十一
太刀音、悲鳴、「来やアがれーッ」の喚き、十分けたたましいといわなければならない。で建っている離れ座敷の中に、一人でも人がいたのなら、出て来なければならないだろう。 ところが人は出て来ない。静まり返って音もしない。それでは誰もいないのだろうか? いやいや人はいたのである。 しかも男女二人いた。 ここは建物の内部である。 「さあご返辞なさりませ」 こういったのは女である。寝椅子の上に腹這っている。両肘で顎をささえている。乳のように白い肘である。ムッチリとして肉づきがよい。顔は妖婦! 妖婦型である。髪をグタグタに崩している。黒い焔を思わせる。その髪に包まれて顔がある。目ばかりの顔ではあるまいか? といったような形容詞をどうにもこの際用いなければ、到底形容出来ないような、そんな印象的な目をしていた。二重まぶたに相違ない。が、思うさま見開いているので、それがまるっきり一重まぶたに見える。目の中が黒く見えるのは、黒目が余りにも多いからだろう。白眼が縞をなしている。濃い睫毛の陰影が、そういう作用をしているのだろう。その目が一所を見詰めている。で黒目が二つながら、目頭の方へ寄っている。で、一種の斜視に見える。斜視には斜視としての美しさがある。いや斜視そのものは美しいものだ。で、その女――島子なのであるが――その島子の人工的斜視は、妖精的に美しい。また蠱惑的といってもいい。また誘惑的といってもいい。いやいや明きらかに彼女の目は、露骨に誘惑をしているのであった。紅を塗られた唇は尋常よりもグッと小さい。 島子は襲衣一枚である。一枚だけをひっかけている。真紅の色というものは、誘惑的ではあるけれど、あまりに刺戟があくどいため、教養ある人には好かれない。肉色こそはより一層、男の情慾をそそるものである。それを島子は着ているのである。裾と胴とに鱗型をつけた、肉色絹の襲衣なるものを! よい体格だ! 肥えている。腰のあたりがクリクリとくくれ、臀部がワングリと盛り上がっている。二本の足が少し開かれ、襲衣に包まれているのだろう、臀部から踵までの足の形が、襲衣を透かして窺われる。襲衣が溝を作っている。ひらかれた足のひらき目である。襲衣の襟が寛いでいる。で胸もとが一杯に見える。肋骨などあるのだろうか? そんなようにも感じられるほど、脂肪づいた丸い厚い胸が、呼吸のために相違ない、ゆるやかに顫え動いている。 「味のよい果物がここにあります」 島子歌うようにいい出した。 「めしあがりませ、琢磨様!」 頤を支えていた左の腕を、こういいながらダラリと落とし、寝台の上へ長々と延ばした。と、襲衣の襟が捲くれ円々とした肩が現われた。連れて一方左の乳房が、タップリと全量を現わした。さも重たそうな乳房である。 「さあご返辞をなさりませ」 こういうと島子は眼を閉じた。いや半眼に閉じたのである。と大きな眼が急に細まり、下のまぶたへ濃いかげが出来た。睫毛がかげを作ったのである。何んとひときわその眼付き、誘惑的になったことか! 陶酔的の眼であった。恍惚とした眼であった。 と、その眼をすっかり閉じ、支えていた右手を頤から取ると、島子はガックリ首を垂れた。寝椅子へ額を押しあてて、ベッタリ臥伏せに寝たのである。襲衣の襟が楔形に、深く背の方へひかれたためか、背筋まで見せて頸足が、ろくろっ首のように長くなった。そこへ髪の毛がもつれている。髪の毛の間からヌラヌラと、白い艶のよい肉が見える。海草の中から、白珊瑚が、チラチラ光っているようである。 「味のよいお酒がここにあります」 眠くて眠くてたまらないような、ぼっとした声で、うっとりとこう島子は呼びかけた。 「お飲みなさりませ、琢磨様」 そろそろと全身をうねらせた。寝返りを打とうとするらしい。仰向けになろうとするらしい。 武士が一人立っている。 寝椅子の傍に立っている。 ほかならぬ三蔵琢磨である。 冷然として立っている。島子の嬌態など見ようともしない。顔など決して充血していない。といって決して青ざめてもいない。眼を正しく向けている。口を普通に結んでいる。足も決してふるえていない。こぶしなども決して握っていない。あくまでも冷静沈着である。 だが額の一所に、汗の玉のあるのはどうしたのだろう? 木彫のように黙っている。だがもし彼が物をいったら、ふるえないということがどうしていえよう。 ふるえ声を女に聞かれるのを、恐れて物をいわないのかもしれない。 なぜ彼は島子を見ないのだろう? そういう女の嬌態などに、感興をひかないたちだからだろうか? そういうようにも解される。だがその反対にも解される。そういう嬌態の誘惑を恐れ、それで島子を見ないのだと。 だが彼はある物を見てはいた。 彼の正面に壁がある。そこにある物がかかっていた。文政時代に似つかわしくない、外国製の柱時計であった。 黒檀の枠、真鍮の振子! 振子は枠から長く垂れ、規則正しく揺れている。で、そこから音が聞こえる。カチ、カチ、カチ、……カチ、カチ、カチ! ――セコンドを刻む音である。 長針と短針とが矢のように、白い平盤の表面に、矩形をなして突き出ている。その周囲を真円に囲み、アラビア文字が描かれてある。短針は十二時を指そうとしている。しかし長針は十時にあった。 カチ、カチ、カチ、……カチ、カチ、カチ、……時は刻々に移って行く。 「十分前だ!」 呻くような声! 琢磨の口から出たのである。冷静な顔や態度にも似ず、息詰まるような声であることよ! カチ、カチ、カチ……カチ、カチ、カチ! 時は刻々に移って行く。 二人の男女を包んでいるところの、部屋の様子というものも、まことに異様なものであった。
十二
とはいえ今日の眼から見れば、洋風の書斎に過ぎないのではあるが。 壁の一方にドアがあり、壁の一方に窓があり、巨大な書棚が並んでおり、書物がギッシリ詰まっており、数脚の椅子と卓とがあり、洋燈が卓の上に燃えており、それに照らされて青磁色をした、床の氈が明るんでおり、同じ色をした窓掛けが、そのひだにかげをつけており、高い白堊の天井の、油絵の図案を輝かせている。――というまでに過ぎなかった。 とはいえ時代は文政である。所は江戸の郊外である。そういう時代のそういう所に、こういう部屋のあるということは、かなり驚いてもよいことであった。 さらに驚くべきものがあった。 とはいえそれとて一口にいえば、一枚の張り紙に過ぎないのではあるが――だがその張り紙に書かれてある、四ツの箇条書きを見た人は、非常に驚くに相違ない。 時計の真下、振子の下に、張り紙は張ってあるのであった。 「八分前だ!」 呻くような声! 琢磨の口から出たのである。 と、島子の声がした。 「こちらをお向きなさいまし」 だが琢磨はまたいった。 「四分前だ! もうすぐだ!」 「こちらをご覧なさいまし。きっと見ることが出来ましょう! 私の肌を!」 やっぱり琢磨呻くようにいう。 「三分前だ! もうすぐだ! そうしたら解放されるだろう!」 あせった島子の声がした。 「あなたは見ることが出来ましょう! 私の肌を!」 だがまた呻くように琢磨がいった。 「後二分だ! 後二分だ」 同じく呻くように島子がいう。 「ご覧なさりませ! ご覧なさりませ! 白い私を! 真っ白い私を!」 「後一分!」 「素裸体の私!」 だが、その時音がした。 十二時を報ずる時計の音! 同時に庭から声がした。声というより悲鳴であった。しかも断末魔の悲鳴であった。しかも二人の悲鳴であった。 同時に寝台からも声がした。これもやっぱり悲鳴であった。やはり断末魔の悲鳴であった。 ギーッ! 音だ! ドアが開いた。 「あなた!」 「娘か!」 「いいえ葉末!」 「葉末というのか?」 「あなたの花嫁!」 ひらかれたドアから現われたのは、花嫁姿の葉末であった。 「おいで!」 と琢磨、手をひろげた。 で、葉末と三蔵琢磨、はじめてやさしく抱擁した。 その時壁からヒラヒラと、床の上へ落ちたものがある。 四ヵ条を記した張り紙である。 風かないしは幽霊の手か? どっちかがその紙を壁から放し、床の上へ落としたに相違ない。
十三
「何んでもなかったのでございますよ。つまり私の役目といえば、用心棒に過ぎなかったので。原因は四ヵ条を書き記した、張り紙なのでございますよ。で、それからいうことにしましょう。(一)養女と良人と結婚すれば、財産は官へ寄附する事(二)養女が二十歳になるまでに、養女が死ぬか良人が死ぬか、ないしは二人死去するか、そういう場合には財産は、全部情人が取るべき事(三)養女満二十歳になった瞬間、その養女が誰かと結婚すれば、財産は養女と良人とが、半分ずつ分けて取るべき事(四)養女が二十歳になるまでに、良人が他の女と結婚すれば、財産は情人と養女とが、半分ずつ分けて取るべき事。――というのが四ヵ条の箇条書きなので。そうしてこれを書いたのは、養女――すなわち葉末さんですが、その葉末さんの養母であり、そうして三蔵琢磨氏の家内、陸女という女だということで。情人というのは他でもない、花垣志津馬という武士なのだそうで。遺言状だったのでございますよ。陸女の死ぬ時の遺言状だったので。その陸女という女ですが、ある札差しの家内でしてな、大変な財産を持っていたそうで。そうして後家さんになってから、琢磨氏と同棲したのだそうで。しかし自分の財産だけは、自分で持っていたそうです。そうして非常な漁色家で、花垣という美男の浪人と、関係していたということです。で、子が一人もないところから、葉末さんという娘を養女にしたところ、どうやら養女の葉末さんと、良人の琢磨氏とが愛し合っているらしい。で、嫉妬をしたのですね。そのうち死病にとっつかれ――業病だったということですが――死んでしまったのでございますよ。ところが死んで行く前までも、養女と良人との関係が、どうにも心にかかってならない。そこでそんなような遺言を――とても意地の悪い遺言を、残して行ったのだということです。ナーニ本人は死んでいるんだ、そんなつまらない遺言なんか、履行しなくたっていいのですが、その琢磨氏という人が、西洋の学が大すきで、こっそり研究しているうちに、死者の遺言というようなものを、尊重するようになったので、こだわってしまったのでございますね。だがやり口がひどいというので、時々夜など遺言状の前で、生きてる女房に話しかけるように、大きな声で口説いたそうです。つまり非難をしたという訳で。……ところが遺言の中身ですが、よめばお解りになる通り、琢磨氏は葉末さんと結婚は出来ない。結婚すれば財産は、官へ没収されてしまう。葉末さんが二十歳になる前に、葉末さんも琢磨氏も死ぬことは出来ない。一人死んでも二人死んでも、財産は情人の花垣志津馬に、みんな取られることになる。で二人ながら注意して死なないようにしなければならない。葉末さんが二十歳になる前に、琢磨氏は誰とも結婚出来ない。もし琢磨氏が結婚すれば、財産は葉末さんと花垣とで、折半をして取ってしまう。ところで一方葉末さんとしては、満二十歳になった瞬間、ぜひ誰かと結婚しなければならない。もしその時結婚すれば、財産は葉末さんと琢磨氏とで、折半をして取ることが出来る。……しかるに一方花垣としては、葉末さんが二十歳になる前に、葉末さんを殺すか琢磨氏を殺すか、ないしは二人を一緒に殺すか、とにかくなきものにしなければならない。そうしてそれに成功すれば、財産はすっかり手にはいる。が、もしそれが出来なければ、何者か美人を差し向けて、三蔵琢磨氏を誘惑し、ぜひとも結婚させなければならない。そうしてそれに成功すれば、全財産の半分だけを、自分の手中に入れることが出来る。そこで花垣志津馬ですが、一方島子という自分の情婦を、琢磨氏の家へ入り込ませ、琢磨氏を誘惑させたそうです。大変もない美人だったので、琢磨氏も随分そそのかされ、あぶない時などもあったそうですが、とうとう誘惑に勝ったそうです。負けた島子はくやしがって、舌を噛んで死んだということですが、いってみれば天罰覿面でしょう。さらに一方花垣志津馬は、無頼の浪人を手下とし、葉末さん誘拐を企てたり、琢磨氏殺害を巧んだり、いろいろ奸策をしたそうです。そうして養女の葉末さんが、満二十歳になる晩には、衆を率いて自分から、琢磨氏の屋敷へ切り込んだそうで。で、そいつを退治たのが、私だったのでございますよ。もっとも私以外にも、弁吉、右門次、左近などという、三人の忠義の家来があって、花垣部下の浪人を、三人がところ叩っ切り、災いを根絶しましたがね。……その三人で思い出しました。今考えてもおかしな話で、私はそれら三人へ、ピシピシ平打ちをくれたもので。ごろつきだと思いましたので。つまり葉末さんをかどわかそうとした、ならずものだと思いましたので。いやまた事実そうでもあったのです。というのは外でもありません、そんなような狂言をすることによって、手のきく武士を味方につけ、花垣一派の切り込みに、備えようとしたのでございますよ。……そうして娘の葉末さんさえ、もし承知をするようなら、私と夫婦にさせようと、事実琢磨氏は考えていたそうで。ところがどうもこの拙者、葉末さんの御意にかなわなかったと見え、真似事の結婚をしたばかりで――さようさようその晩に、私とそうして葉末さんとは、結婚をしたのでございますよ、さようさよう真似事のな。それをしないと大財産が、琢磨氏と葉末さんに行きませんので。……話といえばまずザッと、こんな次第でございます。――さあその後あのお二人、琢磨氏と葉末さんとは、どんなくらしをしているやら、参ったこともありませんので、とんと一向存じませんが、琢磨氏は学者で人格者、恐らく独身で書斎に籠もり、その西洋の学問なるものを、勉強していることでございましょう。ええとそうして葉末さんは、事実琢磨氏を愛していたので、西洋の言葉でいいますと――これは琢磨氏に聞いたのですが、何んとかいったっけ、プラトニック・ラヴか――心ばかりの恋をささげ、肉体は依然として処女のままで、奉仕していることでございましょう。……いや、何んにしてもあの晩は、私にとって面白かった晩で、剣侠になったのでございますからな。アッハッハッ、思い出になります」
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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