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「そうか」と云ったが若侍は、今度は少し腹を立てた。 「では早速お訊き致す、何故拙者を襲われた?」 まごまごした返事でもしようものなら、叩っ切ってやるぞと云うように、ヌッと一足進み出た。 しかし、相手の黒鴨も、何かに自信があると見え、その横柄さを持ち続け、 「士官[#「士官」はママ]なさる気はござらぬかな?」 こんなことを云い出した。 「え、士官? 貴殿にかな?」 これには若侍は参ってしまった。 (どうもいけないや、俺より上手だ) そこで茫然して絶句した。 すると、黒鴨の武士が云った。 「長くとは申さぬ、一カ月余」 それからスルスルと進み寄ったが、囁くように云いつづけた。 「悪いことは申さぬ士官おしなされ。もっとも主取りの御身分なら、無理にもお進め出来ないが。いやいや先刻からの御様子でみれば、かけかまいのない御身上らしい。それで敢てお進めいたす。士官おしなされ士官おしなされ。実は」と云うといよいよ益々、声を細めて囁くようにしたが、 「ここ数夜、この界隈で、拙者試していたのでござる。勝れた武辺者はあるまいかとな。今は天保、浮世は飢饉、そのためでもござろう、腕の出来るご仁に、不幸、一人もぶつかりませんでしたよ。ところが今夜ゆくりなく、ぶつかりましたなア御貴殿に。……そこで、すっかり喜んだという次第。そこで、士官をお薦めするという次第。……そうは云っても藪から棒に、無闇と士官をお薦めしても、貴殿にはおそらく烏乱に覚され、御承引を手控えなされようもしれぬ。これは御理、当然でもござる。それでまず何より拙者の身分を、お打ち明け致すのが順当でござるが、まあまあそれははぶくとして、ただし、姓名だけ申しましょうかな。鮫島大学と申します。それより何より禄の方をな、定めることに致しましょう。一日五両はどうでござる」 ここまで云って来て黒鴨の武士は、ヒョイと二三歩下ったが、首を傾げると覗くようにした。 「ただし……」と云うと黒鴨の武士は、今度は二三歩前へ出た。 と、例によって囁くような声で、 「ただし、仕事はちと困難、と云っても貴殿の腕前なら、勿論何でもなく仕遂げられますて。ところで仕事の性質は? と、貴殿には訊かれるかも知れない。さあこれとて考えようで。善悪両様に取られますなあ。そこで、こいつは預かるか、ないしは善事だと決めてしまうか、ホッ、ホッ、ホッ、どっちでもよろしい」 三十七八の男の癖に、ホッ、ホッ、ホッと女のような、滑らかな厭らしい笑い方をしたが、 「さてここまで云って来れば、後は何も彼もスッパリと、ぶちまけた方がよろしいようで。そこでお打ち明け致しましょう」 ところがそれ前に若侍は、蹴飛ばすような声で云った。 「解っておるよ!」とまずノッケだ。 「受負でござろう、殺人のな!」 「ほほう成程、そう解されたか」 「でなかったらぶったくりさ」 「成程な、なるほどな」 黒鴨の武士は退いたが、 「ひょっとかすると、両方かも知れない」 「殺人の上にぶったくりか、アッハッハッ、それにしては」 若侍は横を向いた。 「安すぎますて、五両の日当」 「割増ししましょう、七両ではいかが?」 「まだ安い。駄目だ駄目だ!」 「あッ、なるほど、では八両」 「刻むな刻むな」と若侍は、グット胸を反らせたが、 「厭だと云ったらどうなさる」 「さればさ」と云うと黒鴨の武士は、スラスラとスラスラ左手へ寄った。間一間、そこで止まると、ピンと右手の肘を上げた。と自然に掌が、柄の頭へあてられた。薄っペラな態度や声にも似ず、腰が据わって足の踏まえ、ピッタリ定まって立派な姿勢。上げた右肘で敵を圧し、全身を斜めに平めかせ、首を幾何か前方へ曲げ、額い越しに睨んで狙いすました。籠めた気合で抜き打ったら、厭でも太刀は若侍の、左胴へ入るに相違ない。根岸兎角を流祖とした、微塵流での真の位、即ち「捩螺」の構えである。 「ううむこいつは素晴らしい」 それと見て取った若侍は、こう思わず呟いたが、 「しかも不気味な腥い、殺気が鬱々と逼って来る。剣呑だな、油断は出来ない」 しかしよくよく若侍には、腕に自信があると見え、刀の柄へ手もかけず、ブラッとしたままで立っていた。 と、黒鴨の武士であるが、別に切り込んで行こうとはせず、あべこべにヒョイと後退ると、ダラリと両手を両脇へ下げ、それからまたも懐手をしたが、薄っペラの調子で喋舌り出した。 「ざっとこんな恰好で。つまり貴殿不承知なら、秘密の小口を明かせた手前、生かしては置かぬ! 叩っ切る! と云うことになりますので。……と云うとおっかない話になるが、何のこんなにも旨い話、貴殿諾かずにおられましょうか。承知と云われるは知れたことで。……だが日当不足となら、清水の舞台から飛んだつもりで、一日十両まで糶り上げましょう。これでは御不満ありますまいな。手を拍ちましょう、シャンシャンシャン! いかがなもので? シャンシャンシャン!」 呑んでかかった態度である。
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こいつを聞くと若侍は、にわかに愉快になったらしい。 「一風変わった悪党だわえ。よしよし面白い面白い、ひとつこいつの手に従いて、殺人請負業を開店いてやろう。天変地妖相続き、人心恟々天下騒然、食える野郎と食えぬ野郎と、変にひらきがあり過ぎる。こんな浮世ってあるものか。殺人だって必要さ」 そこで若侍はズバリと云った。 「きっと十両出されるかな?」 「出します出します。……御承知かな」 「まず即金、一日分が所」 若侍は手を出した。 「これはお早い、早速のことで」 黒鴨もこれには驚いたらしい。 「が、結構、では十両」 グッと懐中へ手を入れると、チャリン、チャリンと音をさせた。 小判を数えたに相違ない。 手を引き出すと掌の上に、黄金十枚が載っていた。 「遠慮は御無用、さあさあお取り」 「開店祝で、何の遠慮、では確かに」 「あ、しばらく、それにしても、せめて姓名なと! ……」 「拙者姓名は……」と云いかけたが、 (本名宇津木矩之丞と、ほんとに宣っては面白くない) そこで、 「宇和島鉄之進」と宣った。 「ではこの金を……」 「頂戴いたす。どれ」と小判を掴もうとした途端に、 「こちらへ御士官なされませ!」と、老人の声が聞こえてきた。 「日当二十両出しましょう!」 傍らに立っている平野屋の寮の、その表門の背後から、声は聞こえてきたのである。 「やッ!」と云ったは若侍で、 「しまった!」と叫んだは黒鴨の武士で…… すぐに、ギーと潜戸が開き、またもや老人の声がした。 「お入りなさりませ、御浪人様!」 「オイ」と云ったは黒鴨である。 「どうだどうだ、どっちへ仕える?」 「考えるにも及ぶめえ」 「十両取るか」 「どう致しまして」 「それじゃアあっちへ行くつもりか?」 「云うにゃ及ぶだ、倍も食えらあ」 「きっとか」と黒鴨は眉を縮めた。 「何時如何なる時代でも、もっと食える方へ行くものさ」 「ホッ、ホッ、ホッ」 嘲笑である。黒鴨が嘲笑をしたのである。 が何とその嘲笑、残忍性を帯びていることか。 「そうか、だがな、オイ若侍、そうなった日の暁には、拙者の矢面へ立つのだぞ!」 「よかろう、大将、戦おうぜ!」 「まずこうだあァ――ッ」と凄い気合を、かけると同時に抜いた太刀で、のめらんばかりの掬い切り、若侍の股の交叉を、ワングリ一刀にぶっ放した[#「ぶっ放した」は底本では「ぶつ放した」]。――と云う手筈になるところを、飛び違った若侍は、 「こっちもこうだあァ――ッ」と浴びせかけ、飛び違う間に抜いた太刀を、ヌ――ッとのすと振り冠った。 で、無言だ。静かである。ハタハタハタ……ハタハタハタと、夜風に靡く五月幟の、音ばかりが聞こえてくる。 位取った二人は動かない。藤の花の匂い、ほのかであり、十六夜の光、清らかである。こんな奇麗な佳い晩に、二人は斬り合おうとするのであった。 二人は動いて、太刀音がした! 即ち鏘然、合したのである。と、ピッタリ寄り添った。鍔逼り合いだ! 次は勝負! どっちか一人斃れるだろう。しかし群像は動かない。群像の頭上を抽てキラキラ閃めくものがある。月光を刎ねたり纏ったり、ビリ付いている太刀である。と、忽然、次の瞬間、「ウン」と云う呻き! 二人同時だ! 群像は前後へ別れたが、不思議とどっちも仆れなかった。しかも一つの人影が、糸に引かれるそれのように、非常に素早く後退り、潜戸の側まで近寄って、そうして潜戸が一杯に開いて、その人影を吸い込んで、そうしてギ――ッと閉ざされた時、闘争は終りを告げたのである。 屋敷へ入り込んだは若侍であり、後へ残ったのは黒鴨の武士で。…… 後はひっそりと静かであった。
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