十二神貝十郎手柄話(オチフルイかいじゅうろうてがらばなし)
木曽の旧家 一「あれーッ」 と女の悲鳴が聞こえた。貝十郎は走って行った。森の中で若い美しい娘が、二、三人の男に襲われていた。しかし貝十郎の姿を見ると、その男達は逃げてしまった。「娘ご、どうかな、怪我(けが)はなかったかな」「はい、ありがとう存じます。おかげをもちまして」「それはよかった。家はどこかな、送って進ぜる、云うがよい」「はい、ありがとう存じます。すぐ隣り村でございまして、征矢野(そやの)と申しますのが妾(わたし)の家で……あれ、ちょうど、家の者が……喜三や、ほんとに、何をしていたのだよ……」「お嬢様、申しわけございません。道で知人(しりあい)に逢いましてな」 手代風の若者が小走って来た。こういう事件のあったのは明和二年のことであって、所は木曽の福島であった。 その翌日のことである。「どなたか! あれーッ、お助けください!」 若い女の声がした。で、貝十郎は走って行った。駕籠舁(かごか)きが娘を駕籠へ乗せて、今やさらって行こうとしていた。「こいつら!」と貝十郎は一喝した。駕籠舁きが逃げてしまった後で、貝十郎は女を見た。「や、昨日の娘ごではないか」「まあ」と娘も驚いたようであった。「あぶないところを重ね重ね」「それはこっちでも云うことだが……」「あれ、幸い家の者が……」 三十五、六歳の乳母らしい女が、息をはずませて走って来た。「お三保様、申しわけございません」 その翌日のことであった。木曽川の岸で悲鳴がした。(ひょっとするとあの女だぞ) 思いはしたが貝十郎は、声のする方へ走って行った。筏師(いかだし)らしい荒々しい男が、お三保を筏へ引きずり込み、急流を下へ流そうとしていた。しかし貝十郎の走って来るのを見ると、筏師と筏とは川下へ逃げた。「娘ご、これで三度だな」「重ね重ね、ほんとうにまあ……」「隣り村はなんという村だ?」「駒ヶ根村でございます。……爺や、お前、何をしていたのだよ」「はいはいお嬢様、申しわけもない……」 六十近い下僕(しもべ)らしい男が、汗を拭き拭き走って来た。(あれ、幸い、家の者が――と云う段取りになったという訳か)貝十郎は思い思い別れた。(俺を釣ろうとの計画とも見えれば、連続的偶然の出来事とも見える)旅籠屋舛屋(ますや)へ帰ってからも、貝十郎は考え込んだ。(よし、面白い、探って見よう)で、翌日駒ヶ根村へ出かけた。 用があって木曽へ来たのではなかった。風流から木曽へ来たのであった。よい木曽の風景と、よい木曽の名所旧蹟と、よい木曽の人情とに触れようために来たのであった。 与力とは云っても貝十郎は、この時代の江戸の名物男であり、伊達男(ダンデー)であり、風流児であり、町奉行の依田和泉守などとは、そういう点で憚(はばか)りのない、友人交際(つきあい)をしていたので、そういうわがままは大目に見られていた。 上松の宿まで来た時である。貝十郎は茶店へ休んだ。「征矢野という家がこの辺にあるかな?」 茶店の婆さんへ何気なく訊いた。「へい、いくらでもございますだ」「ナニ、一軒で沢山なのだが、美しい娘のある家だ」「木曽は美人の名所でごわしてな」「有難う」と貝十郎は笑って受けた。「婆さんなんかもその一人だね」「へい、御意(ぎょい)で、三十年前には」「三十年前の別嬪については、いずれ詮索をするとして、三保という娘のいる家だが……」「あれ、お三保お嬢様のお家でがすか」「さよう。お前の親戚かな」「とんでもねえ」と婆さんは撥ねた。「勿体もねえご旧家様でごわす」「そのご旧家様、どこにあるかな?」 二 旧家であって財産家ではあったが、主人も主婦も死んでしまい、娘一人が生き残り、主人の弟の隼(はや)二郎という男が、後見人として入り込んでいる。上松の宿から三里あまり、山の方へはいった鷺ノ森という地点に、宏大な屋敷が立っている。――と云うのが茶店の老婆の話した、征矢野という家の輪廓であった。(もうこれだけでも犯罪の起こる、立派な条件が具備されている)鷺ノ森の方へ歩きながら、貝十郎はそんなように思った。(隼二郎という男が悪人で、征矢野という家を横領しようとする。後継者の娘が邪魔になる。悪漢(わるもの)に云いつけてお三保という娘を、傷者(きずもの)にするか誘拐(かどわか)させる。……平凡に考えてもこんなような、犯罪の筋道はちゃんと立つ)貝十郎は歩いて行った。 木曽の五木と称されている、杜松(ねず)や羅漢柏(あすなろ)や椹(さわら)や落葉松(からまつ)や檜(ひのき)などが左右に茂っている。山腹の細道は歩きにくく、それに夕暮れでもあったので、気味悪くさえ思われた。空を仰いでも左右から差し出した木々の枝葉に蔽われて、夕焼けた細い空が帯のように覗かれて見えるばかりであった。足にまつわる草や蔓には、露があって脚絆(きゃはん)を冷たく濡らした。 かなり歩いたと思った時、行く手の灌木の向こうから、若い男女の話し声が聞こえた。「ね、いいじゃアありませんか。……いつまで待てとおっしゃるのでしょう。……」「いいえ、いけませんの、どうぞ勘忍して。……妾(わたし)、辛いのでございますわ。……だって、叔父様が……ね、ですから……」「叔父様が何んです! そんなもの! ……ああ私はどうしたらいいのだ! ……もう待てないのです、とても私には! ……若さだって過ぎてしまいます! ……逃げましょう、いっそ、ね、二人で! ……」(ははあ)と貝十郎は微笑した。(野の媾曳(あいびき)っていうやつだな。度を越すと野合という奴になる。……)「三保子!」と突然荒々しい、男の声が聞こえて来た。「何をしている。家へ帰れ!」「あれ、叔父様、まあどうしよう! ……鏡太郎さん早く逃げて!」 鏡太郎の逃げる足音が聞こえた。(やれやれ)と貝十郎は苦笑をした。(叔父さんという奴は大概の場合、粋な人間に出来ているものだが、ここの叔父様は逆だったわい。待て待て、三保子と呼んだようだった。では女はお三保なのか、とすると叔父と云うのは後見をしている、隼二郎という男だな。隼二郎叔父さんを見てやろう) で、貝十郎は灌木を巡り、横手の方から前の方を見た。紅い帯を結んだ初々しいお三保の姿――背後(うしろ)姿が見え、その前に立っている痩躯長身の、四十年輩の男の姿が見えた。蒼白い顔色、黒い頤鬚が、陰険の相をなしていた。落ち窪んだ眼窩の奥の方で、瞳がチロチロ光っていたが、それも人相を深刻にしていた。(これは大変な怪物だぞ)貝十郎は眉をひそめた。(俺に取っても強敵らしいぞ) 隼(はや)二郎はお三保に何か云っていた。しかしきわめて低声だったので、貝十郎へは聞こえなかった。と、二人は歩き出した。そうして間もなく見えなくなった。 行く手に小広い野があって、丘がいくつか連らなっていたが、その丘の向こうに征矢野(そやの)の屋敷が、どうやら立っているようであった。(さて、これからどうしたものだ)貝十郎は思案した。(とにかく征矢野家まで行って見ることにしよう)しかし十歩とは歩かなかった。「もし、お武家様、お待ちなすって」こう背後(うしろ)から呼ばれたからである。振り返った貝十郎の眼の前にいたのは、二十四、五歳の若い男であった。「何か用かな」と貝十郎は訊いた。「へい」と若い男はニヤニヤ笑った。「あの娘、別嬪(べっぴん)でございましょうがな」(厭な奴だな)と貝十郎は思った。で、黙って男を見詰めた。「三保子様は別嬪でございますとも」自信がありそうに若い男は云った。「云わば花野の女王様で」(こいつ馬鹿だ!)と貝十郎は思った。(でなかったら色情狂だ)「それに大層もない財産家で」(おや、こいつ、慾も深いぞ)貝十郎は降参してしまった。(山の中へ来ると変な奴に逢うぞ)「お武家様、あなた見ていましたね」 三「何を?」と貝十郎は不愉快そうに訊いた。「私と三保子様との恋三昧をでさあ」「…………」「旦那、邪魔をしちゃアいけませんぜ」「貴様は誰だ!」「鏡太郎って者だ!」(ふうん、こいつが鏡太郎なのか)改めて貝十郎は鏡太郎を見た。 ベロッとした顔、ベロッとした姿、――そういう形容詞が許されるなら、鏡太郎はそういう顔と姿の、持ち主と云わなければならなかった。つまり甞めたような人間なのであった。甞めたように額がテカテカしており、甞めたように頤がテカテカしていた。衣裳などでもテカテカ光っていた。都会の軟派の不良青年――と云ったような仁態であった。しかし太々しい根性は、部厚の頬や三白眼の眼に争い難く現われていた。(ははあこいつ色悪だな)と貝十郎はすぐに思った。(こいつに比べると隼二郎の方が、まだしも感じがいいと云える。――どっちがいったい悪党なんだろう? ちょっと見当がつかなくなった。江戸にいると俺は見透しなんだが、田舎へ来るとそういかなくなる。田舎は性に合わないと見えるぞ)「旦那」と鏡太郎が嘲笑うように云った。「ただのお武家さんじゃアなさそうですね。それにお前さんあの女に、特別の興味を持ったようですね。が、ハッキリ云って置く、手を引いた方がようござんしょうと。……鷺ノ森へ来たお前さんだ、征矢野の家のお客なんだろうが、あの女へチョッカイは出さない方がいい」「うるさい下司(げす)だな、何を云うか!」「何を、箆棒(べらぼう)、怖いものか」「行け!」「勝手だ」「白痴者(たわけもの)め」 云いすてて貝十郎は先へ進んだ。(まるで俺の方が脅されたようなものだ)苦笑せざるを得なかった。(幸先必ずしもよくないぞ) その時彼の背後(うしろ)の方から梟(ふくろう)の啼き声が聞こえて来た。つづいて雉(きじ)の啼き声がした。呼び合い答え合っているようである。(これはおかしい)と思いながら、貝十郎は振り返って見た。灌木の傍らに男女がいた。一人は例の鏡太郎であり、もう一人は見知らない女であって、髷の一所(ひとところ)が夕日を受けて、白く光っているのが見えた。 征矢野家の客間は賑わっていた。大勢の客がいるのである。その中に貝十郎もいた。「これはようこそおいでくださいました。ずっとお通りくださいますよう。主人も喜ぶでございましょう。皆様お集まりでございます」 宏大な征矢野家の表門まで、貝十郎が行きつくや否や、袴羽織の家人が出て来て、こう云って貝十郎を案内しようとした。「いや、拙者は、何も当家に。……単にこの辺へ参ったもので……」 当惑して貝十郎はこう云ったが、家人は耳にも入れなかった。待っていた客を迎えるようにして、貝十郎を客間へ通した。 その客間には貝十郎よりも先に、大勢の客が集まっていたし、貝十郎の後から、幾人かの客が、招じられてはいって来た。 征矢野家の客間は賑わっていた。(これまでのところ俺の負けだ)貝十郎はキョトンとした心で、むしろ憂欝と不安とを抱いて、柱へ背をもたせ座布団を敷き、出された酒肴へ手をつけようともせず、彼の左右で雑談している、人々の話をぼんやりと聞き、その合間にそんなことを思った。(これまでのところ俺の負けだ。何から何まで意表に出られる)「ともかくも先代は人物でしたよ」 修験者らしい老人が、盃を口から離しながら、隣席(となり)の商人らしい男に云った。「衰微していた征矢野家を、一時に隆盛にしたのですからな。修験道から云う時は『狐狗狸変様蒐珍宝』――と云うことになりますので」「さようで」と商人はすぐに応じた。「商法の道から申しますと、十ぱい買った米の相場が、一夜で十倍に飛び上がったようなもので」 するとその隣りに坐りながら、いいかげんに酔っているところから、相手があったら言葉尻でも取って、食ってかかろうと構えている、博徒(あそびにん)らしい若者がいたが、「一時に金持ちになるような奴に、善人なんかありませんや。その証拠にはここの先代だって、あんな死に態(ざま)をしてしまった。罪ほろぼしというところで、毎年命日がやって来ると、当代の主人がこんなように諸人接待のご馳走をするが、それだけ引け目があるって訳さね」 四(そうか)と貝十郎は胸に落ちた。(諸人接待の饗応だったのか。それで俺のような人間をも、有無を云わせず連れ込んだのか。……それはそれとしてこの家の先代には、何か犯罪があるらしいな) で、貝十郎は聞き耳を立てて、客人達の話を聞いた。「一人の老人の旅の者が、何んでもこの家へ泊まったのだそうです」貝十郎のすぐ側(そば)に坐って、肴(さかな)をせせっていた村医者らしい、七十近い老人が、声をひそめて他聞を憚るらしく、自分の前に坐っている、これも六十を過ごしたらしい、寺子屋の師匠とでも云いたげの、品のある老人へ囁いた。「ところがそれっきり旅の者は、この家から姿を隠したそうで。つまりこの家から出ても行かず、またこの家におりもせず、消えてなくなったのだということで」「さよう私もそんな話を、たしか若い頃に聞きましたっけ。その時以来この征矢野家は、隆盛に向かったということですな」寺子屋の師匠は相槌を打った。「ところがその後ずっと後になって、ごろつきのような人間が、この征矢野家へやって来て、先代を強請(ゆす)ったということですな」「さようさようそうだそうです。親父(おやじ)を生かして返してくれ、それが出来なかったら財産を渡せ――こう云って強請(ゆす)ったということで」「ところがその男もいつの間にか、姿が失(な)くなってしまったそうで」「そこで私はこう思いますので」村医者らしい老人は云った。「ここの屋敷を掘り返したら、浮ばれない無縁の二つの仏が、白骨となって現われようとね」「まさにね」と寺子屋の師匠が云った。「と思うとここにあるご馳走なども、血生臭くて食えませんよ」「先代が裏庭の松の木の枝で、首を縊って死んでいたのを、私は検屍をしたのでしたが、厭な気持ちがいたしましたよ」「私は現在ここの娘の、お三保さんに読書(よみかき)を教えているのですが、どうも性質が陰気でしてな」(なるほど)と貝十郎はまた思った。(そういう事件があったのか。ここの先代は悪人なのかもしれない)(しかし)と貝十郎はすぐに思った。(田舎の旧家というような物には、荒唐無稽で出鱈目な事が、伝説のような形を取って、云いつたえられているものだから、そのまま信用することは出来ない) ――それにしても主人の隼二郎も、娘のお三保と接待の席へ、何故姿を見せないのだろう? このことが貝十郎を不思議がらせた。 袴羽織の召使いや、晴衣をまとった侍女などが、出たりはいったりして酒や馳走を、次から次と持ち運び、酌をしたり世辞を振り蒔いたりしたが、隼二郎とお三保とは出て来なかった。燭台が諸所に置かれてあり、それの光が襖や屏風の、名画や名筆を華やかに照らし、この家の豪奢ぶりを示していた。 客の種類は雑多であった。村の者もいれば隣村の者もおり、通りがかりの旅人もいれば、接待の噂を聞き込んで、馳走にあずかりに来たものもあった。僧侶の隣りに浪人者がいたり、樵夫(きこり)の横に馬子がいたりした。「お武家様おすごしなさりませ。妾(わたくし)、お酌いたしましょう」不意に横から云うものがあった。「うむ」と貝十郎はそっちを見た。 いつの間にそこへ来ていたものか、山深い木曽の土地などでは、とうてい見ることの出来ないような、洗い上げた婀娜(あだ)な二十五、六の女が、銚子を持って坐っていた。三白眼だけは傷であったが、富士額の細面、それでいて頬肉の豊かの顔、唇など艶があってとけそうである。坐っている腰から股のあたりへかけて、ねばっこい蜒(うね)りが蜒っていて、それだけでも男を恍惚(うっとり)させた。「これは……」と貝十郎は思わず云ったが、釣り込まれて盃を前へ出した。「はい」と女は上手に注いだ。 キュッと飲んで置こうとするところを、「お見事。……どうぞ、お重ねなすって」 云い云い女は片頬で笑い、上眼を使って流すように見た。「では……」「はい」「これはどうも」「駈け付け三杯、もうお一つ」「さようか」「さあさあ」「こぼれましたぞ」「これは失礼。……ではその分を……」「え?」
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >> 尾页