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或る男の手記(あるおとこのしゅき)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-13 6:24:40 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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松本さん、何もかも許して下さいまし、ほんとに何もかも。私はあなたがお許し下さることは存じておりますが、やはりこうお願いしずにはいられませんの。
私はあの時二度とも、次の室からすっかり聞いておりました。あなたが一日考えてからと仰言ってお帰りなすったその一日が、私にはどんなに苦しかったか分りませんわ。そして次の朝いらして、やはり私は光子と結婚したいと仰言った時、私はぞっと震え上って逃げ出しました。恐ろしくて恐ろしくてなりませんでしたし、次には悲しくてたまりませんでした。私は生れて初めて本当に心から泣きましたの。 私はもうとてもあなたにはお目にかかれませんわ。この手紙が届く頃には、私は他の処へ行っていますでしょう。どうか行方を探さないで下さいまし。お目にかかれる気持になりましたら、私の方からあなたの所へ参ります。ただそれまでは、どうしてもいけませんわ。 今になって私はあなたのお心がようく分ったような気が致しますの。ほんとに何もかもお許し下さいまし。 光子 中身は月日も宛名もないただそれだけのものだった。私はくり返し読みながら、いつまでも顔が上げられなかった。 松本は暫くして、自ら進んで云い出した。 「私は河野さんに呼ばれて全部の話を聞かされました。そして一日中考えてから、是非とも光子さんと結婚する気になったのです。あの 私は俄に顔を上げた。 「それで、君は彼女を探そうというのか。」 「いえ、探しはしません。今探し出して捕えるのは却って悪いと思います。私はただ待ってるつもりです。あの 彼の言葉の調子からかまたはその表情からか、どちらからとも分らなかったが、その時私は心に電気をでも受けたような感じを覚えた。 「君は……僕に意趣晴しをするために来たのか。」 「いいえ、ただこういう風になったとお知らせに上っただけです。」 そして私達はじっと眼と眼を見合った。ぴたりとぶつかった視線で力一杯に押合ってると、やがて彼の眼の光がむき出しになってきた。 「そうです、」と彼は云った、「私はあなたをこのままでは済ませないと思っていましたが、もうそんなことはどうでもいいような気がしてきました。馬鹿げきったことです。」 私は俄にかっとなって、顔を真赤にした……と思うだけでなおかっとなって、大きな声を立てた。「帰り給え。もう出ていってくれたまえ。」 「ええ帰ります。」 彼は飛び上るように立ち上って、室から出て行った。その力強い足音が階段に消え去ると、私は急に気力がぬけはてたようになって、机の上にもたれかかった。そして暫く惘然としているうちに、全く無用な自分自身を見出した、と同時に、或る広々とした所へぬけ出した気がした。 それは一寸名状し難い気持だった。世界が俄に晴々としてきて、自分自身が遠くへ薄らいでいって、何もかもどうでもよくなった。松本がどうしようと、光子がどうしようと、俊子がどうしようと、私がどうしようと、生きようと死のうと、どうでもよくなった。死ぬことだって自由だ。そして私は死へ微笑みかけていった。 一時間ばかりして俊子と顔を合した時、彼女は私を睥み据えた。 「あの女の手紙を御覧になりましたか。」 「ああ見たよ。」と私は落着いた調子で答えた。「なるほど、お前が松本君をすすめて僕の方へも見せに来さしたんだね。お蔭で僕はすっかり安心したよ。」 「安心ですって! まあ何て恥知らずな卑劣な……。私もうあなたの顔を見るのも厭です!」 そして彼女は物に慴えたように肩をぴくりとさして、向うへ行ってしまった。 俺が死んだら彼女はどう思うだろう、と想像して私は微笑を洩した。俺にだって死ねないとは眼らない! そして私はいろんな自殺の方法を考えて見た。首を縊る……毒を飲む……頸動脈を断ち切る……頭か心臓かに拳銃を打ち込む……然しどれも面白くなかった。もしその瞬間に死ぬのが厭になってももう間に合わない。生きるも死ぬるも自由な方法が私には必要だった。いろいろ考えているうちに、ふといいことを思い出した。手首の動脈を切って徐々に貧血してゆく死に方は非常に快いものだと、何かで読むか聞くかしたことがあった。これだと私は思った。生きたくなれば出血を止めればいいし、やはり死にたければそのままにしておけばいい。そしてその方法を頭の中でこね廻しているうちに、私は湯槽の中でやってみようときめた。死んだ場合に余り醜くないように、身体をよく洗っておいて、褌をしめて、それから剃刀で手首の動脈を切って……大して痛くもないだろう……それを湯の中につけておけば、出血が途中で止ることもなく、面白い幻覚をみ続けながら、苦痛もなく徐々に死ぬことが出来る。女中は何処かに使に出しておけばよいし、俊子は私の方を見向きもしないから大丈夫だ……。 私は雨のしとしと降る中を出かけていって、もっと降れもっと降れという明るい気持で、新らしい石鹸と剃刀と白布とを買って来た。その白布を六七尺の長さに鋏で切った。猿股でなく褌を用いるのが私の気に入った。馬鹿に高価だと思いながら一番匂がいいと云われて買って来た石鹸は、見馴れない黒い真円いものだった。それも私の気に入った。よく切れるのをと云って買ってきた剃刀は、まだ本当に刃が立っていないらしかった。私は仕方なしに革砥ですっかり研ぎ上げた。そしてその三品を書棚の抽出にしまった。 所が、一切の準備が出来上ってから、これで俺は死ぬのかしら、本当に死ぬのかしら……という疑いが起ってきた。何しろ私はごく自由な晴々とした気持になっていた。松本と光子よ、君達は輝かしく生きるがいい、河野さんよ、あなたは金の力で勝手な真似をなさるがいい、俊子よ、お前は俺から解放されて自由な途を歩くがいい、子供等よ、お前達は力強く生長するがいい、其他私の知ってる人々よ、君達は健在であれ!……そう呼びかけたいような気に私はなっていた。これで死ぬのかしら……と私は不安になり初めた。そして、いや死ぬものか! という思いと、いや死ぬのだ! という思いとが、同じ強さで起ってきた。 私は自ら茫然としているうちに、ふと思いついて、この気持に 井ノ頭の翌朝、私は一種無批判な盲目的な心境に陥ったことがあるが、それと似寄って而も気分は全く異った心境に、私は次第に浮び上っていった。あの時は陥ったのであるが、こんどのは浮び上ったのである。無批判ではなくて一切の批判を絶した、盲目的ではなくて眼をじっと見開いた、昼でもなく夜でもない薄ら明りの、落着いた静かな空しい心境だった。何のために? ということがないと共に、なぜ? ということも一切なかった。そして心の奥から、そうだそうだ! という声が響いていた。何がそうだかは分らないが……と云うより寧ろ、何がそうだかは問題でなくて、ただ静かにそうだった。髪の毛一筋も埃一粒も揺がないで、ただ静かにそうだった。 斯くてあれかし!……ふとそんな文句が私の心に浮んだ。死も生もその境をなくして、ただ斯くてあれかし! 私は死ぬかも知れない、或は死なないかも知れない。どちらだって結局は同じことだ。私が生きようと死のうと、何処にも波紋一つ立たないだろう、ただ空しい時間だけが流れ去ってゆくだろう。兎に角私は、三つの品を実際に用いてみようと思う。どうなるかは、誰にだって分るものか。ただ静かな晴々とした空しい世界だ……。 底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社 1965(昭和40)年12月15日第1刷発行 初出:「中央公論」 1924(大正13)年1月 ※「嘗」と「甞」の混在は底本通りです。 入力:tatsuki 校正:伊藤時也 2006年5月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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