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海野十三敗戦日記(うんのじゅうざはいせんにっき)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-24 10:51:05 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 五月二十三日
◯連日天候わるく、雨の降らぬことなし。敵機もいっこうにやって来ない。
 電車に乗っても、防空頭巾を持っているのがまず三割程度。人間というものは、鋭敏なりとほめるべきか、それとも面倒くさがりやだとけなすべきか、それとも、油断をするな、と声をかけるべきか。
◯今日は雨降りなれど、ちと気温上る。すなわち十六度となる。昨日は十三度どまり。天候漸く恢復の兆あり。
◯昨日は畠をこしらえ、加藤完治(※満蒙開拓移民の指導などに当たった、明治―昭和期の農本主義者)さんの話にならい、甘藷(かんしょ)の皮を植えてみる。
(※カット「甘藷植えの図」入る。54-上段)
◯昨夜は、初めて写真の引伸ばしというものをする。成功した。出来てみれば成功とかなんとかいうほどのものならず、簡単に行った。
 この頃写真の現像、焼付、引伸ばし、みんな自分でやっている。
◯陸軍軍需本廠研究部へ売却することとなった学術書籍及び雑誌を、今日先方からとりに見える。学生さんが三人、そのうちの一人は良太(※甥)君だから笑わせる。
 午前と午後と二度、雨の中を重い風呂敷包を背負って帰った。さぞ腹が減ることと同情したが、何の風情もない。わずかに一切れの手製パンに、先日岡東より貰った小岩井のバターをつけ、砂糖なしの紅茶を出して、気をまぎらして貰った。

 五月二十四日
◯零時二十八分に関東海面に警戒警報が出た。「数目標」という。英(※夫人)と一緒に起き出て、まず二人は支度する。そのうちに関東地方に警戒警報が出た。皆を起こして支度をさせる。また重要物件を防空壕へ入れる。水をあちこちへ置き、水道へゴム管をつなぐ。そのうちに空襲警報となる。一同防空壕に入る。
◯もうこのときは品川あたりが燃えていた。一番機の投弾だ。「また品川か」と思ったが、今夜はきっと違った狙いでやってくると察していた。品川が初まりで、渋谷の方へ伸びて来るかと思った。二番機、三番機と、少しずつ北へ寄って来る。いよいよそのとおりらしい。
◯激しいB29の焼夷弾攻撃が始まった。三千メートル位に降下している。照空灯の光の中にしっかり捉えられている。ものすごく地上砲火が呻り出す。永い間ためてあった砲弾を打出すといったような感じである。
 月のある夜空を、火災の煙が高く高くのぼって行く、その煙雲のふちはももいろに染まっている。
 川開きのような、下がってくるオーロラのような焼夷弾の落下である。
◯撃墜されるB29が火達磨(ひだるま)となって尚飛んでいるすさまじさ。そのうちに空中分解をしたり、そのまま石のように燃えつつ、落ちて行く。闇の方々より、拍手と歓声が起こる。そして地上防空活動も、士気大いにあがった。
◯放送でも「今日の敢闘は賞讃に値いする」といった。
◯焼けたところはよくわからぬが、千駄ケ谷もやられた由。夜ほのぼのと明ける。

 五月二十五日
◯五反田の電気試験所のまわりがひどく焼け、電気試験所は一部が焼けたと、昨日中川(※中川八十勝、電気試験所時代の同僚)君が報せてくれた。そこで今日は自著十一冊を手土産として、同部へ見舞に出かけた。
◯電車は、昨日までは、大橋―渋谷間が不通で、省線は新宿―品川―東京間が不通であったが、今日は渋谷まで行くし、省線も五反田まで行く。が、省線電車は五反田の手前でエンコをしてしまい動こうともしない。そこで飛降りて堤下に至り、路をあるく。もちろん日野校をはじめ界隈は焼野原であった。五反田の焼跡風景も、浅草上野の焼跡風景も、同じであることに気がついた。
◯電気試験所は第一部が全焼していた。新館、旧館各棟は異状なしであった。裏門前一帯もすべて焼けつくし、第二日野校ももちろん丸焼けである。そしてアスファルトの上に焼夷弾が十四、五発つきささっているのは、胸にこたえる風景であった。同校の防火壁だけが厳然と焼け残り、その両側は空であるのも異様な風景であった。
◯米国飛行士一名、五部の元蓄電池室の裏へ降りし由。石井君たちが捕虜とした。ピストル二丁、弾丸二十発位、持っていた。まず後手を縛したる上、桜の木のところへ連れていって、木に上下をしっかり縛りつけたという。当人は至極温和しかったそうだ。
◯後藤睦美君が、バラスト管の代用品をこしらえてくれた。
 同君の一家も痩せてくるので、浜松へ疎開するそうだ。
◯空襲警報となる。P51、約六十機と嚮導(きょうどう)のB29、二機。しかし機影を見ず。

 五月二十六日
◯昨二十五日夜は風が強かった。ふと目がさめると「いかなる攻勢にあうとも敢闘を望む……」と放送をしている。警報にも気がつかなかったらしい。又ラジオの情報も分らなかったらしいのだ。英と相談して起きる。と、空襲警報のサイレンが鳴り出したので、少々面喰らう。
◯初めは房総東方からきて、品川あたりへ投弾したので、「ハハア、また品川が狙われたか」と思っていると、その数十機が過ぎたとたん、西方からぞくぞく侵入し来たB29の大群。それが今夜は、まさにわが家上空を飛んで東方・渋谷方面へ殺到し、やるなと思う間もなく同方面に焼夷弾の集中投下を見る。例のとおり華やかな火の子はオーロラの如く空中に乱舞し、はらはらと舞い落ちる。従来より最も近いところに落下する。
 そうするうちに、南の方へもぞくぞく落ち出したが、また北方・中野方面にもひんぴんと落下し、かなり近い。これは警戒を要すると思っているうちに西の方へもばらばら落ち出し、東西南北すっかり焼夷弾の火幕で囲まれてしまった。
 が幸いにも、若林附近はまだ一弾も落ちない。敵は百五十機位もう侵入したことになった。西方の田中さんの畑に晴彦と共に出て空を見ていると、二子玉川あたりの上空を越えてぞくぞく後続機が一機宛こっちへ侵入してくる。其の方向はすべてこっちへ向いているのだ。これはいよいよ来るわいと思った。
 すると果して轟音を発して、山崎や若林のお稲荷さんの方が燃え出し、つづいて萩原さんの竹藪の向こうに真赤な火の幕が出来、三軒茶屋方面へ落下したことが確実となった。
 わが夜間戦闘機も盛んに攻撃している。たいがいわが家の西方で邀撃(ようげき)。
 晴彦に「あれは危いぞ!」とこっちへ向いた一機を指した折しも、ぱらぱらと火の子がB29の機体の下から離れたのがわが家よりやや西よりの上空。「いかんぞ!」と言うのと、ゴーッと怪音が頭上に迫ったのと同時だった。晴彦に待避を命じて小さくなった。焼夷弾の落下地点に耳をそばだてていると、佐伯さんのあたりに轟然と落下し、あたりに太い火柱が立った。婦人たちの悲鳴、金切声など同時に起きる。
「萩原さんのところだ!」「奥山さんだ!」「松原さんだ!」との声々に、見ると、立木が燃えている。立木ならたいしたことなしと思いつつ、我家を見まわったが、幸いに事なし。
「菅野さんへ焼夷弾落下、燃えています!」叫び声が聞こえた。これはいよいよ始まったかと思って門の前へ出て見たが、火は見えず。裏へまわって英に防空壕の一方を埋めさせることにして、そのあと陽子(※次女)と晴彦と協力し、かねて積んであった土の箱をおろそうとしたが、なかなか重くて動かない。やっと引おろして埋めにかかったが、土が足りそうもない。時間はかかる。病気中の昌彦(※三男)におばさんと暢彦(※次男)をつけて、裏手の林へ避難させる。
 私は表へ廻った。と、相変らずすごく落ちる。もう音響にも火の色にも神経が麻痺して何ともない。屋根の上に何かが落ちて、どえらい音がした。焼夷弾ではなさそうだ、火が見えなかったから。
(翌朝見たら、油脂焼夷弾の筒の外被と導線管であった。いずれも一メートルのもので、外被は英のすぐそばへ落ち、導線管は私のうしろへ落ち、大地に深い溝を彫っていた)。
 私は幾度も家を見廻ったが、異状なし。よって表に近い松の木の下の素掘りの穴に、出来るだけの物を入れて、土を被せてやろうと思った。
 まずわが部屋の引出しを投げ込んだ。それから皆の寝ていた蒲団を投げ込み始めたが、これがとても重く感じられた。その間にも火の子がうちへ入るので目は放されず、おまけに風下にいるので、七、八軒向こうの火勢がまともに吹きつけ、煙はもうもう、息をするのが苦しくなる。
 ラジオも、アルバムも、本も、辞典も入れた。ミシンを出したが、重くて自由にならず、庭に放り出して逆さにした。足の方が上だ。これは金属製だから、すぐには焼けまいと思う。
 壕はまだ半分ふさがっただけだが、これ以上物を入れるのはやめにした。そう欲ばっても――と思ったのと、いつまでもこんなことばかりしていられないからだ。
 まだ土をかけていないのに気づいてそれを始めた。裏からクワをとって来たが、土にぶっつけても跳ねかえるだけ。やむなくクワの根本を持って土をかく。この方がいくらか楽だ。
 心臓が止まりそうになる。時々休んだ。休んでいると元気も力も回復することが分った。
 一人ではとても駄目であると思い、誰か子供一人をつれて来たいと裏へまわる。裏でも盛んに土をかけていた。ようやく大きい穴がふさがり、今度は小さい穴にかかっていたが、土が足らないという。
 あとは英と晴彦にまかせ、陽子を伴って門の方へ引返す。と、多勢の人が煙の中から門へ入って来た。見ると菅野さん、羽山さん、松原さんたちである。
「どうしました?」「火が迫っています、今のうちに逃げないとあぶない」銀行の支店長をしている菅野さんが言う。
「まだ大丈夫ですよ、頑張れば喰いとめられますよ」「いや、もういけません、佐伯さんの方と、高階さんの方の火とが、両方からこっちへ押して来て、息がつまりそうです」
 婦人たちは口々に、早く待避せねばたいへんだとわめいている。私は逃げるつもりはなかった。「それでは家の裏から田中さんの畑へお逃げなさい。あそこなら大丈失ですから」教えてやると、昔ぞろぞろと家の庭を通って姿を消した。十人近い同勢である。松原大佐夫人が無言で、小さい身体を一行のあとに運んでいるのを見た。
 その前菅野さんの家は四ヵ所もえあがり、それはようやく消しとめたが、菅野さんは屋根へあがって消火しているうちに屋根からすべりおち、地上にしばらく伸びて口もきけなかった由。それ以来菅野さんは戦意を喪失しているようにみえた。
 一同が去ったあと、私たちはなおも火の子と煙と戦っていた。
 焼夷弾は幾度となく頭上にまかれたようだが、奮闘している身は、気がつかない。
 そのうちに少し明るくなってきた。煙がうすれ、風向きが変わって、呼吸も楽になった。これなら何とか危機を脱せそうだと、やっと希望をもちだしていると、空襲警報の解除が、伝えられてきた。電気はとっくに切れてしまったので、ラジオが鳴らず、口頭伝達である。一時間ばかりが、奮闘の絶頂であった。
 あたりはまだ炎々と撚えている。真西は最も盛んだ。あとでわかったことだが、豪徳寺東よりの軍の材木置場が燃えているせいだった。
 最も近火だった南の高階さんの向こうの火も余燼(よじん)だけとなった。
 一同相寄り「まあよかった」と、よろこぶ。
 近所からもそれぞれ顔が出る。いつの間にか皆家へ戻っていて、それぞれの部署を守って敢闘した由。さすが日本人である。
 私が「大丈夫、消せます。頑張りましょう!」といった一語が、隣組の人達によほど響いたことがわかった。菅野さんの若い人たちなどは初めから避難反対だったが、両親の命令で一緒に避難したが、私がそういったことやら、うちの子供が一生懸命土をかけて活動しているのを見て、これでは避難もしていられぬと、すぐ自宅へ引返したという話であった。
 押入に残っていた蒲団を出して、一同仮寝につく。みな疲れと安心とで、ぐうぐう寝込む。
 夜中に声あり。出てみると水田君が見舞に来てくれた。眠い目をこすりながらしばらく話をする。自由ケ丘の方は今度は大丈夫なりとのこと。
 かくして夜は更けていった。というよりも暁を迎えたのであった。

 五月二十七日
◯夜は明け放たれた。起出てみたが、夢のような気がする。

 六月十日
(※以下、新聞の切抜き)
 敵機の本土爆撃は漸次(ぜんじ)頻繁(ひんぱん)、大規模となりつつあるが、四月十六日から五月三十一日までの空襲被害状況とその特色が、当局の調査によってまとめられた。
 それによると四月十六日以後一ヵ月間は、沖縄作戦を有利に導くため戦略爆撃を主とし、九州、四国方面の航空基地、あるいは航空機工場を目標としていたが、五月十四日以後再び大都市無差別爆撃を開始し、戦略的効果をねらうに至り、五月十四、十七日名古屋に、二十三、二十五日東京、二十九日横浜に来襲した。
 この空襲で注目されるのは、二十九日の横浜爆撃で従来の夜間爆撃戦法をやめ、午前の晴天時に来襲していることで、六月一日の大阪爆撃と併せ考える時、今後敵は白昼の無差別爆撃を行なうことが予想される。
 また他の特色としては、
(一)多数戦闘機の護衛を伴い来襲し(二)港湾水路に機雷敷設(三)宣伝ビラ散布の執拗な努力をしていることなどである。さらに警戒を要することは衛星都市ないし中都市、交通の中心地に爆撃を加える傾向のあることである。
 四月十六日から五月三十一日までの空襲で、皇居、赤坂離宮、大宮御所も災厄を受けたが、大宮御所の場合は夜間爆撃とはいえ、月明の中で広大な御苑の樹林、芝生のほとんど全部が焼けただれるほどに焼夷弾を投下したことは、単なる無差別爆撃でなく特別な意図を抱く行為であることは明らかである。
 このほか熱田神宮本殿、日枝神社、松蔭神社、東郷神社なども災厄を受け、寺院では増上寺、泉岳寺等も爆撃された。
 病院では、慶応病院、鉄道病院、済生会病院、松沢病院、青山脳病院、名古屋城北病院、県立脳病院など。
 学校では慶応大学、早稲田大学、文理科大学、東京農大、一高、成城学園、日大予科、女子学習院を初め中学、国民学校多数。
 文化的遺産では名古屋城天守閣、黒門、日比谷図書館、松村図書館など多数。
 とくに二十三、二十五日の東京空襲では秩父宮、三笠宮、閑院宮、東伏見宮、伏見宮、山階宮、梨本宮、北白川宮の各宮邸、東久邇宮鳥居坂御殿、李鍵公御殿などが災厄を受け、
 公共施設では外務省、海軍省、運輸省、大審院、控訴院、特許局、日本赤十字社の一部ないし大部の焼失をみたほか、
 帝国ホテル、元情報局、海上ビル、郵船ビル、歌舞伎座、新橋演舞場なども一部ないし大部を焼失した。
 なお同期間内の大都市空爆被害は、東京全焼二十五万七千戸、戦災者約百万人、名古屋全焼三万六千戸、戦災者約十一万、横浜十三万二千戸、戦災者約六十八万人と推定され、この期間中に静岡、浜松にも相当被害あり、九州、四国、山陽方面にも戦略爆撃による被害があった。

 B29機来襲
 三月  二千機
 四月  二千五百機
 五月  三千機
 5/29 横浜 B29、五百機 P百機 正午頃
     大阪東部、北部、尼ケ崎へ
     神戸東部、芦屋 B29、三百機
 6/9 尼ケ崎、明石 B29、百三十機 朝
 6/10 日立、千葉、立川 B29、三百機 P51、七十機 朝
 6/11 立川 P51、六十機 正午頃

 六月十一日
◯昨日も今日も敵機は来襲。いずれも白昼である。ただし、我家の方には投弾せず、もっぱら立川と溝ノ口か狛江らしい方面へ落として行った。昨日はB29、三百機で、日立や千葉へも行った。そして硫黄島発のP51を七十機伴なっていた。折柄、臨時八十七議会を開会中で、戦時緊急措置法案上程の最中だったが、議会は午前中休会のやむなきであった。
 今日はP51ばかり六十機、また立川ヘ。
 これらは本格上陸作戦の直接準備と解すべきか、私は、まだ少し早いと思う。
 とにかく千葉にはもはや八十万ぐらいの精兵が集っているらしく、いつでも敵を迎えうつ体制とはなっている。しかしまだ現地の姿は静かに見える。
◯武井さんという律義で正直な大工さんを中川君の妻君が紹介してくれ、前から鶏舎や炬燵(こたつ)など作ってもらっていたが、この前の五月二十五日の空襲の翌日(二十七日)ふらりと姿を我家へ現わしてくれた。実は女房から「裏の防空壕の入口の木が地上一尺ほどはみ出しているので、これを切ってほしいから、手がすいていたら来てほしい」と手紙を出して置いたので、見に来てくれた訳。
 ところが武井さんの顔を見ると、地下物置が作りたくなり、武井さんも「それは必要だ」といってくれたので、急に話がまとまって建造にかかった。材料は物置をこわした。二軒のうち一軒は、萩原さんのものを買取ることにした。これ以外に柱二十本、トタン板十坪が入用。これは梅月さんに頼む。梅月さんも「この頃は穴掘りばかりやっているから掘ってあげましょう」といってくれ、すべてがとんとん拍子で、たった五日間で、二坪の壕舎が、鶏小屋の前に完成した。全くたいへん調子のよいことであり、これにて安心、衣類、蒲団、書籍その他を入れた。
 この間二週間ばかり、私は子供たちを手伝わせたりして、ずっと運搬整理などの力仕事をしたので、たいへん痩せたといわれた。
 もうその方は片づいたのであるが、まだ忘れものがあって、思いついてはまた入れている。
 日用品は誠に大切で、夜はしまって寝なければならず、朝には必要となるので、出したり入れたりの日課がふえた。
 昨十日昼間のB29、三百機来襲には、蒲団などを入れて、ふうふういった。これには目下不在中の同宿者たる中川(※八十勝)君と良太(※朝永)君のものを担ぎ入れるのに、相当骨を折ったからである。敵機が去ったので、出さねばならぬ段取りとなったが、腹も減って、昼飯を一時間早く請求、これでようやく力を出して取出すことが出来た。
 中川君、昨日広島より帰京している筈のところ、今日夕刻に至るも、まだその姿を見せず。昨日の空襲で豊橋―掛川間が不通となった事故のための延着かと思っていたが、この分ではそうでもなさそうに見える。
◯昨日、日大山田君来宅、過日陸軍軍需本廠研究部へ売却した技術科学書及び雑誌代として、金四百六円七十銭を届けてくれた。
◯今日関東配電の鈴木老が、電灯線不通の状況を見に来てくれた。高階さんの向こうのところでポールやトランスが焼け、柱が燃え折れているので、やっぱり当分通電はむずかしいらしい。

 七月十四日
◯前誌より一ヵ月以上経った。なぜこの日記を書かなかったのかと考えてみる。忙しさのためだったといえよう。その忙しさの原因は、空襲対策の整理のため、仕事のため、殊に講演出張のため。
◯沖縄は去月二十日を以て地上部隊が玉砕し、二十六日にはそれが発表された。「天王山だ、天目山だ、これこそ本土決戦の関ケ原だ」といわれた沖縄が失陥したのだ。国民は、もう駄目だという失望と、いつ敵が上陸して来るか、明日か、明後日か、という不安に駆りたてられている。
 果して天王山だったのか、関ケ原だったのか。それは尚相当の時日を貸さなければ判定できないが、この天王山だの関ケ原などという用語が、あまり感心出来ないものであることは確かだ。それは国民の戦力敵愾心(てきがいしん)を集結させるために余儀ない強い表現であったかもしれないが、今度のように沖縄がとられてしまったとなると、もうあとは戦っても駄目だ、日本の国はおしまいだという失望におちいって、動きがとれなくなる。これは困ったことだ。
 当局はそれに困ってか、沖縄は天王山でも関ケ原でもなかった。そんなに重要でない。出血作戦こそわが狙うところである――という風に宣伝内容を変えてもみたが、これはかえって国民の反感と憤慨とを買った。そんならなぜ初めに天王山だ、関ケ原だといったのだと、いいたくなるわけだ。
 これに対して、鎌倉円覚寺管長の宗海和尚はこういっている。「沖縄は天王山であり、関ケ原である。あれはとられたが、ぜひとも奪還しなければならぬ、それほど沖縄は重要なのである、という風に持って行くべきじゃ」この説まことに尤もである。最近では遠藤長官が、この奪還論を掲げるに至った。
◯昨十三日午前零時頃、久方ぶりに敵B29、五十機京浜地区を夜襲し、川崎、鶴見を爆撃した。爆弾と焼夷弾とを投下したが、折柄豪雨で、そのために発生せる火災は間もなく消えてしまった。敵のためにはお気の毒を絵にかいたようであった。
◯七月一日より五日まで、山梨県下に甘藷二十七億貫植付の激励講演をして廻った。甲府市には二日、三日、四日といた。その二日後の六日夜にはB29の大編隊が来て、市を八、九割焼いてしまった。きわどいところであった。
 甲府はこの上もない安全地帯だと思っていたが、来てみると、地下一尺五寸にして水が出て、防空壕が深く掘れず、山国ゆえ食糧の移入困難の恐れもあり、加えて陸軍大学等の諸官衙(が)がここへ疎開している上に軍隊がたくさん居るので、食糧事情は一層困難だということであった。もちろん家も空部屋もなく、旅館で部屋のとれないことは甲府の名物だとあった。
 私が甲府を離れた七月四日に、ようやく建物疎開をすることが決まったばかり。すべては油断があり、遅すぎた。しかし空襲が一度もなかったこの市民たちを、大いに緊張せしめる事の出来なかったのは、何としても知事以下の努力の足らざるところと思われる。
 県庁も、駅も、郵便局も、警察署も焼け残ったそうで、その奮闘はたいしたものであったというが、それだけが焼残っただけでは困る。町が焼けずに残らねば何にもならぬ。
◯七月八日は栗橋の吉田修子さんの婚礼があり、目下入営中の戸主・卓治さんの心持もあり、私はその式に列した。それから平磯へいって講演をしたが、それが九日。十日は早目に帰京するつもりでいたところ、朝五時半から敵機動部隊が鹿島洋、九十九里浜沖から艦載機をぶんぶんとばすので、夕刻まですっかり平磯館に閉じこめられてしまった。
 ロケット弾を放つ小癪な敵機を見た。平磯館の裏は飛行場であるから、盛んに銃撃があった。しかしたいてい敵機が帰りがけの駄賃に撃っていった。
 平磯では取締りがやかましく、皆防空壕に入れといったり、町をあるいていると叱りつけたり、こんな小さな町がそう神経質にならずともと私は思ったが、誰の心理も自分のところが狙われているのだと信ずることには変わりはないようだ。
 午後五時四十分平磯発の汽車で、松村部長と共に帰京の途についたが、これが十二時間ぶりに動き出した初列車。水戸から上野へ走る列車はがらがら空いていて、乗客一人当たり六席か七席もあった。
 渋谷からは歩いて帰る。渋谷着は午後十一時十分であったが、玉川線は十時半が終車ゆえ、歩くしかない。焼跡の間の一本道を大坂上にかかったとき、警戒警報が発令された。あまり灯火を消す風も見えず、憲兵隊の漏灯をはじめ、民家にもコウコウたる点灯の洩れているのを見る。焼跡だからとの油断らしい。大橋に至り、焼けていない目黒方面を見ると、灯火管制は完全であった。焼跡住民の士気弛緩は慨(なげ)かわしい。
 帰宅までに二度、お巡さんから誰何(すいか)された。リュックの中の品物について訊問を受ける。それが大鯛であり、防空頭巾をかぶせてもまれるのを防いであるので、余計に大きく見える。この鯛は貰って来たものである事や、空襲下の平磯からようやく開通の列車で帰って来たことなどを話して、諒解して貰った。
◯中小都市の爆撃が始まり、猖獗(しょうけつ)を極めている。そのさきがけは、五月二十九日の横浜市への五百機来襲であった。
◯御影の益兄さん一家も、芦屋、御影、神戸東部の濃密爆撃のため、全焼した。しかし一同無事。
 姉さんと圭介君は、益兄さんの勤務している広島の近くへ行くし、咲ちゃんと修ちゃんは御影へ残ることとなり、それぞれの友人の宅に置いて貰う。ほかに良ちゃん(※朝永良太)はうちに下宿中、洋二君は商船学校に在学中で、一家六分離した状態となった。
◯親類ですでに戦災せるは、牛込岩松町の山中作市氏一家、ほかに樋口(中野)、中条(代々幡)、常田(厩橋)である。
◯清水も過日、濃密夜爆を受けたという。羽部家は如何かと案じているが、たぶん大丈夫だと思う。町はずれにあるからそう思うのである。
◯偶然焼け残ったというところはない。懸命の努力で消火したればこそ焼け残ったのである。
◯本十四日、敵機動部隊は再び艦載機で攻撃を開始した。時刻は同じ五時半より。地域は主として東北方面である。

 七月十五日
◯昨十四日は釜石が敵艦隊のため艦砲射撃を受けた。本州艦砲射撃の最初である。
◯昨十四日は、二次のKB(きどうぶたい)来襲。主として東北及北海道南部。
◯やはり昨日、森村義行君を玉川電車の一列行列の中に見出す。聞けば「焼けたよ」との事、「ファベルをすっかり焼いて残念だ」といっていた。ファベルとは独逸の鉛筆のことである。うちにあるのを少し分けてあげると約束した。

 七月十六日
◯森村義行君を瀬田へ訪問。気の毒になる。
◯東部三十三部隊。

 七月二十一日
◯最近のB29は、一機にて入り来り、大型爆弾や焼夷弾を投下する。今日も昼頃来て、うちの南方に焼夷弾を落として行った。
◯昨日の嵐に、近海行動中の敵機動部隊もさぞゆられたことじゃろう。
◯本日地下物置のものをすっかり出して乾す。昨日の嵐に、大分浸水したからである。これもアメリカのお蔭かと、憤慨しながら力を出す。

 七月二十六日
◯一昨日、中部以西へB29、七百機、その他小型機合計二千機来襲す。これまでの記録破りの賑かさなり。折柄、ポツダムに於いてスターリン、トルーマン、チャーチルの三頭会談を開催中であり、その宣伝効果をねらったものと報道される。わが方の飛行機さっぱり応戦せず、ただ地上砲火によって反撃したのみ。
◯清水の羽部さんも過日戦災したことが判明した。鎌倉のおばあちゃんからの知らせがあったからである。だいぶあわてたらしく、澄子さんもいいもんぺやシャツを着るのを忘れて、一等みすぼらしいもののまま焼け出されたとか。全く気の毒。敵への憤激は日に日につのるが、さてこっちは空へ手が届かず、まことに残念。地道ながら努力して戦力を盛りかえすしかない。
 ちなみに一家は茨城県太田へ移ったという話だが、この太田は日立よりやや北方、海岸ではないが海に近く、あまり安全とは申されない。しかしお互いさまに縁故先に適当なのがなく、それに差し当たり食糧が果してうまく手に入るかという問題があるので、危険でも何でも縁故へ落ちついて、まず食べられる安心を求めるのである。食はなにしろ皆が毎日のことだから大変な仕事であり、問題である。
◯昨夜B29、五十機ばかりが午後十時頃より京浜地区に侵入、主として川崎を爆撃した。折柄満月であったが、煙がだんだん高く天空にのぼり、せっかくの月の光を消してしまった。ふと「鵜飼」を思い出した。
 零時半頃には、「最終機」などの言葉が警報に出る。まだ数十機そこそこであるから「最終機」などと安心していられないように思ったが、電探ではたしかに押さえているんだから正確、まもなく空襲警報解除となり続いて警戒警報も解除となり、そして寝た。
 川崎にまだ焼けるところが残っていたかと不思議な気持。
◯夜半敵機来襲に、身のまわり品や机の周囲のものを見廻して、防空壕に入れるべきものは何々ぞと考えると、どれもこれも大切――というよりも重宝なものばかりであるにはまごつく。
 確かに防空壕に入れておいた筈のものが、いつの間にか、また手もとにずらりと並んでいるのには驚く。つまり、日々の生活のために必要だとあって、壕から取出して来て使い、そのままになってしまったものが、だんだんふえて来たわけである。さてこそ日用品というものは大切であり、重宝なわけ。万年筆一本、ナイフ一挺、メモ一冊なくなっても不便この上ないわけ。われわれの生活様式も一段と工夫を積まねばならぬ。

 七月二十九日
◯昨日は岡東浩がえらくなったというので、招待してくれた。どうえらくなったのかわからぬが、とにかくうれしい話で、土産ともお祝ともつかずジャガイモの包をもって家を出かけた。玉川電車を渋谷で下りて、都電に乗ろうとして、渋谷から天現寺、四の橋行きはありますかと聞いたところ、今はやっていないとの事、なるほどそうであったかと、新橋行で行くことにする。くる電車もくる電車も素通りで、八、九回目にようやく乗れたが、一列に並んでいる人達何の苦情も言わず。心得がいいというか、よく心得ているというか、おとなしい都民達だ。
 宮益坂を電車はのぼる。「明治天皇御野立所」と書いた神社跡が左にある。この奥の社殿は形もなし、こま狗だかお狐さんかの石像が二つ、きょとんと立っている。
 渋谷郵便局もすっかり焼けたままになっている。一階の事務をとっていたところは、腰板からしてない。あれはコンクリかと思っていたが、木であったことがこれでわかった。
 古本屋もすっかり跡片なし。あの夥しい埃の積んだ本が皆焼けたかと長歎した。新本にちょっとさわると、本のあつかい方がよくないといってえらく叱りつける本屋があったが、この本屋も跡片なし。渋谷から青山の通りを経て赤坂見附まで全くよく焼けたもの。古くからの、そして充実した町であっただけに灰燼(かいじん)に帰した今日、口惜しさがこみあげてくる。
 材木町で下りて、歩き出した。南浦園も外側の支那風のくりぬきのある塀だけが残っている。あの粋な築山(つきやま)も古木も見えず。支那風のくりぬきから中をのぞけば、奥の方に桃色の腰巻が乾してあるのが目についた。僅かに南浦園のかおりがする。
 角に消防署があるところで左へ曲って仙台坂へ出るつもりであるが、行けども行けどもその消防署が見えぬ。そこで心細くなって、右側にバラックを建てて住んでいる家へ声をかけて聞くと、ていねいに教えてくれた。「すっかり焼けて町の様子が変わっていますがな……」とその老人は元気な声で語った。
 消防署は焼けずにあったが、私の考えた二倍以上も道のりがあるように感じたのはふしぎである。そのあたりへ行って、初めて家が焼けないで残っている。その古いごたごたした家並を見ると、なんだか変な気持になった。残ってよかったと思うよりもこれも一緒に焼けてしまえばもっときれいになったろうにと、妙なことをちょっと考えた。焼跡は案外きれいである。そして広々と見晴らせて、明治以前の江戸の土地の面影がしのばれて気持ちがよい。
 岡東の家にたどりついた。すでに朝倉、加藤両氏が到着していて、酒宴が始まっていた。たいへんな御馳走で、目をまわした。酒もかなりある様子。酒を飲まぬ私は、意地きたなく食いすぎて腹をこわすまいぞ、近頃食いなれないものを口にして腹をいためまいぞ、と自分に言い聞かせつつ、いろいろと御馳走になった。
 あとで鳥や肉やの御馳走をそう思い出さず、イカの塩からとトマトの味がひどくうれしくて、忘れかねた。
 八時過ぎたとき、誰かがもう失礼しないと都電がおしまいになるのではないかといった。まだ八時過ぎたばかりで、都電の赤電(※終電の別称)がある筈はあるまいと思っていると、岡東が時計を見て、ああ、そろそろ急がなくては……という。本当かいと聞けば、この頃の都電は八時半頃で終車となる由。これには驚いた。先ごろ玉川線が十時半終車になったので、甚だ早すぎると思ったが、都電が八時半位で赤電になるなら、玉川線はまだましの方だ。
 客三人と岡東父子との五名で、仙台坂を二の橋の方ヘ下りて行く。
 坂上の交番は先日廃止になったばかりだったが、おまわりさんが三人も入って勤務している。こわふしぎと聞けば、岡東の話に、先々月二十五日にこの附近一帯が焼けてしまってからは、お巡りさんの交番も数がうんとすくなくなったらしく、再びここが開かれたのだという。
 仙台坂を少し下って行くと、右側に米内海軍大臣の仮寓(かぐう)があった。米内さんの家は原宿だったが焼け、それ以来ここに来て居られる由。
 そこを過ぎるともう焼野原。月もまだ出ぬ暗闇ながら、ひろびろと焼野原がつづいているのがわかる。
 坂の途中に、電灯を煌々(こうこう)とつけて土木工事をやっている。近づくと兵隊さんの姿もあり、兵舎のようなものもある。土木工事の小屋にしては今どきたいしたぜいたくなもの、といぶかっていると、これは地下道を掘っているのだった。ゲリラ戦用の地下道で、麻布一番から霞町へ抜ける長いものだという話。ヘえ、そうかいと私は目を見張って改めて現状を見直した。煌々たる電灯の光に、墓石が白く闇にうき出して林立しているのが見えた。亡者たちが、「わしらの眠っている下を掘るのですよ、わしらもいよいよ戦列につきましたわい、はははは」といっているようだ。
 坂下へおりて、停留所に佇む。とたんにラジオが警報を伝える。伊豆地区に警戒警報が出たらしい。
 折柄、電車のへッドライトがこっちへ向かって来る。古川橋まで駈けて、それに乗る。五反田行だ。
 岡東父子の顔が、闇の中に残る。
 電車は走り出したが、魚籃(ぎょらん)のところで東京地区の警報発令、車内は全部消灯する。それから全然無灯で闇の中を電車は走る。
 日吉坂下で架線の断線があり、停まってしまう。どうなる事かと心配していると、案外早く電気が来て、また動き出す。
 清正公前から明治学院の前を通り、五反田へ向かって電車は闇をついて走る。あぶなかしくもあり、何となく勇しくもある。戦闘前進中のようで……。
 雉ノ宮の坂を下るとき、右方に電気試験所の焼跡があるので、何か見えるかと思って窓から闇を透かしたが、何も見えない。いや見えた、灯が一つ。不用意の灯、試験所の宿直がそうなら呑気すぎる。
 電車は五反田駅前でぴたりと停る。「はい十銭」「はい定期です」乗客はおとなしく、車掌も「気をつけてくださいよ。足もとが暗いですから」といつになく親切だ。下におりたが、さて駅の改札はどこだかわからぬ。焼けてしまった上に、まっくらだからである。
 ようやく見つけて、女駅員に声をかける。「切符はどこで売っていますかね」「着駅で払って下さい」で通してくれる。「階段はどこ?」「まっすぐ行って右ですよ、右の壁を伝(つたわ)っていってください」なるほど、と壁をさぐりながら行く。ようやく見当がついた。階段より上がれば、高いホームの上は、案外空が明かるい。乗客が温和(おとな)しく電車を待っている。電車は間もなくホームへ入って来た。乗客がぎっしり詰まっていた。
 渋谷で降りる。朝倉、加藤両氏は帝都線であるから、そこで別れる。
 玉川線のホームに入ると、電車が一台待っている。「柴栗さん」というアダ名の張りきり助役さんが、声を張りあげてまっくらなホームにくりこんでくる乗客を整理している。「この電車は玉川行です。下高井戸行の方もこれに乗って下さい。警報がどうなるかわかりませんから、すこしでも先に行っておいて下さい」と、時宜に通じた注意を出している。
 くらやみの中に、ぎゅうぎゅうつめられる。能率がわるい。ひどく押される。三軒茶屋で降りて、乗替えを待つ。
 電車はなかなか来ず。そのうちB29の爆音が近づいて来る。「そらB公だ」と空を仰ぐが見えない。そのうちに遠ざかっていった。しばらくして、また爆音が近づく。「単発だ。味方機だよ」と誰やらが呟(つぶや)く。もうすっかり耳の訓練の出来ている都民たちだ。
 電車はまだこない。乗客たちは待ちあぐんで皆ホームに腰を下ろし、足をレールの方へ出し腰を据えた。
 夜気が冷えびえと頬のあたりへ忍びよる。太子堂の焼残った教会の塔が浮かんで見える。月がようやく東の空にのぼりはじめたらしい。夜空は大分明かるさを増した。

 七月三十日
◯昨夜は天竜川口で、敵米艦隊の艦砲射撃がかなりあったらしい。
◯きょうは早暁から艦載機飛来。夕方に終ったかと思ったが、夜に入っても三十機ばかり押しよせた。

 八月九日(その一)
◯去る八月六日午前八時過ぎ、広島へ侵入したB29少数機は、新型爆弾を投下し、相当の被害を見たと大本営発表があった。これは落下傘をつけたもので、五、六百メートル上空で信管が働き、爆発する。非常に大きな音を発し、垂直風圧が地上のものに対して働くばかりか、熱線を発して灼(や)く。日本家屋は倒壊し、それによる被害者は少なくなかった。熱線は、身体の露出部に糜爛(びらん)を生じ、また薄いシャツや硝子は透過して、熱作用を及ぼすのである。
 広島の死傷者は十二万人という。これは逓信省(ていしんしょう)へ入った情報である。右新型爆弾の惨虐性につき、新聞論調は大いに攻撃するところがあった。
 新聞発表は八月八日であったが、この日は対策が示されなかった。李※公殿下も御戦死(七日)爾来一機のB29も油断ならずとして、壕内待避をする事となった。
「敵は、新型弾使用開始と共に、各種の誇大なる宣伝を行ない、既にトルーマンの如きも新型爆弾使用に関する声明を発しているが、これに迷う事なく、各自はそれぞれの強い敵愾心をもって、防空対策を強化せねばならぬ」とA新聞はこの日の報道を結んでいる。
◯わが家の措置としては、情報判断により、つとめて裏の防空壕に入ること、表の地下物置は蒲団をかぶるようにし、上からの爆風に耐えるよう何か考えること(畳を重ねて上に置くことも一つ)、素掘壕の上に何か置くこと(大本箱を置くことも一つ)、素掘壕をもっと深く、かつ横穴式に掘ってみる事、もう一つは疎開のことを考え直すこと。尚もし家屋が倒壊すれば、その資材を使って、地下家屋を建てる事にすればよろしい。
 心配の一つは、農作物がこれによってやられるであろうから、今年の米の収穫は非常に減少する事であろう。そのための食糧対策として、イモ系のものをたくさん作って置く必要がある。その他の保存食糧の入手についても、努力せねばならぬ。
 積極的対策としては、飛行機増産により、敵機を侵入させぬよう努める事が肝要。
(昨夜あたりは、いつになく味方夜間戦闘機が相当数出て、上空を警戒していた)
◯敵が追い追いと新しい威力を備えた新兵器をくり出す事は、かねて予想された事であって、今さら驚くに当たらない。日本がサクラの爆薬をもち、風船爆弾をくり出し、特攻隊を有するのに対し、アメリカはB29だけというわけにも行くまいではないか。もともとアメリカは科学技術について一流の国であり、近来はそれを世界一の水準にあげるべく努力して来たわけで、現在その実力はほぼこの目標近くに達している。そういう敵アメリカが、今まで新兵器を出さなかった事はふしぎなくらいである。
 新兵器は一応恐るべき力を発揮するが、それは出現の最初の時期だけと、それについての宣伝力の及ぶ或る期間だけのことである。その対策がとられ、人々が用心深くなり、その結果被害がだんだん減少して来ると、その新兵器の実力以下に評価される時代が必ず出てくる。
 V一号(※ドイツの開発した、有翼のロケット爆弾機)出現当時のロンドンその他の混乱はたいへんなものであったが、それの対策が出来ると共に、市民は平静さをとり戻し、被害は少なくなった。わが特攻隊の出現は敵陣を大恐怖せしめたが、今ではいろいろの対策がとられて、或る程度の効果をあげている。すなわち特攻隊の通路に三重四重に戦闘機隊の網をはる事、弾幕を完全なものにするため船舶の対空砲火を増大する事、内地の航空基地の攻撃激化、B29等による本土空爆の強化、これに附帯した謀略戦などである。
 また本土上陸戦がわが特攻隊のために被害甚大となるのを予想して、これを当分見合わせ、また空中よりの攻撃を強化する。右にのべた八月六日の広島市に初投下せる新型熱線有傘爆弾もこの一つの現われと見るべきである。
「さあ新兵器が現われたぞ、大変だ、大変だ」と、そう心臓をどきどきさせていては、敵がよろこぶばかりである。よろしく国民は一つの宿題を寄こされたつもりで、それと正面から取組み、それぞれの工夫において被害を最小限度化すべきである。
 政府及び軍部に対して希望するのは、よろしく士気を昂揚するようなことをやってもらいたいことである。たとえばB29を国民の目の前で撃墜するが如きことである。
◯闇値
 本は五倍乃至十倍
 米一俵千五百円
 砂糖一貫目七百円乃至千円
 下駄三十六円
 煙草「光」十本十五円
 軽井沢の生活費一人三千円乃至一万円

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