俊子の心を絶望的に激昂さしたのは、勿論私と光子との関係が第一ではあったろうけれど、河野さんの取った処置もまたその一つだった。翌日私は、松本がやって来ないことにふと気付いて、さすがにしきりと気にかかってきて、思いきって俊子へ尋ねてみた。 「松本君はどうして来ないんだ?」 彼女は恰もその問を待っていたかのように、朝から堅く噤んでいた口を俄に開いた。 「松本さんはいらっしゃりゃしません。河野さんの所へでもいらしたんでしょうよ。あなたよくお聞きなさるがいいわ。河野さんは私にこうお云いなすったのです。今更光子をあなたの家へ引取るわけにもゆくまいし、それかといって、光子の心はひどく荒んでるようだから、他処へやるのもどうかと思う。それで事がきまるまで、私が預っておくとしよう。知らない前は兎に角、松本という人のことを知った以上、私は誰にも指一本ささせないようにして、光子を清く保護してみせる。それから松本という人には、まさかあなた達から話をする訳にもゆくまいから、一層全く知らない他人の私から、ざっくばらんに打明けてその上の心持を聞くとしよう……とそうなんです。それでもあなたは恥しくないんですか。私は顔から火が出るような思いをしました。まだあの女を家に連れて来た方が、どれだけいいか分りません。それも出来ないようなことに、誰がなすったのです!」 彼女の眼は憎悪に燃え立っていた。然しその憎悪は、単に私にばかりではなく、一切の成り行きにも向けられてることを、私ははっきり感じた。そしてその時から、私は凡てに復讐する気持で、河野さんに決闘を申込んでやろうかとも考えたのである。 でもそれは翌日のことだった。何だか筆が先へ滑ってごたごたしたが、実際私はこれから先をはっきりと書き分けるのに困難を感ずる。私は何が何やら見分けのつかない気持になっていたのだから。 所で、その晩、私は俊子と三時まで諍い続けて、三時が打つと、その音がまた不思議にはっきり聞えたのであるが、私達は急に黙り込んでしまった。そして長い間黙ってた後に、「もう私は寝ます。」と彼女は云いすてて、不意に立上った。その様子が異様だったので、私は喫驚して、心を静めてくれとまた哀願した。 「二三日考えてみます。」と彼女は云った。 それでも、私は安心しかねて、彼女の後に引きずられるようについていって、寝室へはいり、彼女が寝てしまうのを見定めて、自分もやはり布団にもぐり込んだ。それから夜が明けるまでのうちに幾度か、夢現のうちにふっと不安な気に駆られて、頭をもたげながら彼女の方を眺めやった。 それは何とも云えない怪しい気持だった。昼間になってもそれが続いた。一瞬間でも眼を離したらどういうことになるか分らない、という恐れもあれば、眼を離したらもう永久に彼女を失ってしまう、という恐れもあったが、また一方には、どうなったって構うものか、彼女を失ったって平気だ、と思う心が却って不安の念をそそって、彼女の側を離れ難かったのである。私は恰も鉄が磁石に引きつけられるように、始終彼女の方へ気を惹かれた。そして私は、じっと坐り込んでる彼女から、少し離れた所をぶらついたり、食事の時にはやはり一緒の餉台に坐ったり、彼女の側でいつまでも新聞を見てる風を装ったりした。 そういう私に、彼女は殆んど一瞥をも与えなかった。二三日考えてみるという言葉を、常住不断に実行してるかのようだった。いつも口をきっと結び眼を見据えて、額に冷酷な専心の影を漂わしていた。そして時々思い出したように、三歳になる末っ児の達夫を、いきなり膝の上に引き寄せ、その上に屈み込んで頬をくっつけながら、力限りに抱きしめた。達夫が苦しがっていくら蜿いても、彼女はなかなか離さなかった。それでも一度手を離すと、もう忘れてしまったかのように見向きもしないで、自分一人の沈思に耽っていった。かと思うとまた三人の子供達を呼び集めて、一番好きな御馳走を拵えてあげようとか、一番好きな玩具を買ってあげようとか、一番好きな遊びごとをしてごらんなさいとか、兎に角子供の一番喜ぶことを尋ねておいて、女中に云いつけてその通りにさせた。けれどもやがてまた、自分自身の中に潜み込んで、苦しそうに眉根を寄せるのだった。そういう様子を神経質な長女の清子は、子供心にも痛々しく感じたのであろう、私の方を窺ったり俊子の方を窺ったりして、それから妙に涙ぐんだような眼付で、俊子の側にいつまでも坐り込んで小布を弄ったりしていた。次の子の秀夫は何事にも無頓着で一人で騒ぎ廻っていたが、いつも遊び相手の清子が取合わないので、つまらなそうな顔をして、女中の所へ菓子をねだりに行った。末っ児の達夫は、三歳とは云え漸く駈け廻れるくらいで、玩具箱をかき廻すのに倦きると、しきりに母親の後ばかり追っかけた。それを俊子は時々の気分によって、突き放したり抱擁したり愛撫したりして、泣かせたり苦しませたり喜ばせたりした。それから女中は変におずおずして――と私には思われた――影の方に引込んでばかりいた。皆一緒になって和やかにいっていた家庭の調子が、何だかばらばらに壊れて狂ってきた。其の中で俊子は、殆んど用事だけの口をしか利かないで、冷たい蒼ざめた顔をして、何処かの隅にぽつねんと考え込んでいた。そして突然気付いたかのように、子供達に対していろんなことをしてやるのが、益々家庭内の空気を不安になすのだった。 その不安な空気に堪えられなくなると、私は彼女から身をもぎ離すようにして、二階の書斎に上っていった。そして家庭的な空気が少しずつ遠くへかすんでゆくにつれて、外部の新たな不安な空気が、私へ重くのしかかってきた。松本や光子や河野さんのことなどが、解くことの出来ない縺れをなして、壁のように立塞がっていた。それをじっと見つめて、苛立たしい焦燥のうちに室の中を歩き廻りながら、私は次第に或る忌わしい想像を打立てていった。まだ眼に残ってる光子の頸筋の斑点やら、俊子に対して懐いた恥しい疑惑やら、殊には河野さんが光子を渡さない処置などから、其他全体の事件の成り行きから、私はこのままで河野さんと光子との間が終るものかと想像して、云い知れぬ恥しさと憤激とを覚えた。その時私の頭に映った河野さんは、荒い赤毛を頭の上にむりに撫でつけ、太い眉の下にぎろりとした眼を光らし、皮膚のたるんだ頬に太い筋のある、ただ一個の人間ではなくて、獣的な力強い性慾を具体化したものだった。そして私はこんどの一切のことに復讐する気で、河野さんと決闘してみようかと思った。初めふと浮んだその考えは、何度も頭に戻ってくるうちに、ただそれだけがあらゆる屈辱を払いのける唯一の手段のように思われてきた。日本人だからとて決闘していけないわけはない、そう自ら心に叫んで、私は拳銃を手に入れる方法を考えたり、河野さんから借りた金額を胸勘定したりした。どうせやるなら堂々と、金を返した上で拳銃で打合いたかった。所が私には、一体どれほど河野さんから借金があるのか、はっきりしたことが分らなかった。五千円を越してるかも知れないとぼんやり思うだけで、明確な所は俊子に聞かなければならなかった。家財道具を売払ったり友人に借りたりしても必ず金は返してみせる、その上で……と決心して俊子の方へやっていった。然し俊子の冷たい眼付に出逢うと、私はそれを云い出しかねた。浅間しい疑惑の一件が、しきりに邪魔となってきた。 その上俊子は、私の一身からひどい嫌悪と圧迫とを感じてるらしかった。絶えず私に顔を外向けて背を向けようとしたし、私の前を避けようとしていた。夜中に私がふと不安な心地で我に返って、彼女の寝ている方を窺うと、二燭の電燈のぼんやりした光の中で、布団の上に坐ってる彼女の寝間着姿が見えた。私は喫驚して息を凝らした。やがて彼女はぶるっと一つ身震いをして、傍に寝ている達夫の方に屈み込んで、その額に頬を押当てた。暫くすると立上って、ふらふらと室を出て行こうとした。私は飛び上ってその手首を捉えた。 「何処へ行くんだ!」 私の手の中で彼女の手首はぶるぶると震えた。それから石のように冷たく固くなった。
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