* 堀保子宛・明治四十二年二月十六日 かなりの恐怖をもって待ち構えていた冬も、案外に難なくまずまず通過した。もっともこの間には、一月十日過ぎの三、四日の雪の間のごとき、終日終夜慄え通しに慄えていたようなこともあったが、やがて綿入れを一枚増して貰ったのと、天候の恢復したのとで、ようやく人心地に帰って、ついにかぜ一つ引かずにともかくも今日まで漕ぎつけて来た。 監獄で冬を送るのもこれで二度目だが、ここは市ヶ谷や巣鴨から見るとよほど暖かいようだ。それに、僕等の監房はちょうど真南向きに窓がついているので、日さえ照れば正午前二、三時間余りの間は、背を円くして日向ぼっこの快をとることができる。このために向う側の監房に較べて四、五度温度が高いのだそうだ。されば寒いと言っても大がい四十度内外のところを昇降しているぐらいのもので、零度以下に降ったのはただの一度、例の慄え通しに慄えていた時のみだと思う。 しかしこの温度も、いつかの手紙にあったように「ああ、炬燵の火も消えた、これで筆を擱こう」などという、ぜい沢な目から見るのと少しわけが違う。足下等の国では火というもので寒さを凌ぐのかは知らんが、ここでは反対に水で暖をとっている。まず朝夕の二度、汲み置きの冷たい奴で、からだがポカポカするまでふく。そして三十分間柔軟体操をやる。その気持のよさは、とうてい足下輩の想像し得るところでない。折々鉄管が凍って一日水の出ないことがある。そんな時には、したがってこの冷水摩擦ができねば、手足が冷たくて朝起きても容易に仕事にとりかかれず、また夜床にはいっても容易に眠られない。 しかし寒いのももうここ十日か二十日の間だ。やがて「噫、窓外は春なり」の時が来る。 先月の中旬に体重を量った。例のごとく大ぶ減っている。去年の五月の入監の時には十四貫五百五十目あったのが、九月にここへ移って来て十三貫六百目に下り、さらにこんどは十二貫七百目に落ちた。もっともこの最後のには、二日の減食で二百目、四日の減食で六百目というような念入りの減り方もあったけれど、それは一カ月ばかり後にまったく恢復していた筈だ。 しかしこの降り坂も、もう大がいはここらでお止りのことと思う。 先日面会の時に言ったドイツ語の本は、あれで分ったか。一つは Ein Blick in die Zukunft というので、もう一つは Boetius, Die Trftungen der Philosophie というのだ。 この次にはケナンの著シビリーン三冊(シベリア紀行)と、ルシツシェ・ゲフェングニツセと、およびツェルトレーベン・イン・シビリーンとの三冊を合本にて送ってくれ。もしこれがなかったら、ハイネの作を全部。それから『吝嗇爺』の叢書の中にドイツ文学の仏訳のものがある。その中のゲーテとシルレルとの二人の作を全部取寄せるように、青年会館の前の三才社に注文してくれ。全部と言っても六、七冊くらいのものだと思う。 ビュルタンの中に何かイタリア語の本が見つかったか。もし無ければ、僕の本棚の中に黄色の表紙の『ル・ムーブマン・ソシアリスト』という雑誌が十数冊ある。それにも新刊紹介があった筈だ。若宮からは貸してくれるか。 仏文の Corneille 全集一冊(鼡色の表紙)Molire 全集三冊(合本して)および原書仏語辞書を送ってくれ。いずれも本箱の下の棚にあったと思う。 ドイツ文学史、英文学史(この二冊は日本文でも欧文でもよし)および支那文学史を、守田と安成に話して借りてくれ。 毎度言うが、エス文のものを何か送ってくれ。もし千布のところへ行くのがいやなら、家にある Kondukanto de l'interparolado Kaj Korespondado(エス語会話)La Fundo de L'mizero(悲惨の谷)Vojago interne de mia cambro(室内旅行)等を送ってくれ。先日話したエスペランタユ・プロザゾエというのは分ったか。もしそれが見つからねば、ハムレットを入れてくれ。ノチア・レブオはその後送って来るか。もし来ているなら、もう大ぶたまったと思う。それに日本エスペラントは相変らず出ているか。この二つを合本して入れてくれ。 家の解散、雑誌の発刊、および小田原行きの三件はどう極まりがついたか。いずれも互いに関係のあることではあり、それに事情のよく分らぬ僕には何とも決答しかねる。せっかく都合よく行っているように見える今の家を解散するのも惜しいことだが、もしそうなるなら谷等にこれまでの厚意をよろしく謝してくれ。雑誌を出すか、小田原へ行くか、これは幸徳、安田、および兄などと相談していいように決めるがいい。 静岡からその後何とも言って来ないか。こちらからは、もう一度手紙を出して見たいと思う。前に言った三分の二でも二分の一でもいい、くれとは言わぬ貸して[#「貸して」は底本では「借して」]くれ、と言ってやって見ないか。もっとも、とても駄目だと思うなら、またいやなら止してもいい。少し金がないと本を買うに不便で困る。この困っている実情を述べて、「本当に子と思うなら」と、もう一度泣きついて見てくれ。 金と言えば足下の経済事情はどうなっているのか。いつもいつも自分の勝手ばかり言ってはなはだ済まない。諸君によろしく。さよなら。 トルストイ、イブセン、および『太平記』、今日着いた。 * 堀保子宛・明治四十二年四月二十六日 いい陽気になった。運動に出て二、三十分間ポカポカと照る春の日に全身を浴せていると、やがて身も魂もトロトロに蕩けてしまいそうな気持になる。 一、二週間前のことだった。この運動を終えて室に帰って見ると、どこからとも知れず吹く風にさそわれて桜の花瓣がただ一片舞いこんで来ている。赤煉瓦の高い塀を越えて遙か向うにわずかに霞の中にその梢を見せている松の一とむらと、空飛ぶ鳥のほかに、何等生の面影を見ない囚われ人にとっては、それが何だか慰めのようなまたからかいのような一種妙な混り気の感じとなった。「ああ窓外は春なり」のあの絵、あれを見て僕等のこの頃の生活を察してくれ。 しかし暖かくなって肉体の上の苦しみのなくなったのは何よりだ。そのせいか、体重も大ぶ増えた。一月から見るとちょうど四百目ほど増して十三貫八十目になった。十五日から着物も昼の仕事着だけ袷になった。 三月の手紙に『婦人文芸』として雑誌を出すとあったから、これはよほど編集を骨折らないとむずかしいわいとひそかに心配していたが、やはり前の通りの題で出たのでまず安心した。僕は前に僕が話したようにするか、あるいは旧のままかと二様の考えを持っていたのだ。雑誌は不許になったので見ることはできぬが、編集は守田のお骨折のことなれば、不味かろう筈はあるまい。少なくとも以前に僕が、いやいやながらに怠け怠けてやっていたような蕪雑な粗漏のないことを信じて安心している。 広告はよくあれだけ取れたね。大いに感心している。自分の方の広告はいっさいしないのだから、初めから売捌けのよかろう筈はない。したがってその間は、この方面に全力を尽さなければなるまい。 なが年のお手並みだ。これだけでも経済の立って行かぬことはあるまい。ともかく、以前のように月に一、二度ちょっと歩き廻るぐらいのやり方をよして、一生懸命に走り廻るがいい。 売捌きの景気はどうだ。先日話した『平民新聞』の読者に端書を出すぐらいのことは是非やるがいい。もっとも、足下と守田との二人の連名で、責任ある購読勧誘状にしてもらいたいと思うが。それと幸い『二六』の人が大勢筆を執っているようだから、何とかして『二六』の読者に売りつける方法を考えないか。たとえば『読売』と『むらさき』との関係のように見せかけるとかして。このためには少々の金は出してもいいじゃないか。守田と兄とに相談して御覧。 また、先日話のあった家庭講演なども、もしできるなら面白かろうと思う。大いに広告になるに違いない。ペンのためとあるからには、いろいろおかしなこともやって見るがいいさ。 女中のかわりに誰か相応の人をほしいというような話であったが、夏になれば例のごとく動けなくなる情けない体だ。そんな時にちょっとかわりに集金ぐらいに出掛ける人がなくてははなはだ不便なことだろう。そこでちょっと思い出したが、世民の細君はどうしているか。こんどは赤ん坊もあることなり、大いに困っているのじゃないか。もし何だと両方に好都合だと思うが、足下にその気があるなら、それとなく訪ねて行って見ないか。 『早稲田文学』は小説ばかりだからというので不許になった。こんどは『帝国文学』と『新天地』とを入れて見てくれ。もしできるなら一月頃からのが欲しい。 抱月の近代文学研究が出たら買ってくれ。文芸百科全書はいずれ高いものだろうと思うが、何とかして手にいれることはできないか。兄キなどは持っていていい本だと思うがね。三宅博士の宇宙、これも大ぶん高い本だからあえて買うには及ばないが、もし誰か持っていたら借りてくれ。 イタリア文でレスプブリカ(イタリア史)というのが本箱の中にある。たしか同じものが二冊あって、そしてそのいずれもこわれていて、二つ合せて初めて完全なものになるように思った。ちょっとした大きな本だ。差入れを乞う。 何か英語の雑誌で交換に送って来るものがあったら百瀬に差入れてやってくれ。 いつかのエスペランタユ・プロザゾエ(エス語散文集)、ない筈はないのだが、あるいは表紙がとれているかも知れん。もう一度さがして見てくれ。僕への書物の差入れは、ついででもなければ六月の面会の時までは必要ない。 諸君に仲よくするように。よろしく。
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