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海野十三敗戦日記(うんのじゅうざはいせんにっき)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-24 10:51:05 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 八月二十七日
◯徹郎、朝子、育郎の三名、広島へ出立す。同宿の中川夫人と芳子ちゃんもいっしょなり。
 英も私も育郎坊やを放すこと別れる事が甚だつらいのだが、どうにもならぬ。坊やは、七月三日より本日まで約五十余日滞留し、その間にかなり身体は伸び体重は殖え、下歯二本生え、えんこが出来るようになり、人の顔が十分覚えられるようになり、いい顔が出来るようになりしなり。
 広島には、カゴシマより上り居らるるカゴシマのおじいさん在り、さぞよろこばるる事ならむ。この上は、広島にて新しき職業がうまく道にのらんことを祈るのみ。

 九月十日
◯朝顔を見るのがたのしみ。きょうはくれない[#「くれない」に傍点]とるり[#「るり」に傍点]との二つ。
◯長野新聞の上田氏の雑誌に科学小説「青い心霊」を書くことになり、かきはじめた。二百枚の予定にて、今日は五十回を第一回として提出のつもり。
◯一星社出版用として「名立の鬼」の一冊を整理する。一星社の若主人は五年間出征していた青年にて、私の愛読者の由。お父さんが児童もの出版をやって居られるが、今度は復員して息子さんは大人ものをやる事になり、角田君と私のところへ来られた由。面識もないわけだが、私は何かこしらえないでは、すまない気がして、あえて引うけた次第である。
◯昌彦の夜の咳、とまらず。
◯中川夫人と芳子ちゃん、広島より帰宅。

 九月十一日
◯けさの朝顔は、ことし植えた中で一番うつくしい空色と白とのしぼり[#「しぼり」に傍点]が咲いた。これで二輪目である。
◯徳川さんの「自伝」をたのしく三十分ばかり読み、あと大事に次の日へとっておく。
◯時代社の中村さんが来宅、第一回の「鬼火族」の稿料を届けて下さる。創刊号はまた一月おくれて十一月からとなった由。
◯四日市場の加瀬氏来る。沖縄第百号を一貫匁ばかりお土産に持って来てくれる。
◯久保田氏の発足を支援して「地中魔」一冊を整理してまとめる。外に「のみの探偵」と「月世界探険」であるが、この二つ、かなり手を入れた。因(ちなみ)に白楊社という名で立つよし。
◯田久保氏(元海軍少佐、青葉二分隊長)来宅。大いになつかしい。

 十一月十七日(日)
◯十月中旬より血痰が出て、静養していたが、本月上旬にはとまり、今は治っている。この数日急に寒くなり、風邪をひいたらしく、ゆうべは熱が出、脈が多くなったので、アスピリン〇・五瓦(グラム)をのんだ。今朝は寒気もなく、気温もいくらか逆戻りして温くなったらしく、雨が降り出した。
◯今朝、柴田氏を訪問の予定のところ、雨となったので、電話で断った。
◯陽子は山脇のバザーで、昨日と今日いそがしい。今朝はたくさん芋をふかして学校へ持っていった。模擬店の「若松」の係だそうだが、その売品の材料に使うらしい。何でも「若松」のお嬢さんが同級にいるとかで、その縁の出店らしい。昨日生菓子を持ってかえって来て一つくれたが、まず甘い方であって、幻滅のおそれはなきものだった。
◯きょうは午後から武田光雄君が来宅せらるる旨、昨夜電話があった。元「青葉」航海士時代に私が乗艦四十五日、そして知り合いになったわけだが、サボ島沖の海戦にて重傷、帰朝して軍医学校に入院、それからなおって又出陣。それから終戦となり、幸いに一命は全うしたので、東京帝大の経済学部へ入学して目下勉強のところ。同君の父君は元海軍大将、元外相、元日鉄会長の豊田貞治郎氏である。
◯きょうの「朝日新聞」の報道に、中国の映画俳優が戦犯として裁判にかけられていると記事があった。
◯日本では、地方官公吏の追放の実施でさわいでいる。電産のストライキは、末広巌太郎博士へ一任となったらしい。全教組は教全組とは別歩調にて文相へ「六百円最低承認に欺瞞あり」と申入れたる由。生産いよいよ低調。政治家はいないのか。憂国の士はいないのか。
◯「狐塚事件」という小説を、もう十日も机上に置いて書いているが、まだ半分しか書けない。しかも全部でたった三十枚ものなんだが。
◯弟佑一、十日ほど前より休養中にて、一ヶ月間静養を医師よりすすめられたる由。血沈が多いとのこと。富久子君が昨日電話をかけて来て始めて知ったわけだが、富久子ちゃんの話によると「血沈が一時に百ミリ位」という。これは信ぜられないが、とにかく働き過ぎの故であろうと思う。私も病体の時、弟の病は気になる。
◯荒木夫人、田中君を養子に迎える件を白紙に戻して、胃潰瘍をなおすために、甲州下部温泉へ向う。

 十一月十八日
◯岡東弥生さん、飯田氏へ嫁ぎたり。
◯朝子育郎両人昨十月下旬、徹郎君所在の広島へ移る。(カゴシマより)

 十一月二十六日
◯朝、風少しありしが、三軒茶屋まで散歩にゆきしところ渋谷への引返し電車ありければ、うっかり乗ってしまう。当然渋谷へ出たり。上通りより道玄坂の右側を通りて下りる。戦災の焼あとに店続々と出来てものすごき勢いなり。古本三冊を買う。「日本書道家辞典」と「禅語辞典」と、森於菟(もりおと)(※解剖学者。随筆家)氏の「解剖台に凭(よ)りて」なり。合計九十五円。餅菓子を売る店を見ているうちに九ケ箱入のものを買いたり。七十五円なり。

 十一月二十七日
◯夜来大雨。
◯炬燵にて引籠もる。
◯「自警」編輯(へんしゅう)部の前川氏来、五回続きの連載探偵小説の執筆の依頼を受く。
◯東京裁判、リチャードソン大将を証人に、真珠湾事件等につき明かにす。
(ラジオ受信機を村上先生のお家にさし上げしに雑音しきりなりとかにて、ちょっと聞きにゆく。そのとおりなり。この項二十六日なり)
◯夜、若林国民学校の根本先生(昌彦の先生)来宅。全教組のスト問題と学校の寄付金問題につき明日学校にて理事評議員会あるとかにて伝えに来られしもの。病中につき欠席する旨返事をし、その他につき意見を交換せり。要は教育改革第一、先生の待遇改善問題第二なり。
◯電話五四三一番にかわる由なり。

 十一月二十八日
◯朝、上町まで行く。この日春の如く暖かなり。銀杏樹真黄色になりて美しく落葉地に敷く。また渋柿の鈴なりが遠景に見えてこれまた美し。
 古本屋にて石原純(※理論物理学者。科学思想家)博士の「科学教育論」と古い本で「科学探偵術」というのを買う。合計二十五円。
 かえりに松蔭神社前駅の前の古本屋にて、延原(※謙)氏が要るという事なりしブルドックドラモントの「フォアラウンド」を買う。三十五円なり。
◯小栗虫太郎君の「有尾人」と「地軸二万哩」の二冊を検読す。朱線にて為すべきところ方々ある外、全く復刊出来ざるもの五つばかりあり。了後それぞれ博文館及び小栗未亡人に手紙にて知らせたり。
◯今日の速達便にて、又々白亜書房なるもの探偵小説選集を出すとかとて、参集方を頼み来たる。姫田余四郎氏の名にてなり。もちろん私は病身ゆえ失礼するつもり。
◯水谷準君より来翰。延原氏夫妻へわれわれよりの贈物は、江戸川さんと小生とにて八百円位の座蒲団を贈ることにしてくれとの事なり。承諾の旨、返事す。実物さがしはこっちがこの病体ゆえ、すまぬ事ながら江戸川さんへお願いの事とする。
◯英、この数日、毎日の如くはげしい頭痛にて寝込む。昨日と今日とは睡眠剤のドルシンを〇・二グラムずつのみたり。(英の希望によりて)
◯私は昨日の雨にて、のどの加減はたいへんよくなったが、こんどは鼻をやられたらしく、しきりにくしゃみ出、洟(はな)をずるずるいわせる仕儀となった。
 これが風邪の第三回の開幕なり。
 昨年とちがって、今年はなぜこう風邪ばかりひくのか訳がわからず。昨年よりはずっと肥っているし、抵抗力もあるはずなんだが。もっとも精神力は非常に低下していることが自分にもよく分っている。

 十一月二十九日
◯鼻風邪いよいよひどく、昨夜は枕をぬらした。咽喉もいたい。
◯朝子より来翰。
◯「科学世界」の九・十月号と十一月号来る。安達嘉一君が科学文化協会の事務次長となりて最初の編集のものなり。新清にして仲々よろしく、就中(なかんずく)「原子力の将来」についての木村氏の記事と、マ司令部のROX氏の寄稿に大いに感動す。この旨、安達君へ手紙を認めた。
◯読者ウィークリーに「鼠色の手袋」八枚を書く。
◯力書房の田中氏、原稿用紙を持って来てくれる。
 松平維石の「キカ」の原稿を托した。
◯福田義雄君と吉水君来宅。ペニシリンの事、加藤ヨシノさんの肺炎のことなど話をする。

 十一月三十日
◯はや十一月も暮れんとす。
◯きょうは晴曇にて寒し。一日炬燵の中にいたり。
◯午後、血を吐く。気道より出たるか肺の中より出たるかはっきりしないが、相当固まっていて指でこすっても崩れない部分さえあったので、気道の方ではないかと思われる。村上先生来診。念のためとトロンボーゲン5ccを注射。
◯愛育社の「電気」を少し書く。
◯江戸川さんより速達あり、延原氏へ贈る座蒲団は、江戸川さんと小生の連名とする事に相談あり。値は一千円位。小生病気につき現品見つけ方及び送り方は全部江戸川さんを煩わすこととなる。
 なお、家の中の仕事といえども、やり過ぎるなと注意あり、返事を認めて、そのことよく守りましょうと申し送った。
 向う一年、ピッチを下げて、最低の仕事をし、最低の生活を保証せん。

 十二月十六日
◯昨日と今日とぼろ市なり。私だけ行かず。諸品高きよし。昨年は蜜柑の山だったが、今年は少き由。暢彦はサーカスを亮嗣さんと見てきたそうだ。入場料一円五十銭。小屋がつぶれて大さわぎをしたという。算術をする犬が一番面白かったと。
◯風寒し。炬燵にこもって、例のとおり仕事。十三枚を書いたところで、つかれを覚えてやめる。烏啼ものの「いもり館」である。
◯昨日は「自警」のための連載探偵小説「地獄の使者」の第一回を書きあげ、今日前川氏に渡した。
◯宇田川嬢「振動魔」の印票を届けられる。二十五日迄に捺してほしいとの事なり。
◯「川柳祭」寄贈をうく。徳川さん、正岡氏、吉田機司氏などを熟読す。
◯きょうは鎌倉の郁ちゃんの婚礼の日。招待を受けたが、この病体にて鎌倉まで行きかねるし、英(ひで)も出したくない。いずれ永日こっちの健康の自信のついたときに二人してお祝品を持って伺うことにしていたが、鎌倉のオバアチャンから電報が来て警告があったので、おばあさんを心配させては気の毒この上なしと思い英に相談し、きょうのうちに祝状と金を祝品代として鎌倉へ送ることとした。同時に咲ちゃんの祝も同様にして送る。
 この秋以来、婚礼甚だ多し。こっちにはいささかこたえるが(ふところ)、まことに芽出たきことである。吉田機司氏の句に、
  女みなはらんだ終戦一年目
◯福田義雄君来宅。ちかごろの真空管はゲッターの研究が進んで、真空化が実に手軽になった由。送信術でも二十五ケ一台を三十分にて排気作業完成し完封するので、一日にこれを二十回もくりかえし得るという。一日に一個宛出来ればいい方だった大正十年頃のことを思えば、うたた感慨無量なり。
◯ラジオの伝えるところによれば、アメリカでは天然色映画「最後の爆弾」が完成せし由。長崎への原子爆弾投下もうつされていると。

 十二月二十一日
◯今暁四時、熊野沖に大地震あり、和歌山、高知、徳島、被害甚だし。東京ではゆるやかな水平動永くつづきたり。

 十二月二十四日
◯電話がかわる。永年借りていた四五四五番よ、さよならで、新しく自分のものとなりしものは五四三一番。

 十二月二十五日
◯英と私の合同誕生日祝にて、にぎり寿司をつくる。マグロ、イカ、タコ、シメサバ、タイラガイにて近頃になき豪華のもの。みなみな腹一杯たべる。

 十二月二十七日
◯いやに暖し。
◯朝、千代ちゃん来る。
◯おひる頃に橋本茂助氏と三男君来宅。炭をもって来て下さる。哲男の熱、少し下がりし由。シズエさんの婚礼は十二月二十一日に新郎の郷里にて盃してすみし由。

 十二月二十八日(土)
◯暮なれどのんびりなり。皆することがないから(金がないので)自然のんびりするなり。来客も皆尻長なり。いつもの慌しい暮に比べると、のんびりだけはうれしいが、その底にあるものは好ましからず。
◯夜、竹田君来宅。「超人来る」二十三枚を始めて渡す。酒煙草に三千円かかるので、生活費として女房に二千円しか渡せない、そこで女房が酒と煙草をやめてくれれば代用食をくわないですむのにといわれ、閉口すとなげいてかえる。

 十二月二十九日(日)
◯痰常体なり。昨夜のは歯から出たものと分る。
◯温さのこりて凌ぎよし、晴れて来る。
◯日曜なれば、暮も静かなり。川柳を繙(ひもと)くうちに昼となる。子供達、昨日の餅にて腹ふくれの態なり。
◯角田氏来宅。木々(※高太郎)邸の集りに出かける前によってくれしわけ。行けぬわけを申す。海苔五帖(渋谷百貨街)いただく。少しやつれ見ゆ。お子達、肺炎のあと蛔虫(かいちゅう)にて又いためつけられしとなり。
◯松平維石君来宅。原稿のことにていろいろと難儀な身の上ばなしを聞く。わが体験をはなし激励し置きたり。
◯延原さんが誘いに寄ってくれる。これも「自信なし自重したい」と弁じて謝す。江戸川さんの返金を頼んだ。きょうは蒲田で脱線して混み、そしてオーバーの釦(ボタン)をとられたため品川で乗換るのを見合わせて東京駅まで乗り、そこで乗客がすいたので床をさがして傷だらけになった釦をひろいあげた由。英が糸にてつける。
◯自由出版の使者来る。
◯開明社のお使い来る。「火星探険」が出来て六十部届けられた。印税の一部も。
◯エホンの稲垣さん来宅。自園でとれた南京豆一袋いただく。子供の大好物なり。原稿料を持参せられ、又次のものを頼まる。それと共に橋本哲男君の原稿をかえされ、意見を陳(の)べられた。甚だ参考になること故、近く哲男君へ伝えようと思う。
◯ふじ書房の近藤氏来宅。どうして居らるるか、素人のこと故、或いは失敗せられしかとこの間うちから心配していたところなので、うれしく会う。スローモーらしいが、仕事はまず順調にいっていると聞き安堵した。私の本は来年にまわるので、その挨拶に来られしわけ。

 十二月三十一日(火)
大三十日(おおみそか)の特徴は、速達の原稿料払いが三つ四つもつづいたこと、荒木さんが印税を持って来て、これが終りであった。
 こっちも最終の払いをすませた。小為替と小切手で二万二千円ばかり、現金にて五千円ほど手許にのこった。
◯岡東浩君来宅。葡萄液と角ハムとキャンデー四つとを貰った。
 こちらはめじまぐろ[#「めじまぐろ」に傍点]で、少しばかりあった酒を出す。そしてニュージランドのオクス・タンの缶詰をあける。たいへん美味しいとよろこんでくれる。この缶詰は半年もあけずに辛抱していたものである。
◯萩原氏はこの家を売るという。財産税を支払うに金がないためであるという。この家を買ってくれと頼まれているが、四十三坪あって、値段は十五万円位と最初の噂であったが、もっとあげるつもりかもしれない。十万円ならなんとか出せると思うが、十五万、二十万では仲々たいへん、いろいろな無理な工作を要し、且つ無一文となるから、そんなに出して買いたくなし。都合によれば、はなれをのこして本屋だけを買い、家族の居住を確保しようと方針を定めた。
◯ヤミ屋と華僑とが街を賑かにして賑からしくやっているが、大多数の国民はそのそばを素通りするだけだ。恐ろしくはっきりと区別のついた別の世界がわれらの傍に出来た。こんなにはっきりと二つの世界が出現したのは始めての経験だ。松飾りも買わない正月(ヤミ屋をわざわざよろこばせてなにになるか)、かまぼこ[#「かまぼこ」に傍点]もきんとん[#「きんとん」に傍点]も街には売っているが、うちにはない正月(高いだけではなく粗悪で、とても買って来て届けられないと魚屋さんがいう)、汁粉屋だ中華料理だ酒だ何だと街には並んでいるが、そっちへは近づきもしない正月(ちがった世界の人々のために用意されたものであろう)――前の正月は、何にもなくてあっさりしていたが、こんどの正月はものがたくさんあって、しかもそれは買えないか、インチキもので手出しをすると腹がたつ、いやな正月である。昔、話に聞いた上海(シャンハイ)、北京(ペキン)やイタリヤの町風景と東京も同じになったわけである。しかし、これから先の正月は、更にそれが激化するのではなかろうか。
◯ラジオを聴きながら寝る。菊田一夫構成の「五十年後の今日の今日」の苦しさよ。そのうち除夜の鐘がなり出す、東叡山寛永寺のかねがよく入っていた。
[#改段]

昭和二十二年
 一月一日(曇)
◯五十一歳。英は三十九歳。
 陽子十七歳。晴彦十五歳。
 暢彦十三歳。昌彦十一歳。
 養母六十五歳。
◯英、頭痛にて寝込む。
◯例により、炬燵の船長相つとむ。
◯賀状もちらほら入っている。横溝(※正史。探偵小説家)君の手紙を例によりたのしみにして一番おしまいに披(ひら)く。私の処女作「電気風呂の怪死事件」が昭和三年の春の『新青年』に出た頃の秘話(?)を始めてきかしてくれ、なつかしくなること一通りでない。
◯高橋栄一先生夫妻、モーニングに、奥さまは狐の襟巻というりゅうとしたる姿にて年賀に来て下さり、俄かにあたりが眩しく光を放ち出し、これにてようやく新年らしくなった。先生夫妻は麻布本村町の岡東浩君の宅へ転入されしは今から十日ほど前のこと。その礼などいわれる。
◯坪内和夫君来賀。いつも元旦に来てくれる和夫君。一年増しに立派になり、まことにうれしくなつかしく、三十五歳にて逝かれし故坪内信先生の面影がふと一閃、わが目前を過ぎて見ゆるような気がする。地下で先生もにこにこ笑っていられるに違いない。
◯村上勝郎先生、例によって来診、ビタミンB1[#「1」は下付き小文字]とCの注射も亦例の如し。大三十日以来腹ヤミにて、夜も元旦朝も起され、たいへんだった由。巷に汎濫する食料品のいかがわしさ以て知るべし。
◯夜は親子六人、八畳の炬燵を囲んで、雑誌や動物あわせに賑かに更けて行く。いいお正月だ。何はなくとも、また前途に何があろうとも、今夜ばかりは。
◯江戸川乱歩氏は几帳面に一号館書房の印税割あてを送って来て下さる。二千八百二十六円也。これ本年初収入なり。


 一月二十三日
◯新春以来漸く冬籠り生活に落着く。
◯血痰は週に一度は必ずあり、但しまもなく消えてしまう。以前のように四日も五日も続くわけにもあらず、又量もそのように多くもなく、中蚯蚓(みみず)の三分の一ぐらいなり。この頃夜間の咳少しくあることもあれど、一体に無し。喀血と称するほどのものに遭わざるは楽なり。
◯この家(若林一七九)を買ってくれと萩原の喜市さんが話に来る。財産税仕払に金が要る由。
◯高橋栄一先生(晴彦の元の先生)を岡東のうちへ世話して間借に及んだところ、このほど岡東の家が進駐軍に接収されることになり、二月十二日までに立退きを命ぜられ、上を下へのさわぎなり。友のために暗涙にむせぶ。入るは中国人なりと。
◯織田作之助、三十五歳にて死す。
◯ザラ紙一嗹(れん)八百円は安い方。千円も千二百円もの呼値さえあり。雑誌社悲鳴をあぐ。しかし一般に出版業者は強気なり。もっとも蜜柑四個が十円のこのごろ、一冊十五円の本はきわめて安し。
◯新春以来の執筆原稿次のとおり。
 “黒猫”に「予報省」二十七枚
 “自警”に「地獄の使者」第二回分二十五枚
 “少年”に「科学探偵と強盗団」の第一回二十二枚
 “少年クラブ”に「珍星探険記」の第一回二十三枚
 “サン、フォトス映画部”のための立案「掌篇探偵映画」
 “函館新聞社”の“サンライズ”の随筆「炬燵船長」六枚
 “エホン”の「そら とぶ こうきち」の七枚
 計百二十四枚。
◯双葉山、呉清源のついている璽光様(じこうさま)、金沢にてあげられる。(※新興宗教、璽宇教教祖璽光尊、幹部の元横綱双葉山、棋士呉清源ら、食糧管理法違犯により二十一日に逮捕)
◯佑さん病気なおりて本日より出社。
◯小川得一氏、ウラジオに健在なりと自宅へ往復ハガキ来る。家族狂喜。さりもありぬべし。

 六月四日
◯四ヶ月ほどこの日記をつけずに暮したが、この間にいろいろなことがあった。
◯まず弟佑一君が死んだ。三月二日のこと。病名は結核性脳膜炎。発病後三週間余にて、あわただしく逝った。あんな善人に、天はなぜ寿命をかさないのかと、私は恨めしく思った。戒名は佑光良円居士。
◯私の病体は、一応落着いていたように見え、四月にちょっと失敗して赤いものを出した。
◯一月には血痰が十二日、二月には七日、三月は四日位に減っていたが四月七日に小喀血(十cc位)。
 すっかり自信を失う。この原因はよくは分らないが、三軒茶屋にて見つけて買って戻った百間随筆全輯六巻を、一番大きな本棚のその上に並べたが、そのとき患部のある左の方の手を使ったためかと思う。
 しかし例の如く村上勝郎先生のお手当と、女房のきびしき心づかいにて、まもなくとめた。
 それから一ヶ月半病床生活を送った。
 四月二十三日に血痰が出た。それ以来今日まで、血痰が二三度出た。もう来客にお目にかかっている。
 五日ほど前から散歩を始め、三日間つづけて外出した。それも遠方ではなく世田谷一丁目か、三軒茶屋迄位のところ。しかるに三日目の翌日、血痰を出したので、あとはとりやめとする。
 ひびの入った硝子器のように、全くなさけない脆弱な躰である。
 どうして血痰が出るのか。患部に血管が露出していて、それから出血することは分っているが、そこから出血させないようにするにはどうしたらいいのか。何を慎んだらいいのか。
 左手を使って高いところへ重いものを持上げることが悪いのは、よく分っている。こんなことは殆んどしない。
 なるべく左手を使うこともひかえているが、ときに使う。だが、それは大した使い方ではない故、影響なしと思う。
 咳がいけないことは分っている。なるべく咳をしまいとする。しかし咳は自分でとめることは出来ない。咳は胸の中に痰がたまったときとか、咽喉に炎症があるときなど、自然に起るもので、意志の力では停めがたい。
 しかし咳が喀血や血痰の基だと思うから、それをむりにも停めようとする。かくて訓練の結果、いくぶんは停められるようになる。
 しかしそれは幾分であって、咳がいよいよ出始めると、どうしようもない。それを、同じ咳を出すにしてもなるべく小さい咳を出そうとして苦しい努力をする。修業と同じだ。全くやり切れない。しかし修業を積むと、すこしは咳を緩和出来るらしいことに気をよくして元気を出す。
 くさめはいけないと分っている。くさめが出そうになり、いよいよそれが出るまでには若干時間があるので、出そうになると、鼻を指でこすったり、鼻をくすくすいわせたりして、極力くさめをもみ消すのである。これは修練の結果、七割ぐらいは成功。
 遂にくさめが出るに及んでも、それを出さないように最後まで抑止する。
 その結果、妙な音響を発する。鼻と口とを抑えてくさめをするからである。鼻孔を出来るだけ細くしてくさめをするからである。うっかりきもちよくくさめをすると、そのあとで胸の中で血管が切れやしなかったかと、たいへん心配になり、くさってしまう。
 歩くことがいけないのであろうか。歩くと、はあはあ息を切るから、それが肺の活動を大きくしていけないのであろうか。
 喋ることの悪いのは、よく分っている。喋れば肺を活動させ、そして咳がつぎつぎに出て、更に肺をゆすぶりあげることになる。
 喋りたくはない。しかし病体で引籠り中のところ、親しい友が来てくれればどうしても喋りたくなる。
 仕事の方の客は、用談だけだから、短くてすむ。親しい友ほど、長話になる。それだから親しい友と逢うことはさけなければならないことがよく分っている。だが、私はそれだけは頬かむりして、逢うことにしている。親しい友と語らずして、何んの生甲斐があろうか。そして友から受ける精神的活力は、闘病療養のためにこの上もない貴重なくすりなのだ。
 いろいろ喀血出血の原因を考えたが、何分にも自分は生理学や病理学には素人であって、本尊をつかんでいるかどうか分らない。ただ一つの自信は、自分の躰であるから、いつもよく観察しているので、こうもあろうかと推察に自信がついてくることである。
 要するに、出血喀血の原因動機にはいろいろあり、そして同時に、出血喀血の原因動機ははっきり区別出来ないということだ。で、喀血出血の原因となるべき諸行について日常極度に恐れを抱いて暮すということは、如何がなものかと思う。いくら咳をしても血管が切れないこともあれば、ちょっとした咳でぷつんと切れることもあるのであろう。
 だからそんな心配をしているのは阿呆というべきであろう。もちろん無茶をしてはいけないが、こうしたら喀血出血するか、ああしては赤いものが出るぞと、神経過敏に恐怖観念に駆立てられていることはよろしくないのだと思う。
 ところが、夜分、停電で真暗な寝床にいたり、夜中に胸の工合が変で目がさめたときなど、どうにも仕様のない恐怖の谷底へつきおとされるのである。
 とにかく私は、いろいろと解析し、その都度結論をたて、それをあんばいして時に応じあれやこれやとテストをし、一生けんめいに最もよい対策と心構えをつかもうとして努力している次第である。



底本:「海野十三全集別巻2 日記・書簡・雑纂」三一書房
   1993(平成5)年1月31日第1版第1刷発行
底本の親本:「海野十三敗戦日記」橋本哲男編、講談社
   1971(昭和46)年7月24日第1刷発行
※ノート2冊に書き残された「空襲都日記」と「降伏日記」は、筆者の死後、海野と親交のあった橋本哲男氏によって編まれ、「海野十三敗戦日記」として出版された。同書では、1944(昭和19)年12月7日から翌年5月2日まで分を「空襲都日記」、5月3日から1945(昭和20)年12月31日までを「降伏日記」としている。
三一書房版の全集編纂にあたって、別巻2の責任編集者となった横田順彌氏は、「海野十三敗戦日記」を底本としながらも構成をあらため、同書の「空襲都日記」を「空襲都日記(一)」、「降伏日記」の内、1945(昭和20)5月3日から8月14日までを、「空襲都日記(二)」、残りを「降伏日記(一)」とした。さらに、英夫人よりあらたに提供を受けた1946(昭和21)年1月1日から翌年6月4日までの分を「降伏日記(二)」として増補した。
このファイルの作品名は、「海野十三敗戦日記」としたが構成は、三一書房版の全集に従った。講談社版には橋本哲男氏による解説「愛と悲しみの祖国に」があるが、全集同様、本ファイルにも同文は収録していない。
入力者注による体裁の記述も、全集版に基づいて行っている。ただし全集では、大幅に割愛してあったルビを、本ファイルでは補った。講談社版には橋本哲男氏が注を付しており、全集もこれをなぞっていたが、本ファイルでは新たに入力者注として付け直した。これらの作業にあたっては、講談社版を参考にさせていただいた。
※1945(昭和20)年8月13日に海野が認めた遺書を、本ファイルでは同日付けの日記の末尾に付した。
入力:青空文庫
校正:伊藤時也
ファイル作成:野口英司
2001年1月13日公開
2001年1月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


●表記について

本文中の※は、底本では次のような漢字(JIS外字)が使われている。

田口※三郎氏

第4水準2-78-35
李※公殿下
野菜と魚の※がとれて

上一页  [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]  尾页




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