二
「みんなお前が悪いのだ。俺は怨む、お前を怨む。またある意味では憐れんでもいる。……嫉妬! そうだ、その嫉妬が、一切お前を眩ませたのだ。そのくせどうだ、お前自身は? 好色そのもののような生活だったではないか! 俺は随分我慢した。最後まで我慢したといってもいい。そうしていまだに我慢している。……永い間の受難だった。いや、いまだに受難なのだ。俺ばかりではない。娘もだ! それをさえお前は餌にした。嫉妬の餌に! お前の嫉妬! ……だが俺は守って来た、お前の意志を守って来た! もちろん素晴らしい財産の、継承のためには相違ないが、それより一層俺としては、娘の幸福を願ったからだ。というとお前はいうかもしれない、『その娘が!』『その娘が!』と! ……が、俺はハッキリという、娘は要するに娘だと! それ以外には意味はない! それへ疑がいをかけるとは! それでも母か! それでも妻か! ……もちろん、彼女はよい娘だ。愛すべき娘には相違ない。で俺は愛したのだ。だがその愛は純なものだ。お前が『あいつ』を愛したそれと、どうして比較出来るものか! 『あいつ』は実に悪人だ。『あいつ』はその後手を変え、品を変え、我々二人を迫害した。そうして今でも迫害している。で、安穏はなかったのだ! しかしとうとう漕ぎ付けた。今日という日まで漕ぎ付けた。今夜さえ過ごせばもうよかろう。勝利はこっちのものになる。そうしたら俺達は自由になる。お前の意志から解放される。明るい日の目も見られるだろう。……それにしても俺は忘れない。俺達を縛った四ヵ条を! あれは普通の人間には考えも及ばぬ残酷なものだ。巧妙なものといってもいい。……破壊せばいくらでも破壊される! 手間暇もいらず簡単に、しかも何らの非難も受けず――ところが俺には出来なかった。そういうことの出来ないように、いつか『慣らされ』てしまったからだ。それをお前は知っていた。そこでそいつへ付け込んだのだ。そうしてああいう条件を、俺の眼前へ出したのだ。……そこで、俺はハッキリという、お前は俺が良心のために、――俺の持っている良心のために――もがき苦しむのを見ようとして、ああいう条件を出したのだと! そうしてそれは成功した。で俺は苦しんだよ」 突然ここで武士の声は、悲しそうな呻くような調子となった。 「良心のない者は幸福だ。それは何物にもとらえられないから」 ここで一層武士の声は、悲しそうな調子を帯びて来た。 「ところが俺は持っていた。だから締め木にかけられたのだ! お前だお前だ、掛けたものは!」 武士の姿は解らない。部屋に燈火がないからである。 闇黒の中で誰にともなく、呼びかけ話しかけているのである。 独立をした建物である。 建物の周囲は庭園である。 樹木がすくすくと繁っている。 だが月光がさしている。 その月光に照らされて、その建物がぼんやりと見える。一所瓦屋根が水のように光り、一所白壁が水のように光り、その外は木蔭にぼかされている。 その中でしゃべっているのである。 広大な母屋が一方にある。そこから廻廊が渡されてある。 と、その廻廊の一所へ、ポッツリと人影が現われた。 若い娘の姿である。 建物に向かって声をかけた。 「お父様、お父様!」 肩の辺に月光がさしている。で、そこだけが生白く見える。 「お父様、お父様!」 ――すると、建物の戸口から、ポッツリと人影が現われた。 戸口と廻廊とは続いている。 現われたのは武士であった。 しゃべっていた武士に相違ない。 ちょうど廻廊の真ん中どころで、二つの人影はいきあった。そこへは月光がさしていない。で、姿はわからない。 ただ、声ばかりが聞こえて来る。 「いよいよ今晩でございます。今晩限りでございます」 こういったのは娘らしい。 「ああそうだよ、今晩だよ。そうして今晩限りだよ」 こういったのは武士らしい。 と、しばらく無言であった。
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