第一 如是相
書けぬ所が美しさの第一義諦
名物に甘き物ありて、空腹に須原のとろゝ汁殊の外妙なるに飯幾杯か滑り込ませたる身体を此尽寝さするも毒とは思えど為る事なく、道中日記注け終いて、のつそつしながら煤びたる行燈の横手の楽落を読ば山梨県士族山本勘介大江山退治の際一泊と禿筆の跡、さては英雄殿もひとり旅の退屈に閉口しての御わざくれ、おかしき計りかあわれに覚えて初対面から膝をくずして語る炬燵に相宿の友もなき珠運、微なる埋火に脚をり、つくねんとして櫓の上に首投かけ、うつら/\となる所へ此方をさして来る足音、しとやかなるは踵に亀裂きらせしさき程の下女にあらず。御免なされと襖越しのやさしき声に胸ときめき、為かけた欠伸を半分噛みて何とも知れぬ返辞をすれば、唐紙する/\と開き丁寧に辞義して、冬の日の木曾路嘸や御疲に御座りましょうが御覧下され是は当所の名誉花漬今年の夏のあつさをも越して今降る雪の真最中、色もあせずに居りまする梅桃桜のあだくらべ、御意に入りましたら蔭膳を信濃へ向けて人知らぬ寒さを知られし都の御方へ御土産にと心憎き愛嬌言葉商買の艶とてなまめかしく売物に香を添ゆる口のきゝぶりに利発あらわれ、世馴れて渋らず、さりとて軽佻にもなきとりなし、持ち来りし包静にひらきて二箱三箱差し出す手つきしおらしさに、花は余所になりてうつゝなく覗き込む此方の眼を避けて背向くる顔、折から透間洩る風に燈火動き明らかには見えざるにさえ隠れ難き美しさ。我折れ深山に是は何物。
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第二 如是体
粋の羯羅藍と実の阿羅藍
見て面白き世の中に聞て悲しき人の上あり。昔は此京にして此妓ありと評判は八坂の塔より高く其名は音羽の滝より響きし室香と云える芸子ありしが、さる程に地主権現の花の色盛者必衰の理をのがれず、梅岡何某と呼ばれし中国浪人のきりゝとして男らしきに契を込め、浅からぬ中となりしより他の恋をば贔負にする客もなく、線香の煙り絶々になるにつけても、よしやわざくれ身は朝顔のと短き命、捨撥にしてからは恐ろしき者にいうなる新徴組何の怖い事なく三筋取っても一筋心に君さま大事と、時を憚り世を忍ぶ男を隠匿し半年あまり、苦労の中にも助る神の結び玉いし縁なれや嬉しき情の胤を宿して帯の祝い芽出度舒びし眉間に忽ち皺の浪立て騒がしき鳥羽伏見の戦争。さても方様の憎い程な気強さ、爰なり丈夫の志を遂ぐるはと一ト群の同志を率いて官軍に加わらんとし玉うを止むるにはあらねど生死争う修羅の巷に踏入りて、雲のあなたの吾妻里、空寒き奥州にまで帰る事は云わずに旅立玉う離別には、是を出世の御発途と義理で暁して雄々しき詞を、口に云わする心が真情か、狭き女の胸に余りて案じ過せば潤む眼の、涙が無理かと、粋ほど迷う道多くて自分ながら思い分たず、うろ/\する内日は消て愈となり、義経袴に男山八幡の守りくけ込んで愚なと笑片頬に叱られし昨日の声はまだ耳に残るに、今、今の御姿はもう一里先か、エヽせめては一日路程も見透したきを役立ぬ此眼の腹立しやと門辺に伸び上りての甲斐なき繰言それも尤なりき。一ト月過ぎ二タ月過ても此恨綿々ろう/\として、筑紫琴習う隣家の妓がうたう唱歌も我に引き較べて絶ゆる事なく悲しきを、コロリン、チャンと済して貰い度しと無慈悲の借金取めが朝に晩にの掛合、返答も力無や男松を離れし姫蔦の、斯も世の風に嬲らるゝ者かと俯きて、横眼に交張りの、袋戸に広重が絵見ながら、悔しいにつけゆかしさ忍ばれ、方様早う帰って下されと独言口を洩るれば、利足も払わず帰れとはよく云えた事と吠付れ。アヽ大きな声して下さるな、あなたにも似合わぬと云いさして、御腹には大事の/\我子ではない顔見ぬ先からいとしゅうてならぬ方様の紀念、唐土には胎教という事さえありてゆるがせならぬ者と或夜の物語りに聞しに此ありさまの口惜と腸を断つ苦しさ。天女も五衰ぞかし、玳瑁の櫛、真珠の根掛いつか無くなりては華鬘の美しかりける俤とどまらず、身だしなみ懶くて、光ると云われし色艶屈托に曇り、好みの衣裳数々彼に取られ是に易えては、着古しの平常衣一つ、何の焼かけの霊香薫ずべきか、泣き寄りの親身に一人の弟は、有っても無きに劣る賭博好き酒好き、落魄て相談相手になるべきならねば頼むは親切な雇婆計り、あじきなく暮らす中月満て産声美しく玉のような女の子、辰と名付られしはあの花漬売りなりと、是も昔は伊勢参宮の御利益に粋という事覚えられしらしき宿屋の親爺が物語に珠運も木像ならず、涙掃って其後を問えば、御待なされ、話しの調子に乗って居る内、炉の火が淋しゅうなりました。
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