博士、怪物を説く
長戸検事が気がついてみると、かれはいつのまにか長いすによこたわっていた。そばでがやがやと人ごえがする。 「これをお飲みなさい。元気が出ますから」 検事の鼻さきに、ぷーんと強い洋酒のにおいがした。こはく色の液体のはいったコップがかれの目の前につきつけられている。血色のいい手がそのコップをにぎっている。誰だろうかと検事がその声の主をあおいでみるとそれは針目博士だった。そしてそのまわりに、検事の部下たちの頭がいくつもかさなりあっていた。長戸検事は、びっしょりと冷汗をかいた。 「いや、もう大丈夫です」 「やせがまんをいわずと、これをお飲みなさい」 「いや、ほんとにもう大丈夫だ」 検事は、強く洋酒のコップをしりぞけて、長いすからきまりわるく立ちあがった。 「だからぼくは、あらかじめご注意をしておいたのです。こんな見なれない動物をごらんになって、気持が悪くなったのでしょう」 「いや、そうじゃない。じつは昨夜からかぜをひいて気持がわるかったのだ。この部屋へはいったとき、異様なにおいがして、頭がふらふらとしたのだ。心配はいらんです」 検事は強く弁明をした。かれは強引にうそをついた。このうそを、ほんとうだと自分自身に信ぜしめたいと願った。けっして、この奇妙な標本を見て気持がわるくなったのではないと思いたかった。そうでないと、これから先、この奇妙な標本と取っ組んで、事件の真相をしらべあげることはできなかろう。かれは、つらいやせがまんをはったのである。 かれの配下たちの中にも、ふたりばかり脳貧血を起こした者があった。それはもっともだ。誰だって、こんな奇妙な標本に向かいあって五分間もそれを見つめていれば、脳貧血を起こすことはうけあいだ。 脳貧血を起こさない連中の筆頭には、川内警部がいた。かれは顔をまっかにして、憤激している。どなり散らしたいのを、一生けんめいにがまんしているという顔つきで、針目博士の一挙一動からすこしも目をはなさず、ぐっとにらみつけていた。 「針目博士。この動物はなぜここに集めてあるのですか」 長戸検事は職権をふたたびふるいはじめた。 「ぼくの研究に必要があるからです」 「博士の研究とは、どういう研究ですか」 「そうですね。それはお話しても、とてもあなたがたには理解ができないですね」 針目博士は、回答をつっぱねた。 「理解できるかできないかは問題がいです。説明してください」 「じゃあ申しましょう。これはぼくが本筋の研究にかかるについて、その準備のため作った標本です。つまり本筋の研究そのものじゃないのですよ。いいですね」 と、博士はねんをおして、 「そこでこの標本をごらんになればわかるでしょうが、この動物たちは、自分が持って生まれた脳髄を持っていないのです。そうでしょう。みんな頭部を斬り取られています。そしてかれらは他の動物の脳髄をもらって、それをかわりに取りつけています。あの透明な小箱の中にあるのは他の動物の脳髄なのです。それを取りつけて、生きているのです。おわかりですか」 「よくわかります」 長戸検事は、反抗するような声で、そういった。ほんとうは、かれには何のことだか、よくのみこめなかったのだけれども。 「ほう。これがよくおわかりですか。いや、それはけっこうです」 針目博士は、目をまるくした。皮肉でもないらしい。 「これなどは、おもちゃの人形に、ニワトリの脳髄を植えたものですよ。もちろん人形の手足その他へは神経にそうとうする電気回路をはりまわしてありますから、そのニワトリの脳髄の働きによって、この人形は手足を働かすことができるのです。気をつけてごらんなさればわかりますが、この人形の歩きかたや、首のふりかたなどは、ニワトリの動作によく似ているでしょう」 「そのとおりですね」 そう答えた検事の服のそでを、うしろからそっと引いた者がある。そしてつづいて、検事の耳にささやく声があった。それは川内警部であった。 「この標本や博士の研究は、こんどの殺人傷害事件には関係ないようではありませんか。それよりも、早く奥の部屋をしらべたいと思いますが、いかがですか」 そういわれて、検事も警部のいう通りだと思った。そこで一行は奥へ進むこととなった。
大きな引出
この部屋から奥へ通ずるドアが二つあった。左手についているのは、物置へ通ずるもので、これはあとで捜査することとなった。 まっ正面のドアのむこうに、博士の一番よく使うひろい実験室があった。一行はドアを開いてその部屋へ通った。 それは十坪ほどあるひろい洋間だった。 ざつぜんと器械台がならび、その上にいろいろな器械や器具がのっている。まわりの壁は戸棚と本棚とで占領されている。天じょうは高く、はじめは白かった壁であろうが、灰色になっており、大きな裂け目がついている。 まえの部屋もそうであったが、この部屋にも窓というものがない。天じょうの上の古風なシャンデリアと、四方の壁間にとりつけられた、間接照明灯が、影のない明かるい照明をしている。 「この部屋は、何のためにあるのですか」 検事が針目博士に質問した。ここには、まえの部屋で見たような、奇怪な標本が目にうつらないので、検事はいささか元気をもりかえしたかたちであった。 「ごらんになるとおり、ぼくが実験に使う部屋です」 「どういう実験をしますか」 「どういう実験といって――」 と博士は笑いだした。 「いろんな実験です。数百種も、数千種も、いろいろな実験をこの部屋ですることができます。みんな述べきれません」 「その一つ二つをいってみてください」 検事はあいかわらずがんばる。 「そうですね。細胞の電気的反応をしらべる実験を、このへんにある装置をつかってやります。もうひとつですね。ここにあるのは生命をもった頭脳から放射される一種の電磁波を検出する装置です。ことに、劣等な生物のそれに対する装置です。ことに、劣等な生物のそれに対して検出しやすいように、組み立てたものであります。これぐらいにしておきましょう。おわかりになりましたか」 「今のところ、それだけうかがえばよろしいです。それでは室内をいちおう捜査しますから、さようにご承知ねがいたい」 「職権をもってなさるのですから、とめることはしません。しかしたくさんの精密器械があるのですから、そういうものには手をつけないでください。万一手をつける場合は、ぼくを呼んでください。いっしょに手を貸して、こわさないようにごらんに入れますから」 「参考として、聞いておきます」 「参考として聞いておく? ふん、あなたがたに警告しておきますが、この部屋の精密器械に対して、ぼくの立ち合いなしに動かして、もしもそれをこわしたときには、ぼくは承知しませんよ。場合によって、あなたがたをこの部屋から一歩も外に出さないかもしれませんぞ」 針目博士は、にわかにふきげんとなって、きびしい反抗の態度をしめした。そしてかれは、すみにすえてある大机の向うへ行って、どこかこわれているらしい回転いすの上に、大きな音をたてて腰をかけた。そしてタカのような目つきになって、検事たちの方へ気をくばった。 検事は、こんな場合にはよくなれているので、相手がかんかんになればなるほどこっちは落ちつきを深めていった。そして部下たちに、この部屋をじゅうぶんに捜索し、れいの事件に関係ありと思われる証拠物件があったら、さっそく検事を呼ぶようにと命令した。 それから捜査がはじまった。一同は、これまであつかいなれない器械器具るいだけに、どうしらべてよいのやら、こまっているようであった。しかしこころえ顔の係官たちは、床の上にはらばいになって器械台の下をのぞきこんだり、戸棚の引出をぬきだしたりして、どんどん仕事を進めていった。 だが、思うようなものはすぐには見つからなかった。 この部屋の、博士がいま腰をおろしているのと、ちょうど対角線上の隅にあたるところに、一部に黒いカーテンがおりていた。それを開いて中へ入った川内警部は、そこにもやはり大きな引出が、三段十二個になってならんでいるのを発見した。その引出は、そうとう大きかった。しかしかぎもかかっていなかった。引出にはそれぞれ番号札がついていた。 警部が、その引出のひとつに手をかけたとき、誰も気がつかなかったが、針目博士の口のあたりには、あやしいうす笑いがうかんだのであった。もちろん川内警部は、それに気がつくはずもなく、引出のとってに力をいれて、ぐっと引きだした。 「おや、これは何だ!」 警部は、すっとんきょうな声をあげた。彼の顔からすっかり血の気が引いてしまった。 見よ、その半びらきになった引出の中には、黄いろくなった人間の足が二本ならんでいた、いや、足だけではない。裸体のままの死骸がそこにはいっているにちがいなかった。 事件はいよいよ奇怪な段階に突入した。いったいこれは何者の死体なのであろう。針目博士の身辺にいよいよ疑問の影がこい。
警部じれる
「おう、ここにも死骸がかくしてある」 警部のそばにいた若い巡査が、おどろきの声をあげた。 針目博士は、しらぬ顔をして、回転いすに腰をかけている。 警部は、その死骸いりの大きな引出をひっぱり出した。消毒薬くさいカンバスにおおわれて若い男の死体がはいっていた。しかしその男の頭蓋骨は切りとられていて、その中にあるはずの脳髄もなく、中はからっぽであった。 警部は、この死体が、学術研究の死体であることに気がついた。 ねんのために、おなじような他の引出をかたっぱしからひっぱり出してみた。するとほかに、男の死体が一つ、女の死体が二つ、はいっていることがわかった。 「この死体は、どうして手にいれましたか」 川内警部は、やっぱりそのことを針目博士にたずねた。 「研究用に買い入れたんです。証書もあるが見ますか」 「ええ、見せていただきましょう」 警部はけっきょくその死体譲渡書が、正しい手つづきをふんであることをたしかめた。 死体がこの部屋に四つある。そのうえに、もう一つなまなましい死体を、博士はほしく思ったのであろうか。 警部は、針目博士がいよいよゆだんのならない人物に見えてきた。このうえは、こんどの事件に直接関係のある証拠をさがしだして、なにがなんでも博士を拘引したいと思った。 「針目さん。あなたのお使いになっている部屋は、まだありますか」 長戸検事が、タバコのすいがらを指さきでもみ消して、博士にたずねた。 「あとは、第二研究室と倉庫と寝室の三つです。やっぱり見るとおっしゃるんでしょう」 「そうです、見せていただきますよ」 「どうしても見るんですか」 博士の顔がくるしそうにまがった。 「見せろというなら見せますが、あなたがたがこの室や標本室でやったように、室内の物品に無断で手をつけるのは困るのです。じつは第二研究室では、ぼくでさえ、非常に注意して、足音をしのび、せきばらいをつつしみ、はく呼吸もこころしているのです」 「それはなぜです。なぜ、そんなことをする必要があるのですか」 長戸検事が、口をはさんだ。 すると博士は、吐息とともに、遠いところをながめるような目つきになって、 「おそらく今、世界でいちばん貴重な物が、そこに生まれようとしているのです。荘厳と神秘とにつつまれたその部屋です。あなたがたは、もしその荘厳神秘の中にひたっている主を、すこしでも、みだすようなことがあれば、あなたがたはとりもなおさず、地球文明の破壊者、ゆるすべからざる敵でありますぞ」 それを聞いていた川内警部は、口のあたりをあなどりの笑みにゆがめて、 (ふん、邪宗教の連中が、いつも使うおどかしの一手だ、なにが神秘だ。わらわせる) と、心の中でけいべつした。 「なんです、生まれ出ようとしている荘厳神秘のあるじというのは……」 検事は、顔をしかめて、博士を追う。 「生命と思考力とをもった特別の細胞が、人間の手でつくられようとしているのだ。もしこれに成功すれば、人間は神の子を作ることができる」 博士は、わけのわからないことをつぶやく。 「カエルの脳髄を切りとって、それを他の動物にうつしうえることですか」 検事は、一世一代の生命科学の質問をこころみる。 「そんなことはいぜんから行われている。ぼくが研究していることは、すでに存在する生命を、他のものに移し植えることではない。生命を新しくこしらえることだ。生命の創造だ。細胞の分裂による生命の誕生とはちがうのだ。それは神が、神の子をつくりたもうのだ。それではない、この場合は、人間の意志のもと、人間の設計によって、新しい生命を創造するのだ。ローマの詩人科学者ルリレチウスの予言したことは、二千年を経たいま、わが手によって実現されるのだ。自然科学の革命、世界宗教の頓挫、人間のにぎる力のおどろくべき拡大……」 川内警部は、にがり切って長戸検事のそでをひいた。 「検事さん、あれは気が変ですよ。ちんぷんかんぷんのねごとはやめさせて、となりの部屋部屋を、どんどん洗ってみようじゃありませんか。さもないと、この事件はさっぱり片づきませんよ。迷宮入りはもういやですからね」 そういわれて、長戸検事も警部の意見にしたがう気になった。さっぱりわけのわからない博士のうわごとに、頭痛のするのをこらえているのは、ばかな話だと思った。 検事は、つぎの部屋を見るから案内するようにと、博士にいった。博士は、いすからのそりと立ち上がった。 どんな光景が、つぎの部屋に待っていることか。
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