちへ来るぞ打って取れ!」 即ち狂信者の連中が、三方四方に組を分け、包囲するように追って来たが、その一組がその方角から、こっちへ走って来るのであった。 「いけない!」と喚くと岡引の松吉は、身を飜えすと左へ曲がった。 なおも、ひた走るひた走る。 するとその行手からこっちを目掛け、狂信者の群が走って来た。 「いけない」と露路へ走り込んだ。 「どうぞお助け下さいまし」 露路に倒れていた一人の老婆が、腕を延ばすと縋り付こうとした。 「お粥なと一口下さりませ」 「こっちこそ助けて貰いたいよ」 振り切って松吉はひた走る。 出た所が川口町で、群集が飛び廻り馳せ廻っている。 大火になると思ったのだろう家財を運んでいる者がある。 ぶちこわしが恐ろしい連中なのであろう雨戸を閉ざす者もある。 露路に向かって駈け込む者、露路から往来へ駈け出る者……それで、往来はごった返している。 「うむ、これなら大丈夫だ。身を隠すことも出来るだろう」 松吉は背後を振り返って見た。薄紅い火事の遠照を縫って、青い火が一点ゆらめいて来る。 「どうもいけない、目つかりそうだ」 また走らなければならなかった。 出た所が富島町で、それを突っ切ると亀島橋、それを渡れば日本橋の区域、霊岸島から出ることが出来る。 「よし」と云うと岡引の松吉は、亀島橋をトッ走った。 中与力町が眼の前にあって、組屋敷が厳しく並んでいる。 「しめたしめた」とそっちへ走った。 組屋敷の一画へ出られたら、松吉は安全に保護されるだろう。 だが運悪く出られなかった。ぶちこわしの一団が大濤のように、その方角から蜒って来て、すぐに松吉を溺らせて、東北へ東北へと走ったからである。 掻き分けて出ようと焦ったが、人の渦から出られそうもない。 で、東北へ東北へと走る。 日本橋の区域も霊岸島と負けずに、修羅の巷を現わしていた。
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しかしさすがに蔵前へ迄は、ぶちこわしの手が届かないと見え、寧ろひっそりと寂れていた。 と云うのはぶちこわしの噂を聞き込み、ここらに住んでいる大商人達が、店々の戸を厳重にとざし、静まり返っているからである。 ふと現われた人影がある。 「とうとう大事になってしまった」 他でもない宇和島鉄之進であった。 「江戸中騒乱の巣となろう。死人も怪我人も出来るだろう。霊岸島の方は火の海だ。八百八町へ飛火がしよう。と、日本中へ押し広がる。京都、大阪、名古屋などへも、火の手が上るに相違ない。幕府の有司のやり方が、不親切だからこんなことになる。金持のやり方もよくないよ」 呟いたがフッと笑い出した。 「いやその金持の加賀屋の主人だが、もう帰ってはいないかしら。どうにも渡すものを渡さなければ苦になって心が落ちつかない」 扇女のために危難を救われ、扇女の部屋でしばらく憩い、もうよかろうという時になって、芝居小屋から旅籠へ戻り、今まで休んでいたのであったが、預った物が心にかかる。そこで加賀屋をもう一度訪ねて、主人が帰っているようなら、早速渡そうと出て来たのであった。 本多中務大輔の屋敷の前を通り、書替御役所の前を過ぎ、北の方へ歩いて行く。 鮫島大学の一味に追われ、日中早足に歩いたところを、逆に歩いて行くのである。 急に鉄之進は足を止めた。 眼の前に加賀屋が立っている。しかし表戸は厳重に下ろされ、静まり返って人声もしない。 しばらく見ていたが苦笑いをした。 「そうでなくてさえこんな大家は、点火前には戸を立てるものだ。ましてやこんな物騒な晩には、閉じ込めてしまうのが当然だ。――と云うことも知ってはいたが、やはりうかうか出て来たところを見ると、利口な俺とは云われないな」 ここでちょっと考えたが、 「戸を叩くのは止めにしよう。怯えさせるのはよくないからなあ」 そこでクルリと方向を変え、元来た方へ引っ返そうとしたが、 「待てよ」と呟くと足を止めた。 「今日長吉という若い手代が気になることを云ったっけ、『……裏木戸から出たのでもございましょうか、錠がこわれて居りました』と……その裏木戸を見てやろう」 勿論単なる好奇心からではあったが、加賀屋の大伽藍の壁に添い、宇和島鉄之進は裏へ廻った。 裏木戸の前まで来た時である、木戸の内側から女の声が、物狂わしそうに聞こえてきた。 「出しておくれよ、出しておくれよ!」 「戸外は物騒でございます、今夜だけは止めなさりませ」 「出しておくれよ。出しておくれよ!」 「明日の昼にでも参りましょう。さあさあ、お嬢様、お休みなさりませ」 「ねえ乳母、献金しておくれよ。……お久美様へねえ。どっさりお金を」 「はいはい献金致しますとも。……今夜はお休みなさりませ」 「眼の前にお父様がお在でなさる。……ああそうしてお兄様も。血だらけになってお在でなさる。……でもお二人とも呼吸はある。……助けてお上げよ! 助けてお上げよ!」 「ね、お嬢様、お休みなさりませ。……どなたか参るといけません。……ね、お嬢様、お嬢様。……」 「すぐ眼の前にいなさるのだよ。……ほんのちょっとした物の陰に。……妾には解る! 妾には解る!」 「……どうでもお気が狂われた。……あれ誰やら参ります。……お部屋へお入りなさいまし。……オヤ、お前東三さんか」 すると男の声がした。 「ああ蔵番の東三さ。……お繁さんお前何をしている」 「お嬢さんが出なさろうというのだよ。……それで妾は止めてるのさ」 「ふん」と東三の声がした。 「お前から勧めているのじゃアないか。……ただの乳母さんとは異うようだなあ」 「何だよ」とお繁の声がした。 「そういうお前さんだっていい加減変さ」
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