「これをも一度一周りしようか。」 「厭よ。」 「なぜ?」 「あなたのような……卑劣な人とは。」 私はむっとした。が突然、顔が真赤になるのを感じた。 「でも僕は……。」 「いや、いやよ。」と彼女は私の言葉を押っ被せた。「いろいろうまいことを云っても、やっぱりあなたには、愛も何もないんだわ。」 「じゃあなぜ、昨日は、僕にあんな話をしたんだい? そして……。」 「そして……何なの?」 彼女は病的に光る眼で私の方をじろりと見たが、ふいに真蒼になった。 「もうお互にはっきりしておこうじゃないか、何もかも万事を。」 「ええ、私はもう何もかもはっきり分ったわ。」 「そんなら、僕のこともよく分ってくれてるんだね。」 「分ってるわ、あなたがそんな人っていうことは。」 「またお前は……。」 「それから、自分がこんな女ってことも分ってるわ。だから私あなたを有難く思ってるのよ。」 そして彼女はヒステリックに笑い出したが、その笑を中途でぷつりと切って、毒々しく光る眼で私の方を睥めた。 「いいえ、あなたばかりじゃない。何もかも有難く思ってるわ。」 「お前はまた、心にあることと反対のことばかりを云ってるね。もうこうなったからには真正直に物を云おうじゃないか。」 「ええ、私は昨日からずっと真正直だったわ。」 「そうも云えるけれど……。」 「反対だとも云えると仰言るの? 私何もあなたに隠しはしなかったわ。あなたこそ……いいえもういいわ。何だっていいわ。よく分ってることだから。」 そして彼女は非常に陰欝な顔付になって、眼の光も消えてしまった。私はぞっとした。 「ねえ、お前は僕を許してくれる?」 「許すも許さないもないわ。」 「そうだ、許すも許さないもないというのは本当だ。この気持でいようじゃないか。そして、どちらかに心が落着くまで待とう。」 彼女は何とも答えなかった。私達は森をぬけて停留場の方へ歩いていった。靄を通した薄赤い朝日の光に照らされてる、彼女の蒼ざめた顔や乱れた髪が、私には驚くほど美しく見えた。 「これからどうする?」と私は低い声で尋ねた。 「河野さんの家に帰るわ。」 それきり私達は切符を買うまで黙っていた。電車に乗っても、彼女は窓の外の景色を一心に眺めていた。私もいつしか外の景色に見入ってしまった。 そして、私にとっては長い間のような気がするが、実は僅かに昨日の午後からの短い間に、事情は他の方面で、退引ならない方へ進展してしまった。 私は光子と別れてから、その半日を会社で過し、午後は暫く街路を歩いてみたが、やはり何だか気にかかって、三時頃家に帰ってきた。そして、妻に向ってこんな風に云った。 「昨日は会社の用で急に横須賀に行くことになって、つい知らせる隙がなかったものだから……。電話がないとほんとに不便だね。」 実際私は、会社の用で時折横須賀へ行って一泊してくることがあった。俊子は変な顔付で――それも私の思いなしかも知れないが――私の方を見ていたが、やがて、会社のことなんかどうでもいいという風で、困ったことが出来たのでお帰りを待っていた、と云い出した。けれど私も、家のことなんかどうでもいいという風で、着物を着換え初めた。所が光子とか松本とかいう言葉に、忽ち注意を惹かれてしまった。 俊子の話を概略するとこうだった――昨日の朝、松本が慌しく駆け込んできた。そして光子とのこれまでのことを告白し、前日光子がやって来たことから、その朝までの一部始終を話した。それは私が光子から聞いた所と大同小異だった。そして松本の願いとしては、光子を救うと思って、暫く家に置くかまたは他の所へ世話するかして、兎に角河野さんの家から引出してほしい、とのことだった。俊子はひどく狼狽して、主人が帰ったらよく相談して、すぐに何とかしようと答えた。所が、晩に松本はまたやって来て、河野さんの家へ電話をかけたら光子はまだ帰っていない、ということを報告した。 「それから今まで、私は一人でどんなに気を揉んでたか知れませんよ。」と俊子は云った。 大体の話が分ると、私は少し安心して、また冷淡な態度を取った。 「厄介なことになったものだね。だがまあ、そのことは後でゆっくり相談しよう。僕は会社のごたごたした問題で、昨日から非常に疲れてるから、少し寝かしてくれ。」 彼女が不平そうにぶつぶつ云ってるのを知らん顔で、無理に布団を敷かして、私はその中に頭までもぐり込んだ。実際私は非常に疲れてもいた。けれど眠れはしなかった。 外部の事情からしてもまた私自身の気持からしても、光子のことに関して何とか解決を迫られてるのを、私は重苦しく感じてきた。然し私は何等解決の方法をも見出しはしなかったし、たとい見出しても、その方へ歩を進めるだけの元気がなかったろう。光子と別れてから後私は、全く無批判な盲目的な心境へ落ち込んでいた。善とか悪とか意志とか、そういったものを全然抜き去った、深い落莫の心地だった。自分の性的――否人間的――無気力を証明された痛ましい一夜から、じかにつながってきてるものだった。いろんな取止めもない妄想に耽りながらも、どうなるかなるようになってみろ! と捨鉢などん底に自然と腹が据っていた。 それで、その晩松本がやって来ても、私はわりに泰然とした皮肉さで、彼に接することが出来た。殊に私のそういう皮肉さを助長するかのように、松本は私が晩酌をやってる所へ飛び込んできたのである。 晩酌は私の日課になっていた。そしてその晩の晩酌は、いつもより少し長引いていた。俊子がくどくどと先刻の話を繰返すのへ、ぼんやり耳だけを貸しておいて、私は自分の陥った落莫とした心境に、じっと心を潜めていた。食事を済した子供達が隣りの室で、「チイチイパッパ、チイパッパ、雀の学校の……。」といったようなことをして遊んでるのを、靄越しにでも見るような不思議な心地で、ぼんやりと眺めながら、知らず識らず杯の数を重ねた。そこへ松本がふいに姿を現わした。彼は座敷へ通されるのを待たずに、私達がいる茶の間の方へ自分からやって来た。その自信ありげな露わな眼付を見た時、私の気持に不思議な変化が起った。今までもやもやと立罩めていた霧が急に霽れて、自分の周囲がぱっと明るくなったような心地だった。そして私の頭には、三人の子供を隣室に遊ばせ、台所に女中を控えさし、妻を側に坐らして、その真中に納まりながら――何の能もない自分が家庭という巣の中に納まり返りながら、酒にほてった赤い顔をし、額に泰平無事の快い汗をにじまして、ちびりちびり晩酌をやってる、おめでたい自分の姿が、一瞬の間はっきりと映ったのである。それは単にその晩だけの姿ではなくて、これまでの良い家庭生活を通じての、総括的な自分の姿だった。私は突然或る反抗心に駆られて苛立ったが、それに光子のことがからまってきて、次の瞬間には、反対にぐっと皮肉に落着いてしまったのである。 松本は私に一寸挨拶をしておいてから、いきなりこう云い出した。 「奥さん、光子さんは帰っていますよ。」 それを聞いて、俊子が変にぎくりとしたことを、私は後になって思い出した。後で分ったことだが、俊子は既にその時から、私の珍らしい外泊や帰宅後の様子などによって、一抹の疑惑を懐かせられて、そのために却って、私の行動については一切尋ねなかったものらしい。でもその時私は、そんなことには少しも気付かなかった。 私は松本に対して、皮肉な調子に出てしまった。 「だいぶ面白い話があるそうじゃないか。」 松本はちらと私の方を見たが、すぐに眼を伏せてしまった。それへ、俊子が気忙しなく尋ねかけた。 「え、光子さんはいつ頃帰ったのですって? どうしてあなたにそれが分りましたの?」 松本は一寸考えてから答えた。 「私は昨日から、光子さんの行方が心配でならなかったんです、何だかひどく苛立ってるようでしたから。それで、今朝また河野さんの家へ電話をかけてみました。所がまだ帰っていないとの答えです。それから、晩になっても一度かけてみました。出て来たのは確かに光子さんです。月岡さんおいでですか、と私が云うと、はい、という返辞でしょう。私はすっかり喜んで、松本です、と思わず云ってしまったのです。すると、それからいくら呼んでも返辞がありません。でも確かに光子さんです。何を私に怒ってるんでしょう。」 それから変に皆黙り込んでしまった。私は松本の綺麗にかき上げられてる髪に眼をつけていたが、三四杯酒を干してから、煙草に火をつけながら尋ねてみた。 「一体君、初めからどういう話なんだい。」 松本は苦しそうな表情をしたが、底に頼る所ありげな諦めの態度で、一切のことをまた話してきかした。私は既に光子からと俊子からと二度も聞いてるその話を、新たな興味で聞き初めた。そして実際彼の話は、光子のそれと違って、落着いたしっかりした歩調で進んでいった。最後には、私が草野さんに相談して必ずあなたを救い出してあげるから、二三日辛抱して待っていてくれと、固く約束をしたから……とそんなことがつけ加えられた。 私は心に一種の圧迫を感じてきたが、それを強いてはねのけるようにしながら、じかに突込んでいった。 「君は一体、本当に光子さんに恋してるのかい?」 松本は少しもたじろがなかった。 「今の所恋してるかどうかは自分にもはっきり分りませんが、愛してることは確かです。」 「愛と恋と違うのかい。」 「私は違うと思っています。」そして彼の眼は輝いてきた。「私が深く光子さんを恋していたのでしたら、一昨日の晩、別々の室になんか寝なかったろうと思うんです。夢中になって取返しのつかないことをしたろうと思います。また、恋しても愛してもいなかったとしたら、別な興味で臨んでいったろうと思います。私はこう思っています。男が女と肉体的に接触する場合は、深い恋か単なる性慾かのどちらかだと。所が私は光子さんに対して、盲目的な深い恋を感じてもいませんし、単に性欲で臨むほど無関心でもいません。何と云ったらいいですか、こう……あの女を清くそっとしておきたいというような心持、愛……愛です。私は本当にあの女を愛しています。」 「君は全くの理想家だね。」と私は冷かに云った。 「ええ、私は理想家です。自分のあらゆる行動を理想で律してゆきたいと思っています。単なる理想でなしに、実際の行動をも支配するほどの強い理想が、本当に新らしい時代を生長させるのであって、もし……。」 云いさして彼は俄に口を噤んだ。私の皮肉な眼付に気付いたのだろう、ぴくりと眉根をしかめて、眼を伏せてしまった。私は空嘯いて煙草を吹かした。彼が理想家であることは前から分っていたが、その理想を光子に対しても応用して……そして、彼が光子に長々と恋愛論をしてきかしたという話を、私はふと思い出したりして、変に皮肉な苦笑的な気持が募ってきた。 「まあ君の理想はいいとして、一体光子さんの方は、君に対してどうなんだろう?」 「私を愛しているようです。ただ私が苦痛なのは……。」 彼はまた口を噤んで私の眼を見た。 「何が苦痛だって?」 「一昨日私の所へ飛び込んできたのは、本当に私が恋……私を愛してるからか、それとも一時河野さんを避けるためにぼんやり頼ってきたのか、その辺がよく分らないんです。」 「君が苦痛だというのは、ただそれだけなのかい。」 「それだけって……。」 「君は光子さんをどんな女だと思ってるんだい。」 「比較的真正直な怜悧な……いや何だかよく分りません。」 彼は急に苛立ってきた。私はそれをなおつっ突いてやった。 「例えば、河野さんと実は関係がついていたり、北海道でいろんなことがあったり、そんな風な奔放な女だったとしたら?」 「え、そんな女でしょうか。」 「いやそれはただ仮定だよ、君の気持をはっきりさせるためにね。で、もしそうだったとしたら、それでもやはり君は、彼女を愛し続けてゆけるのか。」 私の執拗な眼付に対して、彼は顔を伏せて暫く唇をかみしめていたが、やがてきっぱりと云った。 「愛し続けてゆきます。責任上愛し続けるつもりです。」 「責任だって?」 然し彼は口を噤んで答えなかった。私には今以て、それがどういう責任の意味だか分らない。彼はやがて徐ろに云い出した。 「私はお宅で初めて光子さんに会って、それから次第にこういう気持へ落込んできたのですが、光子さんの身の上については実際よく知ってはいないんです。もし何か……ありましたら、教えて頂きたいのですが。」 「僕だって何も知りやしないよ。まあ、過去として葬るがいいさ。」 「でも……。」 私は彼の露わな眼付にぎくりとした。と同時に、話の工合がいつしか自分にとって危険なものとなってるのを感じた。それで話の方向を一度に変えてしまった。 「で結局君は、どういうことにするのが一番望みなんだい。」 「私は、出来るならば、光子さんを暫くお宅に置いて頂いて、私と交際を許して頂きたいんですが。」 「今だって君は、自由に交際してるんだろう。」 「文通はしていますが……。」 「交際はしていないというのかい。へえー、僕はまた君達をもっと深い間柄だと思っていた。」 少し腹立ち気味の反抗的な気勢で、腕を組み眼を伏せて考え込んだ彼の姿を、私は小気味よく眺めやった。それを余りひどいとでも思ったのか、俊子が突然中にはいってきた。 「理屈はどうだって、兎に角光子さんをこのまま河野さんの所へ置いとくのはいけませんわ。北海道から遙々頼ってきたのをあすこへやったのですから、あんな話を聞いてこのままにしておくのは、私達としても済まないじゃありませんか。」 「だから僕はどうしたものかと考えてるんだよ。」と私は云った。 「あなたはいつもそれですもの、考えてばかりいて、はっきりと決断なすったことは、一度だってありゃあしません。そんな風では、いつまで待ったって片付くものですか。」 「ではどうすればいいんだい?」 「もう松本さんの心はきまっていますし、この上は光子さんの心だけでしょう。私が参って、一体光子さんはどう思ってるか、それをよく聞いてきましょう。河野さんには義理もあるけれど、穏かに話をすれば、あれだけの人ですもの、そう分らないことは仰言るまいと思いますわ。」 勿論それ以外に解決の方法がありようはなかった。然し彼女の調子は幾分私を驚かした。前から一々準備したようによく整った簡潔な文句を、もうきまりきったことのようにきっぱりと云ってのけて、それで一挙に事柄を決定してしまったのである。私にくどくどいろんなことを述べ立てて相談した彼女とは、すっかり異った調子だった。恐らく彼女は、私と松本との話を聞いてるうちに、何となくそれだけの決心を強いられたものらしい。そう私は咄嗟の間に感じて、何故となく不安の念に駆られてきた。 「勿論お前が行ってくれなければ、外に一寸行く人はないんだけれど……。」 「だから私が行きますわ。ねえ、松本さん、それでいいでしょう?」 「ええ。済みませんが、そうお願いします。」と松本はきっぱり答えた。 私は自分の立場が急になくなったような気がした。と一方には、それを自ら皮肉に顧みる気も起って、松本に杯をさしたりなんかしながら、こんなことを云ったものだ。 「そうきまったからには、もう君も心配しないでいいよ。なあに場合によっては、河野さんと一談判したって構わないし、僕達で君達二人の間の媒妁人になってもいい。」 何て馬鹿なことを私は云ったものだろう! 心ではつゆほどもそんなことを思ってはしなかったのだ。明日一杯明後日までには何とかなるだろうという約束で、松本が再び元気づいた自信ありげな眼付をして帰っていった後、私はなお酒の燗を命じてちびりちびりやりながら、そんなにお目出度く事件が片付くものかと考えて、理想主義者の松本のために――この理想主義者だということが、なぜだかその時私にはひどく必要だった――彼理想主義者のために、軽蔑的な苦笑が自然と浮んできた。それから、片付かないとすれば一体どうなるのだ? という所へ考が落込んでいった時、訳の分らない憤りと苛立ちとを覚えてきた。私の方をじっと窺っているらしい俊子の落着き払った様子にも、私はまた心を乱された。
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