「正太さんを褒(ほ)めるのは貴方ばかりだ」 お雪が自分の家の二階で、夫に話しているところへ、勝手を知った豊世が階下(した)から声を掛けて上って来た。 「叔母さん、御免なさいよ。御断りも無しで入って来て――」 と豊世は親しげな調子で挨拶(あいさつ)した。 正太が名古屋へ発ってから、こうして豊世はよく訪ねて来るように成った。長いことお雪は豊世に対して、好嫌(すききらい)の多い女の眼で見ていた。「豊世さんも好いけれど……」とかなんとか言っていたものであった。正太と小金の関係を知ってから、急にお雪は豊世の味方をするように成った。豊世の方でも、「叔母さん、叔母さん」と言って、旅にある夫の噂(うわさ)だの、留守居の侘(わび)しさだの、二階を貸した女の謡の師匠の内幕だのを話しに来る。正太が発(た)つ、一月あまり経つと、最早町では青梅売の声がする。ジメジメとした、人の気を腐らせるような陽気は、余計に豊世を静止(じっと)さして置かなかった。 「豊世さん――正太さんの許から便りが有りましたぜ」 と三吉に言われて、豊世は叔父の方へ向いた。風呂敷包の中から小説なぞを取出して、それを傍に居る叔母へ返した。 三吉は笑いながら、「何か貴方は心細いようなことを名古屋へ書いて遣(や)りましたネ」 「何とか叔父さんの許へ言って参りましたか」 「正太さんの手紙に、『私は未だ若輩の積りで、これから大に遣ろうと思ってるのに、妻(さい)は最早老(おい)に入りつつあるか……そう思うと、何だか感傷の情に堪(た)えない』――なんて」 それを聞いて、豊世はお雪と微笑(えみ)を換(かわ)した。名古屋から送るべき筈(はず)の金も届かないことを、心細そうに叔父叔母の前で話した。 二階から見える町家の屋根、窓なぞで、湿っていないものは無かった。空には見えない雨が降っていた。三人は、水底(みなそこ)を望んでいるような、忍耐力(こらえじょう)の無い眼付をして、時々話を止(や)めては、一緒に空の方を見た。どうかすると、遠く濡(ぬ)れた鳥が通る。それが泳いで行く魚の影のように見える。 「豊世さん――一体貴方は向島のことをどう思ってるんですか」三吉が切出した。 「向島ですか……」と豊世は切ないという眼付をして、「何だか私は……宅に捨てられるような気がして成りませんわ……」 「馬鹿な――」 「でも、叔父さんなぞは御存(ごぞんじ)ないでしょうが、宅でまだ川向に居ました時分――丁度私は一時郷里(くに)へ帰りました時――向島が私の留守へ訪ねて来て、遅いから泊めてくれと言ったそうです。後で私はそのことを先(せん)の老婆(ばあや)から聞きました。よく図々(ずうずう)しくも、私の蒲団(ふとん)なぞに眠られたものだと思いましたよ。そればかりじゃありません、宅で向島親子を芝居に連れてく約束をして、のッぴきならぬ交際(つきあい)だから金を作れと言うじゃ有りませんか。私はそんな金を作るのはイヤですッて、そう断りました。すると、宅が癇癪(かんしゃく)を起して、いきなり私を……叔父さん、私は擲(なぐ)られた揚句に、自分の着物まで質に入れて……」 豊世はもう語れなかった。瀟洒(しょうしゃ)な襦袢(じゅばん)の袖を出して、思わず流れて来る涙を拭(ぬぐ)った。 「叔父さん――真実(ほんと)に教えて下さいませんか――どうしたら男の方の気に入るんでしょうねえ」 と復た豊世は力を入れて、真実男性(おとこ)の要求を聞こうとするように、キッと叔父を見た。 「どうしたら気に入るなんて、私にはそんなことは言えません」と三吉は頭を垂れた。 「でも、ねえ、叔母さん――」と豊世はお雪に。 「亭主を離れて観るより外に仕方が無いでしょう」と三吉はどうすることも出来ないような語気で言った。 「そんなら、叔父さんなんか、どういう気分の女でしたら面白いと御思いなさるんですか」 「そうですネ」と三吉は笑って、「正直言うと、これはと思うような人は無いものですネ……昔の女の書いたものを見ると、でも面白そうな人もある。八月のさかりに風通しの好いところへ花莚(はなむしろ)を敷いて、薄化粧でもして、サッパリとした物を着ながら独(ひと)りで寝転(ねころ)んで見たなんて――私はそういう人が面白いと思います」 豊世とお雪は顔を見合せた。
子供の喧嘩(けんか)する声が起った。それを聞きつけて、お雪は豊世と一緒に階下(した)へ降りた。茶の用意が出来たと言われて、三吉も下座敷へ飲みに来た。 「馬鹿野郎!」 いきなり種夫はそいつを父へ浴せ掛けた。 「種ちゃんは誰をつかまえても『馬鹿野郎』だ」と三吉は子供を見て笑った。「でも、お前の『馬鹿野郎』は可愛らしい『馬鹿野郎』だよ」 「種ちゃんの口癖に成って了いました」とお雪は豊世に言って聞かせた。「御客のある時なぞは、真実(ほんと)に困りますよ」 「豊世さん、煙草はいかが」 と三吉は巻煙草を取出して、女の客や妻の前でウマそうに燻(ふか)した。 「一本頂きましょうか」と豊世は手を出した。「自分じゃそう吸いたいとも思いませんが、他様(ひとさま)が燻していらっしゃると、つい頂きたく成る」 お雪も夫の巻煙草を分けて貰って、左の人差指と中指との間に挾んで吸った。 「あれで宅はどういうものでしょう」と豊世は叔父に、「名古屋へ参ります前なぞは、毎日寝てばかりおりましたよ。叔父さんが寝てるが可いッて仰(おっしゃ)ったから、俺は寝てるなんて、そんなことを申しまして……」 「正太さんも一時は弱ってましたネ」と三吉は心配らしく、「僕の家なぞへ来てもヒドく元気の無いことがあった」 「宅がよく申しましたよ、是方(こちら)へ上って御話をしてると、自分の塞(ふさ)がった心が開けて来るなんて、そう言っちゃあ吾家(うち)を出掛けました……どうかすると、宅が私に、『三吉叔父さんは僕の恋人だ』なんて……」 三吉は噴飯(ふきだ)して了った。お雪は巻煙草の灰を落しながら、二人の話を聞いていた。 「もうすこし宅も仕事を為(し)そうなものですが」と豊世は考えるように。 「畢竟(つまり)、楽むように生れて来た人なんですネ。橋本のような旧い家に、ああいう人が出来たんですネ」 「……」 「吾儕(われわれ)の親類の中で、絵とか、音楽とか、芝居とかに、あの人ぐらい興味を持つ人は有りません。そのかわりああいう人に仕事をさせると――どうかすると、非常に器用な素人(しろうと)ではあっても、無器用な専門家には成れないことが有ります」 「そういうものでしょうかねえ……」 「一体、正太さんは人懐(ひとなつ)こい――だからあんなに女から騒がれるんでしょう」 豊世は苦いような、嬉しいような笑い方をした。 入口の庭の隅には、僅かばかりの木が植えてある。中でも、八手(やつで)だけは勢が好い。明るい新緑は雨に濡れて透き徹(とお)るように光る。青々とした葉が障子の玻璃(ガラス)に映って、何となく部屋の内を静かにして見せた。その静かさは、あだかも蛇が住む穴の内のような静かさであった。 お雪は起って行って、お俊夫婦の写真を取出して来た。新郎(はなむこ)は羽織袴(はおりはかま)、新婦(はなよめ)も裙(すそ)の長い着物で、並んで撮(と)れていた。 「お俊ちゃんの旦那さんは大層好い方だそうですネ」とお雪は豊世と一緒に写真を見ながら、「お俊ちゃんは真実(ほんと)に可羨(うらやま)しい」 「私も可羨しいと思いますわ」と豊世が言った。 「何故、そんなに可羨しいネ」と三吉は二人の顔を見比べた。 「でも仲の好いのが何よりですわ。笑って暮すのが――」とお雪は豊世の方を見て。 「今にお俊ちゃん達も笑ってばかりいられなく成るよ」 こう言って三吉が笑ったので、二人の女も一緒に成って笑った。 三吉は家の内部(なか)を見廻した。彼とお雪の間に起った激しい感動や忿怒(ふんぬ)は通過ぎた。愛欲はそれほど彼の精神(こころ)を動揺させなく成った。彼はお雪の身体ばかりでなく、自分で自分の身体をも眺めて、それを彫刻のように楽むことが出来るように成った――丁度、杯の酒を余った瀝(しずく)まで静かに飲尽せるような心地(こころもち)で。二人は最早離れることもどうすることも出来ないものと成っていた。お雪は彼の奴隷で、彼はお雪の奴隷であった。
九
「叔母さん――私も郷里(くに)へ行って参りますわ。宅から手紙が参りましてネ、どうも田舎(いなか)の家が円(まる)くいかないようだから、暫時(しばらく)お前は母親(おっか)さんの傍へ行ってお出なんて。まあ、どうしたというんでしょう。お嫁さんを貰うまでは、母親さんの眼の中へ入っても痛くない幸作さんでしたがねえ……私もイヤに成って了(しま)いますわ……彼方(あっち)へ行き、是方(こっち)へ行き、一つ処に落着いていられた例(ためし)は無いんですものね。叔父さんも、何でしたら、一度郷里へいらしって下さいましな。母親さんによく話してやって下さい。真実(ほんと)に、叔父さんにでも行って頂くと難有(ありがた)いんですけれど……」 こう言って、豊世が三吉の家へ寄ったのは、八月の下旬であった。それに附添(つけた)して、 「名古屋へ私が手紙を出しました序(ついで)に、『駒形の家は月が好う御座んすが、そっちではどんな月を見てますか』ッて、そう申して遣(や)りましたら、『俺は物干へ出て月を見てる』なんて、そんな返事を寄しましたよ――彼方(あちら)も御暑いと見えますね」と夫のことを案じ顔に言った。彼女は留守宅を老婆(ばあさん)に托して行くこと、名古屋廻りの道筋を取って帰国することなどを、叔父や叔母に話して置いて、心忙しそうに別れて行った。 三吉は父母の墓を造ろうと思い立っていた。山村に眠る両親の墳(つか)は未だそのままにしてあったので、幸作へ宛(あ)てて手紙を送って、墓石のことを頼んで遣った。返事が来た。石の寸法だの、直段書(ねだんがき)だのを細く書いて寄した。九月の下旬には、三吉は豊世からも絵葉書を受取った。 「其後、叔父様、叔母様には御変りもなく候(そうろう)や。国へ帰りて早や一月にも相成り候。こちらも思うように参らず、留守宅のことも案じられ、一日も早く東京へ参りたく候――」 と細い筆で書いてある。 秋も末に成って、幸作からは彫刻の出来上ったことを報知(しら)して来た。そこそこに三吉は旅の仕度(したく)を始めた。姉の様子も心に掛るので、諏訪(すわ)の方から廻って、先(ま)ず橋本の家へ寄り、それから自分の生れ故郷へ向うことにした。森彦や正太は名古屋に集っている。序に、帰りの旅は二人を驚かそうとも思った。お雪も夫の手伝いでいそがしかった。お種のことや、幸作夫婦のことや、未だ郷里(くに)に留まっている豊世のことなぞが、取散(とりちらか)した中で夫婦の噂(うわさ)に上った。 「橋本の姉さんも、親で苦労し、子で苦労し――まだその上に――最早(もう)沢山だろうにナア」 と夫の嘆息する言葉を聞いて、お雪も姉の一生を思いやった。 家を出て、三吉は飯田町の停車場(ステーション)へ向った。中央線は鉄道工事の最中で、姉の許(ところ)まで行くには途中一晩泊って、峠を一つ越さなければ成らなかった。それから先には峠の麓(ふもと)から馬車があった。 この旅に、三吉は十二年目で橋本の家を見に行く人であった。故郷の山村へは十四年目で帰る。
三吉を乗せた馬車が、お種の住む町へ近づいたのは、日の暮れる頃であった。深い樹木の間には、ところどころに電燈の光が望まれた。あそこにも、ここにも、と三吉は馬車の上から、町の灯を数えて行った。 馬車は街道に添うて、町の入口で停った。馬丁(べっとう)の吹く喇叭(らっぱ)は山の空気に響き渡った。それを聞きつけて、橋本の家のものは高い石垣を降りて来た。幸作も来て迎えた。三吉はこの人達と一緒に、覚えのある石段を幾曲りかして上って行った。古風な門、薬の看板なぞは元のままにある。家へ入ると、高い屋根の下で焚(た)く炉辺(ろばた)の火が、先ず三吉の眼に映った。そこで彼は幸作の妻のお島や下婢(おんな)に逢(あ)った。お仙も奥の方から出て来た。 「姉さんは?」と三吉が聞いた。 「一寸(ちょっと)町まで行きました、姉様(あねさま)も一緒に。今小僧を迎えに遣りましたで、直ぐ帰って参りましょう」 こう幸作が相変らず世辞も飾りも無いような調子で答えた。幸作は豊世のことを「御新造」と言わないで、「姉様」と呼ぶように成っていた。 「母親(おっか)さんもどんなにか御待兼でしたよ」 とお島は客を款待顔(もてなしがお)に言った。この若い細君は森彦の周旋で嫁(かたづ)いて来た人で、言葉遣(づか)いは都会の女と変らなかった。 「もう、それでも、皆な帰るぞなし」とお仙は叔父の方を見た。 遅く着いた客の前には、夕飯の膳が置かれた。三吉が旅の話をしながら馳走(ちそう)に成っていると、そこへお種と豊世が急いで帰って来た。お種は提灯(ちょうちん)の火を吹消して上った。三吉と相対(さしむかい)に、炉辺の正面へドッカと坐ったぎり、姉は物が言えなかった。 「叔父さん、真実(ほんとう)によく被入(いら)しって下さいましたねえ」と豊世は叔父に挨拶(あいさつ)して、やがてお仙の方を見て、「お仙ちゃん、母親さんに御湯でも進(あ)げたら好いでしょう。今夜は叔父さんが御着きに成るまいと思っていらしったところへ、急に御見えに成ったものですから、母親さんは嬉しいのと――」 お種はいくらか蒼(あお)ざめて見えた。お仙のすすめる素湯(さゆ)を一口飲んで、両手を膝(ひざ)の上に置きながら、頭を垂れた。 ややしばらく経った後で、 「三吉、俺は何事(なんに)も言いません――これが御挨拶です」 とお種は大黒柱を後にして言った。
古めかしい奥座敷に取付けられた白い電燈の蓋(かさ)の下で、三吉は眼が覚(さ)めた。そこは達雄の居間に成っていたところで、大きな床、黒光りのする床柱なぞが変らずにある。庭に向いた明るい障子のところには、達雄の用いた机が、位置まで、旧(もと)の形を崩さないようにして置いてある。黄色い模様の附いた毛氈(もうせん)の机掛は、色の古くなったままで、未だ同じように掛っている。 年をとったお種は、旅に来て寝られない弟よりも、早く起きた。三吉が庭に出て見る頃は、お種は箒(ほうき)を手にして、苔蒸(こけむ)した石の間をセッセと掃いていた。 「こんな山の中にも電燈が点(つ)くように成りましたかネ」と三吉が言った。 「それどこじゃ無いぞや。まあ、俺と一緒に来て見よや」 こうお種は寂しそうに笑って、庭伝いに横手の勝手口の方へ弟を連れて行った。以前土蔵の方へ通った石段を上ると、三吉は窪(くぼ)く掘下げられた崖(がけ)を眼下(めのした)にして立った。 削り取った傾斜、生々(なまなま)した赤土、新設の線路、庭の中央を横断した鉄道の工事なぞが、三吉の眼にあった。以前姉に連れられて見て廻った味噌倉も、土蔵の白壁も、達雄の日記を読んだ二階の窓も、無かった。梨畑(なしばたけ)、葡萄棚(ぶどうだな)、お春がよく水汲(みずくみ)に来た大きな石の井戸、そんな物は皆などうか成って了った。お種は手に持った箒で、破壊された庭の跡を弟に指して見せた。向うの傾斜の上の方に僅(わず)かに木小屋が一軒残った。朝のことで、ツルハシを担(かつ)いだ工夫の群は崖の下を通る。 お種は可恐(おそろ)しいものを見るような眼付して、弟と一緒に奥座敷へ引返した。幸作は表座敷から来て、三吉の注文して置いた墓石が可成(かなり)に出来上ったこと、既に三吉の故郷へ積み送ったことなぞを話した。お種は妙に改まった。 朝飯には、橋本の家例で、一同炉辺に集った。高い天井の下に、拭(ふ)き込んだ戸棚を後にして、主人から奉公人まで順に膳を並べて坐ることも、下婢が炉辺に居て汁を替えることも、食事をしたものは各自(めいめい)膳の仕末をして、茶椀(ちゃわん)から箸(はし)まで自分々々の布巾(ふきん)で綺麗に拭くことも――すべて、この炉辺の光景(さま)は達雄の正座に着いた頃と変らなかった。しかし、席の末にかしこまって食う薬方の番頭も、手代も、最早昔のような主従の関係では無かった。皆な月給を取る為に通って来た。 「御馳走」 と以前の大番頭嘉助の忰(せがれ)が面白くないような顔をして膳を離れた。この人は幸作と同じに年季を勤めた番頭である。幸作は自分の席から、不平らしい番頭の後姿を見送って、「為(す)るだけのことを為れば、それで可いじゃないか」という眼付をした。 賑(にぎや)かな笑声も起らなかった。お種は見るもの聞くもの気に入らない風で、嘆息するように家の内を見廻した。その朝、彼女は箸も執(と)らなかった。三吉を款待(もてな)すばかりに坐っていた。豊世やお仙は言葉少く食った。二人は飯の茶椀で茶を飲みながらも、皆なの顔を見比べた。 「母親さん、召上りませんか」 とお島は姑(しゅうとめ)の方を見て、オズオズとした調子で言った。 「俺は牛乳を飲んだばかりだで……また後で食べる」 とお種は答えたが、ぷいと席を立って、奥座敷の方へ行って了った。 食後に、三吉は久し振の炉辺に居て、幸作を相手に沢田という潔癖な老人のあったことなぞを尋ねた。あの忠寛の旧(ふる)い友達で、よくこの家へやって来た老人は疾(とう)に亡くなっていた。 ふと、三吉は耳を澄ました。玄関の方へ寄った薬の看板のかげでは、お島の忍び泣するけはいがした。
「そうかナア」という眼付をしながら、三吉は炉辺からお仙のボンヤリ立っている小部屋を通って、姉の居る方へ来た。 奥座敷の中央(まんなか)には、正太が若い時に手ずから張って漆を抹(は)いたという大きな一閑張(いっかんばり)の机が置いてある。その前に、お種は留守を預ったという顔付で、先代から伝った古い掛物を後にして、達雄の坐るところに自分で坐っていた。豊世は茶道具を出して、それを机の上に運んだ。 三吉はこの座敷ばかりでなく、納戸(なんど)の方だの、新座敷の方だのを見廻した。改革以来、沢山な道具も減った。たださえ広い家が余計に広く見えた。 「でも、思いの外種々(いろいろ)な道具が残ってるじゃ有りませんか」と彼は言って見た。 「皆なの丹精で、これまでに為たわい。旦那が出て了った後で、私がお前さんの家から帰って来た時なぞは……眼も当てられすか」とお種は肩を動(ゆす)った。 「そう言えば、達雄さんも満洲の方へ行ったそうですネ」 「そうだゲナ――」 「姉さん、貴方は達雄さんに置去(おきざり)にされたような気はしませんか」 「神戸に居る間は、未だそうは思わなかったよ……どうも帰って来てくれそうな気がして……満洲へ行って了った……それを聞いた時は、最早私も駄目かと思った……」 「仕方が有りません。思い切るサ」 「三吉――お前はそんなことを言うが、どうしても私は思い切れんよ」 お種は心細そうに笑った。 ゴーという音が庭先の崖下の方で起った。工夫が石を積んで通る「トロック」の音だ。お種は頭脳(あたま)へでも響けるように、その重い音の遠く成るまで聞いた。やがて、名古屋に居る正太の噂を始めた。彼女は幾度も首を振って、「どうかして彼(あれ)がウマクやってくれると可いが」を熱心に繰返した。 茶が入ったので、隣の新座敷に薬の紙を折っていたお仙が母の傍へ来た。豊世は幸作夫婦を呼びに行った。 養子夫婦が入って来ると、急にお種は改まって了った。幸作は橋本の薬を偽造したものから、詫(わび)を入れに来た話なぞをして、その男が置いて行った菓子折を取出した。 「どれ、皆なで偽薬(にせぐすり)の菓子をやらまいか」 と幸作は笑って、それを客にもすすめ、自分でも食った。 お種は若い嫁の方を鋭く見て、 「お島は甘いものが好きだに、沢山(たんと)食べろや――」 「頂いております」とお島は夫の傍に居て。 「オオ、あの嬉しそうな顔をして食べることは――」 姑は無理に笑おうとしていた。 長くも若夫婦は茶を飲んでいなかった。二人が店の方へ行った後で、三吉は姉に向って、 「姉さんの顔は、どうしてそんなにコワく成りましたかネ」 「そうか――俺の顔はコワいか」とお種は自分の眉(まゆ)を和(やわら)げるように撫(な)でながら、「年をとると、女でも顔がコワく成るで……どうかして俺は平静(たいら)な心を持つように、持つように、と思って……こうして毎日自分の眉を撫でるわい」 「どうも貴方の調子は皮肉だ。あんまり種々な目に遭遇(であ)って、苦しんだものだから、自然と姉さんはそう成ったんでしょう。目下のものはヤリキれませんぜ」 「そんなに俺は皮肉に聞えるか」 「聞えるかッて――『オオ、あの嬉しそうな顔をして食べることは』――あんなことを言われちゃ、どんな嫁さんだって食べられやしません」 豊世やお仙は笑った。お種も苦笑して、 「三吉、そうまあ俺を責めずに、一つこの身体を見てくれよ。俺はこういうものに成ったよ――」 と言って、着物の襟(えり)をひろげて、苦み衰えた胸のあたりを弟に出して見せた。骨と皮ばかりと言っても可かった。萎(しな)びた乳房は両方にブラリと垂下っていた。三吉は、そこに姉の一生を見た。 「エライもんじゃないか」 とお種は自分で自分の身体を憐(あわれ)むように見て、復(ま)た急に押隠した。満洲の実から彼女へ宛(あ)てて来た手紙が文机(ふづくえ)の上にあった。彼女はそれを弟に見せようとして、起って行った。 「ア、ア、ア、ア――」 思わずお種は旧い家の内へ響けるような大欠伸(おおあくび)をした。
幸作は表座敷に帳簿を調べていた。優雅な、鷹揚(おうよう)な、どことなく貴公子らしい大旦那のかわりに、進取の気象に富んだ若い事務家が店に坐った。達雄の失敗に懲りて、幸作はすべて今までの行き方を改めようとしていた。暮しも詰めた。人も減らした。炉辺に賑やかな話声が聞えようが、聞えまいが、彼はそんなことに頓着(とんじゃく)していなかった。ドシドシ薬を売弘めることを考えた。「大旦那の時分には、あんなに多勢の人を使って、今の半分も薬が売れていない――あの時分の人達は何を為ていたものだろう――母親さん達は皆なの食う物をこしらえる為にいそがしかった」こう思っていた。お種に取って思出の部屋々々も彼には無用の長物であった。 こういう実際的な幸作のところへ、旧家の空気も知らないお島が嫁(かたづ)いて来た。達雄やお種から見ると、二人は全く別世界の人であった。若い夫婦はどうお種を慰めて可いか解らなかった。 三吉はこの人達の居る方へ来て見た。そこは以前彼が直樹と一緒に一夏を送った座敷で、庭の光景(さま)は変らずにある。谷底を流れる木曾川の音もよく聞える。壁の上には、正太から送って来た水彩画の額が掛っている。こういうものを見て楽む若旦那の心は幸作にもあった。 「姉様(あねさま)を呼んでお出(いで)」 と幸作は妻に吩咐(いいつ)けた。 豊世は困ったような顔付をして、奥座敷の方から来た。「こんな折にでも話さなければ話す折が無い」と言って、幸作はどんなに正太の成功を祈っているかということを話した。苦心して蓄積したものは正太の事業を助ける為に送っているということを話した。お仙を連れて空しく東京を引揚げてからのお種は、実に、譬(たと)えようの無い失望の人であった――こんなことを話した。 「兄様(あにさま)さえ好くやってくれたら、私は何事(なんに)も言うことは無い――私は今、兄様の為に全力を挙げてる――一切の事はそれで解決がつく」 と幸作は力を入れて言った。 姑と若夫婦と両方から話を聞かされて、三吉は碌(ろく)に休むことも出来なかった。その晩も、彼は奥座敷の方へ行って、復たお種の歎(なげ)きを聞いた。姉は遅くなるまで三吉を寝かさなかった。 夜が更(ふけ)れば更るほどお種の眼は冴(さ)えて来た。 「姉さん、若いものに任せて置いたら可いでしょう」 と三吉が言うと、姉はそれを受けて、 「いえ、だから俺は何事(なんに)も言わん積りサ――彼等(あれら)が好いように為て貰ってるサ――」 こういう調子が、どうかすると非常に激して行った。幸作夫婦が始めようとする新しい生活、ドシドシやって来る鉄道、どれもこれもお種の懊悩(なやま)しい神経を刺戟(しげき)しないものは無かった。この破壊の中に――彼女はジッとして坐っていられないという風であった。 お種は肩を怒らせて、襲って来る敵を待受けるかのように、表座敷の方を見た。 「なんでも彼等は旦那や俺の遣方(やりかた)が悪いようなことを言って――無暗(むやみ)に金を遣(つか)うようなことを言って――俺ばかり責める。若い者なぞに負けてはいないぞ。さあ――責めるなら責めて来い――」
橋本の炉辺では盛んに火が燃えた。三吉が着いて三日目――翌日は彼も姉の家を発(た)つと言うので――豊世やお島やお仙が台所に集って、木曾名物の御幣餅(ごへいもち)を焼いた。お種は台所を若いものに任せて置いて弟の方へ来た。 三吉は庭に出て、奥座敷の前をあちこちと見廻っていた。以前この庭の中で、家内(うち)中揃(そろ)って写真を撮(と)ったことがある。それを三吉が姉に言って、達雄が立って写した満天星(どうだん)の木の前へ行きながら、そこは正太が腰掛けたところ、ここは大番頭の嘉助が禿頭(はげあたま)を気にしたところ、と指して見せた。彼は自分で倚凭(よりかか)って写した大きな石の間へ行って見た。その石の上へも昇った。 お種は、どうかすると三吉がずっと昔の鼻垂小僧(はなたらしこぞう)のように思われる風で、 「三吉、お前がそんなことをしてるところは、正太に酷(よ)く似てるぞや」 こう言って、彼女も座敷から庭へ下りた。姉は自分が培養している種々な草木の前へ弟を連れて行って見せた。山にあった三吉の家から根分をして持って来た谷の百合には赤い珊瑚珠(さんごじゅ)のような実が下っていた。こうして、花なぞを植えて、旧い家を夢みながら、未だお種は帰らない夫を待っているのであった。 新座敷は奥座敷とつづいてこの庭に向いている。その縁側のところへ来て、お仙が父の達雄に彷彿(そっくり)な、額の広い、眉の秀(ひい)でた、面長な顔を出した。彼女は何を見るともなく庭の方を見て、復た台所の方へ引込んで了った。 木曾路(きそじ)の紅葉を思わせるような深い色の日は、石を載せた板葺(いたぶき)の屋根の上にもあった。お種は自分が生れた山村の方まで思いやるように、 「三吉が行くなら、俺も一緒に御墓参をしたいが――まあ、俺は御留守居するだ」 独語(ひとりごと)のように言って、姉は炉辺の方へ弟を誘った。 午後に、お雪から出した手紙が三吉の許へ着いた。奥座敷の縁側に近いところで、三吉はその手紙を姉と一緒に読んだ。その時、お種は幸作に吩咐(いいつ)けて、家に残った陶器なぞを取出させて、弟に見せた。薬の客に出す為に特に焼かせたという昔の茶呑(ちゃのみ)茶椀から、達雄が食った古雅な模様のある大きな茶椀まで、大切に保存してあった。 「叔父さん、こんなものが有りましたが、お目に掛けましょうか」 と豊世は煤(すす)けた桐の箱を捜出して来た。先祖が死際(しにぎわ)に子供へ遺(のこ)した手紙、先代が写したらしい武器、馬具の図、出兵の用意を細く書いた書類、その他種々な古い残った物が出て来た。 三吉はその中に「黒船」の図を見つけた。めずらしそうに、何度も何度も取上げて見た。半紙程の大きさの紙に、昔の人の眼に映った幻影(まぼろし)が極く粗(あら)い木版で刷(す)ってある。 「宛然(まるで)――この船は幽霊だ」 と三吉は何か思い付いたように、その和蘭陀船(オランダぶね)の絵を見ながら言った。 「僕等の阿爺(おやじ)が狂(きちがい)に成ったのも、この幽霊の御蔭ですネ……」と復た彼は姉の方を見て言った。 お種は妙な眼付をして弟の顔を眺(なが)めていた。 「や、こいつは僕が貰って行こう」 と三吉はその図だけ分けて貰って、お雪の手紙と一緒に手荷物の中へ入れた。 叔父の出発は豊世に取って好い口実を与えた。こういう機会でも無ければ、彼女は容易に母を置いて行くことも出来ないような人であった。 「叔父さん、お願いですから私も連れてって下さいませんか。私も仕度しますわ」 と豊世は無理やりに叔父に頼んで、自分でも旅の仕度を始めた。 三吉はすこし煩(うるさ)そうに、「実は、僕は独(ひと)りで行きたい。それに他(ひと)の細君なぞを連れて行くのも心配だ」 「心配だと思うなら止(よ)すが可いぞや」とお種が言った。 「何でも私は随(つ)いてく」と豊世は新座敷の方から。 「じゃ、汽車に乗るところまで送って進(あ)げよう」と三吉も引受けた。 いよいよ別れると成れば、余計にお種は眠られない風であった。その晩、姉は奥座敷に休んで弟と一緒に遅くまで話した。姉の様子も気がかりなので、一旦(いったん)枕に就(つ)いた三吉は復た巻煙草を取出した。彼は先ずお仙の話をした。あれまでに養育したは姉が一生の大きな仕事であったと言った。薬の紙を折らせることも静かな手細工を与えたようなもので、自然と好い道を取って来たなどと言った。 「彼女(あれ)が有るんで、俺も今まで持続(もちこた)えて来たようなものだわい」とお種も寝ながら煙草盆を引寄せた。 新座敷の方に休んだ豊世やお仙は寝沈まっていた。三吉は橋本の家の話に移って、幸作の骨折も思わねば成らぬ、正太には生命(いのち)がくれてある、何物(なんに)も幸作にはそんなものがくれて無い、そう神経質な眼で養子や嫁を見るべきものでもあるまい、欠点を言えば正太の方にも有るではないか、などと姉を沈着(おちつ)かせたいばかりに種々並べ始めた。一体、何の為に達雄が家出をしたと思う、そんなことを言出した。 「三吉、貴様は……何か俺の遣方が悪くて、それで、家がこう成ったと言うのか……何か……」 お種は尖(とが)った神経に触られたような様子して、むっくと身を起した。電燈の光を浴びながら激しく震えた。これ程女の節(みさお)を立て通した自分に、何処(どこ)に非難がある、と彼女の鋭い眼付が言った。どうかすると、弟まで彼女の敵に見えるかのように。 「姉さん、姉さん、そう貴方のように――他(ひと)の言うことをよく聞きもしないうちから――何故(なぜ)そんなに思い詰めて了うんです。もっと静かな心で考えられませんか」 こんな風に、三吉の方でも半ば身を起して、言って見た。お種は直に話を別の方へ持って行った。興奮のあまり、彼女はよく語れなかった。 「でも、何でしょう。達雄さんだっても、まかり間違えば赤い着物を着なくちゃ成らなかったんでしょう」 「それサ……むむ、それサ……赤い着物を着せたくないばっかりに……」 「でしょう。その為に皆な苦心して、漸(ようや)く今日まで漕付(こぎつ)けた。正太さんのことなぞを考えて御覧なさい。ウッカリしていられるような時じゃありませんぜ」 「むむ、解った、解った。若いものを相手にするようなことじゃ、是方(こっち)が小さいで……」 「小さいも、大きいも無いサ」 「いや、解った」 話が次第に紛糾(こんがらか)った。終(しまい)には、一体何を話しているのか、両方で解らないように成った。 「畢竟(つまり)――姉さんはどうすれば可いと言うんですか」 「俺は正太の傍へでも行って、どんな苦労をしても可いから、親子一緒に暮したいよ」 こう話の結末をつけてみたが、何だか二人ともボンヤリした。
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