* 大杉伸宛・明治四十二年十一月二十四日 父の死! 事のあまりに突然なので、僕は悲しみの感よりはむしろ驚きの感に先きだたれた。したがって、涙にくるると言うよりはむしろ、ただ茫然自失という体であった。すると、この知らせのあった翌日、君が面会に来た。そして家のあと始末を万事任せるとの委任状をくれと言う。僕は承知した。 しかしあれは取消す。そして次のように考えを変えた。まず保子にある条件を委任して、三保に行って貰い、調べることは調べ、処理すべきことはみんなと相談して処理すること。またその後の話によれば訴訟事件父と父の関係していたある会社とのもあるとのことだから、別に僕の知人の弁護士にもある条件を委託して保子と一緒に三保へ行って貰うこと。なおその外には種々なる法律上の問題もあろう。それらについては万事この弁護士を顧問とするがいい。この人は従来しばしば僕等が世話になった人で、こんども多忙のところを、友誼上いろいろと引受けてくれることとなったのだ。そのつもりで相応の尊敬を払って相談するがいい。 保子はともかく僕の妻だ。僕の意見は大体話してもあり、また手紙で書き送ってもある。したがってその言うことは大体僕の言葉と承知して貰いたい。君はまだ親しくもない間柄ではあるが、僕よりは年上のことでもあり、世路の種々の艱難も経て来てい、ある点ではかえって僕よりも確かなところがある。保子とはいろいろよく打ちあけて話し合うがいい。 要するに、家の整理はこの二人を僕と見て、そして、猪伯父(たぶん今三保にいるのだろうと思う、もしいなければ除く)母その二、三年前に来た継母および君の五人で相談してきめることにしたい。 僕は元来まったく家を棄てたものだ。かつて最初の入獄の時、東京監獄からそのことを父に書き送ったことがある。父は君にもそれを見せたと思う。しかし僕が家を棄てたのは、それで長男たる責任をまったく抛ったのではない。父の生きている間は父に相応の収入もあり、またその他のすべての点においても、僕が居なくとも事がすむと思ったからだ。用のない家庭の累からまったく僕の身を解放して、そして他に大いに有用な義務を尽そうと思ったからだ。されば家を出てからは、ほとんどまったく弟妹をも顧みず、また父にも僕の廃嫡を願って置いた。僕はこれに対して父や弟妹等がどんなに悲しく情けなく思っていたか、それはよく知っている。しかし時には自ら泣きながらもなおあえてこの行為を続けていた。 しかし父が死んで見れば、僕はそうしてはいられない。僕の責任を尽さねばならぬ。今は僕がやらなければやる人がない。もとより僕の思想は棄てることはできぬ。僕は依然としてやはり社会主義者だ。むしろ獄中の生活は僕の思想をますます激しくする傾きがある。ただもとの僕はほとんど一人身のからだであったが、今からの僕は大勢の兄弟を後ろに控えたからだだ。したがってその間に僕の行動に多少の差がなければならぬ。僕は勿論この覚悟をしている。この点はよく察して貰いたい。 僕はまだ母とは親子として対面したことがない。また手紙での交通もしたことがない。そしてお互いの間にはいろいろ誤解がわだかまっているようだ。しかし僕は、母は母として尊敬する。ことに父の死後はなおさらに謹みを深くする。君もこんどは保子が中にはいることでもあり、十分お互いの融和を謀るがいい。 それから、君が今勉めなければならぬ最大の責務は、幼弟幼妹等に対して十分の慰めと励みとを与えることだ。父は死ぬ。頼みとする僕は牢屋にいる。みんなはほとんど絶望の淵にいるに違いない。君以下の弟妹等の今後の方針については保子に詳しく書き送ってある。なお、君の希望も十分保子に話してくれ。 この手紙は伯父が三保にいるなら見せてくれ。また、母にも、もし君に差支えがないなら、見せてくれ。 * 堀保子宛・明治四十二年十一月二十四日 一昨々日大体の話はしたが、時間の都合やまた口の不自由なところから、十分の話もできず、言い落したこともありまた言い切れないこともあった。この手紙で再び詳しき僕の意見を言おう。 まず第一の問題は母だ。弟は出すと言っている。また弟の言によれば母自身も出る意があるとのことだ。母から足下に送った手紙には、あくまで止って家のために尽すとあるそうだ。僕の思うには、出すというのは勿論酷だ。しかし、出る意があるなら勿論出て貰いたい。また、あくまで止るという母の言も文字そのままに受取ることはできぬ。母としては面目上必ずそう言わねばならぬ位置にある。そこで足下は女同士でもあり、互いに話もしいいと思う、よく母と打ちあけて談合して見るがいい。したがって、案は、母が出るものとしてのそれと、止るものとしてのそれと二つになる。 次に起るのは財産の問題だ。財産と言ってまず目星しきものは昨日話した通りだ。 もし母が出るとすれば、あの中の保険金は母の持参金としてもどさねばならぬ。その上、母の将来の生活の幾分かの保証として、多少これに附加するところなければならぬ。それは年金の中三百円乃至五百円ぐらいでよかろうと思う。そのかわり、今母の名義になっている地所は置いて行って貰いたい。家と土地と持主が違ってはいろいろ不便でもあり、また母の持参金を返すとすれば、自然その地所を母の名とする理由も消えるわけだ。されば母の方から言えば、その地所をこの手切れとも言うべき三百円乃至五百円で売るということになるだろう。 僕はその土地の広さは知らぬが、高の知れたものと思う。しかし、もし今訴訟になっている金が取れるようなら、五百円ぐらいは出して当然かと思う。年金の外、この十二月には父の恩給の半年分が下ると思う。他は足下が行ってよく調べて貰いたい。 その次は子供の問題だ。母が出るとしても、体裁上今すぐというわけにも行くまい。僕は子供の都合上、来年三月の下旬あるいは四月上旬をもってその期としたい。その時はちょうど学年の終りあるいは始めの時だ。そして、子供はみな東京に集めて、足下にその世話を頼みたい。またもし母が止るとしても、三保の家は引上げて、東京で僕の家の近所に住んで貰いたい。したがってあの家および土地は売払わねばならぬ。 その後は子供の教育だが、僕はできるならすべてのものに高等教育を施したい。伸も今のままで置くことはできぬ。どこかその希望する専門学校に遣るか、あるいは今切に望んでいる米国行きを実行さすか、いずれかにしたい。勇も今の学校を終ってすぐ社会に出すことはできぬ。さらに高等教育を施したい。松枝はともかくも女学校を終らせて嫁にやらねばならぬ。僕はこの三人の費用のために鉄工場の金および家と土地を売払った金の全部をもって当てたい。 進も今のような時代遅れのことはさせて置きたくない。それと他の幼妹二人の当分の教育のためには扶助料をもって当てたい。もし工場の金が取れるようなら、倹約すればこれでやれぬことはなかろうと思う。 しかし大勢のことだ、案外に金の掛ることもあるだろう。もとより不足は僕が負担せねばならぬ。もしやむを得なければ、僕は当分社会運動の表面から退いてもなさねばならぬことはする。足下は元来社会主義者というわけではない。ただ義兄および夫に附随してその運動に加わっていたと言うに過ぎぬ。もし子供の世話をするとなれば、運動のごときいろいろな累を及ぼすことは避けて貰いたい。 以上は僕が家の処分をするとしての大体の考えだが、さらにここに考えねばならぬことがある。それは僕の身の上だ。元来僕は自ら家を去ったものだ。そして父からはまったく勘当同様の待遇を受けていたものだ。したがって親戚全体からもはなはだ不信用だ。されば今、こんな問題に対しては遠慮に遠慮を重ねて行動するのが至当であろうと思う。 まず前述のごとくにして得べき金、これを僕の手に渡すのは誰もみな不賛成だろう。僕自身もまたはなはだ危険に感ずる。僕はもとより家の金を一厘たりとも僕自身の用のために費いたくない。それで金はすべて山田家に保管を頼みたい。 また、母が止ることとなれば、母はすべての私有権を放棄して、そして同じくこれを山田家に保管させたい。母が家のために尽すと言いながらなおその財産の幾部分かの私有権を主張するのはすこぶる可笑しなことになる。しかし、それでは母として将来の身を不安心に思うかも知れぬ。もししからば、その最初の持参金だけは、将来不幸にして離縁というようなことになれば返す、との証文を渡して置いてもよかろう。もっとも、これには他の条件も附せねばならぬが。 また、子供の教育をも僕等に委せられぬとの議論もあるかも知れぬ。この任は、他に相応の人があるならお譲りしてもいい。 さらに進んで大杉家を僕に継がすこともできぬと言う人もあるかも知れぬ。さればこれも、誰にでもお譲りする。ただ一条件がある。それは前述のごとき家の整理、子供の教育方針などの判然きまった後でなければならぬことだ。この安心のできぬ間は、僕は決して動かない。 まずこれで大体の話はすんだようだ。足下はこの手紙を持って山田へ行ってこの相談をして貰いたい。山田はその意見を猪伯父あるいは伸の許に書き送って貰いたい。同時に足下は静岡へ行って、一方伯父および伸と謀るとともに、一方母との交渉をして貰いたい。 かくしておよその話のきまった上で、伯父、母、伸、足下等が集って、判然たる処置をきめて貰いたい。山田は先妻の親戚としてこの相談に直接に与かることを憚るだろうが、右言うようなことなら勿論承知するだろう。また、山田からは別に紀州へも報告を送って大山田の意見をも猪伯父あるいは伸に送って貰えばさらにいい。足下はまた、春および菊の許に詳細の報告をして貰いたい。横浜にいる松枝にも会っていろいろ話して見るがいい。 別紙弟への手紙も山田に見せてくれ。この手紙は伯父および伸には見せていい。また、必要があるなら母にも見せていい。渡辺弁護士には両方とも見せてくれ。 万一これで話がまとまらぬなら致し方がない。ともかくも新戸主としてのすべての僕の権利を遂行して、一方財産の離散を防いで置いて、さらに僕の命をまって貰いたい。 来月の僕の手紙は足下から何とか報知のあるまで延して置く。きのうようやく印鑑が来たという話があった。今、印鑑届および委任状を書くことのお願いをする筈だ。さればたぶん本月中には足下の許に着くだろう。母にも別に手紙を出すといいのだけれど、いろいろ誤解のある間でもあり面倒だから止す。足下からよろしく言ってくれ。 * 堀保子宛・明治四十二年十一月二十四日 先日話した外、なお階行社(軍人団体の会)および、助愛社(愛知県出身軍人の会)から多少の金の来るように聞いていた。もっとも、これは戦時の話で、戦時に限るのかも知れぬが。前者は山田に尋ねたらわかる。後者は三保の家にその規則を書いた小冊子がある。 父が死ねば自然僕が戸主となって、役場へはその書換えの届けをする筈だと思うが、また父の葬式や何かにもすでにその必要があったのだと思うが、どうなっているのだろう。もしそとでできるのならやって置いてくれ。また、僕の寄留地などもこの際きめて置いたら都合がよかろう。 * 堀保子宛・明治四十二年十二月二十三日 まだ三保にいるのかと思うが、ともかくも大久保に宛ててこの手紙を出す。表に至急としてあるから、いずれにしても至急足下の手にとどくだろう。 弁護士からの手紙着いた。いろいろ面倒であったそうだが、母が出てくれることになったのは何よりもありがたい。ついては、さっそくとらねばならぬ処置に関して僕の意見を言おう。 前に、もし母が出るとなれば来年の三、四月の頃をもってその期としたいと書き送ったが、こんどの母の態度を見ては、この上なお一日といえども子供を委して置くことはできない。すぐさま足下がかわって家政をとり、子供等をみんな引連れて、もしできるならこの暮れ中に東京に引上げたらどうか。 伸は当分今の地位で辛棒せねばなるまい。将来についてはどんな希望をもっているのか知らぬが、この休み中は東京で一緒に暮すこととして、その間に若宮などに会わせて、よく相談さすがいい。もっとも、やがて徴兵適齢にもなるのだから、愚図愚図してもいられまい。その希望等については詳しく知らしてくれ。 松枝は横浜のどんな学校にいるのか知らぬが、東京の相応の学校に転校したらよかろう。伸の話では、教会で教育してくれると言っていたが、これもよしあしであるが、もしそんな運びになるなら当分それでもよかろう。いずれにしてもこの休み中は東京で一緒に暮して、みなとよく相談するがいい。僕は久しく会わぬが、もう十七、八のいい娘盛りだと思う。したがって自分でも何等かの考えもあり望みもあるだろう。それらも詳しく知らしてくれ。 勇は下宿から家に越して来て、家から今の学校に通ったらよかろう。僕はその学校の性質をよく知らぬから、こんどその規則書を手紙の中に入れて送ってくれ。また、勇の今後の希望なども知らしてくれ。これはちょっと思い浮んだ考えではあるが、来年学校を卒業したら、伸とともにアメリカへ行ったらどうかと思う。若宮などと相談してみよ。 進はどんな条件でどんな状態で今のところにいるか知らぬが、この際家に引取るがいいと思う。他の幼い二人については、伸が何とか言うていたが、これも山田とかその他の肉親のもので世話するというならともかく、やはり家で育て上げようじゃないか。 しかし、いずれにしてもまず金がいる。弁護士からの手紙で見れば、借金の外には目下何等の金もないようだ。ただ望月からは半額に減じてすぐ取れるように書いてある。しからばまずこれでいろいろ処分をせねばなるまい。葬式の費用というのは幾らか知らぬが、これと他の四百円という借金を払い済して、なお東京へ引上げる費用が残ってくれればいいが、もし不足するようなら、紀州の山田から借りるがいい。また、今後の生活費も来年の六月にならねばはいって来ないわけだが、その間はいるだけを同じく山田から借りねばなるまい。これは四谷の山田を通じてよく相談するがよかろう。 家屋はできるだけの手を尽して、なるべく早く売払うことにしたいが、なかなかそう思うようにも行くまい。やむを得なければ、その間は貸別荘というようなことにしてもよかろう。引上後の留守居については、いいようにしてくれ。 しかし、何と言ってもこの金ができなければ、伸、勇等の今後の進退ができない。またこれができれば別に山田から借金をしなくてもいいわけになる。なるべく早く売るように。 また、父の軍服、刀剣、馬具等は、マントのごとき子供等に利用し得るものの外は、悉皆売払ったらよかろう。これはちょっとした金になると思う。売りかたについては山田に相談するがいい。その他のガラクタ物は、みな売るなり人にやるなり、また棄てるなりして、なるべく例の簡易生活法をとるがいい。 東京の家は今のあたりでもよし、また都合によっては市中にはいってもよかろう。足下は弱い体でもあり、他に仕事もあり、また勉強もせねばならぬ身であれば、是非女中の一人は置かねばなるまい。よし松枝が来て手伝うとしても、いろいろ面倒なことの生ずるのを避けるため、少しぐらいの費えはあってもその方がよかろう。 父は着物などには一向無頓着な人であり、また母はあんな人でもあれば、ずいぶんみんな不自由勝ちにいることと思う。大きな男の子には父のものがそのまま役に立つのもあろう。また、できるなら小さい子供等にも、この正月にさっぱりしたなりをさせてくれ。そして正月には餅でもウンと食わして、急に孤児になったというようなさびしい感じを起させないように、陽気に面白く遊ばしてくれ。 なお、みんなは幼い時から母に別れて、いろいろな人の手に渡って育てられているのだから、ずいぶんいじけたり固くなったりして、本当に子供らしい無邪気な可愛気のない子もあるかも知れぬ。これらは、足下の暖かい情ですべて溶けてしまうように骨折ってくれ。 足下の前の手紙に、一人で呑気にというような具合には行かぬものだろうかとあったが、本当に思わぬことからついにそういうこととなってしまった。足下はどうしても苦労をして一生を過ごさねばならぬ運命の人らしい。しかし人生には苦もあれば楽もある。またその苦の中にも楽がある。いかなる境遇にあっても、常にこの楽を現実としてまた理想として暮して行かねばならぬ。幸い僕等には子がない。また今後もあるまい。さればこの幼弟幼妹等を真の子として楽しんで育て上げて行こうじゃないか。足下には急に大勢の子持になってずいぶんと骨も折れようが、何分よろしく頼む。 本月は面会にも来れまいが、来月は松枝でも連れていろいろの報告をもたらして来てくれ。その時、左の本持参を乞う。 仏文。経済学序論。宗教と哲学。 英文。イリー著、経済学概論。モルガン著、古代史。個人の進歩と社会の進歩。ロシア史。
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