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前記天満焼(ぜんきてんまやけ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-2 7:45:26 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


18

 本多中務大輔なかつかさだいふの邸を過ぎ、書替御役所の前を通り、南の方へ歩いて行く。
 ヂリヂリと熱い夏の午後で、通っている人達にも元気がない。日陰を選んで汗を拭き拭き、力が抜けたように歩いて行く。ひとつは飢饉のためでもあった。大方の人達は栄養不良で、足に力がないのであった。
「南北三百二十間、東西一百三十間、六万六千六百余坪、南北西の三方へ、ほりわりを作って河水を入れ、運漕に便しているお米倉、どれほどの米穀が入っていることか! いずれは素晴らしいものだろう。それを開いて施米したら、餓死するものもあるまいに、勝手な事情に遮られて、そうすることも出来ないものと見える」
 心中こころでこんなことを思いながら、お米倉の方角へ眼をやった。すると、眼に付いたものがある。五六人の武士が話し合いながら、鉄之進の方へ来るのである。姿には異状はなかったが、様子に腑に落ちないところがあった。と云うのは鉄之進が眼をやった時、急に話を止めてしまって、揃って外方そっぽを向いたからである。そうしてお互いに間隔へだてを置き、連絡のない他人だよ――と云ったような様子をつくり、バラバラに別れたからである。
「怪しい」と鉄之進は呟いた。
「加賀屋の手代だと偽って、昨夜深川の佐賀町河岸で、うまうま俺をたぶらかし、柏屋へ連れ込んだ連中があったが、その連中の一味かも知れない。何と云ってもこの俺は、高価の品物を持っている。奪おうと狙っている連中が、いずれは幾組もあるだろう。加賀屋源右衛門へ渡す迄は、保存の責任が俺にある。つまらない連中に関係かかりあって、もしものことがあろうものなら、使命つかいを全うすることが出来ぬ。……そうだ、あいつらをマイてやろう」
 そこで鉄之進は足を早めた。
 旅籠町の方へ曲がったのである。
 そこで、チラリと振り返って見た。五六人の武士がいて来る。
「これは不可いけない」と南へ反れた。
 出た所が森田町である。
 でまたそこで振り返って見た。やはり武士達は従いて来る。そこで今度は西へ曲がった。平右衛門町へ出たのである。
 また見返らざるを得なかった。いぜんとして武士は従いて来る。
「いよいよこの俺を尾行つけているらしい。間違いはない、間違いはない」
 そこでまた南へ横切った。神田川河岸へ出たのである。それを渡ると両国である。
「よし」と鉄之進は呟いた。
「両国広小路へ出てやろう。名に負う盛場で人も多かろう。人にまぎれてマイてやろう」
 なおもぐるぐる廻ったが、とうとう両国の広小路へ出た。
 飢饉の折柄ではあったけれども、ここばかりは全く別世界で、見世物、小芝居、女相撲、ビッシリ軒を立て並べ、その間には水茶屋もある。ひらめく暖簾のれんに招きの声、ゾロゾロ通る人の足音、それに加えて三味線の音、太鼓の音などもきこえてくる。
「旨いぞうまいぞ、これならマケるぞ」
 群集に紛れ込んだ鉄之進は、こう口の中で呟いたが、しかし何となく不安だったので、こっそり背後うしろを振り返って見た。
 いけないやっぱり従けて来ていた。しかもこれ迄の従け方とは違い、刀の柄へ手を掛けて、追い逼るように従けて来る。群集が四辺あたりを領している、こういう場所で叩っ切ったら、かえって人目を眩ますことが出来る。――どうやら彼らはこんなように、考えて追い逼って来るようであった。
「これはいけない、危険は逼った。ここで切り合いをはじめたら、大勢の人を傷付けるだろう。と云ってああもハッキリと、殺意を現わして来る以上は、憎さも憎しだ、構うものか、一人二人叩っ切って逃げてやろう」
 こう決心をした鉄之進が、迎えるようにして足を止めた時、
「駕籠へ付いておいでなさりませ」
 艶めかしい女の声がした。
 見れば鉄之進の左側を、一挺の駕籠が通っている。


19

「おや」と鉄之進は怪訝そうにした。
「誰に云ったのだろう? この俺にか?」
 するとまた駕籠から声がした。
くつわの定紋のお侍様、駕籠に付いておいでなさりませ」
「うむ、違いない、俺に云ったのだ」
 ――いずれ理由わけがあるのだろう。――こう思ったので鉄之進は、素早く駕籠の後を追った。
 側に芝居小屋が立っていた。付いて廻ると木戸口があった。と駕籠が入って行く。つづいて宇和島鉄之進が、入って行ったのは云うまでもない。舞台裏へ入る切戸口の前で、駕籠がしずかに下りたかと思うと、駕籠の戸が内から開き、一人の女が現われた。女役者の扇女せんじょである。切戸口から内へ入ろうとした時、裏木戸から武士達が入り込んで来た。鉄之進を従けて来た武士達である。
「御心配には及びませんよ」
 扇女は鉄之進へ囁いたが、五六人の武士へ眼をやった。
「ねえ皆さん方、見て下さいよ。ここに居られるお侍さんが、このわたしの恋しい人さ。……だからいじめちゃアいけないよ。……お前さん達のお頭の、鮫島大学さんへ云っておくれ。女役者の扇女の情夫いろは、途方もなく綺麗なお武家さんだったとね。……何をぼんやりしているんだよ。日中狐につままれもしまいし。……早くお帰り早くお帰り!」
 鉄之進の方へ身を寄せたが、
「いらっしゃいまし、妾の部屋へ」
 裏舞台へ入り込んだ。
 楽屋入りをする道程みちすがらに、扇女は鉄之進を助けたのであるが、たしかもう一人扇女のために、助けられた人間があるはずである。
 その助けられた人間が、ちょうどこの頃江戸の郊外に、つく然として坐っていた。
 ここは隅田の土手下である。
「十から八引く十一が残る! 今度こそとうとうこんなことになった。何しろ俺という岡引が、悪党に追われて逃げこんだからなあ。由来岡引というものこそ悪党を追っ掛けて行くものじゃアないか。世は逆さまとぞなりにけり」
 丁寧松事松吉である。
 背後うしろに大藪が繁っていて、微風に枝葉が靡いていた。ここらは一面の耕地であったが、耕地にはほとんど青色がなかった。天候不順で五穀が実らず、野菜さえ生長おいたたないからであった。所々に林がある。それにさえほとんど青色がなく、幹は白ちゃけて骨のように見え、葉は鉄錆て黒かった。どっちを眺めても農夫などの、姿を見ることは出来なかった。
 丁寧松は考え込んだ。


20

「さあどこから手を出したものか、からきし俺には見当が付かない。一ツとひとつ珠を弾くか! 柏屋の奥庭の開けずの間さ! ……二ツともう一つ珠を上げるか。久しい前から眼を着けていた、鮫島大学の問題さ。こいつもうっちゃっては置かれない。敵意を示して来たんだからなあ。……三ともう一つ珠を弾くか。加賀屋の主人の行方不明さ。そうして倅の行方不明さ……もう一つ珠を弾くとしよう。宇和島という武士も問題になる。――四ツ事件が紛糾こんがらかったってものさ。……ええとところで四ツの中で、どれが一番重大だろうかなあ?」
 事件を寄せ集めて考え込んだ。
「四ツが四ツお互い同士、関係があるんじゃアないかしら?」
 そんなようにも思われた。
「とすると大変な事件だがなあ」
 関係がないようにも思われた。
「関係があろうがなかろうが、どっちみち皆大事件だ。わけても柏屋の開けずの間が、大変物と云わなければならない。人間五人や十人の、生死問題じゃアないんだからなア。……日本全体に関わることだ。……」
 藪で小鳥が啼いている。世間の飢饉に関係なく、ほがらかに啼いているのである。
 つくねんと坐っている松吉の、膝の直ぐ前に桃色をした昼顔の花が咲いている。
 と、蜂が飛んで来たが、花弁を分けてもぐり込んだ。人の世と関係がなさそうである。
「と云ってもう一度柏屋へ行って、探りを入れようとは思わない。こっちの命があぶないからなあ。……鈴を振る音、祈祷の声、……その祈祷だったが大変物だった。……それからドンと首を落とした音! ……いや全く凄かったよ」
 思い出しても凄いというように、松吉は首を引っ込ませた。
そいつの一味に追われたんだからなあ。逃げたところで恥にはなるまい」
 こう呟いたが苦笑をした。やっぱり恥しく思ったかららしい。
「いやいい所へ逃げ込んだものさ」
 女役者の扇女せんじょの家へ、せっぱ詰まって転げ込み、扇女の侠気に縋りつき、扇女が門口に端座して、追手をあやなしている間に、二階の窓から屋根を伝い、裏町の露地へヒラリと下り、それからクルクル走り廻り、ここ迄辿り着いた一件を、心の中で思い出したのである。
「あれが普通のお神さんだったら、驚いて大きな声を上げ、俺を追手の連中へ、きっと突き出したに相違ない。世間に人気のある人間は、度胸も大きいというものさ。扇女ならこそ助けてくれたんだ。お礼をしなければならないなあ」
 するとその時藪の中で、物の蠢く気勢けはいがした。
「おや」と思って振り返って見たが、枝葉が繁っているために、隙かして見ることは出来なかった。
「さあこれからどうしたものだ?」
 丁寧松は考え出した。
「よし来た、今度は方針を変えて、鮫島大学の方を探って見よう。旅籠屋の柏屋とも近いからなあ。かたがた都合がいいかも知れない。……が。一人じゃア不安心だなあ。……そうしてどっちみち夜が来なけりゃア駄目だ」
 するとまたもや藪の中で、ゴソリと蠢く音がした。
「おかしいなあ」と振り向いた時、
「これは連雀町の親分で、変な所でお目にかかりますなあ」
 藪から這い出した男があった。
「どいつだ手前は?」
「へい私で」
「よ、今朝方のお菰さんか」
「お金におまんまにお酒を戴き、今朝方は有難うございました」
 襤褸ぼろを引っ張り杖を突っ張り、垢だらけの手足に髯ぼうぼうの顔、そういう乞食が現われた。


21

「今まで藪の中にいたのかい?」
「ここが私の別荘で」
「いや豪勢な別荘だ」
「少し藪蚊は居りますがね」
「人間の藪蚊よりは我慢出来る」
「いや全くでございますよ」
 乞食の上州はニヤリとしたが、
「不景気以上の大飢饉で、どこへお貰いに参りましても、まるで人間の藪蚊のように、相手に致してはくれませんなあ」
 云い云い上州は坐り込んだが、妙におかしなところがある。髯こそぼうぼうと生えているが、そうして垢で埋まってはいるが、太い眉に秀でた額、極めて高尚な高い鼻、トホンとした眼付きはしているが、よく見ると充分に知的である。だが口付きは笑殺的で、酸味をさえも帯ている。尋常な乞食とは思われない。
「こいつどうにも怪しいなあ」
 ――そこは松吉商売柄だ、何か看破をしたらしい。
 と、ソロソロと懐中ふところの内へ、右の片手を突っ込んだが、
「私の云ったのはそうではない。お前さんのような由緒のある人を、乞食の身分に落とし入れた、世間のやつらが藪蚊だというので」
「え?」と乞食は眼を据えたが、
「この私が由緒のある。……」
「おい!」
「へい」
「正体を出せ!」
「何で?」と立とうとするところを、
むじなめ!」と一喝浴びせかけ、引き出した十手で、ガンと真向を! ……
「あぶねえ」と左へ開いたが、
「御冗談物で、親分さん」
「まだか!」
 懐中の縄を飛ばせた。
「どうだァーッ」と気込んでその縄を引いたが、
「なんだ! こいつアー 青竹の杖か!」
 乞食の両脚を搦んだものと、固く信じた松吉であったが、見れば見当が外れていた。乞食は青竹の杖を突いて悠然として立っている。その杖へ縄が搦まっている。万事意表に出たのである。
 だがその次の瞬間に、もう一つ意外の出来事が起こり、ますます松吉の肝を冷やした。と云うのは岡引の松吉が、
「いよいよ手前!」と叱咤しながら、グーッと縄を引っ張った途端、スルリとばかり杖が抜け、ギラツク刀身が現われたからである。
「青竹仕込みの。……」
「偽物で。……」
「何を!」
「見なせえ!」と上州という乞食は、カラッと刀を放り出した。
「どう致しまして……そんな古風な……かたき討ちの身分じゃアございませんよ。……ましてや大袈裟な謀反心なんか、持っている身分じゃアござんせんよ。……玩具おもちゃでござんす! 銀紙細工の! もっとも」と云うと身をかがめ、
呼吸いきさえ充ちて居りますれば、竹光であろうとこんなもので」
 その竹光を拾い上げ、スパッとばかりに叩っ切った。
 立木があって小太かったが、それが斜かいに切り折られ、
その切口が白々と、昼の陽を受けて光ったのである。
「素晴らしいなあ」と岡引の松吉は、心から感嘆したように、ドカリと草の間へ胡座あぐらを掻くと、
「ゆっくり話をいたしましょう」
「へい、それでは」と上州という乞食も、並んでそばへ腰を下ろしたが、しばらく物を云わなかった。
 二人ながら黙っているのである。
 いぜんとして耕地には人影がなく、ひっそりとして物寂しく、日ばかりが野面を照らしている。
 と、一所影が射した。雲が渡って行ったのだろう。
 都――わけても両国の空は、ドンよりとして煙っている。
 砂塵が上っているのだろう。
 乞食はそっちを見ていたが、ふっとばかりに呟いた。
「今夜あたり起こるでございましょうよ。恐ろしい恐ろしい騒動が」
「ほほう」と云ったものの松吉は、どういう意味だか解らなかった。
「何が起こると有仰るので!」
 丁寧な言葉で訊き出した。
「私は乞食でございますよ」
「まあね、そりゃア、そうかも知れない。……それがどうしたと仰有るので?」
「で、江戸中をほっついています」
「私の商売と似ていまさあ」
「私の方がもっともっと、露地や裏店に縁故があります」
「そうして私にゃア悪党がね」
「どっちみち浮世の底の方に、縁故があるというもので」
「正に! そうだよ! 違いないなあ」
「親分!」と乞食は意味あり気に云った。
「露地や裏店の連中が、黙っているものと思いなさるかね?」
「何を?」
「へー」
「何をだよ」
「そいつを私にお訊きなさるので?」
「うん」と云ったが気になる調子だ。
「大概見当は付いているがね。……」
隣家となりの餓鬼が死のうとも、こっちのお家じゃア驚かない。ところが一旦自分の方へ。……」
「移った日にゃア狂人きちがいになる」
「そいつが総体に移っているので」
「全くなあ、その通りだ。場末の横町へ踏み込むと、飢え死んだ人間が転がっているなあ」
「今度は俺らの番だろう……こう考えている人間が、幾万人あるか知れないんで」
「そうだろうなあ、そう思うよ」
「理屈抜きに皆が食えないんで」
「こいつが一番恐ろしい」
「そこを狙って悪い奴が――でなかったら義人だが。もっとも血眼で探したって、義の付く人間なんかいませんがね――烽火のろしを揚げたらどうなりましょう」
「煽動したらと云うのかい」
 乞食は幽かに頷いたが、
「火が上りますぜ! 今夜あたり! そうしてそれから騒動よ! 米屋が襲われるでございましょう」
「だがオイ」と云うと詰め寄った。
「どうして付けたね……え、眼星を! そうだよそうだよ、どうして今夜と?」
「申し上げたじゃアございませんか。ね、乞食の身分だと」
「それは知ってる、知ってるがね。……」
「下情に通じて居りますので」
「それも知ってる、知ってるがね。……」
「推察したのでございますよ。今夜あたりが天井だと」
 松吉は黙って腕を組んだ。

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