下 恋恋恋、恋は金剛不壊なるが聖
虚言という者誰吐そめて正直は馬鹿の如く、真実は間抜の様に扱わるゝ事あさましき世ぞかし。男女の間変らじと一言交せば一生変るまじきは素よりなるを、小賢しき祈誓三昧、誠少き命毛に情は薄き墨含ませて、文句を飾り色めかす腹の中慨かわしと昔の人の云たるが、夫も牛王を血に汚し神を証人とせしはまだゆかしき所ありしに、近来は熊野を茶にして罰を恐れず、金銀を命と大切にして、一金千両也右借用仕候段実正なりと本式の証文遣り置き、変心の暁は是が口を利て必ず取立らるべしと汚き小判を枷に約束を堅めけると、或書に見えしが、是も烏賊の墨で文字書き、亀の尿を印肉に仕懸るなど巧み出すより廃れて、当時は手早く女は男の公債証書を吾名にして取り置、男は女の親を人質にして僕使うよし。亭主持なら理学士、文学士潰が利く、女房持たば音楽師、画工、産婆三割徳ぞ、ならば美人局、げうち、板の間ぎ等の業出来て然も英仏の語に長じ、交際上手でエンゲージに詫付華族の若様のゴールの指輪一日に五六位取る程の者望むような世界なれば、汝珠運能々用心して人に欺かれぬ様すべしと師匠教訓されしを、何の悪口なと冷笑しが、なる程、我正直に過て愚なりし、お辰を女菩薩と思いしは第一の過り、折疵を隠して刀には樋を彫るものあり、根性が腐って虚言美しく、田原が持て来た手紙にも、御なつかしさ少時も忘れず何れ近き中父様に申し上やがて朝夕御前様御傍に居らるゝよう神かけて祈り居りなどと我を嬉しがらせし事憎し憎しと、怨の眼尻鋭く、柱にもたれて身は力なく下たる頭少し上ながら睨むに、浮世のいざこざ知らぬ顔の彫像寛々として大空に月の澄る如く佇む気高さ、見るから我胸の疑惑耻しく、ホッと息吐き、アヽ誤てり、是程の麗わしきお辰、何とてさもしき心もつべき、去し日亀屋の奥坐敷に一生の大事と我も彼も浮たる言葉なく、互に飾らず疑わず固めし約束、仮令天飛ぶ雷が今落ればとて二人が中は引裂れじと契りし者を、よしや子爵の威権烈しく他し聟がね定むるとも、我の命は彼にまかせお辰が命は珠運貰いたれば、何の命何の身体あって侯爵に添うべきや、然も其時、身を我に投懸て、艶やかなる前髪惜気もなく我膝に押付、動気可愛らしく泣き俯しながら、拙き妾めを思い込まれて其程までになさけ厚き仰せ、冥加にあまりてありがたしとも嬉しとも此喜び申すべき詞知らぬ愚の口惜し、忘れもせざる何日ぞやの朝、見所もなき櫛に数々の花彫付て賜わりし折より、柔しき御心ゆかしく思い初、御小刀の跡匂う梅桜、花弁一片も欠せじと大事にして、昼は御恩賜頭に挿しかざせば我為の玉の冠、かりそめの立居にも意を注て落るを厭い、夜は針箱の底深く蔵めて枕近く置ながら幾度か又開て見て漸く睡る事、何の為とは妾も知らず、殊更其日叔父の非道、勿体なき悪口計り、是も妾め故思わぬ不快を耳に入れ玉うと一一胸先に痛く、さし詰る癪押えて御顔打守しに、暢やかなる御気象、咎め立もし玉わざるのみか何の苦もなくさらりと埒あき、重々の御恩荷うて余る甲斐なき身、せめて肩揉め脚擦れとでも僕使玉わばまだしも、却て口きゝ玉うにも物柔かく、御手水の温湯椽側に持て参り、楊枝の房少しむしりて塩一小皿と共に塗盆に載せ出す僅計の事をさえ、我夙起の癖故に汝までを夙起さして尚寒き朝風につれなく袖をなぶらする痛わしさと人を護う御言葉、真ぞ人間五十年君に任せて露惜からず、真実あり丈智慧ありたけ尽して御恩を報ぜんとするに付て慕わしさも一入まさり、心という者一つ新に添たる様に、今迄は関わざりし形容、いつか繕う気になって、髪の結様どうしたら誉らりょうかと鏡に対って小声に問い、或夜の湯上り、耻しながらソッと薄化粧して怖怖坐敷に出しが、笑片頬に見られし御眼元何やら存るように覚えて、人知らずカッと上気せしも、単に身嗜計にはあらず、勿体なけれど内内は可愛がられても見たき願い、悟ってか吉兵衛様の貴下との問答、婚礼せよせぬとの争い、不図立聞して魂魄ゆら/\と足定らず、其儘其処を逃出し人なき柴部屋に夢の如く入と等しく、せぐりくる涙、あなた程の方の女房とは我身の為を思われてながら吉兵衛様の無礼過た言葉恨めしく、水仕女なりともして一生御傍に居られさいすれば願望は足る者を余計な世話、我からでも言わせたるように聞取られて疎まれなば取り返しのならぬ暁、辰は何になって何に終るべきと悲み、珠運様も珠運様、余りにすげなき御言葉、小児の捉た小雀を放して遣った位に辰を思わるゝか知らねどと泣きしが、貴下はそれより黙言で亀屋を御立なされしに、十日も苅り溜し草を一日に焼たような心地して、尼にでもなるより外なき身の行末を歎しに、馬籠に御病気と聞く途端、アッと驚く傍に愚な心からは看病するを嬉く、御介抱申たる甲斐ありて今日の御床上、芽出度は芽出度れど又もや此儘御立かと先刻も台所で思い屈して居たるに、吉兵衛様御内儀が、珠運様との縁続ぎ度ば其人様の髪一筋知れぬように抜て、おまえの髪と確り結び合せ※※[#「口+急」、224-9][#「口+急」、224-9]如律令と唱えて谷川に流し捨るがよいとの事、憎や老嫗の癖に我を嬲らるゝとは知ながら、貴君の御足を止度さ故に良事教られしよう覚て馬鹿気たる呪も、試て見ようかとも惑う程小さき胸の苦く、捨らるゝは此身の不束故か、此心の浅き故かと独り悔しゅう悩んで居りましたに、あり難き今の仰せ、神様も御照覧あれ、辰めが一生はあなたにと熱き涙吾衣物を透せしは、そもや、嘘なるべきか、新聞こそ当にならぬ者なれ、其を真にして信ある女房を疑いしは、我ながらあさましとは思うものゝ形なき事を記すべしとも思えず、見れば業平侯爵とやら、位貴く、姿うるわしく、才いみじきよし、エヽ妬ましや、我位なく、姿美しからず、才もまた鈍ければ、較られては敵手にあらず。扨こそ子爵が詞通り、思想も発達せぬ生若い者の感情、都風の軽薄に流れて変りしに相違なきかと頻に迷い沈みけるが思いかねてや一声烈しく、今ぞ知たり移ろい易き女心、我を侯爵に見替て、汝一人の栄華を誇る、情なき仰せ、此辰が。 アッと驚き振仰向ば、折柄日は傾きかゝって夕栄の空のみ外に明るく屋の内静に、淋し気に立つ彫像計り。さりとては忌々し、一心乱れてあれかこれかの二途に別れ、お辰が声を耳に聞しか、吉兵衛の意見ひし/\と中りて残念や、妄想の影法師に馬鹿にされ、有もせぬ声まで聞し愚さ、箇程までに迷わせたるお辰め、汝も浮世の潮に漂う浮萍のような定なき女と知らで天上の菩薩と誤り、勿体なき光輪まで付たる事口惜し、何処の業平なり癩病なり、勝手に縁組、勝手に楽め。あまりの御言葉、定めなきとはあなたの御心。あら不思議、慥に其声、是もまだ醒ぬ無明の夢かと眼を擦って見れば、しょんぼりとせし像、耳を澄せば予て知る樅の木の蔭あたりに子供の集りて鞠つくか、風の持来る数え唄、
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