密室の事件
この血みどろな事件を、あまりどぎつく記すことは、さしひかえたい。これはそういう血みどろなところをもって読者をねらうスリラー小説、もしくはグロ探偵小説とは立場を異にしているのであるから…… どのようにして谷間三根子が死んでいたか。そして、そこはどんなぐあいに外からの侵入をゆるさない密室であったか――を、まずのべたいと思う。 谷間三根子はお手伝いさんであった。としは二十三歳であった。お三根さんと呼ばれていたから、これからはお三根と書こう。 お三根は、ほかのお手伝いさんとはちがい、ひとりだけ針目博士の研究所である煉瓦建の建物の中に部屋をあたえられて住んでいた。もっともそれは主家から廊下がのびてきているとっつきの部屋であった。 お三根がそこにいるわけは、博士が仕事をしているとき、きゅうに雑用ができた場合に、すぐさまとんで行けるためだった。 博士は主家に寝室があったが、研究は徹夜でつづけられることもすくなくなかったし、またそのまま研究室の長いすで寝てしまうこともあったから、どっちかというと、博士はいつも研究室の屋根の下で暮らしていたといったほうがよいであろう。 さてそのお三根は、三月一日の朝、いつまでたっても起きてくるようすがないので、朋輩の者どもがふしんに思い、お三根の部屋のまえに集まって、入口のドアをわれるようにたたきつづけた。 だが、お三根はやっぱり起きてこなかったし、部屋の中で返事もしない。そこで一同は、いちおう主人の博士のゆるしを乞うたうえで、力をあわせてそのドアをぶちこわしにかかった。 ドアには、内側からかぎがかかっていたので、このドアにみんなが力をあわせてからだをぶっつけてこわすしか、いい方法がなかったのだ。貞造という男と、お松とおしげというふたりのお手伝いさんの三人が、このドアにぶつかったのだ。しかしなれない仕事のこととて、はじめはうまくいかず、からだが痛くなるばかりなので一息ついて休んだ。 「だめだねえ」 「だって、錠をこわすのはなんだかもったいないようでね、力がはいらないよ」 「それどころじゃない。早くあけてみないととんだことになるぞ。お三根どんは死んでいるんじゃないかね」 「まさかね。あんな元気のいい人が、心臓まひでもあるまいよ」 「さあ、もう一度力を出して、やってしまおう。こんどは何としてでも錠をこわしてしまうんだよ」 三人は、ふたたびドアの方へよってきて身がまえた。 と、そのとき部屋の中で、がちゃんとガラスがこわれるような音がした。 「あれッ、中で音がしたよ」 「お三根さん、起きているんだよ。ひとが悪いわね」 そこで彼らは、かわるがわるお三根の名を呼んだ。だが、そのこたえはなかった。 「誰か中にいるんだよ。おお、こわい」 「ネズミじゃないかしら」 「ネズミがあんな大きな音をたてて、ガラスをこわすもんですか」 「とにかく、これはただごとじゃないよ。わしらだけであけるのはやめて、お巡りさんにきてもらったうえでのことにしようや」 男の貞造が、そういって尻ごみをしたので、お松とおしげもきゅうに、こわさが増して、もう力を出す気がなくなった。 そこでもう一度、奥の主人にことわったうえ、おしげが交番へ警官を呼びにいった。 やがて若い警官の田口さんというのがきてくれた。そこでこんどは四人が力をあわせて、ドアにぶつかった。 四、五回ぶつかると、錠がこわれて、重いドアは風を起こして、さっと内側に開いた。 「ああッ……」 「こわい!」 ねまきを着たお三根が、入口からすぐ見える部屋のまん中に、あけにそまって倒れていた。 その部屋は、あとでたたみの間になおした部屋であったが、広さは十二畳もあった。お三根の寝床は左の壁ぎわにしいてあったが、お三根の死体はその中にはなく、たたみの上にあったのだ。 寝床は、この中で寝ていたお三根が何かの理由があって、ふとんをはねのけてはいだしたものと察せられた。 お三根は、左の頸動脈を切られたのが致命傷であることがわかった。なお、お三根の両手両腕と顔から腕へかけたところに、たくさんの切りきずがあったが、それはたいして深くない傷ばかりであった。 お三根を殺傷した凶器は、なんであるかわからないが、なかなか切れ味のいい刃物であるらしく、頸動脈はずばりと一気に切断されていた。 死斑と硬直から推測して、お三根の死は今暁の午前一時から二時の間だと思われた。 警官の通報が本署へとんだので、検察局からは長戸検事の一行がかけつけた。 「……で、この部屋に死者のほかに誰かいたのかね。つまり午前九時に、この電灯のかさがこわれる音を、この雇人たちがたしかに耳にしたというが、このかさをこわした者は発見されたのかね」 検事が、たずねた。 「いえ。わたしたちが入りましたとき、部屋の中をよく探しましたが、誰もいなかったのです。この婦人の死体だけでありました。凶器も見あたりません。部屋としてはそこは完全に密室なのです。そとから犯人の侵入した形跡がないのです。ふしぎですなあ。まさかこれは自殺じゃないでしょう」 と田口警官はいった。 「自殺ではない。たしかに他殺事件だ。とにかくこれは容易ならぬ事件だ」 長戸検事は顔をしかめた。 いったいお三根は誰に、どうして殺されたのか。凶器はどこにあるのか。おなじ屋根の下に一生けんめい研究をつづけている針目博士に、この事件は関係が有るのかないのか。謎はいつとかれるのであろうか。
白昼の怪
長戸検事の面上に、ゆううつな影がひろがっていく。まったく奇怪な事件だ。 室内には、犯人のすがたが見つからない! そしてこの部屋は密室で、出入りをすることができないようにしまりがしてあった。 凶器もまだ発見されない! しかもあのとおり、若い婦人が頸動脈をみごとに斬られて絶命している! けっして自殺事件ではない! 理屈にあわない事件だ。奇怪な事件だ。 いや、理屈にあわないとはいいきれない。いま一時、この場のようすが理屈にあわないように見えるだけで、ほんとうは、これで完全に理屈にあっているのにちがいない。ただ、その正しい理屈が、まだ発見されていないのだ。とけていないのだ。 この一見、理屈にあわない事件の謎を、どうといたらいいのか。 長戸検事が、次第にゆううつな顔つきになっていくのもむりはない。 「もう一度、この部屋をねん入りに捜査してくれたまえ。兇器、指紋、証拠物件、死者の特別の事情に関する物件など、よくさがしてくれたまえ」 検事は、連れてきた川内警部をはじめ、部下たちにそういって捜査を再開させた。 「田口君、この家の主人には会見したのかね」 検事はそういって、一番はじめにこの邸へかけつけた警官にたずねた。 「いいえ、まだです」 「それは、どうして……」 検事は、合点がいかないという。 「私は、ここへくる早々、この邸の雇人をつうじて会いたいと申しこんだのです。しかしその返事があって“今いそがしいから会えない。邸内は捜査ご自由”ということなんで、そのまま仕事を進めていました」 「なるほど。しかしそれは変っている人だなあ」 「それは検事さん。針目博士といえば、変り者として、この近所ではひびいているのです」 長戸検事はあとのことばを、田口警官の顔の近くへ口をよせていった。 「きみは、これからその主人に会って、検事がお会いしたいといっていると、会見を申しこんでくれたまえ」 「はい」 田口警官は、この部屋を出ていった。 長戸検事は、そのあとで室内をぐるぐる見まわしていたが、やがてかれの目は一点にとまった。それはこの部屋のまん中に、天じょうからさがっている電灯のガラスのかさであった。 検事は歩きだして、そのまま下までいった。かさは検事の頭よりわずかに高かった。 「かけている。かさがかけている。新しいきずだ」 「ああ、そのガラスの破片なら、ここにこれだけ落ちていました」 と、検事の部下の巡査部長の木村が、紙片に包んであったものをひろげて見せた。 「その破片は、このかさにあうかしらん」 「はい。ぴったりあいます。さっきためしてみました」 検事は、まんぞくそうにうなずいた。 「この入口のドアをこわす前に、この室内でガラスのこわれる音がしたと、この家の人たちは証言しているが、そのときこわれたのは、この電灯のかさなんだ。すると、被害者ではない他の生きている人間が、そのときこの室内にいたことになる。おそらくそれが犯人であろう」 検事は、ここまでは明快な判断をくだした。しかしそのところでかれは、はたとつまった。 「……しかるに、この部屋をひらいて中をしらべてみたが、被害者いがいに人間のすがたはなかったのだ。おかしい。……犯人はどうしてもあのとき、この部屋の中にいたにちがいないのに、なぜすがたを見せないんだろう」 検事は、しきりに小首をかしげている。 「検事さん。この部屋は密室と見せかけて、じつはどこかに秘密の出入口があるのではないでしょうか」 と、木村巡査部長はいった。 「そこから犯人は、いち早く逃げだしたという考えだね。そうなれば、早くその秘密の出入口を見つけてもらいたいものだ」 「いま一生けんめいに心あたりをさがしているんですが、まだ見つかりません。この家の主人が出てきたら、といただしていただくんですね。主人ならかならず知っているはずですから」 「なるほど」 「検事さん。ここの主人は、どうもくさいですよ。わたしは第六感でそう感じているんですが……」 といっているとき、とつぜん室内で大きな声がした。 「あっ、やられたッ。誰か手をかしてくれ。足を斬られた」 その叫び声は、ふとった川内警部の声だった。警部は部屋の一隅にしりもちをつき、右足をおさえている。かれの顔には血の色がなかった。どうしたのだろう。誰に斬られたというのであろうか。
二重負傷事件
川内警部の両手は、鮮血でまっ赤だった。 後からわかったことであるが、警部の傷はかれの右足のすこし上にある動脈が、するどい刃物で、すぱりと斬られているのだった。だから鮮血がふんすいのようにとびだしたわけである。 検事たちがかけつけて、みんなで応急手当をくわえた。 「どうしたんだ。どうしてそんなけがをしたのかね」 検事はきいた。 「さあ、それがどうもわからんのですよ」 警部は顔をしかめて言った。 「こんなひどいけがを自分でする者はありませんよ。たしかに斬られたと思ったんですが……ところが、自分のまわりを見まわしても、誰も下手人らしい者がいない」 「じゃあ、やっぱり、けがだろう」 「けがじゃないですよ、検事さん」 と警部は承知しない。 「斬られたときはちゃんとわかりました。足へ何だかかたいものがあたり、それから火をおしつけたような熱さというか痛みというか、それを感じました。わたしはちょうど押入れをあけて、中にあった木の箱を持ちあげていたので、すぐには足の方が見られなかったんです。箱をそこへおいて、そこから足の方を見て、ズボンをまくってみるとこれなんです。ズボンも、こんなにさけています。しかしこれは刃物がズボンの中から外へ向けていますね。外から刃物があたったんじゃないです」 さすがに警部だけあって、目のつけどころが正しい。しかしかれの足を斬ったという凶器はいったいどこにあるのか。 「その傷をこしらえた刃物は見つかったかね」 検事がきいた。 「それがそれが……見つからないんです。おかしいですなあ」 「よく探してみたまえ。みんなも、手わけをしてさがしてみるんだ」 検事の命令で、捜査係官は警部のまわりを一生けんめいにしらべた。押入れ、ふとんの中、ふとんの下、かもい、床の間、つんである品物のかげ――みんなしらべてみたが、ナイフ一ちょう出てこなかった。 「へんだなあ。なんにもないがねえ」 「そんなに深い傷をこしらえるほどの品物もないしねえ……」 まったくふしぎなことである。 そのとき田口巡査が入ってきて、このありさまを見るとびっくりして、警部のそばへよってきた。 「どうなすったんですか」 「足を斬られたらしいんだが、その斬った兇器が見あたらないんだ」 「おお、田口君。きみはいったいどうしたんだ」 検事が、とんきょうな声を出した。 「どうしたとは、何が……」 田口はけげんな面持ちである。 「きみの顔から血が垂れている。痛くないのか。ほら、右のほおだ」 「えっ」 田口はおどろいて、手をほおにあてた。その手にはべっとり血がついていた。同僚たちは、みんな見た。田口の顔の半分がまっ赤にそまったのを。 川内警部の負傷といい、今また田口の負傷といい、まるでいいあわせたように、同じ時に同じような傷ができるとは、どうしたわけであろうか。 「やっぱり、そうだ。するどい刃物でやられている。きみは、自分のほおを斬られたのに、そのとき気がつかなかったのかい」 「さっぱり気がつきませんでした」 「のんきだねえ、きみは……」 検事があきれ顔でそういったので、同僚たちも思わず笑った。 「今になって、ぴりぴりしますがねえ」 「いったい、どこで斬られたのかね」 「さあ、それが気がつきませんで……いやそうそう、思いだしました。さっき針目博士の室の戸口をはなれて廊下をこっちへ歩いてくるとちゅう、なんだか向うから飛んできたものがあるように思って、わたしはひょいと首を動かしてそれをよけたんですがね。しかし、なにも飛んでくる物を見なかったんです。ぱっと光ったような気がしたんですが、それだけのことです」 「きみは、どっちへ首をまげたのかい」 「左へ首をまげました」 「なるほど。首をまげなかったら、きみももっと深く顔に傷をこしらえていたかも知れないね。生命びろいをしたのかもしれないぞ」 検事にそういわれて、田口巡査は首をちぢめた。 「しかしわたしは何者によって、こんなに斬られたんでしょうか」 「田口君。それは今一足おさきに斬られた川内警部も、おなじように首をひねっているんだ。これは大きな謎だ。だが、その謎は、この邸内にあることだけはたしかだ」 と、長戸検事は重大なる決意を見せて、あたりを見まわした。
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