* 堀保子宛・明治四十一年二月十三日 保釈はまだ何とも言って来ない。もし許されたらすぐ電報で知らせる。 兄キの子供が死にそうだとか言っていたが、その後どうしたか。いやだなぞと言わずに、たまには行って見るがいい。そして毎度毎度ではなはだ済まないような気もするが、少しは何とかして貰うさ。 面会をああ長く待たせられて、そして、ああ短かくすまされては、何とも仕方がないね。これからは月に二、三度も来れば大がい用も足りるだろう。そしてそのかわりにもう少し手紙をくれないか。かまわないから大いに森近夫人式にやるさ。 この前の面会の時にまたひっこすとか何とか言っていたが、それはいろいろ嫌やなことも不自由なこともあろうけれど、なるべくならあまり面倒なことをしないで、今のところで辛棒していたらどうだろう。わずか二た月ばかりのことじゃないか。 南はどうしている。出たことは出たが、やはり困っていやしないか。そのほかの連中はみなどうした。 僕は、こんど出たら少し小説の翻訳をやって見ようと思っている。短かいのでやりやすいようなのが、二つ三つ今手もとにある。小説が一番金になりやすくてよかろう。 兵馬にツルゲーネフとゴーリキーの小説を送るように言ってやってくれ。翁からの手紙によればもう肺結核が二期にまで進んでいるんだそうだね。 福田、大須賀の二女史から見舞いが来た。会ったらよろしく言って置いてくれ。 この手紙はたぶん裁判所へ廻らないで、すぐ行くかと思う。さよなら。 * 堀保子宛・明治四十一年二月十七日 昨日は何だか雪でも降りそうな、曇った、寒い、いやな日だった。こんな日には、さすがにいろいろなことを思い出される。夜もおちおちと眠れなかった。窓のそとには、十二、三日頃の寒月が、淋しそうに、澄みきった空に冴えていた。 僕の今いるところは八監の十九室。一昨年はこの隣りの十八室で、長い長い三カ月を暮したのであった。出て間もなく足下と結婚した。しかるにその年のうちに、例の「新兵諸君に与う」でまた裁判事件が起る。そして、年があけてようやく春になったかと思うと、またまた「青年に訴う」が起訴される。その間に、雑誌はますます売れなくなる。計画したことはみな行き違う。ついに初めての家の市ヶ谷を落ちて柏木の郊外に引っこむ。思えば、甘いなかにもずいぶん辛い、そして苦い新婚の夢であった。 その夢もわずか九カ月ばかりで破れてしまう。僕は巣鴨に囚われる。そしてしばらくするうちに、余罪で、思いの外に刑期が延びる。雑誌は人手に渡してしまう。足下は病む。かくして悲しかった六カ月は過ぎた。 出獄する。自分も疲れたからだを休め、足下にも少しは楽な生活をさせようと思って、かれこれしているうちに、またこんどのような事件が起って、再びお互いに「長々し夜」をかこたねばならぬこととなった。これがわずか一年半ばかりの間の変化だ。足下と僕との二人の生活の第一ページだ。そしてこの歴史は、二ページ三ページと進むに従って、ますますその悲惨の度を増して行くことと思う。僕は風にも堪えぬ弱いからだの足下が、はたしてこの激しい戦いに忍び得るや否やを疑う。しかし僕は、この際あえてやさしい言葉をもって、言い換えれば偽りの言葉をもって、足下を慰めるようなことはしたくない。むしろ断然宣言したい。あのパベルのお母さんを学んでくれ。 僕はこの数日間、ゴーリキーの『同志』をほとんど手から離す間もなく読んだ。足下も『新声』でその梗概を見たと思う。パベルのお母さんが、その子の入獄とともに、その老い行く身を革命運動の中に投じて、あるいは秘密文書の配付に、あるいは同志の破獄の助力に、粉骨砕身して奔走するあたり、僕は幾度か巻を掩うて感涙にむせんだ。『新声』のは短かくてよく分らんかも知れんが、もう一度読み返して御覧。そして彼が老いたるマザーにして、自らが若きワイフなることを考えて御覧。 次の書物を送ってくれ。La Conqute du Pain.――De la Commune a l'Anarchie.――Le Socialisme en Danger. 三冊とも赤い表紙の本だ。それから若宮に「ノヴィコー」の本を借りて来てくれ。ノヴィコーと言えばわかる。さよなら。 * 堀保子宛・明治四十一年三月二十二日 少しも手紙が来ないから、どうしたのかと思って心配していたが、はたしてまた病気だそうだね。一体どこが悪いのか。雪の日に市ヶ谷へ行ったからだというが二、三人の仲間の出獄を迎いに重い風邪にでもかかったのか。それともまた、他の病気でも出たのか。少しも様子が分らないものだから、いろいろと気にかかる。そしてその後はどうなのか。もし相変らず悪いのなら、六日にはわざわざ迎いにまで来なくともいいから、それよりは大事にして養生していてくれ。 僕も十日ばかり前に湯の中で脳貧血を起して、その後とかくに気分が勝れない。たぶん栄養と運動との不足なところへ、あまり読み過ぎたり書き過ぎたりしたせいだろうと思う。書物を読み出すとすぐに眼が眩んで来る。頭が痛くなる。しばらく何にもしないでぼんやりしている。するとこんどは退屈で堪らなくなる。やむを得ずまた書物を手に取る。毎日こんなことを幾度も幾度も繰返して暮している。しかし別に大したほどではないのだから、出てから少しの間静かに休養すればよかろうと思う。しもやけも、一時は大ぶひどかったが、暖かくなるに従ってだんだん治って来た。 その後セーニョボーの話はどうなったか。古那はどこの本屋へ相談したのだろう。もしその話がうまく行ったら、当分どこかの田舎に引っこみたいね。温泉でもよし、また海岸でもいい。『平民科学』の原稿はただ写し直しさえすればいいようになっている。 志津野の子が生れたそうだね。まつのさんはどうか。この手紙は私事ばかりだから人に見せるに及ばぬ。もうあとが三日、四日には会える。さよなら。
巣鴨にて、一二〇〇生
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市ヶ谷から(三)
* 堀保子宛・明治四十一年七月二十五日 ……もその肩を聳やかして、それはそれは意気けん昂なものだ。礼さんも病監にはいっているのだそうだね。 十七日に電車の判決があったのだから、すぐ赤い着物を着ることと思って、毎日のように待っていたけれど、まだ何とも音沙汰がない。堺も山川も同じことだ。あるいは予審の決定を待っているのじゃないかと思う。察するに、今夜あたり決定書が来て、そして明日早朝、赤い着物になるのかも知れぬ。 保釈の金は戻ったことと思う。その処分については、なお会ってよく話そう。お為さんも困っているだろう。あすこからの借金だけは、ともかくも返して置くがいい。お為さんがうちのあとへ来て、そして足下が二階へ行ったのだそうだね。 守田は『二六』をやめられたそうじゃないか。大恐慌だろう。細君はどうだ。秋水も土佐を出たとか、東京へ着いたとかいう話だが、どうしたか。いつか常太郎君から差入れがあったが、帰って来ているのか。宮永はどうしている。南の魚屋はどうした。諸君によろしく。 大森へ旗の縫賃を払ってくれ。いくらとも決めてはなかったのだが、いいように払って置いてくれ。何だか裁判所へ証人として呼び出されたような様子だが、もしそうだったらわびをして置いてくれ。 エスペラントの夏季講習会はどうしたろう。 電車の刑を執行されても、巣鴨へ行くようなことはない。みんな済ましてから行くのだろう。
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