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商人は一渡り眼を通した。上唇を綻ばせた。 「みんな贋金でございますよ」 「お帰り!」と彼女は呶鳴り付けた。 商人は冷笑して帰って行った。 「いえあいつは廻し者よ! 例の悪党の広告主、ええ、そいつの廻し者よ! 贋金だ贋金だと嘘を吐き、かっさらって行こうとしたんだわ! そんな古手に乗るものか! 電話ではいけない、行って来ましょう。行って店員を引っ張って来ましょう。信用のある金属商の、鑑定に達した店員をね」 彼女は書斎を飛び出した。電話をかける声がした。タクシを呼んでいるらしい。 間もなくタクシがやって来た。 彼女は乗って出て行った。 私は黙然と腰掛けていた。 「彼女はひょっとすると狂人になるぞ」 私はしばらく待っていた。 「この家には用はないはずだ。一応の忠告! それだけでいいのだ。聞くか聞かないかは彼女にある。……贋金であろうと本物であろうと、私には大して関係はない」 で、私は下宿へ帰った。
数日経った新聞に、次のような広告が掲げてあった。 「銀二十九枚の送主に告げる。貴女は非常に聡明であった。イスカリオテのユダを残し、後を郵送してよこしたことは、我等をして首肯せしめ微笑せしめた。安心せよ。危害を加えず」 「ついに彼女は郵送したと見える。イスカリオテのユダの付いた、一枚の貨幣を送らなかったのは、以前売ったからに相違ない」 とにかく私はホッとした。 「だが彼女は貧乏になった。もうあの家には住めないかもしれない」 ある日私はこっそりと、彼女の家の方へ行って見た。家には貸家札が張ってあった。 「予想通りだ」と私は云った。 「流浪の旅へでも出たのだろう」 私は安心と寂しさを感じた。彼女とは永遠に逢えないだろう。こう思われたからであった。 間もなく春が訪れて来た。 やがて晩春初夏となった。 彼女に目つかる心配はなかった。自由に散歩をすることが出来た。事の過ぎ去った後において、その事のあった遺跡を尋ね、思い出に耽るということは、作家には好もしいことであった。で私は公園へ行き、首を釣りかけた木へ触れたり、佐伯氏と逢ったロハ台に、腰を掛けて考えたりした。 菖蒲の花の咲く季節、苺が八百屋へ出る季節、この季節を私は愛する。 だんだん私は健康になった。
ある日久しぶりでK博士を訊ねた。 博士は有名な法医学者で、そうして探偵小説家であった。 その日も書斎で物を書いていた。 私はそこで話し込んだ。 と、博士が不意に云った。 「汎猶太主義の秘密結社、フリーメーソンリイの会員達が、大分日本へ入り込みましたね」 「ああ左様でございますか」 「倫敦タイムスで見たのですが、彼等の大切な秘密文書を、ある日本人に盗まれたので、それを取り返しに来たのだそうです」 私はちょっと興味を持った。
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「それが大変探偵的なのです」 博士はいくらか小声になった。 「少し詳しく話しましょう。実は私は趣味として、フリーメーソンリイの内情を、調べたことがありましたのでね。今お話しした秘密文書ですが、紙に書かれてはいないのだそうです。三十枚の白金貨幣、その紋章のどの辺りかに、巧妙な図案式文字をもって彫み込んであるのだということです。ところで貨幣の紋章ですが、旧約聖書と新約聖書、その中に出て来る人物を、三十人だけ選択し、打ち出してあるということです。基督はじめ十二使徒などは、勿論入っているのですね。その中とりわけ大事なのは、ユダを抜かした十一人の使徒を、打ち出した所の貨幣だそうです。だがまあこれはいいとして、面白いのはその貨幣が、一枚を抜かして二十九枚は、白金ではなくて贋金なのだそうです。つまり勿体を付けるために、白金のようには作ってあるものの、中味は鉛か何かなのですね。ところが盗んだ日本人ですが、そんなこととは夢にも知らず、本物の素晴らしい白金だと、こう思って盗んで来たらしいのです」 「ははあ」と私は微笑して云った。 「本物の白金の貨幣というのは、ユダを紋章に打ち出した、その貨幣ではないでしょうか」 「おや、どうしてご存知です」 博士はさもさも驚いたように、 「仰せの通りそうなのですよ」 「だがどうしてその貨幣だけを、本物の白金で作ったのでしょう?」 「つまりフリーメーソンリイは、虚無思想家の集りなんです。で彼等の守護本尊は、イスカリオテのユダなんですね。本尊を贋金で作っては、どうもちょっと勿体ない、こういう意味からそれだけを、非常に高価な白金で、作ったのだということです。だが真偽は知りませんよ、伝説的の話ですから」 私はそこで考えた。私の経験した物語を、博士の耳に入れようかしらと。……だが私は止めることにした。自慢の出来る物語ではなし、又その物語を語ることによって、消え去った不幸な私の妻を、辱しめる事を欲しなかったから。 それからしばらく世間話をして、私は博士の邸を辞した。 私には一つの疑問があった。 「すくなくも彼女はユダだけは、本物の白金だということを、心得ていて売ったのかしら? それとも偶然その貨幣を……」 「そんな事はどうでもいい」と私はすぐに打ち消した。 「一切過ぎ去ったことではないか。どうあろうと関係はない」
下宿生活が不便になった。 「郊外へ小さな家でも借り、自炊生活でもやることにしよう」 私は借家を探し出した。 児玉町の方へ行って見て、旧居の前へ差しかかった。もう人が入っていた。これは当然なことであった。私には何となく懐しかった。しばらく佇んで見廻した。 「おや」と私は思わず云った。 表札に私の名が書かれてあった。私の文字で一條弘と。 「おかしいなあ、どうしたんだろう?」 格子の内側に障子があり、障子には硝子が嵌め込んであった。ちょっと不作法とは思ったが、家の中を覗いて見た。 「おや」と私はまた云った。 見覚えのある長火鉢の横に、見覚えのある一人の女が、寂しそうにちんまりとかしこまり、縫物をしているではないか。人の気勢を感じたのであろう、女はフッと顔を上げた。 「粂子!」と私は声を上げた。 と、女はスッと立った。私は無意識に表戸を開けた。 彼女は土間に立っていた。 私は胸に重さを感じた。彼女の顔がそこにあった。私は両肩を締め付けられた。彼女の腕が締め付けたのであった。 彼女の口から啜り泣きが洩れた。 「妾は信じて居りましたのよ。きっときっといらっしゃるとね。ええ帰っていらっしゃるとね。……待っていたのでございますわ。……信じて下さいよ。ねえ妾を! 妾は純潔でございますの」 彼女は眼を上げて私を見た。で、私も彼女を見た。 「その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信じてよい」 そういう眼を彼女は持っていた。昔ながらに、依然として。
彼女の態度が一変し、バンプ型の女になったのには、大した意味はなかったのであった。そういう振舞いをすることによって、彼女は精神を大胆にし、そうして容貌を妖艶にし、そうして動作を高尚にし、それを武器として大詐欺師に対向り、大詐欺師をして屈伏せしめ、白金三十枚を詐欺師の手から、巻き上げようとしたのであった。 そうとも知らずに煩悶した私は、要するに馬鹿者に過ぎなかったのであった。 で、結果はどうだったかというに、彼女の勝利に帰したのであった。 これは当然と云わなければならない。敵を瞞ますには味方を計れ、こういう考えからしたことではあろうが、ともかくも良人の私をして、一度は死をさえ覚悟させたほど、深刻な放縦な行動をとって、心身を鍛えた彼女であった、たかが詐欺師なんかに負けるはずはなかった。 佐伯準一郎氏は恭しく、銀三十枚を彼女に献じた。 そうしてその帰路不幸にも、フリーメーソンリイの会員に、暗殺されてしまったのであった。――佐伯氏を追って行った二人の外人、あれが下手人に相違あるまい。
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私達は一緒に住むことになった。 最初のうちは変なものであった。何となくチグハグの心持であった。だがそのうちに慣れて来た。 次第に二人は幸福になった。 彼女は昔の彼女になった。相変わらず私をあやしたりした。剽軽なことを云ったりした。 「今日は風が吹きますのよ。冬のように寒い風がね。まきまきするのよ、まきまきをね」 襟巻を巻けというのであった。 「たあたを穿くのよ。ね、たあたを」 足袋を穿けというのであった。 ある時私はこう云って訊いた。 「誰かと公園で媾曳をしたね。刑事が淫売婦だと云っていたよ」 「え、したのよ。県知事さんと」 大変サッパリした返辞であった。――それだから私には安心であった。 「お前は知っていて売ったのかい? ユダの紋章のある貨幣だけは、すくなくも本物の白金だと」 「いいえ」と彼女は笑いながら云った。 「あのユダという人間が、一番厭らしい顔付きでしょう、それで妾売ったのよ」 「なるほど」と私は胸に落ちた。 「そうだすくなくもイスカリオテのユダは、女や小供には喜ばれない、そういう顔の持主だ」 私達二人は平和であった。 しかし私は時々思った。 「キッスぐらいは許したかもしれない」 だが直ぐ私は思い返した。 「いいではないかキッスぐらいは、私だってこれまでいろいろの女に、随分唇を触れたではないか」 穏かに時が流れて行った。 ここに一つ残念なことには――だが良人たる私にとっては、かえってひどく安心な事には、――彼女の容色がにわかに落ちた。 それは苦労をしたからであった。 いつも重荷を担いでいる、田舎の百姓の女達が、早くその美を失うように、彼女も重荷[#「重荷」は底本では「荷重」]を担いだため、俄然縹緻を落としてしまった。 精神的にしろ肉体的にしろ、あんまり重荷を担ぐことは、不為のように思われる。 私も随分苦労をした。 年より白髪の多いのは、重荷を担いだ為であった。 彼女のおデコが目立って来た。下手な義歯が目立って来た。身長も高くはなくなった。 だがそれも結構ではないか。 美しい妻を持っていることは、胆汁質でない良人にとっては、決して幸福ではないのだから。 だが勿論将来といえども、いろいろ彼女は失敗を演じて、私を苦しめるに相違ない。 だが恐らく「伯爵ゴッコ」をして、苦しめるようなことはないだろう。 真夏が来、真夏が去った。[#底本ではここで改段] 二人の生活には変わりがなかった。
何でもないことだが云い落とした。 佐伯準一郎氏の旧宅へ、何のために彼女は越したのだろう? やはりそれも佐伯氏を、威嚇するための策だったそうな。
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