海野十三全集 別巻2 日記・書簡・雑纂 |
三一書房 |
1993(平成5)年1月31日 |
1993(平成5)年1月31日第1版第1刷 |
1993(平成5)年1月31日第1版第1刷 |
海野十三敗戦日記、橋本哲男編 |
講談社 |
1971(昭和46)年7月24日 |
空襲都日記(一)
はしがき
二週間ほど前より、帝都もかねて覚悟していたとおり「空襲される都」とはなった。 米機B29の編隊は、三日にあげず何十機も頭上にきて、爆弾と焼夷弾の雨をふらせ、あるいは悠々と偵察して去る。 味方の戦闘機の攻撃もはげしくなり、地上部隊の高射撃もだいぶんうまくなった。被害は今までのところ軽微である。 これからさらに空襲は激化して行くであろう。そこで特に、この「空襲都日記」をこしらえ、後日の用のため、記録をとっておくことにした。 昭和十九年十二月七日
海野 十三
これまでのことを簡単に
◯昭和十九年十一月一日に、米機の初空襲があった。少数機だった。偵察のためと思われた。(※マリアナ基地からのB29、東京を初偵察) 一万メートルあたりを飛来、味方戦闘機が出動したが間に合わず、高射砲もさっぱり当たらなかった。敵機は悠々と退散した。白い飛行雲をうしろに引きながら。
◯こんなことになったのも、サイパン島をはじめテニアン島、大宮島(グアム島)が敵の手に渡ったためである。 うわさによると、敵はB29を発出させるために、サイパン島の外まで埋め立て、滑走路を長くして、実施しているそうである。
◯アメリカの放送は「B29ではない」と言っている。しかし何という種類の機であるかは言わない。B32ではないかという説、PBXの一つではないかという説がある。それはB24の改良型で、長距離偵察用として試験製作中のものだという。とにかく、銀色の巨体に、四つの発動機をつけ、少なくとも三百ノットの速力で高々度を飛んで行く敵機であった。 本格的な空襲は、昭和十九年の十一月二十四日から始まった。(※マリアナ基地からのB29約70機、東京を初爆撃)この日(欠字)に警報が出たが、間もなく空襲警報となった。敵の編隊は伊豆半島方面より侵入、なお後続部隊ありという東部軍管区情報は、今日の空襲が本格的であることを都民に知らせた。「東部軍管区情報」を都民が非常に期待するようになったのは、この日からだといっていい。 高射砲が鳴りだし、待避の鐘が世田谷警察署の望楼から鳴りだした。英(ひで)(※海野夫人)や松ちゃん(※海野家のお手伝いさん)などがまだぐずぐずしているのを叱りつけるようにせきたてて防空壕内に入れる。 この壕は、昭和十六年一月に一千円ばかり費やして作った。檜材のフレームを横に並べて、同じ檜材のボルトナットで締めた上、紙を巻いてアスファルトを塗り、これを何回かくりかえし、地中に埋めたもの。階段、二ヵ所の出入口、ハシゴ、床および腰掛け、換気孔などのととのったもので、今となっては得がたいもの。あのとき作っておいてよかったと思う。十四人ぐらいは大丈夫楽に入っていられる。 皆を中へ入れ、私は入口の階段に腰をかけて、壕内より見える四分の一の空を注意し、かつラジオの出す警報その他や、敵の爆撃の音や、味方の機や砲の音、待避の鐘の音などを注意していることにした。壕内は暖いが、この階段のところはやや寒い。板も冷える。直接土に接しているためであろう。 子供たちは待避中元気であり、わあわあさわいでいて、心配していた私は安心した。大家(※萩原喜一郎、隣家)さんの長男の亮嗣君(二年生)と二女のしょう子ちゃんも入ってくるので、皆は一層元気よくわあわあさわぐ。 大人の方は「あ、待避の鐘が鳴った」とか「情報だ、静かになさい」とか「今聞こえる音は爆弾だろうか、味方の高射砲だろうか」などと、ちょっと表情を固くすることもあったが、それ以外はいろいろと雑談に花を咲かせて元気がよろしい。この分なら心配なしと、私は安心した次第。
十一月二十四日来襲の敵機は七十機内外で、爆弾は七十発ぐらい、あとは焼夷弾だった。ねらったところの第一は、三鷹の中島飛行機工場らしく、二十発の爆弾と焼夷弾一発が命中した。建物十七、八棟が倒壊、死者二百名、傷者三百名ということだった。 次の被害顕著なるところは荏原区であったが、これは前者にくらべるとたいしたことはない。しかし戸越公園とか、雪ケ谷か洗足だったかの発電所などに落ち、地上線が半分不通となった。 そのほか川崎で石油のドラム缶が百二十個ぐらい燃えた由。 また、荻窪、鷺宮附近にバラバラ落下弾があり、千葉県へも落ちた由。 要するに被害の横綱は中島であったが、他は軽微だった。
昭和十九年十二月十日 ◯午後七時半ごろ、警報鳴る。晴夜だ。家族を壕へ入れる。敵は二機だ。帝都の西方(わが家は帝都西部に位置する(※東京都世田谷区若林町))より北方へ抜けたが、また引返してきた。珍しく高射砲が鳴りだした。 「壕へ入ってよかった」と誰かがいう。 かなりたくさん発砲した。あとで情報は「一機に命中確実」と伝えた。「よかった」と寝床の中から、皆がいった。 残る一機は南方へ去った。
十二月十一日 ◯萩原さんの防空壕は、大工さんが入り、棚なども吊った由。亮嗣君はいつもうちの壕へきていたのに、このごろこなくなった。 ◯夜半、午前二時半ごろ警報出る。伊豆方面より敵一機北東侵入。一機のこと故、子供は起こさないでおき、家内の灯管(※灯火管制。夜間、敵機の来襲に備えて、灯りを遮ったり落としたりすこと)とラジオと壕の点灯だけを用意しておく。 晴夜にして、既に十一日過ぎの三日月は東天にかかり、星はきらきらと天空に輝き、寒々としている。高射砲が鳴りだした。 離室への廊下から東南の方を見ると、わが照空灯が十数条、大井町の上空と思われるところへ集まっており、それよりやや左にぱらぱらと火の粉のようなものが落下して行く。それは敵機の投下した焼夷弾だ。憎むべき敵と、ふんがいする。 やがて音も光も消え、元のような深夜の空となった。本屋の寝床へ入って寝る。
十二月十二日 ◯毎夜のごとく敵機がくる。きまって一機または二機で、せいぜい二隊位だ。昨夜と今暁二度起こされた。癪にさわる。ねむい。寒い。二度目は家族は起こさず、自分だけで一応灯管を見て廻った。 きょうは起きたが、身体が変調だ。敵はいわゆる神経戦と疲労戦とでやってくるものだろうが、たしかにそれは一応成功している。しかしこっちも考え直して、もっといい対策を講じ、アメリカの手にのらないようにしなければならぬ。とりあえず夜分の当直は私が引受け、そして早寝をすることにしよう。 ◯二度の空襲とも、夢のなかで空襲を見ていた。初めのときは、敵が毒ガスをまいたところで目がさめた。その毒ガスがいっこうに私の呼吸を苦しくさせないので「ははあ、これは夢だわい」と、目をさましたのであった。二度目は、貨車一台ほどの油脂焼夷弾がこっちのビルヘ落ち、そこら中に火をふりまき、私はたぶん晴彦(※長男)を連れ、二人ともハダシゆえ近所へ長靴を借りに行ったところで、本もののプーが鳴り、目がさめた。 私は神経がするどい方であり「警報を聞きのがしてはならぬ」と思って眠るので、こんな夢を見るのであろうが、ひとつ眠り方を変えなければならないと思う。 ◯隣組の防火班長さん、なかなか実直な人で、うちの小路までいつでも「警報解除」を告げにきてくれる。この人も、二度目のときにはこなかった。寒いし、眠いし、それにたいしたことではないので、班長さんには無理をしてもらわぬ方がいい。
十二月十三日 ◯名古屋、清水あたりへ敵機来襲。「地上施設に損害を受けた」という発表があったので、心配している。この日は、帝都へは四、五機ぐらいであった。ねえや(※お手伝いさん)のお父さんがきていて、初めてこの招かざる客を見る。 暁の三時に、また敵機一つ来る。毎夜つづけてくる。六日以来ずっとだ。夜の当番は、私がやることにした。敵もこず、警報だけ出て、寒さにぶるぶるふるえるだけで、おしまいだった、今晩は……。
十二月十六日 ◯珍らしく昨夜は米機きたらず、したがって起きずに済んだ。六日以来毎夜きていたものがこないと、ちょっと調子はずれの形。人間は環境になじむ性質が強いと感じた。 ◯夜分起きるのは私一人と、当直をきめたが、まず少数機侵入のときはこれで十分だと思う。十五日の暁方の空襲のときは、西南西の林越しにちらちらと火が見えた。てっきり焼夷弾が落ちて、こっちに横流れに流れてくるものと思い、壕を出て垣根からのびあがって透かしてみたところ、焼夷弾にあらずして照明弾だった。それもかなりの遠方に見えた。 ◯昼間、敵機の爆撃音がすごくなり、味方の高射砲もどんどん撃ちまくるとなれば、恐怖心もどこかへ吹っとんでしまって「おのれ、敵の奴め、味方よ、撃て撃て!」と敵愾心(てきがいしん)で身体中が火のように燃える。 ◯良太(※甥)君の宿所附近二百メートルのところに爆弾一発落下し、畠に大きな穴をあけたが、附近の家に被害なく、ガラスも割れなかったという。畠はやわらかいから、爆発してもその爆風は土壌の圧縮によって相当のクッションになるらしい。 ◯護国寺裏の町に爆弾が落ちて、壕内に入れておいた二歳と五歳の幼児が圧死し、母親は見張中であって助かった由。壕が家屋に近いことは不可。壕の屋根がしっかりしていないことは不可。 ◯焼夷弾は左図のごとし。燃えるテープをひいている由。 (※カット「焼夷弾の図」入る。16-上段) ◯風呂屋は従来十六時より二十三時までの営業だったのが、近ごろは十五時から十八時までとなったため、大混雑の由。 風呂屋はガラス張りの部分が大きく、夜の灯火管制がやれないためだというが、ひとくふうあってほしいものだ。 ◯うちの便所灯がつけ放しで、裏の田中さんから注意を二回受ける。私の見廻りもよくないわけで、これからは、警報発令とともに消してまわることにした(電球をひねる)。 ◯夜中にまた警報。起きてみたら雪であった。ハッと心配したことは、家屋から壕内へ引いてあるコードのことであった。第四種線がないので、コードを使ってある。しかしこれでは濡れるとすぐピリピリ感電するので、過日用心のため、その上にセロファンに糊のついたテープを巻き、さらにその上から油紙(といっても昔のものとは違い、あぶないものだ)を細く切って巻いておいた。果たしてこれでもつかどうかと案じ、さらにその上にエナメルを塗ることにした。エナメル塗はコードが垂直に垂れる部分しかやってなかったので、私はこの雪で心配したわけだ。しかしどうしようもないので、そのまま放っておいた。 朝になってコードにさわって調べてみたら、案外ちゃんとしているので、安心した。そして早速残りの部分にエナメルを塗った。どうやらこれで当分は大丈夫のようである。
十二月二十五日 ◯昨夜はクリスマスの前夜だから、敵機はこないんじゃないかと思っていたところ、午前二時半になってちゃんとやってきた。しかも三回やってきて廷べ四機。五時四十分にようやく警報解除となる。一回は南方に焼夷弾を落としていった。敵の戦意も相当のものじゃ。 ◯夜間の空襲はせいぜい一時間でケリがついたのが、一昨日から敵は三回つづけてきて三時間半ばかりを稼いで行くので、こっちはまた眠り方の変更をしなければならなくなった。 昨夜は原稿を書き了えて床に入ったのが十時過ぎ。どうせ敵はくるだろうと、そのままの服装で寝る。きたのが午前二時半。服装の関係で、起きるのは楽だ。敵機去り、警報の解けたのが午前五時四十分。もう朝の放送は始まっており、空が東よりの半分だけ白んでいた。そのまま防空壕で眠る。寝苦しくて、身体が痛い。あっちこっち寝返りを打っているうちに、英が起こしにきた。「もう十時を過ぎましたよ」と上から声がかかる。いつの間にか四時間ほど眠ったわけだった。壕から外へ出ると、ぶるぶるっと寒い。 ◯田口※三郎氏のB29の爆音聞き分け方の放送が始まり、つづいている。難解だ。普通の人には、あれではわかるまい。述べ方に工夫がほしい。日本の学者というと、なぜこのように人に伝授の仕方が拙いのだろう。飛行士の養成に手間どり、生産増大の出来ないのも、皆こんなところに大きな原因がひそんでいるのだと思う。 私の場合は、放送を聞いているうちに少しずつわかってくるような気がするが、要するに説明はまずい。いい放送なんだが、惜しいことだ。 ◯防空壕の中の夢で、敵機から焼夷弾を投下されるところをみている。ばかな話だ。 ◯目下の私の服装は次(※底本では「次」は「下」)図のごとし。 (※カット「服装の図」入る。17-下段)
十二月二十七日 ◯一昨夜と昨夜とは敵機の来襲もなく、珍らしいことであった。おかげで暖かく寝られた。その後放送で初めて知ったが、二十五日夜八時にサイパン島へわが航空隊が突撃した由なり。そのために相手はこられなくなったわけ。私達はいい気持で寝、代りに勇士たちが死地にとび込み、そのうちの何人かは散華する。貴い代償だ。一夜の暖睡の貴さよ。眠っていては相済まぬ。いや眠らせて頂いて、起きたら散華の勇士たちの成仏せられるよう働かねばなるまい。 ◯きょう二十七日、果して敵機はやってきた。こないだの二十五日のクリスマスの晩を滅茶々々にしてやったお返しであろう。アメリカ兵ときたら、いつでもこのお返しをするのが習慣だ。こちらとしては二十六日の開院式(※第八十六通常議会)のこともあり、ちと気の毒ではあるが叩かずにはいられなかったのだ。それをハラを立てるとは何ごとだ――といったところで、この理屈が相手にわかる筈はなし。 ◯きょうの空襲は、先頭編隊が静岡県に入り、それから西進し、名古屋方面を襲うかのごとく見せておいて、急に反転して東進を開始し、京浜地区に侵入した。まず例によって荻窪の飛行機工場のあたりへ投弾した。いったん西進し、反転東へ向かって帝都を襲撃するという一つの戦法を取ったつもりであろうが、こっちでは油断なく、いつでもいらっしゃいであるからすこしもおどろかぬ。 ◯実際に「西進」と聞いた私は、原稿を書きだした。すると「反転東進」の情報が入り、しかも数編隊ありということなので、これはこっちへくるなと思い、表の八畳に腎臓病で寝ている昌彦(※三男)を防空壕に入れるよう家人へ注意したのであった。 ◯ねえやのお父さん、この前も昼空襲を体験、きょうもまた体験、病治って戻ってきたよねちゃんは初の体験、どうかなあと気をつけて観察していたが、やっぱり落着いているので安心する。 ◯きょうも敵の一機がひどく煙をひいて、編隊に遅れたばかりか、ついに東南方向に水平錐もみにはいったのをみて、大いにうれしかった。近ごろにないうれしさであった。下の町でもどっと歓声があがる。うちの壕からも、子供や大人がみんな飛びだして、わあわあと大喜び。それからあと、もっと敵機がこないかと待ち遠しく感じた。 ◯その編隊の二番機も薄いながら煙を曳いていた。煙曳き機は二機見た。 ◯爆煙か火災の煙か知れないが、荻窪と中野の方にあがっていたが、まもなく薄れた。 ◯七時の大本営発表「五十機来襲、十四機撃墜(内不確実五機)、損害を与えたるもの二十七機、わが損害四機(体当たり二機を含む)」相当の戦果だ。 ◯きょう空襲中の情報に「相当戦果をあげている。なお戦果拡大中」とあって、大いに都民の士気があがった。
錐もみて墜つる敵機や暮の空 錐もみの敵機に沸くや暮の町 敵一機錐もみに入る空の寒さ 墜ちかかる敵機の翼に冬日哉 錐もみの敵機に凍土解けにけり 錐もみの敵機や冬日うららかや
◯いつも夜中、警報中に「おい、灯(あ)かりついとるぞ!」「灯かり消せ!」とどなり立てている丘の下の町に、きょうはどっと歓声があがるのを聞いた。いつも怒鳴っていた人も、どなられた人も、ともに声を合わせて万歳を叫んでいた。
墜ちかかる敵機は冬陽を散らしけり 〃 の翼に冬陽散る 〃 の撥ねし冬陽哉
十二月二十八日 ◯きょう午後一時半ごろ、高射砲音轟く。外へ出てみると、一機北方の空に西から東へ雲を曳いている。眼鏡でみれば、まさしく敵機なり。ただし警報出でず。 あとで言訳のような東部軍管区情報が出る。 ◯午後三時十五分、珍らしく警報が出、ついで空襲警報となる。朝から高橋先生が来ておられ、また江口詩人氏が原稿料(「日章旗」創刊号の)を持ってきてくださったので、何はともあれ防空壕へと裏へ御案内し、はいっていただく。この日敵機三編隊計九機位が関東北部をうろうろしていて、帝都へはなかなか近よらず。そのうちに情報が出て「敵機は依然として、関東北部を旋廻中なり。薄暮時期帝都に侵入のおそれあり、警戒を要す」とのべた。さあ松ちゃんが驚いて「敵百五十機が関東北部で廻っていて、こっちへ入ってくる」とあわてふためく。こっちは訳がわからず、いろいろ問答しているうちに「薄暮時期」が「百五十機」と聞こえたとわかり、大笑いとなった。 しかし後刻、萩原さん(隣家)のおじいさんが野菜をもってきてくれたとき「いま百五十機くるってね」と話しかけられて、おやおやここにも早呑込みがいると驚いたが、なるほど「薄暮時期」と「百五十機」とは言葉が似ており、間違えるのは無理ない。このぶんではずいぶんあちこちで間違えることと思う。情報はもっとやさしくすべきである。いつも小むずかしくいう軍人の頭の具合にも困ったものである。目で見る字と、耳から聞く言葉とに大きな隔たりがあることぐらい、わかっていさそうなもの、大衆相手の情報なんだから、大衆向きにして出すよう考えるのが当然だ。と思う識者はいないのか、識者がいても自分の責任範囲外のときは言わないのか。長年言い古され、すでにうるさいほど指摘された官軍民一体化総蹶起(そうけっき)のガンはここにあると言わざるを得ない。
十二月二十九日 ◯きのう岡東(おかとう)(※岡東浩。海野の神戸一中時代の友人。三菱商事勤務。麻布に居住)夫人がきて、「さっき警報発令前に、麻布十番へ焼夷弾が落ちた」と話して行った。きょう博文館の新青年女史がきて「あれは十番のカーブを電車が急に通った時に高音を発し、それが警防団員の耳に焼夷弾が落ちたように響いたものです」と訂正した。時節柄、神経過敏の度もいよいよきつくなってきた。 ◯うちの女房も、情報が「少数機」と言ったのを「五十機」と聞き違えた。きのうのきょうだから、おかしい。 ◯「帝都住宅の地下室化」を提唱す。つまり敵弾で遅かれ早かれ焼かれてしまうであろうから、焼けるのを待つよりいっそのこと、その前に自分の手で破壊し、その資材を利用して少数間を有する地下室をつくれというのである。投書の形にして毎日新聞文化部の久住氏へ送る。(なおこの際思いきって生活の簡素化をはかれとも記した)
十二月三十一日 ◯一昨夜、敵三回目の空襲には油断があったらしく、両国、柳橋辺がちょっと燃えた模様。 もっとも、あのときは前に警報解除が出、それに情報を加えて「まだ一目標あり、警戒中」と警報したのを、警報解除に安心しすぎて寝てしまったらしく思われる。「正確なる判断」が要望される。 ◯昨夜は珍しく敵機来らず。たぶんいつものように十時ごろに一回、一時ごろに第二回目、第三回は三時ごろくると思っていたのに、一回もこなかった。わが航空隊がサイパンへなぐり込みをかけた故か。それとも敵の方で歳末新年は生活に忙しいせいか。 私は壕に寝て、暁を迎えた。壕に寝るは寒く、身体が痛い。暁前の寒さがひとしおこたえる。目下下痢気味なのは、あるいは壕で冷えたせいか。 ◯酒の特配に喜びなし。酒を呑まないためだ。煙草の特配に喜びなし、煙草は吸わないためだ。正月がくるというのに、一体何の喜びがあると身辺をふりかえったのに、三つの喜びがあった。一つは去る二十七日の敵機錐もみ撃墜のこと、第二は敵米英、ことに米の生産補充陣が大消費に喘ぎだしたというニュースしきりなること、第三に家族一同無事なること。
一月一日(昭和二十年) ◯「一月ではない、十三月のような気がする」とうまいことをいった人がある。 ◯昨大みそか夜も三回の来襲。皆一機宛。しかも警報の出がおそく、壕まで出るか出ないかに焼夷弾投下、高射砲うなる。
敵機なお頭上に在りて年明くる ちらちらと敵弾燃えて年明くる 焼夷弾ひりし敵機や月凍る
◯伊東福二郎君来宅。去る二十七日の空襲に、彼の家の三軒隣りの前の五間道路に、敵爆弾が落ちたとのこと。両側の家の一方は模型飛行機店で店だけこわれ、他方の家は半分吹きよじれた。人の損害は、前の防空壕に一方より圧力がかかって壕がくずれ、上からは土砂が落ち、赤ちゃん一名圧死。 道路をつきぬけて破裂した敵弾は、径十センチばかりの水道鉄管をふきあげ、それが路上に電柱の如く突っ立ち、あたりは水にて池の如し、という。また三千ボルトの高圧線切断し、そのスパークが、瓦斯管の破損個所から出る瓦斯に引火して燃え出した。 伊東君の家の南側ガラス(爆弾は南側におちた)は全部こわれたが、紙を貼って置いたので、粉々にはならなかったが、やっぱりとび散った。二階のガラスは大丈夫とのこと。 半ねじれの家では七十の老人が、いったん壕に入りながら貴重品を思い出して家にもどり、その途端やられた。しかし落ちた屋根も、縁側が下におち、老人の身体をその間にはさんだので助かったという。 ラジオ受信機は、断線個所が多かった。やわらかい土地だから、地震のように震動がつよかったためだろう。 附近では爆弾破裂の音を聞いた人が殆んどなく、しゅるしゅるという音だけは聞いたそうな。近いところでは案外音がしないという話があるが、それに適中する。 近所の人もわりあい落着いている由。この際引越しても輸送がうまく行かないこと、敵弾に当たれば運が悪いとあきらめようという気持、自分のところは大丈夫だという気持などがプラスに動いているらしい。 附近に四発落ちた。荻窪の中島工場(まだほとんど無傷)を狙ったそれ弾か、荻窪駅を狙ったのか、それとも桃井第二国民学校を狙ったのか、それが分らないとのこと。 とにかく伊東君一家の安泰を祈るや切なるものがある。 ◯練馬では、一度掘れた爆弾孔を埋めたのに、後ほど又同じところに落弾し穴を明けた。もう埋める気がしなくなったそうな。
一月四日 ◯一日、二日、三日の夜は空襲なく、おかげでゆっくり眠れた。しかし三日は名古屋方面に九十数機の来襲あり、また四日は台湾、沖縄へ艦載機延べ五百機来襲。 ◯サイパンを爆砕したというのに、敵機はその直後にとび立って、九十数機で堂々とやって来るのだ。台湾や琉球へも敵の機動部隊が近づき空襲をかける。こっちの機なきをすっかり知って、なめている態度がよく分る。しかし事実ゆえ仕方がない。忍耐精励、時を待つしかない。
気にしまいとすれどもきょうの吹雪かな
◯「富士」編輯局(へんしゅうきょく)の木村健一氏が来宅。去る十二月十二日夜、雑司ケ谷墓地附近へ敵機が投弾して火災が生じたが、そのとき木村氏は用があって附近を通行中だった。身は焼夷弾の海の中におかれたため、大奮闘し、焼夷弾の処置や、火災を起こしかけた墓茶屋の消火に従事し、それより急を防護本部に知らせるなど大活躍した。仲々の殊勲であり、又貴重なる体験である。彼の談話の中から重要な点をあげてみると―― ◯焼夷弾(油脂)はたしかに座金の方を手袋のままつかむことが出来る。 ◯いやによく火は燃え、手袋についたり衣服についたりするが、ワセリンみたいな油が燃えているだけで熱くはない。もみ消せば消える。水では駄目。 ◯靴で踏み消せば靴がだめになる。火叩きは有効。 ◯落ちた瞬間、あたりは火の海となる。そのとき呆然自失してはいけない。 ◯火事になりそうなものを早く消し、道路上のものは放っておくがよい。 ◯漏光があったのを、敵が投弾目標にしたことは明白。 ◯手を負傷した者まで担架で運ぶのはどうかと思う。 ◯カンフルばかり医師はうつ。 ◯焼夷弾の座金に直撃されて負傷した者が続出した。自分は幸いに助かった。(コンクリート塀のうしろにかくれた為、あとで考えるとこれがよかった) ◯墓地だけに八十発おちていた。 ◯焼夷弾のカゴの大座金は、厚さ二センチ位の大きい丸盆の大きさ。二階から屋根をぬいて階下におち、あるいは平屋(ひらや)の屋根を通って床下にまで落ちる力があるという。 ◯火がピラピラ見えているうちに、実弾の方はすでに下に落ち、ぱあっと発火する。 ◯時限装置らしきものも落ちていた。 ※ ◯昨夜吉岡専造(※朝日新聞社カメラマン。一九四二(昭和十七)年に海野が海軍報道班員として従軍した際、共にラバウルに)君が来てくれ快談中、第二の珍客山田誠君が来宅。その山田君の家は玉川等々力(とどろき)。この前の投弾のとき、山田君の隣組だけは投弾なく、周囲の全隣組に落下した由。 ◯二軒建の家の一方では八発の焼夷弾と戦い、やっと消したと思うと、隣りの家に落ちたものが燃えさかり、戸棚よりぷうっと火をふき出して燃えてしまったという。 隣家では細君と子供が、押入内に入っていて落弾に注意を払わなかった由。 ◯毎夜八十戸だ、二百戸だと焼ける。 ◯中島工場は356、宮城は57の地図を、敵が用意している。 ◯昨一月三日の名古屋の空襲に、市内はかなり焼けた由。敵はいよいよ本性をあらわし、焼払い投弾の挙に出てきたと伝えられるが、果してそうか。 ◯雑司ケ谷の場合、家人が電灯をつけはなしで風呂へ行ったため、警報が出ても消す人がなく、戸口には錠が下りている。これが目標になったという。
一月五日 ◯名古屋を去る三日に爆撃した敵機は、わが空軍に行手をさえぎられた結果、目標へ直進できず、そのため爆弾と焼夷弾を市街に投下し、二千戸を焼いたという。 ◯B29の爆音が放送されたが、実物とちがう事甚だしく、参考にするには骨が折れる。
一月八日 ◯去ル五日ニ気ガ附イタコトデアルガ、イツノ間ニカ左眼ガワルクナッテイルノダ。黒点ガ見エ、強イ光デ網膜ガヤケタトキノ感ジガアリ、且ツチラチラト電線ノ雑音ミタイナモノガ盛ンニ動クノデアル。 ソウイエバ昨年ノ暮空襲デクライ外ヘ出タトキ、左ノ眼ガイヤニ暗イ感ジガシタシ、マタ室ニイテモ変デ、左ノマツ毛に目ヤニデモツイテイルノデハナイカト気ニシタ事ガアッタガ、ソノコロカラ悪カッタラシイ。厄介ナコトデアル。併シ目ハワルクトモ戦ウゾ。 ◯敵機は、昨日はとうとう来なかった。一昨日もその前も、午後九時頃に来て、次は暁の五時過ぎに来た。前のように午前一、二時頃にこなくなった。これでこの頃、だいぶ身体が楽をしている。
[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] 下一页 尾页
|