四月九日 ◯建物疎開で、町の変貌甚し。三軒茶屋より渋谷に至る両側に五十メートル幅で道を拡げるというが、それを今盛んにやっていて、大黒柱に綱をつけ、隣組で引張って倒している。そして燃料がたくさん出来、手伝いに来た人達に与えている。雨が降っているが春雨だ、たいして苦にならぬ。 外食者用食堂(※戦時下食糧統制の一環として配給された、外食券を利用する食堂。現金があっても、券がなければ食べられなかった)とか、銀行とか、配給所が、疎開延期で残っている。 各部隊から兵隊さんが出て手伝っている。壊した家屋は、やはり焚木用として隊へ持ちかえる。 ◯停留場や駅の風景を見れば、三月十日前後や三月二十日前後(これは疎開強化、国民学校授業停止の発表があった頃)に比べると、だいぶ静かになったようだ。 ◯新首相、鈴木貫太郎大将は、昨夜新任挨拶を放送した。「政治には素なり、八十に垂んとする老躯をひっさげて、諸君の陣頭に立つは、自ら鑑みて悲壮の感あるも、大命を拝せし以上は陣頭に立ちて突進せん、諸君はわが屍をのり越えて進撃せられたし、但し大いに若返ってやります」といった要旨。なお記者に所懐を語って曰く、「勝てると思う。日露役のときも重臣は勝てることはおろか、多分負けると考えていた。万が一にも敵を撃退し得ないかも知れぬと考えていた。だが頑張りが勝ったのだ。硫黄島が玉砕、占領されたことも負けとは思わぬ。敵アメリカに対し、精神的に大恐怖を与えたのがわが戦果で、この点勝ったといってよい」などと、勝てる自信を述べていた。 ◯昨八日十七時、大本営発表で久方ぶりに軍艦マーチと陸軍マーチが響く。沖縄本島周辺にここ旬日あまり群って退かぬ敵艦船群に対し、わが特攻水上隊及航空隊が突入し、わが水上隊も戦艦一、巡一、駆三を撃沈した。かくて敵艦十五隻撃沈、十九隻撃破、その他未確認のもの少からずという戦果を掲げ、ために敵艦船は遂に沖縄本島の周辺から逃げだしたとある。リスボン経由の外電も六日、七日のわが猛攻を伝えているし、島上の敵軍も「ここは地獄を集めた地獄だ。あと二週間これが続けば、この戦は悲劇に終ろう」と悲鳴をあげている由。そのままには受取り兼ねるが、すさまじい戦闘がいよいよ始まり、決戦の決を見るのももうわずかの後に迫ったことを思わせる。 尚水上艦隊の特攻隊はこれが初めて。特に戦艦の特攻隊とは、戦闘の壮観、激烈さが偲ばれ、武者ぶるいを禁じ得ない。
四月十三日 ◯アメリカ大統領のルーズベルト急死す。脳溢血と発表された。 日本時間にして、彼の死は十三日の金曜日に当る。
四月十四日 ◯昨夜二十三時頃、わが横鎮は関東海面に警報を出したが、果して敵一機は房総に入り、つづいて敵大挙し、三月十日以来の帝都市街夜間爆撃となった。 敵はルーズベルトの死に関連して、この挙をあえてなしたものと見受ける。 ◯大本営発表によれば、来襲機は百七十機で、四時間にわたり波状投弾し、焼夷弾の前に爆弾を投じた。 宮城大宮御所の建物にも損傷あり、まもなく消し止めた。両陛下と皇太后陛下は御無事とのこと。明治神宮は本殿と拝殿とが炎上した。鈴木首相の放送に「敵は計画的にこの暴挙をなした」とある。 ◯ラジオ報道によると、豊島、板橋、王子、四谷が、もっとも多く燃えた由。しかし死傷者は少ないとの事である。去る三月十日の空襲は死傷がひどく、昨日も四十七ヵ所で三十五日の供養が行なわれ、僧侶は巻ゲートルで、トラックにのって廻ったそうである。 ◯本日の省線不通箇所は、上野→池袋→新宿間、新宿→荻窪間、神田→市ケ谷見附間、池袋→赤羽間、もう一つ足立区方面(わすれた)。 ◯昨夜の炎上の状況は左図の如くであった。 (※カット「手書きの地図」入る。41-下段) ◯戦果の発表、撃墜四十一機、損害を与えしもの約八十機なり。 ◯四月十一日の午前のへんな爆撃は今度の予習だったかも知れない。 ◯あのときは一トン爆弾を、荻窪の中島本社へ落とした由である。 ◯昨夜の軍情報はすっきりしなかった。「後続機に対して警戒中なり[#「警戒中なり」に傍点]」というナマぬるい放送をして置きながら、間もなく「大挙来襲に敢闘せよ」と出し、空襲警報を発令した。そのときは第一機が投弾して、もう市街は炎々と燃えていたのである。 ◯今朝、余燼(よじん)が空中に在るせいか、天日黄ばんで見えたり。
◯焼け跡も疎開も知らぬ桜哉 ◯分解の敵機も散るや花の雲
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◯去る四月五日、永田徹郎大尉の奮戦談が新聞に出た。その前日とその日の朝のラジオでも放送したとか。徹ちゃんの健闘はうれし。毎朝その武運長久を一同して祈っているのだ。(輸送船一隻撃沈)その前に戦艦二隻やったらしい(朝子の手紙によると)。 その後、朝子の手紙が来て、四月五日これから出撃する主人を送っているとあり、気を揉んでいる様子が見えるようだ。きょう手紙にて激励をして置いた。 ◯都電運転系統は現在左の通り動いている。
△品川→日本橋 △三田→日比谷 △目黒→日比谷 △五反田→金杉橋 △渋谷→金杉橋 △渋谷→青山一丁目 △渋谷→六本木 △中目黒→金杉橋 △四谷三丁目→泉岳寺 △四谷三丁目→浜松町 △新宿→荻窪
◯列車乗車制限(軍公務、緊急要務者以外は乗車券を発売せず)
◯東海道線=東京→小田原 ◯中央線=東京→大月 ◯東北線=東京→小山 ◯高崎線=大宮→熊谷 ◯常磐線=日暮里→土浦
四月二十七日 ◯この日記をしばらく休んだ。休んだわけは忙しさのためと、空襲の閑散化のため。といっても、帝都空襲が閑散化したわけであって、B29の日本空襲が減ったわけではない。むしろこのごろは毎日、九州の飛行場を爆撃に来るという執拗(しつっこ)さ、熱心さである。わが特攻隊の出鼻を挫(くじ)かんためであることはいう迄もない。 ◯さて、休んでいた間にも、帝都への大爆撃はあった。それは去る四月十五日深更より十六日暁へかけての夜間爆撃で、蒲田、荏原、品川、大森をやられ、大小の工場がほとんど全滅したとのことだ。なおこのとき川崎もかなりの被害があった。 ◯蒲田の工場は当然疎開したものと思っていたが、欲ばっていて親工場へ吸収される値段の吊上げを試みつつあり、そしてやられて元も子もなくしたものが軒並だ。個人工場の損失ではない、国家の大損失であり、猫の手さえ借りたい刻下の沖縄大決戦の折柄、戦力をそぐこと甚しい。 ◯吉田晴児の工場も焼けたらしい。協電舎もそうらしい。橋本さんの広辺電気もそれ。枚挙にいとまあらずである。 ◯去る四月二十五日の新聞に、被害の総合結果の発表あり。 東 京 五十万戸 二百十万人 大 阪 十三万戸 五十一万人 名古屋 六万戸 二十七万人 神 戸 七万戸 二十六万人 これ下村新情報局総裁の手腕のあらわれと見える。 此の発表で、帝都に関しては「三月十日は不幸にして風が余りに強かったため、同日だけでも焼失戸数や火災による死傷者数は相当にのぼった」こと「大部分焼失した区域は、浅草、本所、深川、城東、向島、蒲田」であり、「その他相当焼けた区は下谷、本郷、日本橋、神田、荒川、豊島、板橋、王子、四谷、大森、荏原、品川」である。 「川崎市は市街の大部分を焼失」 「大阪では西成区、西区、南区、北区、天王寺区、湊区、浪花区、大正区が被害が大きい」 名古屋では「千種区、東区、中区、熱田区、昭和区、中村区、中川区が被害大きい」 神戸では「兵庫区、湊区、湊東区の大部分を焼失した。また葺合、神戸、須磨、林田、灘の一部分焼失」 ◯四月十五日、十六日の夜間空襲のときはちょうど神戸の益三兄さんが泊っていて、これを見物した。その前の豊島区などの焼けたときほど大きくは見えなかったが、初め品川上空に照明弾を落としてそれからずんずん東へ南へひろがり、駒沢のが一番近く、そこへ落ちる頃はこれはいよいよ来るかなと思わせた。 ◯大橋のバス通りのすぐ左側に於いて千軒ばかり焼けた。 ◯大橋の、こっちから行くと左側の堤防に不発弾がおち、電車は大橋→渋谷間が五、六日止まり、その間歩かせられた。 最後に工兵隊が出て、爆発させたが、そのときの工兵隊はがけ下を覗くためにこんなものを用いて居た。 (※カット「手書きの図」入る。44-上段) ◯天皇陛下御宸念(しんねん)。忝(かたじけな)くも金一千万円也を戦災者へ下賜せらる。 ◯賀陽宮、山階宮、東久邇宮の三宮家も御全焼。 ◯明治神宮本殿、拝殿も焼失。千百数十発の焼夷弾のかす[#「かす」に傍点]が発見されたという。 ◯大下宇陀児(おおしたうだる)(※推理小説家)邸も焼けたと角田(喜久雄)(※小説家)君より聞き、見舞に行った。涙をのむのに骨を折りながら、奥さんと二時間あまり話した。彼は大元気で、家にも帰らず、町の皆さんといっしょに焼あとに起居しつつ、復興につとめている由。防空壕へ衣類を入れてあったためこれが助かったが、他のものはほとんど一物もとり出さなかったという。 当夜、このあたりに旋風が起こり、町の人々を一層恐怖させたとの話。大下邸のすぐそばの焼けた大ケヤキの高い梢の上に、バケツやトタン板がちょこんとのっているのも、それを物語る跡である。 また池袋の武蔵野線のホームのトタン屋根が、変な具合にめくれていて、車中より私は首をひねったが、これも旋風のためとわかった。 大下君は、残留せる四百名の人々をはげまし「新雑司ケ谷村」を建設するつもりで活躍しており、昨二十六日の毎日新聞にその記事が出た。好漢病気にならなければよいが、とそれを祈っている。 ◯それ以来私はのどを痛め、風邪をこじらし、ずっと家に引込んでいる。 ◯九州連日爆撃に、鹿児島の家のことと、永田夫妻の安否を心配している。前にはこっちが心配せられ、今はこっちがあっちを心配しつづけている。 去る日、鹿児島の家の向隣に爆弾がおちたそうで、永田家も損じたらしい。しかし「住むにさしつかえありません」とお母さんから報じて来たところを見ると、相当塀や瓦をやられたことと思う。
五月一日 ◯先日来二度朝、立川へB29が大挙来襲、昨日などは硫黄島からP51、百機も参加した。 一度つづけさまの爆裂音を聞いた。あとは穏かになり、時々実戦の音を西方の曇天に聴くのみ。 ◯昨日、千葉県大和田の鷹の台クラブへ行き、ロッカー中のクラブやバッグ、靴などをとりに行ったが、すでに盗まれてしまっていてなにひとつとてもない。手ぶらで戻る。 船橋にも、前のようにハマグリ、アサリの売店はない。ポツン(玉もろこしのはぜたるもの)二、三十入り、一袋三十五銭で売っているのを十個買って帰る。 ◯それにしても、両国から平井に至る間、左右見渡すかぎりの焼野原で、数千本の煙突から煙の出て居るのは僅々七、八本に過ぎず、工業生産力の低下に今さらながら慄然とし、敗戦的観念に追いつめられてしまった。 ◯ベルリンはあと五分の一を余すのみ。ヒムラー内相より英米へ降服申入れありしとの噂立つ。 木村毅氏の曰く「イギリスではヒットラーが昨年七月の爆弾事件で死んだという説を盛んに言いふらしているぜ。今居るヒットラーは贋者(にせもの)だというんだ」 私はいった。 「それが真偽いずれにしても、興味ある報道ですね」 ◯ラジオ報道は、ムッソリーニ総帥が遂にイタリアの反乱軍の手によって殺害されたと伝う。 ◯モロトフ氏、急いで桑港(サンフランシスコ)会議より引揚げ、モスクワに帰る。イーデンはまだうろうろしている様子だが、これもいずれ帰るであろう。 ◯ベルリン陥落乃至はドイツ休戦申入れをめぐって、英米ソの間にまた一波瀾ありそうだ。 ◯ドイツ亡ばんとす。巷間「ドイツはかわいそうですね」「ヒットラー総統はあそこまでやったのに」「ドイツ軍、ヒットラー・ユーゲント、ベルリン男女市民軍、みな悲壮な戦(いくさ)をしますね」と言い、「ドイツも亡びます。いよいよ世界中が日本へ攻めかけ、イタリアやドイツのようにするのでしょうね、ああどうしましょう」と悲たんし恐怖する者をほとんど見かけない。 ◯K氏曰く、「僕は生来楽天家かしらんが、この戦争は日本の勝だと信じている。ヨーロッパはもうすぐ食糧で大破綻を生ずると思う。アメリカも食糧でたいへんらしい。食糧で反枢軸国はまず敗北相をあらわしはじめるよ」 ◯先日F君の話によると、まだ風船爆弾はあがっているよし。 アメリカでも報道厳禁だそうだから、かなり被害があるらしい。
五月二日 ◯昨五月一日、ヒットラー総統はベルリンに於ける戦闘指揮の位置に於いて死去し、後任としてデーニッツ提督を任命したという。 その新総統はハンブルグから全国に放送し、共産主義に対する戦争の継続を宣言し、米英軍といえども共産主義に加担する者は容赦せず、と宣した。 その放送より私の受けとったものは、デーニッツ氏の米英への秋波である。 かねてドイツ海軍内部には、反抗等の暴動ありと伝えられている。その分子がヒットラー総統及びヒムラー内相を暗殺することあらば、ドイツはナチの色を払拭し、休戦するであろうとの情報が存在した。 これとあれとを相関して考え、とにかくヨーロッパに於けるドイツ軍の対米英ソ戦争は終ったのだと思う。 日独伊防共協定も、これが終幕である。あとは大東亜戦争のみが残り、そして継続することは確かである。 但しその他の新事態、新争闘の発生するであろうことは当然であり、大東亜戦争のみがこの世界にひとり進行するのでないことは疑いない。 戦争もこれからが本舞台だ。世界の情勢もこれからがいよいよ複雑化する。しっかりやらなくてはならない。そして長生きして世界の移り変わりをよく見極めたいものである。 ◯四月に於けるわが収入は、金五十二円八十銭であった。大学卒業後今日までに於ける最低収入の月であった。記憶に値する。
(この日記終り)
空襲都日記(二)
この騒然たる空の下、事実を拾うはなかなか困難であり、それを書きつけるは一層難事であるが、私としては出来るだけ書き残して行きたいと思う。
昭和二十年五月二日 ヒットラー総統死去のラジオ報道を聴いた夜
海野 十三
五月三日 ◯ドイツ・ベルリンの戦闘の終局、ヒトラー総統の戦死、デーニッツ新総統の就任、米、英、ソ、それぞれの休戦に関する報道ぶりなど、目まぐるしい欧州のニュースの連発である。ゲッペルス宣伝相は自殺したとソ連は発表した。リッペントロップ外相とゲーリング元大ドイツ元帥のことはすこしも出て来ない。ヒムラー内相のことはデーニッツ新総統が不服従の烙印を捺(お)し、ヒムラー氏の対米英休戦申入れを許さずとしたとある。 いずれにしろ、ドイツも遂に無条件降服の外ないのであろう。 今夕、鈴木総理大臣はこれにつき放送した。趣旨は分り切ったことである。若い声だが、原稿をとちるところなど老衰が見えるようである。 ドイツ大使スターマー氏も声明を発表した。「ヒットラー総統は死んだ」から始まって、総統が死に臨み、側近からデーニッツ提督を後継に選んだ炯眼(けいがん)と熱意とを指摘し、そして「ドイツ人は故人の意志を奉じて邁進精進することに於いて、世界に稀なる民族である」こと、「故総統によってまかれたる種は、将来きっと花を咲かせ実を結ぶであろう」と述べ、そして最後に「故総統は日本のよき友であり、且つ日本人崇拝者であった」と結んだ。 もう影はうすかったがムッソリーニ統帥も殺され、得意絶頂のルーズベルトは急死し、今またヒットラー総統戦死して、世界の巨名者ぞくぞく斃る。 チャーチル、スターリン氏はまだ斃れないかと興味に富んだ目が、両人のうしろをしきりに追駈けている。神のみぞ知りたもう。 ◯串良の朝子(※長女)より来信。二十三日発の速達が十一日目についた。「私たちは元気です。主人は家に帰って来ませんが、下士官の方に会ったら、隊で元気で居られますといわれました」とあって、一安心した。 串良も敵の上陸の噂でかなり動揺しているらしい。朝子、大なる覚悟のほどをのべていた。 二十六日より六日間、南九州をB29の大群が連爆したのが気にかかるが、この方の手紙が来るのは、まだ十日位先となることであろう。 皆の無事を祈ってやまない。
五月五日 ◯昨四日、慶大病院へ行ったが、もう大分いいから、しばらく(通院を)休んではどうかといわれた。或る程度まで治り、そして或る程度以上は治らぬことがわかったので、それに従って休むことにした。 いい散歩課業がなくなった。これからは体操と歩行とにつとめることにしよう。 ◯タケノコ、きょうは湊邦三氏と岡東へ頒ける。今年の冬はいつまでも寒かったので出来悪し。うちはタケノコのちらし飯。豆かす入りも「ぐ」の数が一つふえたと解して楽しむ。ほかに椎茸(イヨ産)、にんじん、はす(奥山さんからのいただきもの)を入れる。 奥山さんへも一ぱいさし上げて、おじさんから「ごちそうさま」とよろこばれる。 ◯ドイツ軍、各地にてどんどん降服中。 ◯沖縄にて、わが反撃きつし。タラカン島へ上陸せし敵増強中。 ◯今日はB29が約二百機近く来襲し、内地各地へ投弾。広島も初めて大空襲を受く。 ◯東京は、心ならずも穏やかなり。心ならずというのは、九州等来襲ひんぴんたる土地のわが同胞に対し相済まぬと思う意味なり。 ◯久し振りにわが作品放送、子供の時間「潜水島」の第一夜、つづきは明晩。
五月七日 ◯昨日、焼跡の大下(宇陀児)邸二度目の訪問。今度は氏に会えた。焼跡に立ち、町会の人と立話をしている氏の後頭部一面が真っ白であるのを発見して、涙を催した。 ◯しかし、大下五丁目町会長の熱情は、残留三百五十名という帝都内に珍らしい高率で、バラックや壕舎があたりに群立し、再起の意気込みすさまじく、日本人かなと感じ入った。 菜園にはすでに芽も青々と出ているし、風呂二つも今明日より入れるそうだし、髪床も数日うちに開店のよし。 ◯附近に焼夷弾の筒が十数本、一邸内に固まっているところを見せて貰い、慄然とした。 ◯目白警察へ畳のことで用あって行く氏と、目白駅の手前で別れた。氏も奥さんも、ともに元気なのは、うれしい。 ◯大下邸もこの前とは変わり、きれいに片づき、既に種もまいてあるそうな。この家の塀が千金の値あり。 ◯今日は裏の防空壕の上に、庭の敷石(実は小石をセメントで固めたもの)をずらりと敷き、敵機の機銃弾に対し、いささか強き壁とした。焼夷弾筒も防げる見込みである。晴(※晴彦、長男)暢(※暢彦、次男)よく働く。 田中さんの義ちゃんや、もう一軒の田中君の子供たちも仲々よく働いてくれる。 ◯一昨夜は敵襲あるかと思われたし、実際に空襲警報も出たのであるが、入って来たのは三機だけで、こともなかった。 九州はもうこの十日間に八連爆か九連爆で、飛行場附近を盛んにやっているらしい。鹿児島からも串良からも手紙が来ず、わからない。 また瀬戸内海等ヘ、機雷投入を二日つづけてやった。きょうは尾道と四国との連絡船が停まったと出ていた。PB2Yらしい飛行艇も、房州の附近へ姿を現わし、高度五百メートルで船を攻撃したという。 タラカン島へ米軍が、ラングーンヘ英軍が上陸している。 しかしわが特攻隊、今度はつづいて猛攻をつづけ、既に沖縄周辺で撃沈破せる艦船の数は五百隻を超えた。この勢いでつづかせたいもの。 ◯去る四日「疎開応急措置要綱」が発表された。老幼病人のほかは、都外へ疎開まかりならぬと決められた。これで腰が落ちつくことであろう。
五月八日 ◯第四十一回目の大詔(たいしょう)奉戴日(ほうたいび)。主婦之友の安居氏来宅中に警戒警報が出て、十一時半空襲警報となる。B29、十数機と、そのあとP51、六、七十機が来襲した。 千葉、茨城方面を行動し、一部は帝都へ入ったというが、雲低く遂に機影を見ず。友軍機の八機編隊で警戒する姿が頼母(たのも)しく見えた。 ◯外電によれば、ゲッペルス博士は官邸に於いて、夫人と子女四人と共に、毒物を服んで死んだとある。ヒットラー総統及びゲーリング元大ドイツ元帥の死体は見当たらず、ソ連軍躍起となって捜索中。ヒットラー総統は二十五日重傷を負い、一日ついに死去したという(三十日ともいう)。そして最後の輸血を拒み、ドイツ国民への愛を示したといわれる。 ◯今日は「くろがね会」より稿料百円、主婦之友より百七十六円持って来てくれ、合計二百七十六円収入となる。昨四月は全収入合計五十二円八十銭だった。これだけでも入ってくれると、やっぱり作家生活はありがたいものだと思うようになる。四月の支出は千円とすこしであった。
五月十九日 ◯あまり日記を書かなかったのは、東京方面がずっと穏やかであったためだ。 今日は九十機が立川方面へ来たが、雲が厚くて盲爆に終ったらしい。 去る十四日(五日前)は名古屋へ四百機のB29が来襲して、同機多数来襲の記録を作った。
南方基地からの敵大型機来襲記録 (三月以降少数機来襲を含まず) (月日) (時刻) (機数) (目的地) 3月4日 朝 一五〇 東京 5日 未明 一〇 東京 夜 七 関西 10日 未明 一三〇 東京 12日 未明 一三〇 名古屋 13日 夜 九〇 大阪 17日 未明 六〇 神戸 19日 未明 百数十 名古屋 25日 未明 一三〇 名古屋 27日 朝 一五〇 九州北部 夜 六、七十 同 30日 夜 二〇 名古屋、伊勢湾 31日 未明 三〇 瀬戸内海、北九州 朝 一七〇 九州 4月2日 未明 五〇 東京西北 4日 未明 五〇 関東北部、京浜 同 一〇 静岡 同 三〇 京浜市街地 12日 朝 相当数の数編隊 関東地区 13日 夜 一七〇 東京市街 15日 夜 二〇〇 京浜西南部 17日 昼 七、八〇 鹿屋、太刀洗 18日 朝 八〇 鹿児島、宮崎、熊本 同 二〇 太刀洗 21日 朝 一八〇 主力九州南部、一部九州北部 22日 朝 一〇〇 宮崎、鹿児島 24日 朝 一二〇 主力立川、一部清水、静岡 26日 朝 六〇 宮崎、大分 同 三〇 山口、福岡 同 四〇 宮崎 27日 朝 一五〇 鹿児島、宮崎 28日 朝 一三〇 同 29日 朝 一〇〇 同 30日 朝 六〇 大分、宮崎、鹿児島 5月3日 夜 十数機 阪神 4日 朝 三十数機 四国、近畿 同 十数機 関門地区 同 五〇 大分、長崎 5日 朝 三〇 大分、福岡 同 一一二 四国、中国 昼 三八 鹿児島 夜 二十数機 瀬戸内海 7日 朝 六〇 大分、鹿児島 8日 朝 二十九目標 四国、九州 10日 朝 三〇 松山、御前崎 同 三五〇 大分、山口、広島 11日 朝 六〇 阪神 同 二五 北九州 昼 十六目標 鹿児島、宮崎、四国西南部 14日 朝 四〇〇 名古屋
今度は東京市街爆撃に四百機が廻ってくるだろうと、皆覚悟しているが、まだ来ない。 名古屋は昼間の強襲に加え、翌夜にはさらに百機が来襲した。 名古屋地方は、来襲頻度が多いわりに、被害がすくないのは、防空、防火の用意よろしく、天井などは早くから取除いてあったためである。 しかし四百機の来襲で、金鯱(きんしゃち)の名古屋城天守閣も焼失した。大きな建築物の受難時代である。敵は三キロ焼夷弾を使い出した。 ◯このごろ壕内へ持込むものは、次のようなものだ。 御神霊、財産に関する書類、写真機、平常洋服、蒲団、昌彦(※三男、腎臓病で横臥中)の尿壜、衣料リュック。 ◯沖縄地上戦況は数日前より重大化す、との報道。又とられるのか、と憂鬱になる。 今後は一体どうするのか。 分っているじゃないか――というわけだが。 ◯この頃「しかし」という言葉がいやになった。ラジオの報道で、初めいい話を聞かせておいて「しかし」と来る。このあとは、あべこべの悪材料悲観材料の展開だ。「しかし」がいやになったゆえん。 ◯昨日来た映配南方局米本氏の話に「このごろ作家のところへ原稿依頼を三十本出しても、返事の来るのは七、八本です。みなさん疎開とか、よそで別の仕事をやっていらっしゃるのですね」と。 然り、わが二十三名生存の挺身隊(※一九三二(昭和十七)年一月から五月にかけて、海野は海軍報道班文学挺身隊員として従軍)も、東京在住者は十二名。十一名は地方に在り。挺身隊がこれである。况んや他の文士に於いてをや。
五月二十日(日) ◯岡東来る。彼のためにとっておいた「暁」五袋とキングウイスキー少量、それから野菜は玉ねぎ一貫匁とごぼう二本位、岡東は缶詰四個とバター一封度(ポンド)をくれる。 二人の話はあいかわらず食うこと、飲むこと、喫うこと、壕の話、戦況などに終始する。実際この頃はこんな話さえしていれば種はつきない。 それにしてもお互いに腹を減らしているのだ。 「ジャガイモを腹一ぱい食べたい」と岡東はいう。加藤さんが会社から帰るとき電車の中で押されても、腹がへっていて押しかえす力がないという。きょう枝元老人から手紙が来て(企画用紙送り来る)「この用紙を届けに行くべきながら、お粥腹(かゆばら)で歩けないので、郵便にします」と断りの文句があった。 自分もこの二、三日腹が減ってかなわず、なんということもなく廊下トンビ(※用もないのに廊下をうろつき回ること)をくりかえしていて、おやと気がつく。子供は騒いでいないのに、おやじの私がこのていたらくでは困ったものだと赧(あか)くなる次第である。 もっとも、昼は雑炊二わんであるので、減るのも無理はない。 ◯昨日も今日も、一機侵入の敵機めが爆弾を落として行く。昨日は日本堤の消防署に命中、今日は東京湾の海中に命中。 ◯閑院宮殿下が薨去(こうきょ)された。 ◯目下マリアナ基地にはB29が六百機位いる見込み。
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