夫は家を寺院と観念しても、妻はもとより尼では無かった。 そればかりでは無い、若い時から落魄(らくはく)の苦痛までも嘗(な)めて来た三吉には、薬を飲ませ、物を食わせる人の情を思わずにいられなかった。彼が臥床(とこ)を離れる頃には、最早還俗(げんぞく)して了った。彼の精神(こころ)は激しく動揺した。屈辱をも感じた。 兄妹(きょうだい)の愛――そんな風に彼の思想(かんがえ)は変って行った。彼は自分の妹としてお雪のことを考えようと思った。 十一月の空気のすこし暗い日のことであった。めずらしく三吉はお雪を連れて、町の方へ買物に出た。お雪は紺色のコートをちょっとしたヨソイキの着物の上に着て、手袋をはめながら夫に随(つ)いて行った。「まあ、父さんには無いことだ――御天気でも変りゃしないか」とお雪は眼で言わせた。 ある町へ出た。途中で三吉は立ち留って、 「オイ、もうすこしシャンとしてお歩きよ……そんな可恥(はずか)しいような容子をして歩かないで。是方(こっち)がキマリが悪いや」 「だって、私には……」 とお雪はすこし顔を紅めた。 買物した後、三吉はお雪をある洋食屋の二階へ案内した。他に客も見えなかった。窓に近い食卓を選んで、三吉は椅子に腰掛けた。お雪も手袋を取って、よく働いた女らしい手を、白い食卓の布の上に置いた。 「ここですか、貴方の贔顧(ひいき)にしてる家は」 とお雪は言って、花瓶(かびん)だの、鏡だの、古風な油絵の額だので飾ってある食堂の内を見廻した。彼女は又、玻璃窓(ガラスまど)の方へも立って行って、そこから見える町々の屋根などを眺めた。 白い上衣(うわぎ)を着けたボオイが皿を運んで来た。三吉は匙(さじ)を取上げながら、妻の顔を眺めて、 「どうだネ。お前の旧(ふる)い友達で、誰か可羨(うらやま)しいような人が有るかネ。ホラ、黒縮緬(くろちりめん)の羽織を着て、一度お前の許(とこ)へ訪ねて来た人が有ったろう。あの人も見違えるほどお婆さんに成ったネ」 「多勢子供が有るんですもの……」とお雪は思出したような眼付をして、スウプを吸った。 「旦那に仕送りするなんて言って、亜米利加(アメリカ)へ稼(かせ)ぎに行った人もどうしたかサ。そうかと思えば、旦那と子供を置いて、独りで某処(どっか)へ行ってる人もある……妙な噂があるぜ、ああいう人がお前には好いのかネ」 「でも、あの人は感心な人です」 「そうかナア……」 ボオイが皿を取替えて行った。しばらく夫婦は黙って食った。 「芝に居る人はどうなんかネ」と復(ま)た三吉が言った。「よくお前が遊びに行くじゃないか」 「あの人も旦那さんが弱くッて……平常(しょっちゅう)つまらない、つまらないッて、愚痴ばかしコボして……」 「何と言っても、女は長生するよ。直樹さんの家を御覧な、老祖母(おばあ)さんが一人残ってる。強い証拠だ。大きな、肥(ふと)った体躯(からだ)をした他(よそ)の内儀(おかみ)さんなぞが、女というものは弱いもんですなんて、そんなことを聞くと俺は可笑(おか)しく成っちまう……」 「でも、男の人の方が可羨(うらやま)しい。二度と女なんかに生れて来るもんじゃ有りません」 夕日が輝いて来た。食堂の玻璃窓は一つ一つ深い絵のように見えた。屋外(そと)の町々は次第に薄暗い空気の中へ沈んで行った。やがて夫婦はこの食堂を下りた。物憂い生活に逆(さから)うような眼付をしながら、三吉は満腹した「妹」を連れて家の方へ帰って行った。
八
駒形(こまがた)から川について厩橋(うまやばし)の横を通り、あれから狭い裏町を折れ曲って、更に蔵前の通りへ出、長い並木路を三吉叔父の家まで、正太は非常に静かに歩いた。 叔父は旅から帰って来た頃であった。正太は入口の庭のところに立って声を掛けた。 「叔父さん、御暇でしたら、すこし其辺(そこいら)を御歩きに成りませんか」 「御供しましょう――しかし、一寸(ちょっと)まあ上り給えナ」 こう答えて、三吉は甥(おい)を下座敷へ通した。 家には客もあった。お雪の父。この老人は遠く国から出掛けて、三吉の家で年越(としこし)した母と一緒に成りに来た。それほど長く母も逗留(とうりゅう)していた。 「や、毎度(いつも)どうも――」 と名倉の老人は正太に挨拶(あいさつ)した。気象の壮(さか)んなこの人でも、寄る年波ばかりは争われなかった。髯(ひげ)は余程白かった。 二階へ上って、叔父と一緒に茶を飲む頃は、正太は改まってもいなかった。旅から日に焼けて来た叔父の顔を眺(なが)めながら、 「時に、叔父さん、吾家(うち)の阿爺(おやじ)も……いよいよ満洲の方へ行ったそうです」 こんなことを正太が言出したので、三吉は仕掛けた旅の話を止(や)めた。 「阿爺もネ――」と正太は声を低くして、「ホラ、長らく神戸に居ましたろう。何か神戸でも失敗したらしい。トドのツマリが満洲行と成ったんです……実叔父さんを頼って行ったものらしいんです……実は私も知らずにおりました。昨夕(ゆうべ)お倉叔母さんが見えまして――あの叔母さんも、お俊ちゃんはお嫁さんに成るし、寂しいもんですから、吾家(うち)で一晩泊りましてネ――その時、話が有りました。実叔父さんから手紙で阿爺のことを知らせて寄したそうです……」 橋本の達雄と小泉の実とが満洲で落合ったということは、話す正太にも、聞く三吉にも、言うに言われぬ思を与えた。つくづく二人は二大家族の家長達の運命を思った。 三吉は旅の話に移った。一週間ばかり家を離れたことを話した。山間の谿流(けいりゅう)の音にしばらく浮世を忘れた連の人達も、帰りの温泉宿では家の方の話で持切って、皆な妻子を案じながら帰って来たなどと話した。 古い港の町、燈台の見える海、奇異(きたい)な女の風俗などのついた絵葉書が、そこへ取出された。三吉は思いついたように、微笑(えみ)を浮べながら、 「どうです、向島へ一枚出してやろうじゃ有りませんか」 叔父の戯を、正太も興のあることに思った。彼は自分で小金の宛名(あてな)を認(したた)めて、裏の白い燈台の傍には「御存じより」と書いた。この「御存じより」が三吉を笑わせた。彼も何か書いた。 三吉は立ちがけに、 「豊世さんが聞いたら苦い顔をすることだろうネ……」 こう言って復(ま)た笑った。 正太はヒドく元気が無かった。絵葉書を懐中(ふところ)にしながら階下(した)へ降りて、名倉の老人の側を通った。三吉も、勝手の方で働いているお雪に言葉を掛けて置いて、甥(おい)と一緒に歩きに出た。
蔵つづきの間にある狭い路地を通り抜けて、二人は白壁の並んだところへ出た。そこは三吉がよく散歩に行く河岸(かし)である。石垣の下には神田川が流れている。繁華な町中に、こんな静かな場処もあるかと思われる位で、薄く曇った二月末の日が黒ずんだ水に映っていた。 船から河岸へ通う物揚場の石段の上には、切石が袖垣(そでがき)のように積重ねてある。その端には鉄の鎖が繋(つな)いである。二人はこの石に倚凭(よりかか)った。満洲の方の噂(うわさ)が出た。三吉は思いやるように、 「両雄相会して、酒でも酌(く)むような時には――さぞ感慨に堪(た)えないことだろうナ」 正太も思いやるような眼付をして、足許(あしもと)に遊んでいる鶏を見た。 水に臨んだ柳並木は未だ枯々として、蕭散(しょうさん)な感じを与える。三吉はその枝の細く垂下った下を、あちこちと歩いた。やがて正太の方へ引返して来た。 「正太さん、君の仕事の方はどうなんですか――未だ遊びですか」 こう言って、石の上に巻煙草を取出して、それを正太にも勧めた。 正太は沮喪(そそう)したように笑いながら、「折角、好い口があって、その店へ入るばかりに成ったところが……広田が裏から行って私の邪魔をした。その方もオジャンでサ」 「そんな人の悪いことを為(す)るかねえ。手を携えてやった味方同志じゃないか」 「そりゃ、叔父さん、相場師の社会と来たら、実に酷(ひど)いものです。同輩を陥入(おとしい)れることなぞは、何とも思ってやしません。手の裏を反(かえ)すようなものです……苟(いやし)くも自己の利益に成るような事なら、何でも行(や)ります……自分が手柄をした時に、そいつを誇ること、他(ひと)の功名を嫉(ねた)むこと、それから他(ひと)の失敗を冷笑すること――親子の間柄でも容赦はない……相場師の神経質と嫉妬心(しっとしん)と来たら、恐らく芸術家以上でしょう。」 正太は叔父の心当りの人で、もし兜町(かぶとちょう)に関係のある人が有らば、紹介してくれ、心掛けて置いてくれ、こんなことまで頼んで置いて、叔父と一緒に石段の傍を離れた。 二人は河口の方へ静かに歩るいて行った。橋の畔(たもと)へ出ると、神田川の水が落合うところで、歌舞歓楽の区域の一角が水の方へ突出て居る。その辺は正太にとっての交際場裏で、よく客を連れては遊興にやって来たところだ。「橋本さん」と言えば、可成(かなり)顔が売れたものだ。「しばらく来ないな――」と正太は呟(つぶや)きながら、いくらか勾配のある道を河口の方へ下りた。 隅田川(すみだがわ)が見える。白い、可憐(かれん)な都鳥が飛んでいる。川上の方に見える対岸の町々、煙突の煙なぞが、濁った空気を通して、ゴチャゴチャ二人の眼に映った。 「河の香(におい)からして変って来た。往時(むかし)の隅田川では無いネ」 と三吉は眺め入った。 岸について両国の方へ折れ曲って行くと、小さな公園の前あたりには、種々な人が往(い)ったり来たりしている。男と女の連が幾組となく二人の前を通る。
「正太さん、君は女を見てこの節どんな風に考えるネ」 「さあねえ――」 「何だか僕は……女を見ると苦しく成って来る」 こう話し話し、三吉は正太と並んで、青物市場などのあたりから、浜町河岸の方へ歩いて行った。対岸には大きな煙突が立った。昔の深川風の町々は埋立地の陰に隠れた。正太は川向に住んだ時のことを思出すという風で、あの家へはよく榊(さかき)がやって来て、壮(さか)んに気焔(きえん)を吐いたことなどを言出した。 その時、彼は岸に近く添うて歩きながら、 「榊君と言えば、先生も引込(ひっこみ)きりか……あれで、叔父さん、榊君の遊び方と私の遊び方とは全然(まるっきり)違うんです……先生の恋には、選択は無い。非常に物慾の壮(さか)んな人なんですネ……」 電車が両国の方から恐しい響をさせてやって来たので、しばらく正太の話は途切れた。やがて、彼は微笑(ほほえ)んで、 「そこへ行くと、私は選む……一流でないものは、妓(おんな)でも話せないような気がする……私は交際(つきあい)で引手茶屋なぞへ行きましても、クダラナい女なぞを相手にして、騒ぐ気には成れません。隣室(となり)へ酒を出して置いて、私は独(ひと)りで寝転(ねころ)びながら本なぞを読みます。すると茶屋の姉さんが『橋本さん、貴方は妙な方ですネ』なんて……」 二人は電車の音のしないところへ出た。その辺は直樹の家に近かった。昔時(むかし)、直樹の父親が、釣竿(つりざお)を手にしては二町ばかりある家の方からやって来て、その辺の柳並木の陰で、僅(わず)かの閑(ひま)を自分のものとして楽んだものであった。その人が腰掛けた石も、河岸の並木も大抵どうか成って了った。柳が二三本残った。三吉と正太は立って眺めた。潮が沖の方から溢(あふ)れて来る時で、船は多く川上の方へ向っていた。 「大橋の火見櫓(ひのみやぐら)だけは、それでも変らずに有りますネ」 と正太が眺めながら言った。 青い潮の反射は直に人を疲れさせた。三吉は長く立って見てもいられないような気がした。正太を誘って、復た歩き出した。 大橋まで行って引返して来た頃、三吉は甥の萎(しお)れている様子を見て、 「正太さん、向島にはチョクチョクお逢(あ)いですか」と言って見た。 「サッパリ」 「へえ、そんなかネ」 「威勢の悪いこと夥(おびただ)しいんです。向島が私に、茶屋でばかり逢うのも冗費(ついえ)だから、家へ来いなんて……そうなると、先方(さき)の母親(おっか)さんが好い顔をしませんや。それに、芸者屋へ入り込むというやつは、あまり気の利(き)いたものじゃ有りませんからネ」 と言いかけて、正太は対岸にある建物を叔父に指して見せて、 「彼処(あすこ)に会社が見えましょう。あの社長とかが向島を贔顧(ひいき)にしましてネ、箱根あたりへ連れてったそうです。根引(ねびき)の相談までするらしい……向島が、どうしましょうッて私に聞きますから、そんなことを俺(おれ)に相談する奴が有るもんか、どうでもお前の勝手にするサ、そう私が言ってやった……でも、向島も可哀相です……私の為には借金まで背負って、よく私に口説(くど)くんです、どうせ夫婦に成れる訳じゃなし……」 正太は黙って了(しま)った。三吉も沈んだ眼付をして、しばらく物を言わずに歩いた。 「そうそう」と正太は思い付いたように笑い出した。「ホラ、此頃(こないだ)、雪の降った日が有りましたろう――ネ。あの翌日でサ。私が河蒸汽で吾妻橋(あずまばし)まで乗って、あそこで上ると、ヒョイと向島に遭遇(でっくわ)しました。半玉を二三人連れて……ちっとも顔を見せないが、どうしたか、この雪にはそれでも来るだろうと思って、どれ程待ったか知れない、今日はもうどんなことがあっても放さない、そう言って向島が私を捕(つかま)えてるじゃ有りませんか。今日は駄目だ、紙入には一文も入ってやしない、と私が言いますとネ、御金のことなんぞ言ってるんじゃ有りませんよ、私がどうかします、一緒にいらしって下さい、そう向島が言って置いて、チョイト皆さん手を貸して下さいッて、橋の畔(たもと)にいる半玉を呼んだというものです――到頭、あの日は、皆なで寄(よ)って群(たか)って私を捕虜にして了った」 愛慾の為に衰耄(すいもう)したような甥の姿が、ふとその時浮び上るように、三吉の眼に映じた。二人は両国の河蒸汽の出るところまで、一緒に歩いて、そこで正太の方は厩橋行に乗った。白いペンキ塗の客船が石炭を焚(た)く船に引かれて出て行くまで、三吉は鉄橋の畔に佇立(たたず)んでいた。
笑って正太と話していた三吉も、甥が別れて行った後で、急に軽い眩暈(めまい)を覚えた。頭脳(あたま)の後部(うしろ)の方には、圧(お)しつけられるような痛みが残っていた。 疲労に抵抗するという眼付をしながら、三吉は元来た道を神田川の川口へと取った。 潮に乗って入って来る船は幾艘(そう)となく橋の下の方へ通過ぎた。岸に近く碇泊(ていはく)する船もあった。しばらく三吉は考えを纏(まと)めようとして、逆に流れて行く水を眺めて立った。 「どうせ一生だ」 と彼は思った。夫は夫、妻は妻、夫が妻をどうすることも出来ないし、妻も夫をどうすることも出来ない。この考えは、絶望に近いようなもので有った。 「ア――」 長い溜息(ためいき)を吐(つ)いて、それから三吉はサッサと家の方へ帰って行った。 丁度、名倉の老人が一杯始めた時で、膳(ぜん)を前に据えて、手酌でちびりちびりやっていた。 「何卒(どうぞ)御構いなく、私はこの方が勝手なんで御座いますから」 と老人は三吉に言って、自分で徳利の酒を注いだ。 お雪は勝手の方から、何か手造りのものを皿に盛って持って来た。老人の癖で、酔が廻って来ると皆なを前に置いて、自分の長い歴史を語り始める。巨万の富を積むに到るまでの経歴、遭遇した多くの艱難(かんなん)、一門の繁栄、隠居して以来時々試みる大旅行の話など、それに身振手真似(まね)を加えて、楽しそうに話し聞かせる。服装(なりふり)なぞはすこしも気に留めないような、質素な風采(ふうさい)の人であるが、どこかに長者らしいところが具(そな)わっていた。 「復た、阿爺(おとっ)さんの十八番(おはこ)が始まった」と母も傍(そば)へ来た。 「しかし、阿爺さん」と三吉は老人の前に居て、「あの自分で御建築(おたて)に成った大きな家が、火事で焼けるのを御覧なすった時は――どんな心地(こころもち)がしましたか」 「どんな心地もしません」老人は若い者に一歩も譲らぬという調子で言った。「あの家は――焼けるだけの運を持って来たものです――皆な、そういう風に具わって来るものです」 往時(むかし)は大きな漁業を営んで、氷の中にまで寝たというこの老人の豪健な気魄(きはく)と、絶念(あきらめ)の早さとは年を取っても失われなかった。女達の親しい笑声が起った。そこへ種夫と新吉が何か膳の上の物を狙(ねら)って来た。 「御行儀悪くしちゃ不可(いけない)よ」とお雪が子供を叱るように言った。 「種ちゃんか。新ちゃんも大きく成った。皆な好い児だネ」と老人は酔った眼で二人の孫の顔を眺めて、やがて酒の肴(さかな)を子供等の口へ入れてやった。 「コラ」と母は畳を叩(たた)く真似した。 子供等は頬張(ほおば)りながら逃出して行った。下婢(おんな)が洋燈(ランプ)を運んで来た。最早酒も沢山だ、と老人が言った。食事を終る毎に、老人は膳に対して合掌した。 その晩、残った仕事があると言って、三吉が二階へ上った頃は、雨の音がして来た。彼は下婢に吩咐(いいつ)けて階下(した)から残った洋酒を運ばせた。それを飲んで疲労(つかれ)を忘れようとした。 お雪も幼い銀造を抱いて、一寸上って来た。 「どうだ――」と三吉はお雪に、「この酒は、欧羅巴(ヨーロッパ)の南で産(でき)る葡萄酒(ぶどうしゅ)だというが――非常に口あたりが好いぜ。女でも飲める。お前も一つ御相伴(おしょうばん)しないか」 「強いんじゃ有りませんか」とお雪は子供を膝(ひざ)に乗せて言った。 雨戸の外では、蕭々(しとしと)降りそそぐ音が聞える。雨は霙(みぞれ)に変ったらしい、お雪は寒そうに震えて左の手で乳呑児(ちのみご)を抱き擁(かか)えながら、右の手に小さなコップを取上げた。酒は燈火(あかり)に映って、熟した果実(くだもの)よりも美しく見えた。 「オオ、強い」 とお雪は無邪気に言ってみて、幾分か苦味のある酒を甘(うま)そうに口に含んだ。 「すこし頂いたら、もう私はこんなに紅く成っちゃった」 と復たお雪が快活な調子で言って、熱(ほと)って来た頬を手で押えた。三吉は静かに妻を見た。
「相談したい。旅舎(やどや)の方へ来てくれ」こういう意味の葉書が森彦の許から来た。丁度名倉の老人は、学校の寄宿舎からお幾を呼寄せて、母と一緒に横浜見物をして帰って来た時で、長火鉢の側に煙管(きせる)を咬(くわ)えながら、しきりとその葉書を眺めた。 「とにかく、俺(おれ)は行って見て来る」 こう三吉が妻に言って置いて、午後の三時頃に家を出た。 森彦は旅舎の方で弟を待受けていた。二階には、相変らず熊の毛皮なぞを敷いて、窓に向いた方は書斎、火鉢(ひばち)の置いてあるところは応接間のように、一つの部屋が順序よく取片付けてあった。三吉が訪ねて行った時は、茶も入れるばかりに用意してあった。 「や」 と森彦は弟を迎えた。 何時(いつ)まで経っても兄弟は同じような気分で向い合った。兄の頭は余程禿(は)げて来た。弟の鬢(びん)には白いやつが眼につくほど光った。未だそれでも、森彦はどこか子供のように三吉を思っていた。弟の前に菓子なぞを出して勧めて、 「今日お前を呼んだのは他でも無いが……実はエムの一件でネ」 彼は切出した。 森彦が言うには、今度という今度は話の持って行きどころに困った。日頃金主と頼む同志の友は病んでいる。一時融通の道が絶えた、ここを切開いて行かないことには多年の望を遂げることも叶(かな)わぬ……人は誰しも窮する時がある、それを思って一肌(ひとはだ)脱いでくれ、親類に迷惑を掛けるというは元より素志に背(そむ)くが、二百円ばかり欲(ほ)しい、是非頼む、弟に話した。 三吉は困ったような顔をした。 「お前の収入が不定なことも、俺は知っている。しかしこの際どうにか成らんか。一時のことだ――人は大きく困らないで、小さく困るようなものだよ」と森彦は附添(つけた)して言った。 しばらく三吉は考えていたが、やがて兄の勧める茶を飲んで、 「貴方のは人を助けて、自分で困ってる……今日(こんにち)までの遣方(やりかた)で行けば、こう成って来るのは自然の勢じゃ有りませんか。私はよくそう思うんですが、貴方にしろ、私にしろ、吾儕(われわれ)兄弟の一生……いろいろ人の知らない苦労をして……その骨折が何に成ったかというに、大抵身内のものの為に費されて了(しま)ったようなものです」 「今更そんなことを言っても仕方が無いぞ」 「いえ、私はそうじゃ無いと思います。稀(たま)にはこういうことも思って、心の持ち方を変えるが好いと思います」 「でも俺は差当り困る」 「いえ、差当ってのことで無く、根本的に――」 森彦は弟の言うことを汲取(くみとり)かねるという風で、自分の部屋の内を見廻して、 「お前はそう言うが……俺は身内を助けるから、こうして他人から助けられている。碁で言えば、まあ捨石だ。俺が身内を助けるのは、捨石を打ってるんだ」 「どうでしょう、その碁の局面を全然(すっかり)変えて了ったら――」 「どうすれば可いと言うんだ、一体……」 「ですから、こう新生活を始めてみたらと思うんです――田舎(いなか)へでも御帰りに成ったらどうでしょう――私はその方が好さそうに思います。どこまでも貴方は、地方の人で可いじゃ有りませんか、小泉森彦で……それには、田舎へでも退いて、身(からだ)の閑(ひま)な時には耕す、果樹でも何でも植える、用のある時だけ東京へ出て来る、それだけでも貴方には好かろうと思うんです」 「何かい、お前は俺にこの旅舎を引揚げろと言うのかい」と言って、森彦は穴の開くほど弟の顔を眺めて、「そんなことが出来るものかよ。今ここで俺が田舎へでも帰って御覧……」 「面白いじゃ有りませんか」 「馬鹿言え。そんなことを俺が為(し)ようものなら、今日まで俺の力に成ってくれた人は、必(きっ)と驚いて死んで了う……」 その時、三吉は久し振だから鰻飯(うなぎめし)を奢(おご)ると言出して、それを女中に命ずるようにと、兄に頼んだ。 「稀(たま)にはこういう話もしないと不可(いかん)」と三吉が尻(しり)を落付けた。「飯でも食って、それから復た話そうじゃ有りませんか」 森彦は手を鳴らした。
夕飯の後、三吉は兄が一生に遡(さかのぼ)って、今日に到るまでのことを委(くわ)しく聞こうとした。森彦が事業の主なものと言えば、八年の歳月を故郷の山林の為に費したことで有った。話がその事に成ると、森彦は感極(きわ)まるという風で、日頃話好な人が好く語れない位であった。巣山(すやま)、明山(あきやま)の差別、無智な人民の盗伐などは、三吉も聞知っていることであるが、猶(なお)森彦は地方を代表して上京したそもそもから、終(しまい)には一文の手宛(てあて)をも受けず、すべて自弁でこの長い困難な交渉に当ったこと、その尽力の結果として、毎年一万円ずつの官金が故郷の町村へ配布されていること、多くの山林には五木(ごぼく)が植付けられつつあることなぞを、弟に語り聞かせた。 「あの時」と森彦は火鉢の上で両手を揉(も)んで、「Mさんが郷里(くに)の総代で俺の許(ところ)へ来て、小泉、貴様はこの事件の為に何程(いくら)費(つか)った、それを書いて出せ、と言うから、俺は総計で三万三千円に成ると書付を出した。その話は今だにそのままで、先方(さき)で出すとも言わなければ、俺も出せとも言わない……で、知事が気の毒に思って、政府の方から俺の為に金を下げるように、尽力してくれた。その高が六千円サ。ところがその金が郷里(くに)の銀行宛で来たというものだ。ホラお前も知ってる通り、正太の父親(おとっ)さんがああいう訳で、あの銀行に証文が入ってる、それに俺が判を捺(つ)いてる。そこで銀行の連中がこういう時だと思って、その六千円を差押えて了った……到頭俺は橋本の家の為に千五百円ばかり取られた――苛酷(ひど)いことをする……何の為にその金が下ったと思うんだ。一体誰の為に俺が精力を注いだと思うんだ……」 「何故(なぜ)、森彦さん、その時自分を投出(ほうりだ)して了わなかったものですか。とにかくこれだけの仕事をした、後は宜(よろ)しく頼む、と言ってサッサと旅舎を引揚げたら、郷里の方でも黙っては置かれますまい。その後仕末をする為に、今度は困って来た……何か儲(もうけ)仕事をしなけりゃ成らんと成って来た……」 「まあ、言ってみればそんなものだ。俺は金を取る為に、あの事業を為(し)たんでは無いで――儲ける? そんなことを念頭に置いて、誰があんな事業に八年も取付いていられるものか。まだ俺は覚えているが、夜遅く独りで二重橋の横を通って、俺の精神を歌に読んだことがある。あの時、自分でそれを吟じて見ると、涙がボロボロ零(こぼ)れて……」 自分で自分を憐(あわれ)むような涙が、森彦の頬(ほお)を流れて来た。 「畢竟(つまり)、これは俺の性分から出たことだ」と復(ま)た兄は弟の方を見た。「一度始めた仕事は――それを成し遂げずには置かれない。俺の精神が郷里の人に知られなくとも、可い。俺はもっと大きく考えてる積りだ。どうせ郷里の人達には解らんと思ってるんだ。百年の後に成ったら、あるいは俺に感謝する者が出て来る……」 「森彦さん、そんなら貴方は何処(どこ)までもその精神で通すんですネ。自分の歩いて来た道を、何処までも見失わないようにするんですネ。しかし、後仕末はどうする。私はそれを貴方の為に心配します」 「だから、今度は儲けるサ。儲ける為に働くサ」 「ところが、それが貴方にはむずかしいと思います。貴方はやっぱり儲ける為に働ける人では無いと思います――」 「いや、そんなことは無い。今までは儲けようと思わなかったから、儲からなかった。これからは大いに儲けようと思うんだ――ナニ、いかないことは無い」 「どうも私は、今までと同じように成りやしないかと思って、それで心配してるんです……何だか、こう、吾儕(われわれ)には死んだ阿爺(おやじ)が附纏(つきまと)っているような気がする……何処へ行って、何を為(し)ても、必(きっ)と阿爺が出て来るような気がする……森彦さん、貴方はそんなこと思いませんかネ」 兄は黙って弟の顔を見た。 「私はよくそう思いますが」と三吉は沈んだ眼付をして、「橋本の姉さんがああしているのと、貴方がこの旅舎(やどや)に居るのと、私が又、あの二階で考え込んでいるのと――それが、座敷牢の内に悶(もが)いていた小泉忠寛と、どう違いますかサ……吾儕は何処へ行っても、皆な旧(ふる)い家を背負って歩いてるんじゃ有りませんか」 「そうさナ……」 「そいつを私は破壊(ぶちこわ)したいと思うんです。折があったら、貴方にも言出してみようみようと思っていたんです……」 「待ってくれ――俺も直(じ)き五十だよ。五十に成ってサ、未だそれでも俺の思うように成らなかったら、その時はお前の意見を容(い)れる。田舎へでも何でも引込む。それまで待ってくれ」 「いえ、私はそういう意味で言ってるんじゃ無いんです……」 「それはそうと、先刻(さっき)の金のことはどうしてくれる」 「何とか工面して見ましょう。いずれ御返事します」 「そんなことを言わないで、確かに是処(ここ)で引受けて帰ってくれ」と言って、森彦は調子を変えて、「今日は、貴様は、ドエライやつを俺の許(とこ)へ打込みに来たナ――いや、しかし面白かった」 兄は高い声で笑った。 晩の八時過に、三吉はこの旅舎を辞した。電車で帰って行く途中、彼は兄の一生を思いつづけた。家へ入ると、お雪は夫から帽子や外套(がいとう)を受取りながら、 「森彦さんのとこでは、どんな御話が有りました」と尋ねた。 「ナニ、金の話サ」と三吉は何気なく答える。 「大方そんなことだろうッて、阿爺(おとっ)さんも噂(うわさ)していましたッけ――阿爺さんが貴方のことを、『父さんも余程兄弟孝行だ』なんて――」
夜中から降出した温暖(あたたか)な雨は、翌朝(よくあさ)に成って一旦休(や)んで、更に淡い雪と変った。 午後に、種夫や新吉は一人ずつ下婢(おんな)に連れられて、町の湯から帰った。銀造も洗って貰いに行って来た。お雪は傘(かさ)をさして、終(しまい)に独りで泥濘(ぬか)った道を帰って来た。 明るい空からは、軽い綿のようなやつがポタポタ落ちた。お雪は足袋(たび)も穿(は)いていなかった。多くの女のように、薄着でもあった。それでも湯上りのあたたかさと、燃えるような身体の熱とで、冷々(ひやひや)とした空気を楽しそうに吸った。濡(ぬ)れた町々の屋根は僅(わず)かに白い。雪は彼女の足許(あしもと)へも来て溶けた。この快感は、湯気で蒸された眼ばかりでなく、彼女の肌膚(はだ)の渇(かわき)をも癒(いや)した。 「長い湯だナア」と母は、帰って来たお雪を見て、叱るように言った。 「だって、子供を連れてるんですもの」 こうお雪は答えて置いて、勝手の方へ通り抜けた。 冷い水道の水はお雪を蘇生(いきかえ)るようにさせた。彼女は額の汗をも押拭(おしぬぐ)った。箪笥(たんす)の上には、家のものがかわるがわる行く姿見がある。彼女はその前に立った。細い黄楊(つげ)の鬢掻(びんかき)を両方の耳の上に差した。濡れて乱れたような髪が、その鏡に映った。 「叔母さん、お湯のお帰り?」 こう正太が、お雪の知らないうちに入って来て、声を掛けた。正太は叔母の後を通過ぎて、楼梯(はしごだん)を上った。 「正太さん、よくこの道路(みち)の悪いのに、御出掛でしたネ」 と三吉は二階に居て迎えた。 「ええ、叔父さんの許より外に、気を紛らしに行く処も有りませんから」 こう言って、正太は、長い紺色の絹を首に巻付けたまま、叔父の前に坐った。部屋の障子の玻璃(ガラス)を通して、湿った屋外(そと)の空気が見られる。何となく正太は向島の方へ心を誘われるような眼付をしていた。 「いかにも春の雪らしい感じがしますネ」と正太は叔父と一緒に屋外(そと)を眺めながら言った。 「正太さん、昨日僕は森彦さんの宿へ行ってネ。金の話が出ました。その序(ついで)に、種々(いろいろ)なことを話し込んだ。田舎へ行ったらどうです、それまで僕は言って見た――午後の三時から八時頃まで話した」 「や、そいつはエラかった。三時から八時に渡ったんじゃ――どうして。森彦叔父さんと貴方の対話が眼に見えるようです」 「しかし、話してみて、互に了解する場合は少いネ。僕の方で思うことは、真実(ほんとう)に森彦さんには通じないような気がした。言い方も悪かったが。唯、田舎へでも引込め――そういう意味に釈(と)られて了った」 「そりゃ、叔父さん、森彦さんには出来ない相談です。あの叔父さんは、第一等の旅館に泊って、第一等の宿泊料を払って行く人です。苦しい場合でも、そうしないでは気の済まない人です。草鞋穿(わらじばき)で、土いじりでもしながら、片手間に用務を談ずるなんて、そういう気風の人じゃ有りません」 「極く平民的な人のようだが、一面は貴族的だネ。どうしても大きな家に生れた人だネ。すこし他(ひと)が難渋して来ると、なアに俺がどうかしてやるなんて――御先祖の口吻(くちぶり)だ」 こう話し合って見ると、二人は森彦のことを言っていながら、それが自然と自分達のことに成って来るような気がした。旧家に生れたものでなければ無いような頽廃(たいはい)の気――それを二人は互に嗅(か)ぎ合う心地もした。 「森彦さんから、僕に二百円ばかり造れと言うんサ」と三吉は以前の話に戻って、「それがネ。真実(ほんとう)にあの人の為に成ることなら、どんなことをしても僕は造るサ。特にその為に一作するサ。どうも今日(こんにち)の状態じゃ、復た前と同じことに成りゃしないか……それに、僕だって、君、ヤリキレやしないよ……」 と言いかけて、暫時(しばらく)三吉は聞耳を立てた。階下(した)では老人の咳払(せきばらい)が聞える。 「名倉の阿爺(おとっ)さんなぞは、君、今に僕が共潰(ともつぶ)れに成るか成るかと思って、あの通り熟(じっ)と黙って見てる……決して僕を助けようとはしない。実に、強い人だネ。僕もまた、痩我慢(やせがまん)だ。仕事のことであの阿爺さんに助けられても、暮し向のことや何かで助けてくれと言ったことは無い。ああして、下手に助けないで、熟(じっ)と黙って見てる――あそこはあの阿爺さんの面白いところさネ」 その時、表の戸を開けて入って来る客の声がした。階下では皆なの話声が起った。 「ああ、※さんだ」 と三吉が正太の顔を見ながら言っているところへ、お雪はそれを告げに来た。三吉は正太に会釈して置いて、一寸(ちょっと)階下へ降りた。 老人や母や勉は長火鉢の周囲(まわり)に集っていた。三吉は友達に話し掛けるような調子で、勉に話し掛けた。 「へえ、今度も商用の方ですか」 「ええ、毎年一度や二度は出て来なけりゃ成りません」と勉は商人らしい調子で言った。「時に小泉さん、※の兄さんから御言伝(おことづけ)がありましたが、貴方の御宅でも女中が御入用(おいりよう)だそうですから――近いうちに一人連れて御出掛に成るそうです」 「そうですか、そいつは難有(ありがた)い。名倉の兄さんもどうしてますかネ。相変らず御店の方ですかネ」 「大将も多忙(いそが)しがっています」 こんな調子で、三吉は打解けて話した。彼はお雪を傍へ呼んで、勉を款待(もてな)させて、復た正太の居る方へ上って行った。 「ええ、福ちゃんの旦那さんです。彼方(あっち)の方の人達は大阪の商人(あきんど)に近いネ。皆な遣方(やりかた)がハゲしい」 と三吉は正太の前に復(もど)って言った。 未だ正太は思わしい仕事も無く、ブラブラしていた。骨を折って口を見つけに飛び歩こうともしていなかった。彼はいくらか窶(やつ)れても見えた。謡(うたい)の会の噂、料理の通、それから近く欧洲を漫遊し帰って来たある画家の展覧会を見たことなど、雪の日らしい雑談をした後で、正太は帰って行った。 修業ざかりの娘を二人まで控えた森彦の苦んでいる姿が、三吉の眼にチラついた。彼は兄を助けずにいられないような気がした。名倉の両親に隠すようにして金をつくることを考えた。
※の兄と連立って、名倉の母が長逗留(ながとうりゅう)の東京を去る頃は――三吉は黙って考えてばかりいる人でもなかった。「随分、父さんはコワい眼付をする」と名倉の母はよく言ったが、そういう眼付で膳に対って、飯を食えば直に二階へ上って行って了うような――最早そんな人でもなかった。 時には、楼梯(はしごだん)を踏む音をさせて、用もないのに三吉は二階から降りて来た。下座敷の柱に倚凭(よりかか)って、 「お雪、俺とお前と何方(どっち)が先に死ぬと思う」 「どうせ私の方が後へ残るでしょうから、そうしたら私はどうしよう――何にも未だ子供のことは為(し)て無いし――父さんの書いた物が遺(のこ)ったって、それで子供の教育が出来るか、どうか、解らないし(まあ、覚束(おぼつか)ないと思わなけりゃ成りません、何処の奥さんだって困っていらっしゃる)と言って、女の教師なぞは私の柄に無い――そうしたら私は仕方が無いから、女髪結にでも成ろうかしら――」 夫婦は互に言ってみた。 名倉の老人は、母だけ先へ返して、自分一人、娘の家に残った。若い時から鍛えた身体だけあって、三吉の家から品川あたりへ歩く位のことは、何とも思っていなかった。疲れるということを知らなかった。朝は早く起きて、健脚にまかせて、市中到る処の町々、変りつつある道路、新しい橋、家、水道、普請中の工事なぞを見て廻った。東京も見尽したと老人は言っていた。 「でも、阿爺(おとっ)さんは、割合に歩かなく成りました――あれだけ年をとったんですネ」 とお雪は言った。 いよいよ老人も娘や孫に別れを告げて帰国する日が来た。※の兄が連れて来てくれた下婢(おんな)に、留守居を頼んで置いて、三吉夫婦は老人と一緒に家を出た。子供は、種夫と新吉と二人だけ見送らせることにした。 「老爺(おじい)さんが彼方(あっち)へ御帰りなさるんだよ――種ちゃんも、新ちゃんも、サッサと早く歩きましょうネ」 とお雪は歩きながら子供に言って聞かせた。半町ばかり行ったところで、彼女は新吉を背中に乗せた。 老人と三吉は、時々町中に佇立(たたず)んで、子供の歩いて来るのを待った。幾羽となく空を飛んで来た鳥の群が、急に町の角を目がけて、一斉に舞い降りた。地を摺(す)るかと思うほど低いところへ来て、鳴いて、復た威勢よく舞い揚った。チリヂリバラバラに成った鳥は、思い思いの軒を指して飛んだ。 「最早燕(つばめ)が来る頃に成りましたかネ」 と三吉は立って眺めた。 電車で上野の停車場(ステーション)まで乗って、一同は待合室に汽車の出る時を待った。老人はすこしも静止(じっと)していなかった。どうかすると三吉の前に立って、若い者のような声を出して笑った。 お雪の側には、二人の子供がキョロキョロした眼付をして、集って来る旅客を見ていた。老人はその方へ行った。かわるがわる子供の名を呼んで、 「皆な温順(おとな)しくしてお出――復た老爺(おじい)さんが御土産(おみや)を持って出て来ますぜ」 「名倉の老爺さんが復た御土産を持って来て下さるトサ」とお雪は子供に言い聞かせた。 「この老爺さんも、未だ出て来られる……」 こう老人はお雪を見て言って、復た老年らしい沈黙に返った。 発車の時間が来た。三吉夫婦はプラットフォムへと急いだ。 「種ちゃんも、新ちゃんも、老爺さんに左様ならするんだよ」 と三吉は列車の横に近く子供を連れて行った。お雪は新吉を抱上げて見せた。 白い髯(ひげ)の生えた老人の笑顔が二等室の窓から出た。老人は窓際につかまりながら、娘や孫の方をよく見たが、やがて自分の席に戻って、暗然と首を垂れた。駅夫は列車と見送人の間を馳(は)せ歩いた。重い車の廻転する音が起った。 「阿爺(おとっ)さんも――ひょっとすると、これが東京の見納めだネ」 と三吉は、妻と一緒に見送った後で、言った。
五月に入っても、未だ正太は遊んでいた。森彦の方は、新しい事業に着手すると言って、勇んで名古屋へ発(た)って行った。 「正太さんもどうか成らないか。ああして遊ばせて置くのは、可惜(おし)いものだ」と三吉は心配そうにお雪に話して、甥(おい)の様子を見る為に、駒形の方へ出掛けた。 例の石垣の下まで、三吉は歩いた。正太の家には、往来から好く見えるところに、「貸二階」とした札が出してある。何となく家の様子が寂しい。三吉が石段を上って行くと、顔を出した老婆(ばあさん)まで張合の無さそうな様子をしていた。 正太夫婦は揃(そろ)って町へ買物に出掛けた時であった。程なく帰るであろう、という老婆を相手にして、しばらく三吉は時を送った。二階は貸すと見えて、種々な道具が下座敷へ来ている。玻璃(ガラス)障子のところへ寄せて、正太の机が移してあって、その上には石菖蒲(せきしょうぶ)の鉢(はち)なぞも見える。水色のカアテンも色の褪(あ)せたまま掛っている。 老婆は茶を勧めながら、 「是方(こちら)へ私が御奉公に上りました時は、まあこんな仲の好い御夫婦もあるものでしょうか、とそう思いまして御座いますよ。段々御様子を伺って見ますと……私はすっかり奥様の方に附いて了(しま)いました。そりゃ、貴方、女はどう致したって、女の味方に成りますもの……」 この苦労した人は、夫婦の間に板挾(いたばさ)みに成ったという風で、物静かな調子で話した。主人思いの様子は、奉公する人とも見えなかった。 「でも、是方の旦那様も、真実(ほんとう)に好い御方で御座いますよ」 と復た老婆が言った。 三吉は玻璃障子のところへ行って、眺めた。軒先には、豊世の意匠と見えて、真綿に包んだ玉が釣(つる)してある。その真綿の間から、青々とした稗(ひえ)の芽が出ている。隅田川はその座敷からも見えた。伊豆石を積重ねた物揚場を隔てて、初夏の水が流れていた。 「そう、三吉叔父さんがいらしって下すったの」 と豊世は、夫の後に随(つ)いて、町から戻って来た。 「奥様、先程も一人御二階を見にいらしった方が御座いました」 と老婆(ばあさん)が豊世に言ったので、正太夫婦は叔父の方を見た。夫婦の眼は笑っていた。 川の見えるところに近く、三吉は正太と相対(さしむかい)に坐った。その時正太は苦しそうな眼付をして、生活を縮める為にここを立退(たちの)こうかとも思ったが、折角造作に金をかけて、風呂まで造って置いて、この楽しい住居(すまい)を見捨てるのも残念である、暫時(しばらく)二階を貸すことにした、と叔父に話した。 「どうしていらっしゃるかと思って、今日は家から歩いてやって来ました」と三吉が言った。「途中に芥子(けし)を鉢植にして売ってる家がありました。こんな町中にもあんな花が咲くか、そう思ってネ、めずらしく山の方のことまで思出した。ホラ、僕等が居た山家の近所には芥子畠(けしばたけ)なぞが有りましたからネ」 「叔父さん、私共ではこういうものを造りました」と豊世は叔父の後へ廻って、軒先の真綿の玉を指してみせた。「稗蒔(ひえまき)ですよ――往来を通る人が皆な妙な顔をして見て行きます」 正太は何を見ても侘(わび)しいという風であった。豊世に、「彼方(あっち)へいってお出(いで)」と眼で言わせて置いて、 「実は叔父さん、私の方から御宅へ伺おうと思っていたところなんです。未だ御話も致しませんでしたが、近いうちに私も名古屋へ参るつもりです。彼方(あちら)の方で、来ないか、と言ってくれる人が有りましてネ……まあ二三年、私も稽古(けいこ)のつもりで、彼方の株式仲間へ入って見ます」 「そいつは何よりだ」と三吉が頼もしそうに言った。 正太は心窃(こころひそ)かに活動を期するという様子をした。自分で作った日露戦争前後の相場表だの、名古屋から取寄せている新聞だのを、叔父に出して見せて、 「叔父さんからも御話がよく有りますから、今度は私もウンと研究して見ます。下手に周章(あわ)てない積りです。この通り、彼方(あちら)の株の高低にも毎日注意を払っています……『どうして、橋本は行(や)るぜ、彼はナカナカの者だぜ』――そう言って、是方(こっち)の連中なぞは皆な私に眼を着けてる……」 「それに、君、森彦さんは彼方へ行ってるしサ――何かにつけて相談してみるサ」 「そうです。森彦叔父さんと私とは、全く別方面ですから、仕事は違いますけれど……あの叔父さんも、いよいよ今度が最後の奮闘でしょう――私はそう思います――まあ、彼方へ出掛けて、あの叔父さんの働き振も見るんですネ」 「でも、あの兄貴も……変った道を歩いて行く人さネ。何を為(し)てるんだか家のものにまで解らない……それを平気でやってる……あそこは面白いナ」 「何かこう大きな事業(こと)をしそうな人だなんて、豊世なぞもよくそう言っています」 「あの兄貴は一生夢の破れない人だネ――あれで通す人だネ――しかし、ナカナカ感心なところが有るよ。お俊ちゃんの家なぞに対しては、よくあれまでに尽したよ。大抵の者ならイヤに成っちまう……」 豊世が貰い物だと言って、款待顔(もてなしがお)に羊羮(ようかん)なぞを切って来たので、二人は他の話に移った。 「ここまで来て、眺望(ながめ)の好い二階を見ないのも残念だ」という叔父を案内して、一寸(ちょっと)豊世は楼梯(はしごだん)を上った。何となく二階はガランとしていた。額だけ掛けてあった。三吉は川に向いた縁側の欄(てすり)のところへ出てみた。 「豊世さん、顔色が悪いじゃ有りませんか。どうかしましたかネ」 「すこし……でも、この節は宅もよく家に居てくれますよ……何事(なんに)も為ませんでも、家で御飯を食べてくれるのが私は何よりです……」 叔父と豊世とはこんな言葉を替(かわ)しながら、薄く緑色に濁った水の流れて行くのを望んだ。豊世は愁(うれ)わしげに立っていた。 「どうかしますと、私は……こう胸がキリキリと傷(いた)んで来まして……」 こう訴えるような豊世の顔をよく見て、間もなく三吉は正太の方へ引返した。 玄関の隅(すみ)には、正太が意匠した翫具(おもちゃ)の空箱が沢山積重ねてあった。郷里(くに)から取寄せた橋本の薬の看板も立掛けてあった。復た逢う約束をして、三吉は甥に別れた。
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