6
事件はここで江戸へ移る。 ここは深川の霊岸島。そこに一軒の屋敷があった。特色は表門の一所に、桐の木の立っていることであった。その奥まった一室である。 一人の着流しの武士が、頬杖をついて寝そべっている。年の頃は三十七八、色蒼黒く気味が悪い。ドロンと濁ってはいるけれど、油断も隙もならないような、妙な底光を漂わした眼、しかも左の一眼には、星さえ一つ入っている。顎の真中に溝があって、剣難の相を現わしている。小鼻の小さい高い鼻、――いやという程高いので、益々人相を険悪に見せる。いつも皮肉な揶揄的の微笑が、唇の辺りにチラツイている。だが一種の好男子とは云える。 この家の主人鮫島大学で、無禄の浪人でありながら、非常に豪奢な生活をしている。――と云う噂のある人物である。 その鮫島大学の前に、膝を崩して坐っているのは、ちょっと言葉に云い表わせないような、濃艶さを持った女であった。薄紫の単衣、鞘形寺屋緞子の帯、ベッタリ食っ付けガックリ落とした髷の結振りから推察ると、この女どうやら女役者らしい。よい肉附き、高い身長。力のある立派な顔、女役者としても立て物らしい。大きなハッキリした二重瞼眼、それには情熱があふれている。全体が非常に明るくて、いつも愉快な冗談ばかりを、云いたそうな様子を見せている。人生の俗悪そのもののような、興行界に居りながら、それに負けずに打ち勝って行く――と云ったような女である。 小屋掛けではあるが大変な人気の、両国広小路にこの頃出来た、吉沢一座の女歌舞伎、その座頭の扇女なのであった。年は二十二三らしい。 明るく燈火が燈もってい、食べ散らし飲み散らした盃盤が、その燈火に照らされて乱雑に見え、二人ながらいい加減酔っているらしい。 「どうだどうだ、え、扇女、ソロソロおっこちてもいいだろう」 扇女の胸の辺りへ視線を送り、大学はこんなことを云い出した。 「御贔屓様は御贔屓様、旦那様は旦那様、可愛いお方は可愛いお方、ちゃあんと分けて居りますのでね」 扇女は早速蹴飛ばしてしまった。ビクともしない態度である。 「久しいものさ、その白も」 大学はニヤニヤ笑っている。決して急かない態度である。 二人ながらちょっとここで黙った。 やがて、大学は云い出した。 「ところで有るのかい、可愛い人が?」 「こんな商売、情夫がなくては、立ち行くものじゃアありませんよ」 「一体どいつだ、果報者は」 勿論大学怒ったのではない。語気を強めて云ったまでである。 怒るような大学ならいいのであって、いつも冷静、いつも策略、そうでなければ世は渡れぬ――と考えている彼なのであった。 「あやかりたいの、果報者に」 「なかなかむずかしゅうございますよ、果報者にあやかるということわね」 「ひどく勿体をつけるじゃアないか」 ツト手を延ばすと盃を取り上げ、 「まず注いだり。……冷めたかな」 銚子を取り上げた吉沢扇女は、盛り溢れるほど酒を注いだ。 「注ぎっぷりだけはいい気前だ」 「他人のお酒でございますもの」 「御意、まさしく。拙者の酒で……」 するとその時どこからともなく――と云って勿論屋敷内からではあったが、罵り合う声が聞こえてきた。 ガラガラと物を投げる音もした。
7
「おや」と扇女は聞きとがめた。 「何をしたのでございましょう?」 だが大学は黙っていた。とはいえ顔の表情の中には、困ったことをしやアがる、こんな肝心な大事な場合に――と云ったような気振りが見える。 物を投げる音に引きつづき、罵り合う声が聞こえてきた。それも二人や三人ではなく、たくさんの人達が大声で、罵り合っているようである。 「静かなお屋敷だと思っていましたのに、どうやら大勢の人達が、おいでなさるようでございますね」 こう云った扇女の言葉には皮肉の調子がこもっていた。 「女中三人に下僕が二人、閑静な生活をしているよ、だから遊びに来るがよい。――などと仰有ったお言葉も、あてにならないようでございますね」 大学は顔を顰めている。神経質らしいところさえ見せ、不機嫌に盃を嘗めている。 物を投げる音は直ぐ止んだが、罵り声はまだ止まない。 「気味の悪いお屋敷でございますこと。……どれ妾は帰りましょう。気味のよくないお屋敷などで、気味の悪い旦那様を相手にし、いつ迄お酒盛りをしたところで、面白くも可笑しくもございません」 「待てよ」とはじめて鮫島大学は、チラリと凄味を現わしたが、 「帰しはしないよ、遊んで行け。屋敷が不気味であろうとも、この俺が不気味であろうとも、それに怖気を揮うような、初心なお前ではないはずだ」 ここでニタリと笑ったが、干した盃を突き出した。 「まず一杯、飲むがいい」 「はい」と云うと穏しく、扇女は盃を手で受けたが、 「酔わせてグタグタにして置いて……などというような厭らしい、野暮なお方でもありますまい」 「またお前にしてからが、男の前で酔っ払い、不様に姿を崩すような、あたじけない女でもないはずだ」 この時、バタバタと足音がして、隣部屋へ人が来たらしく、 「お頭!」と呼ぶ声が聞こえてきた。 「馬鹿!」と一喝した鮫島大学は、 「これこれ何だ、言葉を謹め! 客の居るのを知らないのか!」 「あッ、なるほど、これは粗相……」 恐縮したらしい声音である。 「あの、旦那様に申し上げます」 「何か用か? 用なら云え」 「少し間違いが起こりまして……」 「何を馬鹿な! 間違いとは何だ!」 「へい加賀屋の野良息子が、贋物のネタを割ったんで……」 「行け!」と怒鳴ったもののギョッとしたらしく、扇女の顔色を窺った。 「へい!」と云ったが、バタバタバタと、隣部屋の人間は立ち去ったらしい。 すると、鮫島大学であるが、もうどうにも仕方がない――こう云ったような酸味ある笑いを、チラリと顔へ浮かべたが、弁解するように云い出した。 「何の、実はこういう訳だ。屋敷は広く俺は浪人、そこでわる共が集まって来て、手慰みをやっているというものさ。これも交際仕方もない。とはいえ俺は手を出さない。屋敷を貸しているばかりさ。だからよ、何も、この俺をだ、悪漢あつかいにしないがいい。だが」と云うとヒョイと立った。 「どうやら間違いが起こったらしい。黙ってうっちゃっても置かれまい。ちょっくら行ってあつかって来よう。何さ何さ帰るには及ばぬ。ゆっくり遊んで行くがいい。すぐさま帰って来るからな」 刀を下げて部屋を出た。 「態ア見やがれ、尻尾を出したよ」 一人残ったは扇女である。 「繁々お茶屋へは呼んでくれる、パッパッと御祝儀は切ってくれる。派手にお金を使うので贔屓筋としては大事な人、こうは思っていたものの、万事の様子が腑に落ちず、迂散者らしく思われたが、やっぱりニラミは狂わなかったよ。不頼漢の頭、賭博宿の主人、どうやらそんな塩梅らしい。……何だか気味が悪いねえ、どれソロソロ帰るとしよう」 ひょいと立ち上ったが考えた。 「何も好奇、屋敷の様子を、こっそり探ってみてやろう。うまく賭博場でも目つかったら、とんだ面白いことになる」 それで、ソロリと襖を開けた。
8
一つの部屋で、一人の若者が、匕首などを振り廻し、大声で喚きちらしていた。 「なんだなんだ飛んでもねえ奴等だ! うまうま俺を瞞しゃアがった。これで解った、これで解った! 幾度勝負を争っても、一度も勝ったためしがねえ、おかしいおかしいと思ったが、こんな仕掛けのある以上、負けつづけるのは当然だ! ……飛んでもねえ奴等だ、承知出来ねえ! ……さあ叩っ斬るぞ叩っ斬るぞ!」 年の頃は二十一二、非常に上品な若者である。否々むしろ坊ちゃんなのである。色が白く血色がよい。栄養の行き渡っている証拠である。丸味を帯びた細い眉、切長で涼しくて軟らか味のある眼、少し間延びをしているほど、長くて細くて高い鼻、ただし鬘だけは刷毛先を散らし、豪勢侠に作ってはいるが、それがちっとも似合わない。着ている物も立派であって、腰につけている煙草入の、根締の珊瑚は古渡りらしく、これ一つだけで数十金はしよう。秘蔵がられている豪商の息子が、悪友のために惑わされ、いい気になって不頼漢を気取り、悪所通いをしているという、一見そういう風態であった。 で、匕首は振り上げたが、敵を切る前に自分の手を、切りそうで切りそうで見ていられない。――と云ったようなあぶなさがある。 加賀家百万石の御用商人、加賀屋と云って大金持、その主人を源右衛門と云ったが、その息子の源三郎なのであった。 「キ、切るゾ――ッ! キ、切るゾ――ッ!」 源三郎は匕首を振り廻すのであったが、しかし誰一人相手にしない。ニヤニヤみんな笑っている。 源三郎を取り巻いて、十五六人の男がいたが、この連中が大変物で、浪人風の者、ゴロン棒風の者、商人風の者、鳶風の者、そうかと思うと僧形の者、そうかと思うと大名方の、お留守居風の人物もいるのであった。 しかしいずれも変装らしく、どうやらみんな仲間らしい。 それらの人数を抱いている、部屋のこしらえというものが、また大変なものであった。だがそれとて一口に云えば、上海風ということが出来る。壁の一方に扉がある。双龍珠を争うところの図案を描いた扉である。一方の壁に窓がある。龕燈形の窓である。そのくせ窓には真鍮の棒が、無数に厳重に穿めてある。そうして窓のあるその壁にも、双龍珠を争う図が、黄色い色彩で描かれてある。いやいや双龍珠を争う、そういう図面は二ヶ所ばかりでなく、青く塗られた天井にも、板敷になっている床の上にも、他の二方の壁の面にも、ベタベタ描かれてあるのであった。それにしても双龍の争っている、珠の形の大きいことは! 直径二尺はあるだろう。そうして一体どうしたのだろう、時々その珠が忽然と、鏡のように光るのは? いやいや鏡のように光るのではなく、事実鏡に変わるのであった。誰がどうして変えるのだろう? もし誰か龕燈形の窓へ行きそこから外を覗いたなら、そこに真暗な部屋があり、そこに一人の人間がいて、絶えずこの部屋を覗きながら、その真暗な部屋の壁に、突起している幾個かのボタンを、時々押すのを見ることが出来よう。その男の押すボタンに連れて、珠が鏡に変わるのである。部屋の広さ三十畳敷ぐらいそこに幾個か円卓があり、円卓の周囲に榻がある。そこで勝負をするのだろう、この時代には珍らしい、トランプが幾組か置いてある。 だがもう一つこの部屋に続き、異様った部屋のあることを、ここへ来るほどの人間は、決して決して見落とすまい。寝椅子、垂幕、酒を載せた棚、そうして支那風の化粧をし、又支那風に扮装った幾人かの若い娘達、そういうもので飾られている、いわゆる酒場――安息所が、そこに作られているのだから。 だがそれにしてもその部屋へは、どうしてどこから入って行くのだろう? 双龍の描いてある一つの扉、そこから入って行くのだろうか? いやいやそうではなさそうである。扉の外は廊下なのだから。……ではどこから行くのだろう? どこかに隠された扉でもあって、それを開けると行けるのらしい。 勝負に勝った連中が、その部屋へ行って飲むのである。 これも充分支那風の、南京玉で鏤めた、切子型の燈籠が、天井から一基下っていて、菫色の光を落としているので、この部屋は朦朧と、何となく他界的に煙っている。 それにしてもこんな天保時代に、こんな支那風の不思議な部屋が、中央ではないにしても江戸の中に、出来ているとは何ということだろう? いずれこれの経営者は、鮫島大学に相違あるまいが、ではその鮫島大学なる武士は、どんな素性の者なのだろう? 支那と関係のある人間だろうか?
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] 下一页 尾页
|