十二神貝十郎手柄話(オチフルイかいじゅうろうてがらばなし)
五「いいえさ、今度こそ上手に、ホ、ホ、散らぬようお注ぎいたします」「うーん、どうもな、大変な女だ」「まあ失礼な、お口の悪い」「いやはや、ご免、地金が出ました」「今度は罰金でございます」「と云うところでもう一つか」「それもさ、今度は大きい器(うつわ)で」「これは敵(かな)わぬ」「敵わぬついでに」「降参でござる。もういけない」「では妾(わたくし)が助太刀と出ましょう」「おお飲まれるか、これは面白い。……さあさあ拙者が注ぎの番か」「はい、ご返盃」「あい、合点」「ねえお武家様」と女は云った。「江戸のお方でございましょうね」「ナーニ、奥州は宮城野の産だ。……そなたこそ江戸の産まれであろうな」「房州網代村の産でござんす。……ご免遊ばせ」 とスッと立ち、向こう側の座席へ行ってしまった。(驚いたなあ)と貝十郎は、胸へ腕を組んで考えた。(どういう素姓の女だろう? ……それにしてもすっかり酔わされたぞ)その時寺子屋の師匠の声がした。「お豊、あの女が曲者でしてな」「さようで」と村医者の声がした。「隼二郎殿もお蔭で痩せましょうよ」 こうして接待は深夜まで続いた。その間に土地の人達は、次々に辞して家へ帰り、旅の者だけが希望(のぞみ)に委せて、別々の座敷で寝ることになった。 貝十郎の案内された部屋は、十畳敷きぐらいの部屋であって、絹布の夜具が敷かれてあり、酔ざめの水などが用意されてあった。(さて、これからどうしたものだ)貝十郎は布団の上へ坐り、ぼんやり行燈を眺めやった。したたかに彼は飲まされたので、酔がすっかり廻っていた。(何んにもなすことはないじゃアないか。フラリとやって来てご馳走になって、いい気持ちに酔ったのだからな。このままグッスリ眠ってしまって、翌日になったら顔を洗い、有難うござんしたとお礼を云って、帰ってしまったらいいじゃアないか)彼はこんなことを思い出した。(何も征矢野家の犯罪って奴を、あばき出そうために来たのじゃアない。たかだか酔狂な好奇心から、様子を探るために来たまでだ。探る必要はあるまいよ)トロンとした心でこんなことを思った。(叩いた日にはどんなものからだって、罪悪という埃は立つさ。こういう俺だってひっ叩かれて見ろ、そりゃア目茶苦茶に埃は立つ)ここまで考えて来ておかしくなった。(二百石取りの与力の俺がさ、蔵前の札差しと対等に、吉原で花魁(おいらん)が買えるんだからな。不思議と云わなければならないよ。そういう贅沢がどうして出来る? と、歯ぎしりをして問い詰められて見ろ、ダーとなって引っ込んでしまわなければならない) そこで寝てしまおうと帯を解きはじめた。その時どこからともなく、雉(きじ)の啼き声が聞こえて来た。すぐに続いて梟の啼き声が、――こんな深夜だのにそれに答えて、どこからともなく聞こえて来た。(いけない)と貝十郎は帯を解く手を止め、その手で大小を手(た)ばさんだ。与力としての良心が、にわかに閃めいたからである。襖をあけて廊下へ出た。しかしすぐによろめいた。(はてな、悪酔いをしたらしいぞ) ヒョロヒョロヒョロヒョロと先へ進んだ。 六 廊下の片側が雨戸になっていて、その一枚が開いていたので、そこから裏庭へ出て行った時にも、貝十郎の酔は醒めていなかった。 遅い月が出て植え込みの葉が、いぶし銀のように光っている蔭から、男女の話し声が聞こえて来た時には、しかし貝十郎も耳を澄ました。「おい豊ちゃんどうなんだい」「鏡ちゃん、駄目だよ、まだなんだよ」「駄目、へえ、どうして駄目なんで?」「あの人どうにも固いのでね」「何んだい、豊ちゃん、意気地(いくじ)がないなあ」「鏡ちゃんだって意気地がないよ。二度も三度も縮尻(しくじ)ったじゃアないか」「邪魔がそのつど出やがるのでね。それもさいつも同じ奴が。江戸者らしい侍なんだよ」「江戸者らしい侍といえば、妾もそういうお侍さんへ、酒を飲ませて酔いつぶしてやったよ」「邪魔の奴はつぶしてしまうがいいなあ。……でないといい目が見られないからなあ。……豊ちゃんと俺(おい)らとのいい目がさ」「そうとも」と女の声が云った。愛を含んだ声[#「含んだ声」は底本では「含ん声」]であった。「そうとも二人のいい目がねえ。……妾(わたし)アお前さんが可愛くてならない」 それっきり、声は絶えてしまった。(オーヤ、オーヤ)と貝十郎は思った。(ここでも媾曳(あいびき)が行われている。悪党同士の媾曳だ。鏡太郎とそうしてお豊とらしい)(悪くないな)としかし思った。(罪悪のあるらしい旧家の裏庭で、美貌の若者と美貌の女とが、月光に浸りながら媾曳をしている。詩じゃアないか! 詩じゃアないか! そいつを与力が立ち聞きしている。詩じゃアないか! 詩じゃアないか! ……厭だよ、こんないい光景を「御用だ!」などという野暮な声を出して、あったらぶち壊してしまうのは。……こっそり逃げて帰ってやろう) 酔がさせる業であった。与力の方から逃げ出したのである。 彼は家へははいらなかった。庭を巡ってどこまでも歩いた。 宏大な建物を囲繞(いにょう)して、林のようにこんもりと、植え込みが茂っている庭であり、諸所に築山や泉水や、石橋などが出来ており、隔ての生垣には枝折戸(しおりど)などがあったが、鍵などはかかってはいなかった。幾個(いくつ)かの別棟の建物があり、厩舎(うまや)らしい建物も、物置きらしい建物も、沢山の夫婦者の作男達のための、長屋らしい建物もあった。夜が更けているところから、どの建物からも灯火(あかり)は射さず、人の声も聞こえなかった。厩舎の前まで行った時、ませ棒を蹴っていた白い馬が、人なつかしそうに首を伸ばし、太い鼻息をして貝十郎を迎えた。横射しに射していた月光が、その長い顔をいよいよ長く見せた。 貝十郎は彷徨(さまよ)って行った。と、行く手に建物があり、そこから灯火が射していた。主屋と五間ほど離れた所に、独立して建ててある建物であって、二間か三間かそれくらいの座敷を、含んでいる程度の大きさであり、主屋とは幾個かの飛び石をもって、簡単に連絡されていた。風変わりの建物でもなかったが、頑丈にしかして用心堅固に、造られているように見て取られた。三方厚い壁であり、その壁々には明りとりの、鉄格子をはめた窓ばかりが、わずかについているばかりであった。主屋(おもや)に向いた方角に、出入り口がついていた。土蔵づくりの建物なのである。燈火は出入り口から射していた。戸をとざすのを忘れたからであろう。射している光もほんの幽(かす)かで、他の幾棟かの建物から、同じように光が射していたら、紛れて気づかれないほどであった。 貝十郎はそっちへ進んだ。入り口の前まで歩いて行った時、彼は女の泣き声と、そうして男の叱る声とを、その建物の中から聞いた。(オーヤ、オーヤ)と彼は思った。(ここでは女が虐められている。反対側のあっちの庭では、男と女とが愛撫し合っていたが) 彼はしたたかに酔っていた。そうして彼は与力であった。与力としての精神と、酔漢としての戯心(たわむれごころ)とで、彼は真相を知ろうと思った。 で、足音を忍ばせて、建物の中へはいって行った。泣きながら女の喋舌(しゃべ)る声が、すぐ彼へ聞こえて来た。「妾(わたし)、もうもう待てません。……これではまるで嫐(なぶ)り殺しです。……今夜こそ……どうしたって……でなかろうものなら……」 男の叱る声が聞こえた。「ね、あっちへ行っておいで。……お前の心は解っているよ。……が、しかしそう性急には……物事にはすべて順序がある。あの……娘(こ)を……ね、三保の方を……三保は年頃になっているのだから。……それに私(わし)には仕事がある。……これもどうしたって仕上げなければならない。……だからこそ私(わし)はこんな所へ……ああそうだよ。こんな所へこもって……」 泣きながら反対する女の声がした。「ですから三保子様を早くどなたかへ。……鏡太郎さんというあの人へでも。……お仕事! ああ、そのお仕事です! どんなに妾はそのお仕事を、憎んで憎んで憎んでおりますことか! ……そのためあなたは人相までも、変わってしまったではありませんか! ……二つの骸骨! 壊してしまおうかしら!」「これ、お豊! 何を云うのだ!」「旦那様! いいえ隼二郎様」「お豊、私(わし)はお前を愛している。……ね、それだけは信じておくれ」「妾(わたし)も、ええ妾(わたし)もですの」二人の声はここで切れた。(さて)と貝十郎は苦笑して思った。(この後は抱擁ということになるのさ) 彼の足下には二尺幅ぐらいの、狭い廊下が左右に延び、同じくらいの狭い廊下が、前方へ向かっても延びていた。丁字形になっている廊下の中央に、彼は佇んでいるのであった。その前方に延びている廊下の、右側に大きな部屋があり、部屋の扉が開いているので、燈火と人声とが洩れて来るのであった。数歩進んで扉の口まで行き、そこから内を覗いたなら、内の様子は見えるのであった。内部の一部――床の端だけは、ここにいる貝十郎にも見て取れた。畳が敷いてないのである。板張りになっているのである。(お豊とそうして隼二郎なのか。……いや、腕の凄い女ではある。あっちの庭では年の下の、美少年と媾曳をしたかと思うと、こっちの部屋では年の上の、金持ちの旦那を口説いている、同じ晩にさ、わずかの時間にさ。……あんな女は都会にも少ない。どうにも俺は田舎が嫌いだ) 七 この時隼二郎の声が聞こえた。「杉田玄伯殿、前野良沢殿、あの人達と約束したのだよ、私の方が早く仕とげて見せると。……江戸でああいう人達と一緒に、研究していた頃は面白かった。……後見人となってこの家へ入り、木曽山中のこんな所で、くらしをするようになってから、私には面白い日がなくなってしまった。……お前が来てからそうでもなくなったが。……さあ私(わし)はやらなければならない。……さあお前はあっちへ行ってお休み。……あの娘が眼でも醒ますといけない。……私(わし)はあの娘(こ)を愛している。……どうもあの娘には誘惑が多い。……無理はないよああいう身分だから。……あの娘(こ)を幸福にしてやることが、死んだ兄さんへの大切な義務だ。……今日は兄さんの死んだ日だったね。……そうだ諸人接待の日だった。……私はこの日が来る度ごとに、鞭撻されるような気持ちがする。いやいや鞭撻されようために、今日を諸人接待の日に、取り決めたのだと云った方がいい。……兄さんは死ぬ前に私にあてて、気の毒な手紙をよこしたのだよ。悲痛の手紙と云ってもよいが。……お前は向こうへ行っておくれ。……ああ少し待っておくれ。接待に来てくれた人の中に、変わった人があったかしら?」「いいえ」とお豊の云う声が聞こえた。「でも猪之助が来ていました」「猪之助? おお猪之助が。……あの破落戸(ごろつき)が! 執念深い! ……兄の悪口を云っていたであろうな」「ええ申しておりました」「去年も来た、一昨年(おととし)も来た。……普通の日にもやって来て、私を強請(ゆす)ったことさえある。……あいつは誤解をしているのだ。……いやいやいや、誤解ではないが。……お豊や、私は気持ちが悪くなった。お前は向こうへ行って休むがよい」 ここでしばらく話が絶え、やがて足音が聞こえて来た。貝十郎は身を翻えしたが、素早く廊下を右の方へ走り、闇に立って窺った。と、すぐにお豊の姿が、戸口から出て庭の方へ行った。と、庭から驚いたような、お豊の声が聞こえて来た。「ま、猪之助さん! どうしたのです!」 男の答える声がしたが、兇暴な響きを持っていた。「退け! 今夜こそ埒(らち)をあけるんだ!」「いけません! ……おお、誰か来てください!」「敵(かたき)だ! 畜生め! 親の敵だ! ……待って待って待っていたのだ! ……他国からこの地へやって来て、こんな山の中へ住み込んで! 金……命を取るか、金を取るかと! ……やい、放せ! 埒をあけるのだ!」「危険(あぶな)い! そんな、刃物なんか! ……誰か来てください! あッ誰か!」(これはいけない)と貝十郎は、素早く入り口の方へ走って行った。が、こういう瞬間にも彼は疑問を脳裡へ浮かべた。(俺の耳へさえ聞こえて来たのだ。隼二郎にも聞こえなければならない。どうして助けに行かないのだろう?)――で彼は庭へ飛び出すより先に、隼二郎のいる部屋を覗いて見た。「いない! ……どうしたのだ、隼二郎はいない!」 部屋は洋風に出来ていて、巨大な飾り棚や頑丈な卓や、椅子や書架が置いてあり、卓の上には杉田玄伯や、前野良沢や大槻玄沢や、貝十郎にとっては知己にあたる、そういう蘭医達の家々で見かける、外科の道具類が置いてあり、書棚には書物が詰めてあった。 その部屋に隼二郎がいないのである。では隣室へでも行ったのであろうか? いやその部屋は四方壁で、出入り口は一つしか附いていなかった。窓はあったが閉ざされていた。そうして一つだけの出入り口からは、お豊が出て行ったばかりであって、隼二郎は出ては行かなかった。それは貝十郎も見て知っていた。(これはいったいどうしたことだ)
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