十二神貝十郎手柄話(オチフルイかいじゅうろうてがらばなし)
六 お島は寂しいところから、一つは姪のお京の家が、貧しい生活をしているところから、お京を寮へ引き取って、玩具(おもちゃ)の人形でも愛するようにして、ずっと以前から育てて来た。お京は愛くるしい性質で、悪戯(いたずら)もしたがその悪戯さえ、可愛らしく見えるという性(たち)であった。「姉ちゃんお庭へ行って遊びましょうよ」 しかしお島は黙っていた。いつもよりは今日は気持ちが悪く、返辞をするのさえ大儀だからであった。「姉ちゃんお庭へ行って遊びましょうよ」 お京はなおもせがんだが、お島が返辞をしないので、つまらなそうに部屋を出て、一人で庭の方へ行こうとした。と、奥から賑やかな、人々の笑い声が聞こえて来た。お京へ子供らしい好奇心が起こって、奥の方へはいって行った。 酒盛りをしている次の部屋が勘三の常時(いつも)いる部屋であって、高価な調度などが飾り立ててあった。その部屋までお京がはいって行った時、彼女の心を惹く物があった。手文庫の抽斗(ひきだし)が半ば開いていて、人形の顔が見えていたのである。「まあ」 と彼女は嬉しそうに云って、抽斗からそっと人形を取り出し、部屋を出て庭へ走り出た。庭には午後の日があたっていて、遊ぶによくポカポカと暖かかった。 山吹がこんもりと咲いていて、その叢(くさむら)の周囲(まわり)には青み出した芝生が、茵(しとね)のように展べられていた。山吹の背後(うしろ)には牡丹桜が重たそうに花を冠っていた。お京は芝生へ坐り込んだが、人形を膝の上へ大事そうに乗せると、しばらく熱心にもてあそんだ。 それは縫いぐるみの人形であって、派手な振り袖が着せてあった。大きさはおよそ五寸ぐらいで、顔は十八、九の女の顔であった。 そうやってしばらくもてあそんでいたが、そこは子供のことであった、やがて飽きると抛(ほう)り出して、何やら流行唄(はやりうた)をうたい出した。と、その時一人の男が、こっそりとこっちへ近寄って来た。今まで勝手口でお三どんを相手に、油を売っていた仙介であった。「おやおやこれはお嬢さんで、……日向(ひなた)ぼっこでございますかな」 こんなことを云いながら近寄って来たが、抛り出されてある人形を見ると、すぐに取り上げてじっと見た。「…………」 何んとも云いはしなかったが、仙介の眼の光ったことは! とにわかに「痛い!」と云った。 見れば仙介の拇指(おやゆび)から、血がポッツリと吹き出している。人形の胎内に針があって、強く握った時それの先が、拇指の一所を刺したものと見える。「そうか!」と仙介は思いあたったように云った。「これですっかり見当が付いた!」 どうしようかと云ったように、一瞬仙介は考え込んだが、チラリとお京へ眼を移してから、素早く人形を懐中しようとした。が、その時植え込みの背後(うしろ)から、「お嬢様!」 と呼ぶ声が聞こえて来たので、あわてて仙介は人形を取り出し、お京の膝の上へ投げるように置き、庭を横切って姿を消した。それと引き違いに姿を現わしたのは、他ならぬ小間使いのお菊であった。 仙介の後を見送り見送り、お京の側までやって来たが、お京の膝の上の人形を見ると、ギョッとしたように眼を躍らせ、すぐに取り上げて袖の中へ引き入れ、つかつかと家の方へ走って行った。 七 十二神(オチフルイ)貝十郎の邸の玄関へ、同心の佃三弥と連れ立ち、仙介が姿を現わしたのは、それから間もなくのことであり、二人の姿が邸の中へ消え、やがて邸から現われたのも、それから間もなくのことであり、十二神貝十郎がそれと続いて、邸から出て駕籠に乗り、品川にある和蘭(オランダ)客屋を、訪ねたのも間もなくのことであった。 こうしてこの日は暮れてしまった。 さて、いよいよ今日の日である。昨日から泊まり込んでいた大日坊は、この日もお島に祈祷をした。お島の衰弱はいちじるしく、放心状態になっていた。しかも心ではどうともして、この苦しみから遁(の)がれ出たいものと、あえぐがように願っていた。祈祷が終えると部屋から脱け出し、夢心地のように庭へ出たが、庭を脱けると当てもなく、両国の方へ歩いて行った。(寮は妾(わたし)にはまるで地獄だ。あそこの空気は息苦しい。あそこの空気は寂しくて凄い。賑やかで楽に呼吸のつける、どこかへ妾は行ってしまいたい) 彼女はこういう心持ちで歩いた。そういう彼女を寮の近くから、後を尾けて来た侍があったが、他ならぬ十二神(オチフルイ)貝十郎であった。(どうぞして誰にも悟られないように、あの娘を連れ出そうと思っていたところ、幸い自分から脱け出して来た。さてこれからどうしたものだ) 貝十郎は思案しいしい、お島の後から尾(つ)けて行った。 両国を渡り浅草へはいり、お島が薬売りの藤兵衛の剽軽(ひょうきん)の口上を放心的態度で、聞きながら佇(たたず)んでいるのを見ると、貝十郎は頷いた。(一つ暗示を与えてやろう。ああいう娘には暗示がかかる。藤兵衛を利用して暗示をかけてやろう) 喋舌っている藤兵衛の背後(うしろ)に廻って、貝十郎が藤兵衛の耳へ、立ち合いの群集に気づかれないように、囁きかけたのはそれからであり、藤兵衛がお島へお島のことを、話しかけたのもそれからであった。 ここで事件は和蘭(オランダ)客屋の、奥の部屋へ帰って行かなければならない。鏡へお菊と大日坊と勘三との姿が写っていて、お島ににせた人形が、机の上に置いてあった。 三人は何やら云い争い出した。勘三が最も多く喋舌り、大日坊へ何かを強いているようであった。それをお菊が悩ましそうに、熱心に止めている様子であった。そういう二人の間に立って、大日坊は当惑している様子であったが、やがて何やらお菊に向かって、訓(さと)すがように説き出した。その三人であるが、話し合っている間じゅう、机の上の人形の方へ、たえず瞳を注いでいた。 そういう光景が黒塗り蒔絵の、額縁を持った大鏡の中で、芝居ででもあるかのように、ハッキリと写っているのである。 大日坊はお菊を説き伏せたようであった。お菊を説き伏せた大日坊は、やおら人形へ近よると、鋭く人形を凝視した。手に戒刀を握っている。と、その戒刀が頭上へ上がった。思う間もなく切り下ろされた、と、その瞬間鏡中の世界を、佇んで見ていたお島の体へ、頭上からフワリと布が冠(かぶ)された。 甲必丹(キャピタン)カランスが背後から、手に持っていた黒布(くろぬの)を、その瞬間に冠せたのであった。「あれ!」 とお島は意外だったので、黒布(くろぬの)の中で声を上げた。しかしその次の瞬間には、黒布(くろぬの)は既に取り去られていた。お島は鏡中の世界を見た。三人の男女が審(いぶか)しそうに、人形を取り上げて調べている。戒刀で人形を切ろうとしたのらしい。しかるに人形が切れなかったので、驚いているという様子であった。人形が机の上へ置かれた。また大日坊は戒刀を振り上げた。 その戒刀が鏡の中で、白く横の方へ流れた時、またもお島は背後から、黒い布で全身を包まれた、が、その刹那(せつな)迂濶千万にも、お島は髪を崩すまいとして、片手で黒布を上へ揚げた。その拍子に指の先が布から出た。「痛い!」とお島は悲鳴を上げた。 布が体から取り去られた時、お島の右の手の中指の先から、血が掌の方へ流れていた。切り傷がそこについている。と、鏡中の世界の人は、またも人形を取り上げて、奇怪至極だというように、その人形を調べ出した。人形の左の手の中指に、どうやら傷でもついたらしく、そこを三人は調べ出した。 またもや人形は机の上へ置かれ、またもや大日坊は戒刀を振り冠った。そうしてまたもやお島の全身が、黒布(くろぬの)によって蔽(おお)われた。しかしその布が取り去られた時、お島の体には異変はなかったが、鏡中の人々には異変があった。戒刀が折れて折れた先が、勘三の咽喉を貫いていた。 八 この頃小梅の柏屋の寮を、取り囲んでいる人影があった。目明し、橋場の仙右衛門が、同心佃三弥に指揮され、乾児(こぶん)十二人と一緒になって、捕り物をすべく囲んだのであった。 不意に深夜の静寂を破り、男の悲鳴が家の中から聞こえ、つづいて騒がしい人声が起こり、つづいて雨戸を蹴開く音がし、すぐに男女の人影が、裏木戸の方へ走って来た。「御用!」「何を!」「勘助御用だ!」「仙介か! ……やっぱり……岡っ引だったな!」「やい、神妙にお縄をいただけ!」「…………」「夜叉丸! 手前も……年貢の納め時だ!」「馬鹿め! 人足! 捕れたら捕れ!」 小間使いお菊の女勘助と、大日坊の火柱夜叉丸とは、戸を蹴破って飛び出した。 ご用聞きの仙介に身をやつしていた、目明しの仙右衛門は飛びかかった。ガラガラという錫杖(しゃくじょう)の音! 月光に閃めく匕首の光! ムラムラと寄せ、ガッと引っ組み、バタバタと仆される捕り方の姿! 枕橋の方へ一散に走る、夜叉丸と女勘助との姿が見えた。「廻れ! 右の方へ! 三囲(みめぐり)の方へ!」同心佃三弥が叫んだ。「旦那、冗談、そんな方へ行っては! 奴ら、枕橋の方へトッ走っていまさあ!」 仙右衛門は不審そうにこう叫んだ。「黙れ! よい、俺の云う通りにしろ!」 ――で、捕り方はそっちへ走った。 そのため明和六人男と呼ばれた、六人の盗賊のその中の二人、女勘助と火柱の夜叉丸とは捕縛されることを免れた。 後日貝十郎は云ったそうである。「柏屋の主人の六斎殿と、私とは遊里の友達なので、あの仁の死後も遺族については、絶えず注意をしていました。するとお島という一人娘が、変な病気にかかったという。そこで佃という同心に命じ、その様子を調べさせたところ、佃は目明しの仙右衛門という男を、ご用聞きにやつさせて調べさせたそうで。すると呪いの人形が、あそこの寮から出て来ました。その前にあの寮へ大日坊という、怪し気な修験者が入り込むことや、日頃から腹のよろしくない、叔父の勘三が入り込むことや、その勘三の妾のような女が、小間使いとして入り込んだという、そういうことが解っていましたので、さてはお島を呪い殺し、勘三が柏屋を乗っ取る気だなと、こう目星をつけたという訳で。一味を引っ捕えて調べるのは、訳のない話ではありますが、それでは柏屋に瑕(きず)がつくし、呪いとあってはお島の命が、その間に取られてしまうかもしれない。これは困ったなと思いましたが、その時フッと考えついたのは、懇意にしている大通辞の、吉雄幸左衛門殿のことでした。この仁(じん)は西洋の学問が出来る。その方面で呪いというようなものを、至急に防ぐことが出来るかもしれない。……で、行ってお話をしたところ、甲必丹(キャピタン)のカランス殿が引き受けたという。……で、安心してお島を連れ出し、和蘭(オランダ)客屋の奥の部屋で、ああいうことをして呪いを破り、その上悪事の元兇の、勘三をあべこべに自滅させた訳で。……しかし、どうしてああいう事が、ああして呪いを破ったのかは、とんと私にも解りません。が、東洋流の精神科学を、西洋流の精神科学が、退治したのだとは云われましょう。……女勘助や夜叉丸は、悪い奴らではありますが、私の敬まっている館林様が、手先にしている奴らでしたから、捕えることだけは止めにしました。佃に旨を云い含めた訳です。嚇しただけで追っ払えと」 お菊の女勘助が、お島を時々救おうとしたのは、お島に恋を感じたからであった。その勘助を妾のようにして、勘三が小間使いに住み込ませたのは、事実勘助を女だと思い、そうやって住み込ませて置くうちに、物にしようと思ったからであった。 お島がお菊を恋したのは、結局同性の恋ではなく、異性同士の恋なのであったが、お島はそれを知らなかった。最後まで知らなかったということである。 海外の歌 一「桜月夜で明るいじゃアないか! それを何んだい、ぶつかりゃアがって!」 無頼漢風の逞しい男が、自分の方からぶつかりながら、こう京一郎へ難題を出した。「とんだ粗相をいたしました、真(ま)っ平(ぴら)ご免くださいますよう」うるさいと思ったので京一郎は詫びた。「いけねえいけねえ言葉ばかりじゃアいけねえ、やい何んとか色をつけろ!」「色をつけろとおっしゃいますと?」「解らねえ奴だな、いくらか出せ!」「へええお銭をでございますかな」「あたりめえよ、膏薬(こうやく)代だ」「と云うと怪我でもなさいましたので」「え、怪我? うん、したした! 大変もない怪我をした。だからよ、出しな、膏薬代をさ!」「ちょっと拝見いたしたいもので」「ナニ、拝見? 拝見とは何をよ?」「大変もない怪我という奴を」「うるせえヤイ! 青瓢箪め!」 拳が突然空に流れた。素早く京一郎は身をかわしたが、その手には拳が握られていた。「ただの町人の小伜とは、小伜なりが少し違うぞ」「痛え痛え人殺しイーッ……やい皆(みん)な出て来てくれ!」すると背後から四人の男が、姿を現わして走って来た。(しまった!)――で京一郎は逃げた。ここは京橋の一画で、本通りから離れた小路であった。両親に内証で町道場へ通い、一刀流の稽古をしていたが、いつもより今日は遅くなったので、道を急いでの帰るさであった。 背後から追っかけて来るらしい。京一郎は横へ逸れた。と、運悪く袋露路で、妾宅めいた家によって、見れば行く手をふさがれている。(どうしたものだ! これは困ったぞ!)――で、当惑して立ち止まったとたんに、眼の前の格子戸が内から開き、「とんだ事ねえ、さあいらっしゃい」艶(なま)めいた女の声がして、つづいて白い手が伸びて来た。「いえ、私は……」「大丈夫なのよ」 ガラガラと京一郎の背のうしろで、閉ざされる格子戸の音のした時には、京一郎の体は家の中にあった。 見失ったというように、無頼漢風の男をまじえ、五人の男が露路から出た。本通りの方へ引っかえして行くのを、一軒の家の二階から――細目に開けた障子の隙から、眺めていた一人の武士があったが、「また彼奴(きゃつ)ら悪いことをやり出したな」 眉をひそめながら呟いた。与力の十二神(オチフルイ)貝十郎であった。「旦那、喧嘩ね。気味の悪い」 ちゃぶ台があってご馳走があって、徳利と盃とが置いてあり、一方の側には貝十郎がおり、一方の側には女がいたが、その女がそんなように云った。「喧嘩といえば喧嘩だが、性(たち)の悪い喧嘩でな」「性(たち)のよい喧嘩ってありますかしら」「出合い頭の間違いで、ぶん撲り合うというような、そういう喧嘩は性のいい喧嘩だ」「性の悪い喧嘩といえば?」「計画的に仕掛けた喧嘩さ。……それはそうと、こういうお妾横丁には随分喧嘩はあるだろうな」「そうですねえ、まあ、ちょくちょく」「ところで突きあたりの格子づくりの家だが、やはり妾の巣だろうな?」「巣とはお口のお悪いことね。でも、ええ、お妾さんの巣のようだわ」「一、二度見かけたことがあるが、そのお妾さん美(よ)い縹緻(きりょう)だった」「そこでちょっかいを出そうと云うのね」「うっかりちょっかいを出そうものなら、あのお妾さんくらいつくよ」「鬼や夜叉じゃアあるまいし」「それ以上に凄い玉(たま)かもしれない。顔に険のある女だった……旦那というのはどんな男かな?」「旦那だか何んだか知らないけれど、時々駕籠で立派なお武家さんが深夜においでなさるようです」「他にも男が出入りするだろう?」「よくご存知ね。四、五人の男が……」「物など持ち運んでは来ないかな?」「おや、そう云えばそんなことも……でもどうしてご存知なんでしょうね?」「俺の身分を知っているくせに、何を云うのだ。うっかりした女だ」
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