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変った建物では無かったけれど、陰森たる建物には相違なく、縁が四方を取り巻いてい、雨戸がビッシリと閉ざされていた。縁も古ければ雨戸も古い。しかし用木は頑丈で、それが時代を食んでいる為か、鉄のような色を呈してい、瓦家根が深く垂れ下り、その家屋も黒く錆ていた。だから巨大な蝙蝠が、翼をひろげているようである。何処からも日の目が射して来ない。繁った木立が四方を鎧い、陽を遮っているからだろう。とは云え家根の一面だけが、陽を受けて明るく燃えている。それで、そこだけが昼であり、その他の所は宵闇であると、こういうことが出来そうである。つまりそんなにも建物と建物の周囲は陰気なのであった。 周囲の繁った木立によって、一切外界と交渉を断ち、一劃をなした別世界に、一種威嚇的な空気を纏い、物云わず立っている気味の悪い存在! それが離れ座敷の姿であった。 だからその前に立った人は、そういう空気に圧迫され、逃げ出してしまうに相違ない。 にも拘らず松吉は、怖くはないよと云いたそうに、胸の辺りで腕を組み、大工が普請でも見るように、家の周囲を廻りながら、仰向いて見たり俯向いて見たり、一向暢気そうに眺め出した。 「今朝方箒目をあてたと見え、地面も縁の上も平されている」 口の中での呟きである。 「おや木の枝が折れてるぜ」 たしかに一所木の枝が、無理に乱暴に折り取られている。 「腰でもかけて休もうかい」 ――縁へ腰をかけた丁寧松は、後脳を雨戸へ押し付けて、ぼんやり空を眺めたが、どうやら本当はぼんやりと、空を眺めているのではなく、何かを聞き澄ましているのらしい。 「いい天気だなあ、鳥が啼いていらあ」 梢で雀が啼いている。 「宇和島というお侍、高価な物でも持っているのか、人に怨みでも受けているのか、とにかく何者かに狙われているらしい。だから大勢の者に切りかけられたり、贋加賀屋の手代どもに、こんな旅籠へ連れ込まれたり……さあその贋加賀屋の手代の一人が、宇和島という侍の隣り部屋へ、泊まり込んだということだが、そうして今日の明方早く、立去って行ったということだが、こいつがどうにも眉唾物だて」 ――番頭の言葉と婢女の言葉、それを綜合して丁寧松は、推理と検討とに耽りだした。 その間も松吉は縁の上などを、こっそり掌で撫でまわした。 「縁の上にひどく砂があるなあ。縁近くの庭で取っ組み合いでもしたら、縁の上へ砂ぐらい刎ね上るだろうよ。……ところで宇和島という侍だが、この旅籠から消えたとは何ということだ。……二から一引く一残る! これが十呂盤の定法だが、この事件はそうでねえ、二から一引く皆な消えっちゃった! 侍も手代もきえっちゃった。……こんな解らぬ話ってねえ。……ナーニこいつアこうなるのさ。……宇和島というお侍さん、身の危険を感じたので、贋手代を気絶でもさせて、そいつの衣裳をひん剥いて、自分の衣裳の上へ着て――着ふくれていたっていうことだからな――手代に化けてこの旅籠から、脱出して行ったというものさ。……行燈の火が消えたという。案内の女中に化けた姿を、感付かれまいために宇和島という武士が、行燈の側を通る時、袂でも振って消したのさ。……さて疑問として残るのは、衣裳を剥がれた贋手代の、可哀そうな身柄がどこにあるかってことさ……」 この時開けずの間の建物の中から、物の気勢が聞こえてきた。 「いつからともなく柏屋の庭に、開けずの間という建物があって、一切人を内へ入れず、一切人を寄せ付けず、厳に鎮座ましますと、世間の噂に立つようになったが、どう考えてもおかしいよ」 口の中での呟きである。 「どだい建物というものは、人が住むために建てるものだ。人の住めない建物なら、さっさと壊すがいいじゃアないか。そんな建物を建てて置く! どうでも二二ンが四じゃアない」 胸の中で珠算をやり出した。 「もっとも」と、これも口の中である。 「お宮と云ったような建物もある。だがもしそいつがお宮なら、神様が住んでいなけりゃアならない。……となすとここの建物にも、神様が住んでいるのかな」 頭が一方へ傾いて行く。ピッタリ片耳が戸へあたる。 「うむ!」と突然丁寧松は、呻の声を洩らしたが、 「やりゃアがったな!」と飛び上った。 「ヤイ!」と怒鳴ったが鋭い声だ。 「殺生な真似をしやアがるな! 丁寧松だ! 見現わしたぞ!」 だがその次の瞬間には、非常な危険を直感した、猟り立てられた獣のように、庭を駆け抜け、主母を駆け抜け、往来へ飛び出してしまったのである。 すると、その時音も立てず、離れ座敷の雨戸が開いたが、その隙間から見えたのは、一人の女の姿であった。身に行衣を纏ってい、左手に御弊を握っている。しかし右手に下げているのは、血に塗られた短刀であった。御弊に仕込まれた懐刀らしい。美しいことも美しいが、その凄さは二倍と云えよう! 髪を頸に束ねている。それで額が三角形に見える。ぼうぼうと毛ば立った太い眉、耳まで続いていないだろうか? そう思わなければならない程、延々と長く引かれている。だがその下に凝然と、見据えられた眼を見た人は、ああこの女は狂信者だ! こう思わずにはいられないだろう。 女は、全身を現わしたのではない。二尺余り開いた戸の隙から、半身を覗かせているのであった。 「市郎右衛門! 市郎右衛門!」 その女が呼んだのである。喰い縛ったような声である。 すると、木立を押し分けて、一人の男が現われた。他でもない番頭であった。だが、相好が変っている。キョトキョト恐れおどついていた、先刻までの番頭ではないのであった。 「お久美様!」と土下座をした。 「かようなことになろうとは……迂闊千万にございました」 「今は云わぬよ! 何にも云わぬよ! ……しかし生かしては置かれない! ……今日中に命を取るがいい! ……手が入ったら一大事だ」 「手配り致すでございましょう。……それに致しても血刀は?」 「意外だったよ、妾にしてからが! ……裸体に剥かれた人間が……」 「お部屋にいたのでございますか?」 「で、切ったのだ! 剖いたからの」 「では宇和島と宣った武士で?」 市郎右衛門はギョッとしたらしい。 「妾は知らぬよ。……切っただけだよ。……手配りをおし! 一刻も早く!」 「はい」と云うと走り去った。 なお、女は立っている。 「あいつのお蔭だ! ……大塩中斎! ……お気の毒な貢様! ……妾までこんな目に逢っている。……」 血刀が鈍く光っている。 「一世の碩学[#「碩学」は底本では「硯学」]、貢の巫女……それから伝わったこの教法……滅ぼしてなろうか! 滅ぼしてなろうか!」 柏屋を飛び出た岡引の松吉は、この頃往来を走っていた。
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だが、十間とは走らなかった。柏屋と斜めに向かい合い、表門の一所に桐の木を持ち、黒板塀に蔽われた、宏大な屋敷が立っていたが、ちょうどそこまで走って来た時、一つの事件にぶつかってしまった。 と云うのは二階の障子が開き、武士の姿が現われたが、松吉を目掛けて腕を振り、同時に障子を閉じたのである。 昼の日を貫き一閃したは、投げられた小柄に相違ない。同時にピシッと音がした。 すなわち岡引の松吉が、走りながらの神妙の手練、懐中の十手を引き抜くと、見事に払って捨たのである。 「うむ、やったな! 鮫島大学!」 叫んだ時には数間のかなたを、岡引の松吉は走っていた。 だがその行手に露地があり、そこへ駈け込んだ一刹那、またもや意外な出来事に逢った。 「無双の早業、素晴らしい手並、すっかり見ていた、立派であったぞ!」 深編笠に黒紋付、仙台平の袴を穿き、きらびやかの大小を尋常に帯び、扇を握った若侍に、こう言葉を掛けられたのである。衣裳の紋は轡である。 「え」と云った岡引の松吉は、足を止めざるを得なかった。 「お褒めのお言葉、有難いことで。……が、全体、貴郎様は?」 「拙者か」と云ったが歩き出した。 「柏屋の秘密を知って居るものだ」 「では」と云うと睨むように見た。 「宇和島様ではございませんかね?」 一種の直感で感じたのらしい。 それには返事をしなかったが、 「見受けるところ目明しだの。……柏屋から飛び出したあわただしい気振り、それもすっかり見届けた。……そこで、約束をしてもよい。お前の力になるかもしれない。この俺がな、都合次第。……今日はこれだけ。別れよう」 露地から出たが人混にまじり、間もなく姿が見えなくなった。 「おかしいなあ、何者だろう? ……宇和島という武士に相違ない。よし来た、一番、つけてやろう」 追っかけようとしたが駄目であった。その時一群の人間が、彼の方へ走って来たからである。 「不可ない! しまった! あいつらだ! 多勢に一人、とっ捉まる!」 サーッと一散に走り出した。露地が左右に別れている。 「よし、こっちだ!」と曲がったは左で、そこでグルリと振り返って見た。町人風ではあったけれど、ただの町人とは思われない、そういう人数が一二三人、執念く後を追っかけて来る。 「俺には解る! あの一味だ! ……偉いことになったぞ、偉いことになったぞ! ……こんな大物になろうとは、夢にも俺は思わなかった!」 ――露地が丁字形になっていた。左へ曲がるとトッ走った。と、小広い往来へ出た。 「不可ない不可ない、往来は不可ない! 人に見られたらみっともない!」 ――またもや露地へ駈け込んだ。追って来る一団も駈け込んだらしい、足音が乱れて聞こえてくる。案内には詳しい岡引である。露地から露地と縫って走る。だが執念深い追手であった。どこ迄もどこ迄も追っかけて来る。 「南無三宝! 行き止まりだ!」 まさしく露地は行き止まり、その正面に格子造りの、粋な二階家が立っていた。 「ううむ」と唸ったが岡引の松吉は、早くも決心をしたらしい。飛びかかると格子をソロリと開け、それを閉じると穿物を脱ぎ、懐中に入れたが敏捷である、障子を開けると辷り込んだ。 「だアれ!」と直ぐに声がして、つづいて隣部屋から現われたは、風俗で解る、女役者であった。 「太夫、頼む、かくまってくれ!」
ちょうどその日のことである。時刻は午後三時頃でもあろうか、所は蔵前の表通り、そこに立っている加賀屋の店へ、しとやかに入って来た若侍があった。 「拙者は宇和島と申す者、当家御主人にお目にかかりたく、大阪表よりまかりこしてござる、よろしくお取次ぎ下さいますよう」 若侍は奥へ通された。
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「町役人の方が参りまして、主人に逢いたいと申しました。そこで丁寧に奥の間へ通し、その旨を主人に申しましたところ、早速主人はそのお方にお逢いし、しばらくお話しして居りましたが、私は手代のことではあり、その場にも居らず、立聞きもせず、店へ参って居りますと、やがてそのお方がお帰りになり、主人も送って出られましたが、その時の主人の顔の様子が、変わって居りましてございます。不安の気持とでも申しましょうか、そんなようなものが顔に見え、おどついていたのでございますが『困った奴だ! 源三郎め! これが本当なら勘当ものだ! えいこうしてはいられない! 調べてやろう! 調べてやろう』と、呟いたものでございます。……それから奥へ入りましたが、どうしたものでございましょうか、それっきり姿が消えましたので、一同大きに驚きまして、諸所方々を探しましたが、今にかいくれ知れませんような次第、裏木戸から外へでも出ましたものか、錠が破壊れて居りました。……しかも、その晩には若旦那にも、家へ帰っておいでなされず、いまだに帰られないのでございます。……そういう不思議な出来事が、一度に起こって参りましたので、お可哀そうにもお嬢様には。……」 こうここまで云って来て、手代の長吉は口を噤んだ。 と云うのは側にお嬢様が――すなわち品子という十八の娘が、放心したような顔をして、茫然坐っていたからである。 ここは加賀屋の奥まった部屋で、三人の人物が対座している。 手代の長吉と娘の品子と、そうして今しがた訪ねて来た、宇和島鉄之進という若侍である。 「なるほど」と云ったのは宇和島という武士で、当惑を顔へ現わした。 「いや左様なお取り込みとも存ぜず、お訪ねしてかえって失礼をいたした。拙者は大阪表より――平野屋と申す大家より、大切の品物をあずかって、持参いたしたものでござるが、御主人が不在とあって見れば、その品物は渡し難く、一旦宿元へ持ち帰りましょう。……しかしそれにしても、御主人の行方の、一日も早く知れますよう、願わしいものでございます」 そっと品子を見やったが、 「品子様とやら御心配でござろう。しかし心をしっかりと持たれ、決してお取り乱しなされぬよう」 こうは云ったが心の中では、 「可哀そうに少しく上気して居る。こじれると発狂もしかねまい」 「それでは御免」と立ち上った。 「主人在宅でございましたら、お扱い様もございますのに、この様な有様でございますれば……」 気の毒そうに長吉が云った。 「いやいや何の、心配は御無用」 「それでは、ただ今のお住居は?」 「神田神保町の若菜屋でござる」 云いすてると宇和島鉄之進は、事情を審しく思ったのであろう、小首を傾げながら座を立った。 そこで、長吉は送って出たが、後に残った品子という娘が、不意に甲高い声を上げた。 「妾には解る! 殺されていなさる! おお、お父様もお兄様も!」 フラフラと立つと眼を抑えた。 「お久美様の祟りだ、お久美様の祟りだ!」 フラフラと部屋から外へ出た。 水に螢をあしらった、京染の単衣が着崩れてい、島田髷さえ崩れている。後毛のかかった丸形の顔が、今はゲッソリ痩せている。優しく涼しい眼だったろう、それが一方を見詰めている。 足許さだまらず歩いて行く。 やがて襖をスルリと開けた。 「宇和島様!」と不意に呼んだ。 「綺麗な綺麗なお武家様!」 それからまたも甲高く、 「献金いたすでございましょう! お久美様お久美様お助け下され!」 また襖をスルリと開けた。奥庭の方へ行くのでもあろう。 その時衣摺れの音がして、すぐに一方の襖が開いたが、その風俗で大概わかる、どうやら品子の乳母らしい、四十ぐらいの女が現われた。 「まあお嬢様!」と声をかけたが、やにわに品子を抱きしめると、二人ながらベタベタと崩折れた。 「乳母!」と呼んだが縋り付いた。 「お嬢様お嬢様! ……もう不可ない! ……気が狂われた! お可哀そうに!」 「乳母!」と縋ったがうっとりとなった。 「献金しておくれよ! たくさんにねえ」 「どこへ?」と乳母は眼を見張った。 「お久美様へだよ。……ねえたくさんに。……」 すると乳母のお繁の顔へ、凄い微笑があらわれたが、 「はいはいよろしゅうございますとも」 だがその時ソロソロと、一方の襖があけられて、一人の男の顔が出た。薄痘痕のある顔である。気付いてお繁が顔を向けると、すぐに襖は閉ざされた。 「蔵番の東三だが、変だねえ」 何となく不安を感じたのだろう、お繁は頤を襟へ埋めたが、ちょうどこの頃宇和島鉄之進は、順賀橋の辺りを歩いていた。
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