「どうする?」 「やっぱり……仕方がないわ。」 「それでも……。」 「もう駄目よ。」 私は屹となって涙を拭いた。 「僕が河野さんに逢いに行こう。そして……。」 「いえ、いけないわ、どうしてもいけないわ。」と彼女は何故かむきになって遮った。 「じゃあ止すよ。」 私達はじっと眼を見合せたが、心に相通ずるものは何もなかった。彼女はぴくりと眉根を震わして云った。 「私、もう帰るわ。」 私は黙って首肯いた。 「では、先生、これで……。」 そして彼女は改まったお辞儀を一つした。その先生というあの時以来初めての言葉と、その時彼女の頸筋にはっきり見えた生々しい紫色の痣とが、今でも私の心にはっきり残っている。 彼女が出て行った後、私は椅子に身を落して両手に顔を埋めた。涙がしきりに出て来た。その泣いている自分自身に気がつくと、急に訳の分らない苛立ちを覚えて、前にあった葡萄酒を半分ばかり飲んでしまった。それから其処を出て、その足ですぐ会社へ行き、急な雑用をすっかり片付けておいて、途中で食事を済まし、晩の八時頃家に帰った。 私は平素の自分を取失ったようになっていた。絶えず万一のことを期待する気持に駆られていた。その万一が何のことだかははっきりしなかったが、光子からあの変な話をきかされた時から、何もかもこんぐらかって圧倒されるような心地の底に、ただ一つ、或る漠然とした万一の場合を予想する念が萠して、それが次第に私を囚えていった。泣いてる自分自身に気付いて苛立ったのも、会社へ行って大体の用を片付けたのも、食事後すぐに家へ帰ってきたのも、みなそのためだった。家へ帰って私は書斎の山を片付けるつもりだった。 この万一の場合を予想する気持は、これまでにも時々、ふっと日が影るような風に、何等はっきりした理由もなく起ってくることがあった。それは生活気分がたるんで心身がだらけてる結果だったろうが、その日のは変な重苦しい重圧となって、私の上にのしかかってきた。光子との会見があんな風に終って、愈々もう駄目だという絶望が濃くなるにつれて、私は一刻もじっとしてはいられなかった。多分河野さんの家へ行ってもう帰ってる筈の俊子と顔を合せることも、ひどく不安であったけれど、そんなことに構ってはいられなかった。 所が家へ帰ってみると、俊子は不在だった。女中に聞けば、俊子は午後中じっと家にいて、それから晩になると慌だしく支度をして、俥に乗って出かけたそうである。後で分ったことだが、彼女は河野さんの家へ行くのが何だか嫌で、ぐずぐずしているうちに夕方になって、いつも三時頃には社から帰る私が帰って来ないし、不安な思いが募ってきて、どうにでもなれという気で出かけたのだった。 「虫が知らしたんです。」と彼女は云った。「私はどうしても行きたくなかった。そしてぐずぐずしているうちに、あなたは先廻りをして、あの女と落合っていらしたんでしょう。図々しいにも程があるわ。あなたはそれでも恥しくないんですか。」 「いや僕は会社に行って遅くまで用をしていたんだ。」と私は臆面もなく云った。「嘘だと思うなら、会社に電話で聞いてみるがいい。」 「いいえ、嘘です、嘘です。」 そして彼女はどうしても聞き入れなかった……がそれは後のことである。 私は俊子がいないのにほっと安心すると共に、また一方には不安にもなりながら、二階に上って、飜訳の原稿や五六通の書信を片付けたり、書棚の中の書物を並べ直したり、机の抽出の中のこまごました物を見調べたり、額縁の曲ってるのを掛直したり――何のためにそんな下らないことをしたのだろう!――そして合間合間には腕を組んで室の中を歩いたりしてるうちに、今迄甞て知らない種類の焦慮に襲われてきた。「晩に河野さんの所へでもいらっしゃるがいいわ、」という光子の言葉から糸を引いて、俊子がいつも河野さんに金を借りにいったこと、彼女が結婚前から――子供の時から――河野さんと往来していたこと、河野さんの性情や私達の冷かな夫婦生活、そんなことが一時に忌わしい影を拵えて、私の頭に映ってきた。思うまいとしてもまたいつしかその方へ考えが向いていった。そして自身のことと彼女のこととが、頭の中に渦を巻いた。私は幾度も時計を眺めた。十一時近くまで彼女は帰って来なかった。 表に俥が止った時、私は物に慴えたように立竦んだ。それから机の前に坐って、書物を一冊披いて読み耽ってる風を装った。俥屋の声や、女中の声や、戸締りをする音や、茶の間で何かかたかたやる音などが、相次いで聞えてきたが、やがてしいんと静まり返った。私は苛ら苛らしてきた。そして十分ばかりたつと、梯子段を鈍い足音が上ってきた。 俊子は半ゴートだけをぬいだ外出着のままで、静かに室へはいって来て、火鉢の向うに坐ってから、改まった調子で云った。 「只今。河野さんの家へ行って参りました。」 その全体の様子から私はただならぬものを感じて、一寸口が利けないでいると、彼女は急にはらはらと涙をこぼして、それからまた立上って出て行こうとした。 「俊子!」と私は呼び止めた。 振向いた彼女の顔は、ぞーっとするほど冷たく凝り固まっていた。 「どうしたんだい?」と私は強いて尋ねた。 彼女は一寸考えてから、また火鉢の向うに戻ってきて坐った。そして燃えるような眼付を私に見据えながら、震える声で云い出した。 「どうしたのか、御自分の胸にお聞きなすったら、分る筈です。あんな事をしておいて、よくも私を……。私、のめのめとあの女の前に出ていったかと思うと、口惜しくて、口惜しくて!……。」後の言葉は息と共に喉元につめて、こまかく肩を打震わした。 私はどしりと打ちのめされた気がした。万一の場合を予想する気持になってはいたが、その万一は、そんなことではなくて、もっと遠い他の漠然とした所にあった。何れ俊子に分るかも知れないとは思っていたが、河野さんの家で彼女がそれを聞き出そうとは、夢にも思ってはいなかった。私は彼女について他のことを懸念していたのである。所が……。私は我を忘れて飛び立とうとした。 「え、誰から、誰から聞いたんだ?」 すると彼女は、俄に嘲笑的な調子に変った。 「誰から聞こうと私の勝手ですわ。あなたは、分るまではごまかしておくつもりだったんでしょう。立派なお考えですわ。そして松本さんに向って、場合によっては媒妁人になってあげてもいいなんて、よくも図々しい口が利けたものですね。昨日からどうも様子が変だとは思ったけれど、まさかあの女と……そう思い直して……。私あなたを買いかぶっていました。もっと立派な人だと思いっていました。北海道で関係をつけた女を、二人でしめし合せて家に引張り込んで、私の前では少し都合が悪いものだから、河野さんの家へ追いやって、始終媾曳をして、井ノ頭なんかに泊り込んだりして……。またあの女も女ですわ。あなたに倦きてくると松本さんを誘惑したり、河野さんに身を任せたり、丁度あなたには似寄っています。ほんとに似寄りの夫婦よ。あの女と結婚なさるがいいわ。私邪魔も何にもしやしません。黙って出て行きます。あの女が私の代りになって、私があの女の代りに河野さんの女中にでもなります。あなたよりか河野さんの方が、まだ男らしく立派です。」 彼女はもうめちゃくちゃになって、自分で思っていないことまで口走ってるのが、私には感じられた。と共に、彼女が或る点まで確かな事実を知ってることも、私には感じられた。もうごまかせやしない、そう思うと却って腹が据って、私は初めからのことを告白して、そして納得させようとした。 「もう僕も隠しはしない。何もかも云ってしまうから、つまらない邪推はしないでくれ。」そして私は、北海道では何事もなかったことを諄々と説き、次に一昨日光子が会社へやって来たことから、光子を井ノ頭へ誘い出したことを話し、その時の気持を前に書いておいたような風に説明し、それから井ノ頭でつい遅くなって泊ったことを話したが、その弁解には可なりゆきづまった。「兎に角僕は油断をしていた。性慾を軽蔑していた。人生を甘く見ていた。お前と一緒の生活をしているという腹が据っているので、何をしても危険はないと思っていた。そして遂に躓いたのだ。心は少しもぐらつきはしなかったが、肉体的につい躓いたのだ。」そんな風に私は云ったのである。勿論それも、私としては全然嘘ではなかったけれど、これ以外のことはどうしても云えなかった。云えば自分達の生活の否定になるのだったから。 それまで黙って聞いていた俊子は、そこで急に私の言葉を遮った。 「じゃあ何をしようと油断からならいいんですね。私もこれからせいぜい油断をしてみましょうよ。他の男と一緒に泊ってきて、つい油断をして躓いた、とそう云ってあげますわ。あなたがどんな顔をなさるか……。もう分っています、あなたの心なんかすっかり分っています。いつも私にはあんなに冷淡にしておいて、他の女に逢うと愛情が起るんでしょう! 性慾を軽蔑していたなんて、よくも図々しいことが云えたものですわ。」 「いや実際少しも光子に心を動かしたのじゃない。肉体的に躓くことはあったにしろ、僕は心の上では一度もお前に背いたことはないつもりだ。それだけはお前も信じてくれていい筈だ。」 「それでは、あなたはどうして私を河野さんの家へおやりなすったのです? なぜその前にこうこうだと仰言らなかったのです? 私にあんな恥しい目を見さしておいて、何が心の上では……でしょう。私河野さんの前で、ほんとに穴でもあればはいりたいような、泣くにも泣かれず、額からじりじり汗が出て……。」 「え!」と私は思わず声を立てた、「河野さんが……河野さんがお前に云ったのか。」 私の心の奥に巣くっていた浅間しい感情が、突然はっきりと姿を現わしてきた。そういう私がそういう場合に彼女に嫉妬するとは、何ということだったろう! 然しその時私は忌わしい想像を振り落すだけの力がなかった。 「どんな風に、どんな場合に、河野さんはお前にそれを話したのか?」 彼女は呆気に取られたように私の顔を見守った。私はなお執拗に迫っていった。すると突然、彼女の顔にはありありと恐怖の色が浮んだ。それが私を更に駆り立ててきた。 「お前は前から河野さんとは親しくしていたろう。恥しい思いをしたことはないのか。」 云ってしまってから私はぎくりとした。余りに忌わしい調子だった。もっともっと落着いて……そう思って云い直そうとしたが、もう遅かった。彼女はまるで死人のような顔色になった。顔色ばかりではなく、眼も頬も口も冷たくこちこちになってしまった。 「浅間しいとも何とも、あなたは!」 「いや僕はただ……。」 「聞きたくありません!」ぷつりと云い切ってから、暫くすると、こんどはひどく激昂してきた。「あなたは自分がそうだから私までもそんな女だと思っていらっしゃるのですか。あなたがそのつもりなら、私だってそうなってみせます。それこそ油断をして、性慾を軽茂して、世の中を甘く見て、河野さんを立派に誘惑してみせますわ。それがあなたのお望みなんでしょう。あなたは自分が疚しいものだから、私にもけちをつけたいんでしょう。」 「お前はそんなめちゃなことを云って、自分で恥しくないのか。」 「あなたこそめちゃなことを仰言るんです。」 会話はそんな風に実際めちゃになっていった。何もかもごったになってはてしがつかなかった。それを一々書くのは無駄でもあるし、また書ききれるものでもない。私達は口早に云い争ったり、長々と説明したり、可なりの間黙り込んだりして、夜中の三時過ぎまで起きていたのである。そして全体としては、彼女は次第に攻撃的になって嵩にかかってき、私は次第に受太刀になって詭弁を弄したが、それも結局二人の間を益々乖離させるばかりだった。彼女は私の云うことを真正面から受け容れはしなかったし、私は彼女の問に卒直な答をすることが出来なかった。その上彼女も私に対して卒直な口の利き方をしなかった。殊に河野さんの家でどんなことが起ったかについては、初めから一度もはっきりしたことを話さなかった。私は後で彼女の言葉を綜合して、大凡次のようなことを知ったばかりである。 俊子が俥で乗りつけた時、河野さんはまだ晩酌をやっていた。で彼女は一寸挨拶をしておいて、光子に別室へ来て貰った。そして松本がやって来た転末からその希望などを話して、光子の心を聞きに来た由を告げた。所が光子は顔を伏せたまま、初めから一言も口を利かなかった。いくら尋ねても「石のように押黙って」いた。そしてしまいには、河野さんに話して下さいとただそれだけ云った。俊子は仕方なしに河野さんへ相談した。そして松本と光子との恋愛だけを話したが、話はそればかりじゃあるまいと河野さんに突っこまれて、遠廻しに事情を匂わした。河野さんは黙って耳を傾けて、「火鉢の底がぬけやしないかと思われるほど、火箸を灰の中につき立ててぎりぎりやって」いたが、ふいに「眼をぎょろりとさして」一切のことを打明け、私のことまでさらけ出した――勿論私と光子とのことを、彼はどの程度まで知っていたか、またどの程度まで俊子に話したか、それは私には分らない、が兎に角、俊子はそれを聞いて「消え入るような思い」をした。河野さんは彼女を慰めた上で、そういうことになってる以上は松本の方の意志次第だと云った。松本という人がある以上はこれから自分が光子を清く保護してやると誓った。
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