落下傘
死の神の囁きが、丁坊の耳にきこえてきた。 「いよいよ最期がきた。――」 と思った丁度そのとたんの出来事だった。彼の身体は、急に上へひきあげられたように感じた。 「おや、――」 びっくりして、彼は空を見上げた。 空には、まっすぐに伸びた綱の上に、白い菊の花のような大きな傘がうつくしく開いていた。丁坊ははじめて万事をさとった。 「あれは落下傘だ」 助かった助かった。落下傘のおかげで、危い一命をたすかった。綱のさきには落下傘がついている。 「ああ、よかった。僕はすこしあわて者だったね」 急に気がしっかりしてきた。 空を見上げると、空魔艦はどこへ飛びさったか、あの大きな翼も見えないし、エンジンの音も聞えない。 眼をひるがえして下を見ると、おお氷原はすぐそこに見える。難破船が急に大きくなって眼にうつった。 ここにいたって丁坊は、機長「笑い熊」の考えがさっぱり分らなくなった。大悪人だと今の今まで思っていたが、落下傘をつけて放すようでは、善人である。 「いや、善人といえるかどうか。なにしろ下が東京の銀座とか日比谷公園でもあるのならともかく、氷点下何十度という無人境なんだ。そんなところへ落下傘でおろすような奴は、やっぱり善人ではない」 そうすると、やっぱり「笑い熊」を憎んだ方が正しいのであろうか。丁坊は、そのどっちであるかを一刻もはやくたしかめたいと思った。 氷原はぐんぐん足の下にもりあがってくる。はじめは小蒸気ぐらいに思えた難破船が、だんだん形が大きく見えてきて、今はどうやら千五六百トンもある大きな船に見えてきた。 すると船上に、今まで見えなかった人影が五つ六つ現われているのに気がついた。 「ああ、人だ。あの船に人がいる」 丁坊は嬉しかった。 たとえ善人であろうと悪人であろうと、そんなことはどうでもいい。生きた人間がいさえすればいいのだ。氷原に誰一人として生きた人間がいなければ、このまま落下傘で下りてみたところで、丁坊は餓死するか、さもなければこの辺の名物である白熊に頭からぱくりとやられて、向うのお腹をふとらせるか、どっちかであろう。 しかしもう大丈夫だ。生きた人間が見ている以上は自分をかならず助けてくれるであろう。 丁坊は、はじめていつものような快活な少年にもどっていった。 はたして丁坊の思ったとおり、彼の一命はうまくすくわれるであろうか。
銃声
落下傘はついて、丁坊を氷原の上になげだした。 風があるので、丁坊のまるい身体は、氷上をころころと毬のように転ってゆく。はやく助けてくれなければ、いまに氷の山かなにかにぶつかって死んでしまう。はやく頼む。 そのうちに、うしろの方で思いがけなく大きな銃声がした。 だーん、だんだだーん。 「ああ、僕を撃った。やっぱり彼奴らも大悪人だ。なぜ罪もない僕をうつんだ」 丁坊は、また大きな失望と恐怖とに陥った。しかも間もなく、彼はそれが間違いであったことに気がついた。 なぜなら彼の丸い身体が、急にどしんと軟い白いものに当ったからである。それに落下傘の綱がうまくひっかかったものだから、それ以上、氷原を転がらなくてもいいことになった。その白い軟いものをよくよく見れば、それは大きな白熊だった。 こわい! いや、こわくはない。その白熊は顔面をまっ赤に染めて、氷上にぶったおれていたのだ。血だ、血だ。その赤い血は、傷口からふいて氷上に点々としたたっていた。 「ああ、あぶないところだった」 毛皮を頭からかぶった真先にとんできた人間が、銃の台尻で熊の尻ぺたをひっぱたいて、嬉しそうに叫んだ。その声は、丁坊をたいそうおどろかせた。 なぜって? なぜというに、それは紛れもない懐しい日本語だったからである。 ぱたぱたと続いてかけつけた同じような服装の人が五六人みな銃を手に握っている。この人たちのお蔭で、丁坊に喰いつこうと思って氷上に待っていた白熊が射殺された。するとこの日本人たちは、あきらかに丁坊の危難をすくってくれたことになる。 「おじさん、白熊をうってくれてありがとう」 と丁坊が大声で叫ぶと、かけつけた人たちはふりかえって愕きの眼をみはった。 「な、なんだって、――お前は日本語をしっているのか」 「知らないでどうするものか。見よ東海の天あけて――僕、日本人だもの」 落下傘についていた少年が、愛国行進曲をあざやかに歌って、僕は日本人だあと叫んだのであるから、氷上の人たちはあまりの意外に眼をみはるばかりだった。 「――ああ、たしかに日本人らしい。どうしてまあ、こんな北極にちかいところへ君はやってきたんだ」 と、最初にかけつけた男がいって、丁坊に近づこうとすると、残りの人たちがびっくりしたような顔をしてその身体をひきもどした。 「おい一木。はやまったことをしてはならんぞ。近づいちゃいかんというのだ」 丁坊は、はっとした。 「なんだ二村、いいじゃないか。これは日本少年だ。声をかけてやるのが当り前だ」 「いや、いけない。お前はこの子供が、空魔艦の者だということを忘れているのだろう。かるはずみなことをして、大月大佐に叱られたら、どうするつもりだ」 「そうだったね、二村」 と、一木と呼ばれた親切な人も、手をひっこめそうになった。 丁坊は思わずはらはらと涙をこぼした。せっかく日本人にあいながら自分が空魔艦から下りてきたということのために、たいへんいやがられ、そして恐れられているのだった。やっぱり自分はひとりぽっちなのか。
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