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或る男の手記(あるおとこのしゅき)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-10-13 6:24:40 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


「一体何のことですか。話してしまったらいいじゃありませんか。私の顔を見てどうでもよくなったなんて……。」
「でもあの時は一寸そんな気がしましたけれど……やっぱり……。」
「話してしまった方がいいでしょう。私の顔に何か書いてあるわけでもないでしょうから。」
 私は冗談にしてしまおうとしたけれど、今の彼女には手答えもなかった。日傘の先で地面をつっついて歩きながら、恐ろしく真剣に考え耽ってる様子だった。私は何となく不吉な予感を覚えた。実は彼女にその話をさせるために連出したのだったが、そして会話の調子でなおそれを求めてはいたが、公園にはいりかける頃から、もう聞かない方がよいかも知れないという気持が起ってきた。然しやがて、彼女の方から話し出してしまったのである。
 日曜日でないせいか、公園の中には余り人はいなかった。杉の木立のほろろ寒い下蔭にはいって暫く行った時、光子は一寸足を止めてあたりを見廻したが、今度はゆっくりと歩き出しながら云った。
「私やっぱり先生に、何もかもお話してしまいますわ。」
「ええ。」と私は簡単に素気なく答えた。
 私達は足の向くままに――と云っても池の縁の道を――長く歩き続けた。光子の話は調子が早くなったり遅くなったり、事柄が前後したり、私に聞き返されて云い直したりして、余りまとまりのよいものではなかったが、大体の筋道はよく通っていたし、彼女にとっては可なり真剣なものだった。
「私何よりも先に、先生にお詫びしなければならないことがございますの。先生お許し下さいますわね。初めのうちに申上げておけばよかったのですけれど、何だか云い悪くて……。あの……先生の所へよく遊びにいらっしゃる松本さん、あの人と私変な風になってしまったんですの。河野さんの所へ参ってからは、始終お手紙を下さいますし、私も時々手紙を上げていましたが……。でも、今じゃもう何でもありませんわ。あんな意気地のない人のことなんか、どうだって構わない、私心の外におっぽり出してしまいますわ。そりゃ変なことを仰言るんですもの。あなたはこれまで幾人の男に関係したかなんて、まるで人を芸者か女郎とでも思っていらっしゃるような調子なんでしょう。私口惜しいから突っかかっていってやると、悪かったら謝罪するとこうなんですもの。そして、たといあなたの過去はどういうことがあろうと、そんなことを私は咎めはしない、現在のあなたが私一人を想っていて下さればそれでいいんです、けれど、お互に過去のことをすっかり打明け合って、さっぱりした気持で愛し合わなければいけない……とそんなことを繰り返し仰言るんです。変な理屈ですわ。過去のことを打明け合うのはいいけれど、それをくどくど話すというのは、やっぱり過去のことをいつまでも忘れない証拠じゃないんでしょうか。私はもう昔のことなんか綺麗に忘れてしまっていますわ。先生にだけお話しますけれど、私札幌で一人恋し合った人がありましたの。でも今ではもう、松本さんの仰言るように、それも言葉だけでなしに本当に、過去は過去として葬ってしまってるつもりですわ。それを根掘り葉掘り尋ねておいて、おまけに昨夜ゆうべは私をあんな室に置きざりにして……。先生、何もかもありのままお話しますわ。ねえ、聞いて下さいまして? 私本当に困ってるんですの。私奥様のお世話で、河野さんの所へ参りまして、昼間は学校に通わして貰えますし、夜分は家庭教師の真似事みたいなことをして、ほんとに願ってもない仕合せな境遇だと、初めのうちはどんなに喜んだか知れませんわ。けれど、先生は御存じかどうか知りませんが、河野さんてそりゃあひどい人なんですの。松本さんも私の話を聞いて、それは立派な色魔だと仰言っていらしたわ。私はそれほどには思いませんけれど……或はお酒のせいかも知れないと思っていますけれど、松本さんに云わせると、酒は男の計略ですって。そうでしょうかしら? 夜晩く帰っていらして、夜の一時二時頃まで召上ることなんか、珍らしくもありません。奥様は御病気で片瀬に行っていらっしゃいますし、女中さんは二人共まるで山出しの田舎者なんですもの、お酒の相手……いえ私お酒なんかあすこで一杯も頂きませんけれど、お側についていてお燗をしたりなんかするのは、いつも私の役目ですの。だって外に誰もいないんですから、仕方ありませんわ。そして酔っ払った揚句には、私の手を握りしめたり、便所はばかりに立つふりをして、私の首にかじりつこうとなすったり、この頃では昼間お酒の気がない時でさえ、妙な眼付をして私のお臀を叩いたりなさるんです。それも冗談ならいいんですけれど、時々変なことを仰言るんですの。俺は草野の細君みたいな女が大好きだ、昔から好きだった、が人の細君では仕方がない、お前ならその向うを張れるから、一つ俺と一緒にならないか、あんな病身なくよくよした妻なんか、今すぐにでも追ん出してみせる……なんてもっとひどいことだって仰言るんです。草野の細君という言葉を私は二三度聞きましたが、ひょっとすると、あなたの奥様に変な気を持っていらっしゃるのかも知れませんわ。そんなひどい心の人ですもの、私なんかを手に入れるのは訳はないと、どうもそういった調子なんですの。お前もいい加減意地っ張りだねと、私の耳を火の出るほどひどく引張ったりなさるんです。なぜうんと怒ってやらなかったかって、松本さんはひどく憤慨していらしたけれど……いえそれは昨晩のことなんですの。いくら何だって、私そんなことを松本さんに話せはしなかったんですもの。でも昨日はとうとう逃げ出してしまいましたわ。それまでに幾度逃げ出そうとしたか分りません。松本さんは私が前に手紙でそんなことを少しも匂わせなかったと云って、少し疑っていらっしゃるようですけれど……そのためかも知れませんわ、私に過去のことをいろいろお聞きなすった。のは。男には女の心なんか分らないでしょうかしら。私がそれまで隠してたのは、事を荒立てたり松本さんに心配さしたりしたくないというだけで、外に訳は何もないんですの。でもやっぱり駄目でしたわ。一昨日おとといの晩は愈々困ってしまいました。夜の二時頃までお酒を召上っていらしたが、餉台の上の小皿を一枚ふいに取上げて、いきなり側の鉄の火鉢に投げつけて、粉微塵に壊しておしまいなすったんです。何でも、差された杯の酒を私が飲まないとか何とか、そんな風なことだったんです。でも私にはその乱暴が、全く不意だったものですから、すっかりまごついたせいか、自分でもよく分りませんが、急に変な気持になって、その杯の酒をぐっと飲んでしまいましたの。後ではっとしましたが、もう追っつきません。河野さんは恐い眼付で私の方をじろりと見て、うむ、お前が皿一枚に一杯ずつ飲むなら、夜明けまでに何枚でも壊してやると、こうなんでしょう。そうなると私も意地っ張りで、もう一言も口を利かないで、室の隅にじっと坐っていました。それからまた皿を一二枚お壊しなすって、暫くすると、畳の上にごろりと寝転んでいらしたが、私が気がついてみると、少し鼾をかいて眠っていらっしゃるんでしょう。私ほんとにどうしたらいいかと思いましたわ。しまいには腹を据えて、夜着を上からそっとかけてあげて、私は一番遠い隅っこへ火鉢を持っていって、それによりかかりながら朝まで坐り通しに坐っていました。その間の恐ろしいようななさけないような気持ったら、今考えてもぞっとしますわ。そして朝になってから私は、女中達の手前今起きたような風をして、顔を洗ったり庭に出てみたりしました。河野さんは平気でしゃあしゃあとしていらして、女中に小言を云いながら室を片付けさして、それから私に向っては、人の居ない所で、昨晩夜着をかけてくれた親切は忘れないって……。それを聞くと、私は頭から水でも浴びたように、ぞーっと身体が竦んでしまいました。どうしてそんなに恐ろしかったのか、自分でもいくら考えても分りませんが、ほんとに恐ろしくてじっとしていられなかったんですの。そしてその日の午後に、私は身体一つで松本さんの下宿へ飛んでいきました。松本さんは私がやって行くと、ただ遊びに来たものとでもお思いなすったのでしょう、初め何だか嬉しそうにそわそわしていらしたが、私の様子がやはり変だったと見えて、いやに真面目な鹿爪らしい調子で、いろんなことをお聞きなさるんです。私も初めから何もかも訴えて縋りつくつもりだったものですから、これまでのことを残らず話してしまいましたの。すると、松本さんは非常に憤慨なすったので、私もまた更に腹が立ってきて、二人でさんざん河野さんの悪口を云っていますと、途中から、松本さんはいやに黙り込んでおしまいなさるんです。晩の御飯を頂いてる時なんか……だって外に出かける間がないうちに、日が暮れてしまったんですもの。下宿屋の御飯なんか、薄穢くて私もうつくづく厭ですわ。それを松本さんはうまそうに召上りながら、何だかじっと考え込んで、碌々私に返辞もなさらないんでしょう。そして御飯が済んで暫くたつと、いきなり私の方に向き直って、河野さんのやり方は何処までも悪い、然しあなたは全然正しいかって、そう仰言るんです。全然正しいって……まあ何のことでしょう。私呆れて返辞も出来ませんでしたわ。それからが過去の問題なんです。……ああ、もうお話しましたわね。で私は、松本さんが私と河野さんとの間を疑っていらっしゃるのだと思って、そんな邪推を受ける覚えはないと、繰り返し云ってやりましたの。所が松本さんは、あなたの方が私の云うことを邪推してるんだって、そう仰言るじゃありませんか。それから面倒くさい理屈になって、私ほんとに弱ってしまいましたわ。恋愛は人間の一種の煉獄で、それに飛び込むには、過去を懺悔し合い赤裸々になって、なお未来を誓うだけの勇気がなければ、いけないんですって。それからまだいろんなむつかしいことを仰言ったけれど、私一々覚えてやしません。そして私が、愛というものは理屈じゃなくて、どうにも出来ない気持の上のものだと云うと、それにも賛成なさるんでしょう、結局何のことだか分りやしないわ。それから変にちぐはぐな気持になって、長い間黙り込んだりしてるうちに、時間がたってしまいましたの。松本さんは喫驚したように時計を見て、もう帰らなけりゃいけないんでしょうと仰言るんです。河野さんの家へ帰るのは厭だと云うと、でも今晩は帰らなけりゃいけないと仰言るんです。私むっとして、じゃあ帰りますって立上ると、屹度私の顔色が変ってたのかも知れませんわ、慌ててお引止めなすって、泊っていってもいいってことになったんですの。それでも、今晩は同じ室に寝ない方がいいと云って……それも私を愛してるからですって!……御自分は別の室に寝ようとなさるんです。そうなりゃ私も意地で、是非帰ると云ったんですけれど、とうとう、私が外の室に寝ることにして、泊ってしまいました。それも下座敷の穢い室で、畳のへりは擦り切れ、壁に新聞の附録か何かの美人画がはりつけてあって、狭い床の間には古机が一つ横倒しになっています。その中で私は、下宿屋の薄い穢い布団にくるまって、涙が独りでにこぼれてきました。松本さんは私に、今晩はこれで辛抱して下さい、こんな風にするのもあなたを愛してるからで、後で分る時が来ますって、そう仰言ったけれど、そんな愛し方ってあるものでしょうか。私が何もかもうっちゃって縋りついていったのに、帰れと云ったり別の室に寝かしたりして……あら私、何も一緒にどうのっていうんじゃありません、せめて同じ室にくらい寝かしたってよさそうなものですわ。私口惜しくって、夜中過ぎまで震えながら泣いていましたが、もうどうとでもなれと諦めて、それに前の晩一眠りもしなかったんですもの、朝遅くまで寝入ってしまいましたの。松本さんは早くから起上って、何度も私の室を覗きにいらしたんですって。私ほんとに恥をかかされちゃったんですの。そのまま飛び出してやろうかと、よっぽど思ったんですけれど、無理に我慢していますと、松本さんは変にしおれ返った様子で、私の手をじっと握りしめなさるんです。でも私知らん顔をしてやりましたわ。それから、二人で先生の家へ行こうと仰言るのを、逃げるようにして飛び出してきました。そして一人で外を歩いてるうちに、どうしていいか分らなくなって、やはり先生にお話してみようと思って、お伺いしたんですの。一昨日おとといの晩からのことを考えると、何だか夢のような気がしたり、またいろんなことが眼の前に押し寄せてきたりして、自分で自分が分らなくなってしまいますわ。どうしたらいいんでしょう? でも、どうせ私は……。」
 光子はぷつりと言葉を切って、突然何かに腹を立てでもしたように、早めにすたすたと歩き出した。私達はそれまでに、池を一周半ばかりしたのだった。
 光子の話の中で、殊に私の注意を惹いたことが三つあった。河野さんの口から洩れたという私の妻のことと、河野さんが殆んど毎晩のように酒を飲むということと、最後のは全く馬鹿げてるが、松本の下宿で光子が朝遅くまでぐっすり寝入ったということだった。それから、後で松本から聞いた所に依ると、光子が泊った室はそれほどむさ苦しいものではなかったそうだし、また、光子は自分の過去を話すのを厭いながらも、松本の過去をしきりに聞きたがったそうである。……だが、こんな細かな詮索はぬきにして、彼女の話全体は、初めの不吉な予感に反して、淋しいようでまた伸々とした自由さを私の心に伝えた。うち晴れた秋の空を見るような感じだった。それは恐らく、何処かの狭苦しい室の中ではなく、ああいう場所で聞かされたせいかも知れない。そして不吉な予感は、ずっと先の方に対してのものだった。
 光子は何かに立腹でもしたように、とっとと歩いてゆく。私はその後から、余裕のある心持でついて行きながら、わざとこんな風に尋ねかけてみた。
「あなたは一体松本君を愛してるのですか、どうなんです?」
「あんな人のこと何とも思ってやしませんわ。」と彼女は振向きもしないで答えた。
「じゃ河野さんは?」
「考えるのも厭ですわ。」
「それではどうしようって云うんです?」
「分りませんわ。」
「そりゃ誰にだって分らないでしょうけれど……でも何だか変ですね。」
 此度は彼女も本当に腹を立てたらしかった。私の言葉には返辞もしないで、自棄やけ気味に日傘を引きずりながら、真直ぐを見つめて歩き続けた。私も黙って後からついていったが、次第に心の落着き場所を失ってきた。彼女の真剣な話を変な風にはぐらかしてしまったのはよいとして、その納りをつけるのに困った。しっくりと彼女の腑に落ちる事を云ってやりたかったが、その言葉が見付からなかった。そして知らず識らず足をゆるめていると、彼女はふいと向き直って、だいぶ後れてる私の方へ焦れったそうに呼びかけた。
「先生、もっと早く歩きましょうよ。私この池のまわりを何度も廻ってみたいんですの、幾度廻れるか。」

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