第四 如是因
上 忘られぬのが根本の情
珠運は種々の人のありさま何と悟るべき者とも知らず、世のあわれ今宵覚えて屋の角に鳴る山風寒さ一段身に染み、胸痛きまでの悲しさ我事のように鼻詰らせながら亭主に礼云いておのが部屋に戻れば、忽気が注は床の間に二タ箱買ったる花漬、衣脱ぎかえて転りと横になり、夜着引きかぶればあり/\と浮ぶお辰の姿、首さし出して眼をひらけば花漬、閉ればおもかげ、是はどうじゃと呆れてまた候眼をあけば花漬、アヽ是を見ればこそ浮世話も思いの種となって寝られざれ、明日は馬籠峠越えて中津川迄行かんとするに、能く休までは叶わじと行燈吹き消し意を静むるに、又しても其美形、エヽ馬鹿なと活と見ひらき天井を睨む眼に、此度は花漬なけれど、闇はあやなしあやにくに梅の花の香は箱を洩れてする/\と枕に通えば、何となくときめく心を種として咲も咲たり、桃の媚桜の色、さては薄荷菊の花まで今真盛りなるに、蜜を吸わんと飛び来る蜂の羽音どこやらに聞ゆる如く、耳さえいらぬ事に迷っては愚なりと瞼堅く閉じ、掻巻頭を蔽うに、さりとては怪しからず麗しき幻の花輪の中に愛矯を湛えたるお辰、気高き計りか後光朦朧とさして白衣の観音、古人にも是程の彫なしと好な道に慌惚となる時、物の響は冴ゆる冬の夜、台所に荒れ鼠の騒ぎ、憎し、寝られぬ。
下 思いやるより増長の愛
裏付股引に足を包みて頭巾深々とかつぎ、然も下には帽子かぶり、二重とんびの扣釼惣掛になし其上首筋胴の周囲、手拭にて動がぬ様縛り、鹿の皮の袴に脚半油断なく、足袋二枚はきて藁沓の爪先に唐辛子三四本足を焼ぬ為押し入れ、毛皮の手甲して若もの時の助けに足橇まで脊中に用意、充分してさえ此大吹雪、容易の事にあらず、吼立る天津風、山山鳴動して峰の雪、梢の雪、谷の雪、一斉に舞立つ折は一寸先見え難く、瞬間に路を埋め、脛を埋め、鼻の孔まで粉雪吹込んで水に溺れしよりまだ/\苦し、ましてや准備おろかなる都の御客様なんぞ命惜くば御逗留なされと朴訥は仁に近き親切。なるほど話し聞てさえ恐ろしければ珠運別段急ぐ旅にもあらず。されば今日丈の厄介になりましょうと尻を炬燵に居て、退屈を輪に吹く煙草のけぶり、ぼんやりとして其辺見回せば端なく眼につく柘植のさし櫛。さては花漬売が心づかず落し行しかと手に取るとたん、早や其人床しく、昨夕の亭主が物語今更のように、思い出されて、叔父の憎きにつけ世のうらめしきに付け、何となく唯お辰可愛く、おれが仏なら、七蔵頓死さして行衛しれぬ親にはめぐりあわせ、宮内省よりは貞順善行の緑綬紅綬紫綬、あり丈の褒章頂かせ、小説家には其あわれおもしろく書かせ、祐信長春等を呼び生して美しさ充分に写させ、そして日本一大々尽の嫁にして、あの雑綴の木綿着を綾羅錦繍に易え、油気少きそゝけ髪に極上々正真伽羅栴檀の油付させ、握飯ほどな珊瑚珠に鉄火箸ほどな黄金脚すげてさゝしてやりたいものを神通なき身の是非もなし、家財売て退けて懐中にはまだ三百両余あれど是は我身を立る基、道中にも片足満足な草鞋は捨ぬくらい倹約して居るに、絹絞の半掛一トつたりとも空に恵む事難し、さりながらあまりの慕わしさ、忘られぬ殊勝さ、かゝる善女に結縁の良き方便もがな、噫思い付たりと小行李とく/\小刀取出し小さき砥石に鋒尖鋭く礪ぎ上げ、頓て櫛の棟に何やら一日掛りに彫り付、紙に包んでお辰来らばどの様な顔するかと待ちかけしは、恋は知らずの粋様め、おかしき所業あてが外れて其晩吹雪尚やまず、女の何としてあるかるべきや。されば流れざるに水の溜る如く、逢わざるに思は積りて愈なつかしく、我は薄暗き部屋の中、煤びたれども天井の下、赤くはなりてもまだ破れぬ畳の上に坐し、去歳の春すが漏したるか怪しき汚染は滝の糸を乱して画襖の李白の頭に濺げど、たて付よければ身の毛立程の寒さを透間に喞ちもせず、兎も角も安楽にして居るにさえ、うら寂しく自悲を知るに、ふびんや少女の、あばら屋といえば天井も無かるべく、屋根裏は柴焼く煙りに塗られてあやしげに黒く光り、火口の如き煤は高山の樹にかゝれる猿尾枷のようにさがりたる下に、あのしなやかなる黒髪引詰に結うて、腸見えたるぼろ畳の上に、香露凝る半に璧尚な細軟な身体を厭いもせず、なよやかにおとなしく坐りて居る事か、人情なしの七蔵め、多分小鼻怒らし大胡坐かきて炉の傍に、アヽ、憎さげの顔見ゆる様な、藍格子の大どてら着て、充分酒にも暖りながら分を知らねばまだ足らず、炉の隅に転げて居る白鳥徳利の寐姿忌しそうに睨めたる眼をジロリと注ぎ、裁縫に急がしき手を止さして無理な吩附、跡引き上戸の言葉は針、とが/\しきに胸を痛めて答うるお辰は薄着の寒さに慄う歟唇、それに用捨もあらき風、邪見に吹くを何防ぐべき骨露れし壁一重、たるみの出来たる筵屏風、あるに甲斐なく世を経れば貧には運も七分凍りて三分の未練を命に生るか、噫と計りに夢現分たず珠運は歎ずる時、雨戸に雪の音さら/\として、火は消ざる炬燵に足の先冷かりき。
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第五 如是作
上 我を忘れて而生其心
よしや脊に暖ならずとも旭日きら/\とさしのぼりて山々の峰の雪に移りたる景色、眼も眩む許りの美しさ、物腥き西洋の塵も此処までは飛で来ず、清浄潔白実に頼母敷岐蘇路、日本国の古風残りて軒近く鳴く小鳥の声、是も神代を其儘と詰らぬ者をも面白く感ずるは、昨宵の嵐去りて跡なく、雲の切れ目の所所、青空見ゆるに人の心の悠々とせし故なるべし。珠運梅干渋茶に夢を拭い、朝飯[#「飯」は底本では「飲」]平常より甘く食いて泥を踏まぬ雪沓軽く、飄々と立出しが、折角吾志を彫りし櫛与えざるも残念、家は宿の爺に聞て街道の傍を僅折り曲りたる所と知れば、立ち寄りて窓からでも投込まんと段々行くに、果せる哉縦の木高く聳えて外囲い大きく如何にも須原の長者が昔の住居と思わるゝ立派なる家の横手に、此頃の風吹き曲めたる荒屋あり。近付くまゝに中の様子を伺えば、寥然として人のありとも想われず、是は不思議とやぶれ戸に耳を付て聞けば竊々とやくような音、愈あやしく尚耳を澄せば啜り泣する女の声なり。さては邪見な七蔵め、何事したるかと彼此さがして大きなる節の抜けたる所より覗けば、鬼か、悪魔か、言語同断、当世の摩利夫人とさえ此珠運が尊く思いし女を、取って抑えて何者の仕業ぞ、酷らしき縄からげ、後の柱のそげ多きに手荒く縛し付け、薄汚なき手拭無遠慮に丹花の唇を掩いし心無さ、元結空にはじけて涙の雨の玉を貫く柳の髪恨は長く垂れて顔にかゝり、衣引まくれ胸あらわに、膚は春の曙の雪今や消入らん計り、見るから忽ち肉動き肝躍って分別思案あらばこそ、雨戸蹴ひらき飛込で、人間の手の四五本なき事もどかしと急燥まで忙しく、手拭を棄て、縄を解き、懐中より櫛取り出して乱れ髪梳けと渡しながら冷え凍りたる肢体を痛ましく、思わず緊接抱き寄せて、嘸や柱に脊中がと片手に摩で擦するを、女あきれて兎角の詞はなく、ジッと此方の顔を見つめらるゝにきまり悪くなって一ト足離れ退くとたん、其辺の畳雪だらけにせし我沓にハッと気が注き、訳も分らず其まゝ外へ逃げ出し、三間ばかり夢中に走れば雪に滑りてよろ/\/\、あわや膝突かんとしてドッコイ、是は仕たり、蝙蝠傘手荷物忘れたかと跡もどりする時、お辰門口に来り袖を捉えて引くにふり切れず、今更余計な仕業したりと悔むにもあらず、恐るゝにもあらねど、一生に覚なき異な心持するにうろつきて、土間に落散る木屑なんぞの詰らぬ者に眼を注ぎ上り端に腰かければ、しとやかに下げたる頭よくも挙げ得ず。あなたは亀屋に御出なされた御客様わたくしの難儀を見かねて御救下されたは真にあり難けれど、到底遁れぬ不仕合と身をあきらめては断念なかった先程までの愚が却って口惜う御座りまする、訳も申さず斯う申しては定めて道理の分らぬ奴めと御軽侮も耻しゅうはござりまするし、御慈悲深ければこそ縄まで解て下さった方に御礼も能は致さず、無理な願を申すも真に苦しゅうは御座りまするが、どうぞわたくしめを元の通りお縛りなされて下さりませと案の外の言葉に珠運驚き、是は/\とんでもなき事、色々入り込んだ訳もあろうがさりとては強面御頼み、縛った奴を打てとでも云うのならば痩腕に豆計の力瘤も出しましょうが、いとしゅうていとしゅうて、一日二晩絶間なく感心しつめて天晴菩薩と信仰して居る御前様を、縛ることは赤旃檀に飴細工の刀で彫をするよりまだ難し、一昨日の晩忘れて行かれたそれ/\その櫛を見ても合点なされ、一体は亀屋の亭主に御前の身の上あらまし聞て、失礼ながら愍然な事や、私が神か仏ならば、斯もしてあげたい彼もしてやり度と思いましたが、それも出来ねばせめては心計、一日肩を凝らして漸く其彫をしたも、若や御髪にさして下さらば一生に又なき名誉、嬉しい事と態々持参して来て見れば他にならぬ今のありさま、出過たかは知りませぬが堪忍がならで縄も手拭も取りましたが、悪いとあらば何とでも謝罪りましょ。元の通りに縛れとはなさけなし、鬼と見て我を御頼か、金輪奈落其様な義は御免蒙ると、心清き男の強く云うをお辰聞ながら、櫛を手にして見れば、ても美しく彫に彫たり、厚は僅に一分に足らず、幅は漸く二分計り、長さも左のみならざる棟に、一重の梅や八重桜、桃はまだしも、菊の花、薄荷の花の眼も及ばぬまで濃きを浮き彫にして香う計り、そも此人は如何なればかゝる細工をする者ぞと思うに連れて瞳は通い、竊に様子を伺えば、色黒からず、口元ゆるまず、眉濃からずして末秀で、眼に一点の濁りなきのみか、形状の外におのずから賎しからぬ様露れて、其親切なる言葉、そもや女子の嬉しからぬ事か。
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