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本多中務大輔の邸を過ぎ、書替御役所の前を通り、南の方へ歩いて行く。 ヂリヂリと熱い夏の午後で、通っている人達にも元気がない。日陰を選んで汗を拭き拭き、力が抜けたように歩いて行く。ひとつは飢饉のためでもあった。大方の人達は栄養不良で、足に力がないのであった。 「南北三百二十間、東西一百三十間、六万六千六百余坪、南北西の三方へ、渠を作って河水を入れ、運漕に便しているお米倉、どれほどの米穀が入っていることか! いずれは素晴らしいものだろう。それを開いて施米したら、餓死するものもあるまいに、勝手な事情に遮られて、そうすることも出来ないものと見える」 心中でこんなことを思いながら、お米倉の方角へ眼をやった。すると、眼に付いたものがある。五六人の武士が話し合いながら、鉄之進の方へ来るのである。姿には異状はなかったが、様子に腑に落ちないところがあった。と云うのは鉄之進が眼をやった時、急に話を止めてしまって、揃って外方を向いたからである。そうしてお互いに間隔を置き、連絡のない他人だよ――と云ったような様子をつくり、バラバラに別れたからである。 「怪しい」と鉄之進は呟いた。 「加賀屋の手代だと偽って、昨夜深川の佐賀町河岸で、うまうま俺をたぶらかし、柏屋へ連れ込んだ連中があったが、その連中の一味かも知れない。何と云ってもこの俺は、高価の品物を持っている。奪おうと狙っている連中が、いずれは幾組もあるだろう。加賀屋源右衛門へ渡す迄は、保存の責任が俺にある。つまらない連中に関係って、もしものことがあろうものなら、使命を全うすることが出来ぬ。……そうだ、あいつらをマイてやろう」 そこで鉄之進は足を早めた。 旅籠町の方へ曲がったのである。 そこで、チラリと振り返って見た。五六人の武士が従いて来る。 「これは不可ない」と南へ反れた。 出た所が森田町である。 でまたそこで振り返って見た。やはり武士達は従いて来る。そこで今度は西へ曲がった。平右衛門町へ出たのである。 また見返らざるを得なかった。いぜんとして武士は従いて来る。 「いよいよこの俺を尾行ているらしい。間違いはない、間違いはない」 そこでまた南へ横切った。神田川河岸へ出たのである。それを渡ると両国である。 「よし」と鉄之進は呟いた。 「両国広小路へ出てやろう。名に負う盛場で人も多かろう。人にまぎれてマイてやろう」 なおもぐるぐる廻ったが、とうとう両国の広小路へ出た。 飢饉の折柄ではあったけれども、ここばかりは全く別世界で、見世物、小芝居、女相撲、ビッシリ軒を立て並べ、その間には水茶屋もある。飜めく暖簾に招きの声、ゾロゾロ通る人の足音、それに加えて三味線の音、太鼓の音などもきこえてくる。 「旨いぞうまいぞ、これならマケるぞ」 群集に紛れ込んだ鉄之進は、こう口の中で呟いたが、しかし何となく不安だったので、こっそり背後を振り返って見た。 いけないやっぱり従けて来ていた。しかもこれ迄の従け方とは違い、刀の柄へ手を掛けて、追い逼るように従けて来る。群集が四辺を領している、こういう場所で叩っ切ったら、かえって人目を眩ますことが出来る。――どうやら彼らはこんなように、考えて追い逼って来るようであった。 「これはいけない、危険は逼った。ここで切り合いをはじめたら、大勢の人を傷付けるだろう。と云ってああもハッキリと、殺意を現わして来る以上は、憎さも憎しだ、構うものか、一人二人叩っ切って逃げてやろう」 こう決心をした鉄之進が、迎えるようにして足を止めた時、 「駕籠へ付いておいでなさりませ」 艶めかしい女の声がした。 見れば鉄之進の左側を、一挺の駕籠が通っている。
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「おや」と鉄之進は怪訝そうにした。 「誰に云ったのだろう? この俺にか?」 するとまた駕籠から声がした。 「轡の定紋のお侍様、駕籠に付いておいでなさりませ」 「うむ、違いない、俺に云ったのだ」 ――いずれ理由があるのだろう。――こう思ったので鉄之進は、素早く駕籠の後を追った。 側に芝居小屋が立っていた。付いて廻ると木戸口があった。と駕籠が入って行く。つづいて宇和島鉄之進が、入って行ったのは云うまでもない。舞台裏へ入る切戸口の前で、駕籠がしずかに下りたかと思うと、駕籠の戸が内から開き、一人の女が現われた。女役者の扇女である。切戸口から内へ入ろうとした時、裏木戸から武士達が入り込んで来た。鉄之進を従けて来た武士達である。 「御心配には及びませんよ」 扇女は鉄之進へ囁いたが、五六人の武士へ眼をやった。 「ねえ皆さん方、見て下さいよ。ここに居られるお侍さんが、この妾の恋しい人さ。……だから虐めちゃアいけないよ。……お前さん達のお頭の、鮫島大学さんへ云っておくれ。女役者の扇女の情夫は、途方もなく綺麗なお武家さんだったとね。……何をぼんやりしているんだよ。日中狐につままれもしまいし。……早くお帰り早くお帰り!」 鉄之進の方へ身を寄せたが、 「いらっしゃいまし、妾の部屋へ」 裏舞台へ入り込んだ。 楽屋入りをする道程に、扇女は鉄之進を助けたのであるが、たしかもう一人扇女のために、助けられた人間があるはずである。 その助けられた人間が、ちょうどこの頃江戸の郊外に、つく然として坐っていた。 ここは隅田の土手下である。 「十から八引く十一が残る! 今度こそとうとうこんなことになった。何しろ俺という岡引が、悪党に追われて逃げこんだからなあ。由来岡引というものこそ悪党を追っ掛けて行くものじゃアないか。世は逆さまとぞなりにけり」 丁寧松事松吉である。 背後に大藪が繁っていて、微風に枝葉が靡いていた。ここらは一面の耕地であったが、耕地にはほとんど青色がなかった。天候不順で五穀が実らず、野菜さえ生長たないからであった。所々に林がある。それにさえほとんど青色がなく、幹は白ちゃけて骨のように見え、葉は鉄錆て黒かった。どっちを眺めても農夫などの、姿を見ることは出来なかった。 丁寧松は考え込んだ。
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「さあどこから手を出したものか、からきし俺には見当が付かない。一ツとひとつ珠を弾くか! 柏屋の奥庭の開けずの間さ! ……二ツともう一つ珠を上げるか。久しい前から眼を着けていた、鮫島大学の問題さ。こいつもうっちゃっては置かれない。敵意を示して来たんだからなあ。……三ともう一つ珠を弾くか。加賀屋の主人の行方不明さ。そうして倅の行方不明さ……もう一つ珠を弾くとしよう。宇和島という武士も問題になる。――四ツ事件が紛糾ったってものさ。……ええとところで四ツの中で、どれが一番重大だろうかなあ?」 事件を寄せ集めて考え込んだ。 「四ツが四ツお互い同士、関係があるんじゃアないかしら?」 そんなようにも思われた。 「とすると大変な事件だがなあ」 関係がないようにも思われた。 「関係があろうがなかろうが、どっちみち皆大事件だ。わけても柏屋の開けずの間が、大変物と云わなければならない。人間五人や十人の、生死問題じゃアないんだからなア。……日本全体に関わることだ。……」 藪で小鳥が啼いている。世間の飢饉に関係なく、ほがらかに啼いているのである。 つくねんと坐っている松吉の、膝の直ぐ前に桃色をした昼顔の花が咲いている。 と、蜂が飛んで来たが、花弁を分けてもぐり込んだ。人の世と関係がなさそうである。 「と云ってもう一度柏屋へ行って、探りを入れようとは思わない。こっちの命があぶないからなあ。……鈴を振る音、祈祷の声、……その祈祷だったが大変物だった。……それからドンと首を落とした音! ……いや全く凄かったよ」 思い出しても凄いというように、松吉は首を引っ込ませた。 「そいつの一味に追われたんだからなあ。逃げたところで恥にはなるまい」 こう呟いたが苦笑をした。やっぱり恥しく思ったかららしい。 「いやいい所へ逃げ込んだものさ」 女役者の扇女の家へ、せっぱ詰まって転げ込み、扇女の侠気に縋りつき、扇女が門口に端座して、追手をあやなしている間に、二階の窓から屋根を伝い、裏町の露地へヒラリと下り、それからクルクル走り廻り、ここ迄辿り着いた一件を、心の中で思い出したのである。 「あれが普通のお神さんだったら、驚いて大きな声を上げ、俺を追手の連中へ、きっと突き出したに相違ない。世間に人気のある人間は、度胸も大きいというものさ。扇女ならこそ助けてくれたんだ。お礼をしなければならないなあ」 するとその時藪の中で、物の蠢く気勢がした。 「おや」と思って振り返って見たが、枝葉が繁っているために、隙かして見ることは出来なかった。 「さあこれからどうしたものだ?」 丁寧松は考え出した。 「よし来た、今度は方針を変えて、鮫島大学の方を探って見よう。旅籠屋の柏屋とも近いからなあ。かたがた都合がいいかも知れない。……が。一人じゃア不安心だなあ。……そうしてどっちみち夜が来なけりゃア駄目だ」 するとまたもや藪の中で、ゴソリと蠢く音がした。 「おかしいなあ」と振り向いた時、 「これは連雀町の親分で、変な所でお目にかかりますなあ」 藪から這い出した男があった。 「どいつだ手前は?」 「へい私で」 「よ、今朝方のお菰さんか」 「お金にお飯にお酒を戴き、今朝方は有難うございました」 襤褸を引っ張り杖を突っ張り、垢だらけの手足に髯ぼうぼうの顔、そういう乞食が現われた。
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「今まで藪の中にいたのかい?」 「ここが私の別荘で」 「いや豪勢な別荘だ」 「少し藪蚊は居りますがね」 「人間の藪蚊よりは我慢出来る」 「いや全くでございますよ」 乞食の上州はニヤリとしたが、 「不景気以上の大飢饉で、どこへお貰いに参りましても、まるで人間の藪蚊のように、相手に致してはくれませんなあ」 云い云い上州は坐り込んだが、妙におかしなところがある。髯こそぼうぼうと生えているが、そうして垢で埋まってはいるが、太い眉に秀でた額、極めて高尚な高い鼻、トホンとした眼付きはしているが、よく見ると充分に知的である。だが口付きは笑殺的で、酸味をさえも帯ている。尋常な乞食とは思われない。 「こいつどうにも怪しいなあ」 ――そこは松吉商売柄だ、何か看破をしたらしい。 と、ソロソロと懐中の内へ、右の片手を突っ込んだが、 「私の云ったのはそうではない。お前さんのような由緒のある人を、乞食の身分に落とし入れた、世間のやつらが藪蚊だというので」 「え?」と乞食は眼を据えたが、 「この私が由緒のある。……」 「おい!」 「へい」 「正体を出せ!」 「何で?」と立とうとするところを、 「狢め!」と一喝浴びせかけ、引き出した十手で、ガンと真向を! …… 「あぶねえ」と左へ開いたが、 「御冗談物で、親分さん」 「まだか!」 懐中の縄を飛ばせた。 「どうだァーッ」と気込んでその縄を引いたが、 「なんだ! こいつアー 青竹の杖か!」 乞食の両脚を搦んだものと、固く信じた松吉であったが、見れば見当が外れていた。乞食は青竹の杖を突いて悠然として立っている。その杖へ縄が搦まっている。万事意表に出たのである。 だがその次の瞬間に、もう一つ意外の出来事が起こり、ますます松吉の肝を冷やした。と云うのは岡引の松吉が、 「いよいよ手前!」と叱咤しながら、グーッと縄を引っ張った途端、スルリとばかり杖が抜け、ギラツク刀身が現われたからである。 「青竹仕込みの。……」 「偽物で。……」 「何を!」 「見なせえ!」と上州という乞食は、カラッと刀を放り出した。 「どう致しまして……そんな古風な……敵討ちの身分じゃアございませんよ。……ましてや大袈裟な謀反心なんか、持っている身分じゃアござんせんよ。……玩具でござんす! 銀紙細工の! もっとも」と云うと身をかがめ、 「呼吸さえ充ちて居りますれば、竹光であろうとこんなもので」 その竹光を拾い上げ、スパッとばかりに叩っ切った。 立木があって小太かったが、それが斜かいに切り折られ、 その切口が白々と、昼の陽を受けて光ったのである。 「素晴らしいなあ」と岡引の松吉は、心から感嘆したように、ドカリと草の間へ胡座を掻くと、 「ゆっくり話をいたしましょう」 「へい、それでは」と上州という乞食も、並んで側へ腰を下ろしたが、しばらく物を云わなかった。 二人ながら黙っているのである。 いぜんとして耕地には人影がなく、ひっそりとして物寂しく、日ばかりが野面を照らしている。 と、一所影が射した。雲が渡って行ったのだろう。 都――わけても両国の空は、ドンよりとして煙っている。 砂塵が上っているのだろう。 乞食はそっちを見ていたが、ふっとばかりに呟いた。 「今夜あたり起こるでございましょうよ。恐ろしい恐ろしい騒動が」 「ほほう」と云ったものの松吉は、どういう意味だか解らなかった。 「何が起こると有仰るので!」 丁寧な言葉で訊き出した。 「私は乞食でございますよ」 「まあね、そりゃア、そうかも知れない。……それがどうしたと仰有るので?」 「で、江戸中をほっついています」 「私の商売と似ていまさあ」 「私の方がもっともっと、露地や裏店に縁故があります」 「そうして私にゃア悪党がね」 「どっちみち浮世の底の方に、縁故があるというもので」 「正に! そうだよ! 違いないなあ」 「親分!」と乞食は意味あり気に云った。 「露地や裏店の連中が、黙っているものと思いなさるかね?」 「何を?」 「へー」 「何をだよ」 「そいつを私にお訊きなさるので?」 「うん」と云ったが気になる調子だ。 「大概見当は付いているがね。……」 「隣家の餓鬼が死のうとも、こっちのお家じゃア驚かない。ところが一旦自分の方へ。……」 「移った日にゃア狂人になる」 「そいつが総体に移っているので」 「全くなあ、その通りだ。場末の横町へ踏み込むと、飢え死んだ人間が転がっているなあ」 「今度は俺らの番だろう……こう考えている人間が、幾万人あるか知れないんで」 「そうだろうなあ、そう思うよ」 「理屈抜きに皆が食えないんで」 「こいつが一番恐ろしい」 「そこを狙って悪い奴が――でなかったら義人だが。もっとも血眼で探したって、義の付く人間なんかいませんがね――烽火を揚げたらどうなりましょう」 「煽動したらと云うのかい」 乞食は幽かに頷いたが、 「火が上りますぜ! 今夜あたり! そうしてそれから騒動よ! 米屋が襲われるでございましょう」 「だがオイ」と云うと詰め寄った。 「どうして付けたね……え、眼星を! そうだよそうだよ、どうして今夜と?」 「申し上げたじゃアございませんか。ね、乞食の身分だと」 「それは知ってる、知ってるがね。……」 「下情に通じて居りますので」 「それも知ってる、知ってるがね。……」 「推察したのでございますよ。今夜あたりが天井だと」 松吉は黙って腕を組んだ。
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