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東西交通史上より観たる日本の開発(とうざいこうつうしじょうよりみたるにほんのかいはつ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 9:06:46 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1968(昭和43)年2月13日
入力に使用: 1968(昭和43)年2月13日
校正に使用: 1968(昭和43)年2月13日

 

私の講演は「東西交通史上より觀たる日本の開發」といふ題目である。他の講師方の講演題目は、日本の開國の當時、若くは開國以後に關することが多いが、私の講演は寧ろ開國以前に關するもので、我が日本が開國に至るまでに、いかなる風にして、世界に知られて行つたかといふことを、主として御話いたしたいと思ふ。
 抑※(二の字点、1-2-22)我が日本は建國以來既に約二千六百年を經て、隨分世界の舊國の一として知られてゐるのであるが、單に舊いといふだけでは、日本の誇にはならない。舊いは舊いが併しまた同時に新しいことが、實に日本の誇るべき點であらうと思ふ。日本は建國以來約二千六百年といふ長い年月を閲しつつ、その間絶えず發展進歩を續けて來た、實に新しい國である。この點が日本の特色である。舊い國は兔角或る時期に於いて、國運が停滯するとか、或は老衰するといふことを免れないのであるが、獨り我が日本のみが、絶えず發展進歩を續け得た所以は、何に因るかといへば、それは日本國民が外國と觸接して、絶えずその新しい文化、新しい知識を攝取していつたといふことに歸するのである。
 元來日本は古代に於ける世界の交通の上から見ると所謂絶海の孤島で、極めて交通不便な位置に立つて居つた。世界の交通、東洋と西洋との交通は隨分古く、二千年近くも以前から開けて、ギリシア人などは夙に東洋方面へ出掛けて來て居る。しかしその東洋といふのは支那までで、日本へは來てゐない。日本が遠いヨーロッパ諸國と交通を開始したのは、支那より一千年も一千五百年もおくれてゐる。日本は交通の上から觀ると、此の如く不便な地位に立つたに拘らず、日本國民は外國と觸接する機會ある毎に、その新しい文化、新しい知識を攝取すべく努力したので、この點は餘程朝鮮人や支那人と趣きを異にしてゐると思ふ。支那人や朝鮮人などは古代に於ては、日本よりも遙に交通上、便利な位置に立つたのであるが、その外國の新知識や新文化を取入れる熱心さにおいて、到底日本人のそれに比較にならぬのである。日本人は支那人や朝鮮人に比して、遙に外國の新知識や新文化を攝取するに熱心であつた。これが東亞に於て日本のみが今日の如く優勝の地位を占めるに至つた主要なる原因であらうと思ふ。
 我が國は歐米諸國と交通を開いて以來、殊に明治時代に、盛に西洋の文物を輸入した。その熱心さは世界の驚嘆する所であるが、併しこの態度は、必ずしも西洋の文物に對してのみでなく、また明治時代に限つた譯でない。維新の五ヶ條の御誓文の一にある、知識を世界に求めて、大いに皇基を振起することは、我が國古來傳統の大方針と認めねばならぬ。そのかみ唐と交通した時代に、支那の文物を輸入した熱心な態度も、またポルトガル人の來航した時代に、極西の知識を輸入した熱心な態度も、格別明治時代のそれに遜色がなかつた。私は二三の實例を擧げて、これを證明しようと思ふ。

 唐時代に支那に新たに傳はつた佛教に法相宗がある。これは有名な玄弉が唐の太宗の時代に西暦六四五年に、印度から始めて支那に持つて歸つた新宗旨である。所がその時日本から支那に留學して居つた道昭といふ僧侶が直に玄奘に就いてこの新宗旨を學んで、之を日本へ傳來した。道昭が我が國に法相宗を傳へたのは、孝徳天皇の御代で西暦六五三年に當る。即ち法相宗が印度から新たに支那へ傳來して、僅か八年經つか經たぬうちに、早くもその新宗旨が日本へ輸入されたのである。
 儒教の方面に就いて申せば、儒教の經典に孝經がある。この孝經は支那歴代を通じて尊重されて居るが、殊に唐時代に最も尊重されて、唐の玄宗の天寶三載(西暦七四四)に天下何れの家でも、家毎に必ず孝經一本を備へて、朝夕講習せよといふ御布令が發せられて居る。この新しい制度は、間もなく我が國に採用されて、稱徳天皇の御代に西暦七五七年に、我が國でも家毎に孝經一本を備へて、朝夕之を講習せよといふ御布令が發せられて居る。丁度十三年目に、唐の新制度が我が國に實施された譯である。
 方面を變へて天文の方を觀ると、唐時代に出來た有名な暦に大衍暦がある。この大衍暦は唐の玄宗時代に、即ち唐の開元十六年(西暦七二八)から唐の朝廷に採用された新暦である。然るに當時支那に留學して居つた吉備眞備が、その大衍暦の非常に優秀なることを聞き知つて、その歸朝の時にこの暦を我が國に將來した。それは聖武天皇の御代で西暦七三四年で丁度大衍暦が唐に採用されてから六年目の後である。それから淳仁天皇の御代になると、西暦七六三年からこの大衍暦が唐同樣に我が朝廷にも採用されて、爾後約百年の間、この暦が日本の正暦と定められたのである。
 此の如く宗教でも儒學でも天文でも何でも、善いもの新しいものが出來ると、それが直に我が國に輸入される。八年とか十三年とか六年だとかの年月はその頃の交通不便な状態から考へて比較すると、今日の殆ど半年位にも一年位にも當らないのである。御承知の通り唐時代に於ける日本と支那との交通は、非常に困難であつた。小さい帆船で羅針盤の設備もなく、從つて方向も不確な儘に、頼りない航海をするので、大抵三度に一度は難船するといふ有樣で、實に命掛けで航海をしたものである。それで我が朝廷から派遣する遣唐使の船なども、早くて五年目に一度か、普通に十年目に一度位しか出掛けて居らぬ、此等の事情にも拘らず、唐の新しい制度や文物や宗教學問などを、或は六年或は八年或は十三年の後に直に我が國に輸入する。此の如きことは他國人には容易に企て及ばぬことである、試みに朝鮮人の場合と對比すればこの點がよく判然すると思ふ。
 唐時代の朝鮮は丁度新羅の時代に當るが、この新羅は日本と比較すると、支那との交通は餘程便利であつた。第一陸續きでもあり、大抵一年置きか二年置き位に、「遣唐」使を唐の朝廷へ送つてゐる。それにも拘らず彼等は新しい文化新しい知識を攝取する點に於て、日本とはまるで比較にならぬほど緩怠であつた。例へばさきの法相宗である。法相宗の支那に傳來したのは、新羅統一以前ではあるが、その時新羅の圓測といふ僧侶が長安に留學して居つて、我が道昭と前後して、玄奘三藏からこの新宗教の奧義を聽聞しながら、之をその本國に輸入して居らぬ。法相宗の新羅に傳つた時代は、正確には申されぬが、日本より餘程後くれ、約百年位も後であらうと思ふ。孝經も早く朝鮮に傳はつて居つたのであるが、唐の開元時代の如き、天下家毎に一本を備へるといふ制度は、遂に朝鮮で施行されて居らぬ。また當時新羅の暦は甚だ不完全であつたと想像せらるるに、優秀なる大衍暦が出來ても、新羅の政府は遂に之を採用せなかつた。新羅は支那との交通が頻繁であり、便利であつたに拘らず、此の如く新しい文化、新しい知識を輸入するのに不熱心であつて、到底我が國と同一にかたることが出來ぬのである。

 序に申述べるが、この大衍暦は支那で出來た古今の暦のうちで、最も優秀なる暦であるのみならず、世界に對しても誇るに足るべき優秀なる暦であつた。この暦は支那の有名な一行といふ僧侶が、唐の玄宗の開元年間に作製したものである。玄宗の開元の初期に使用されて居つた暦は、唐の高宗の麟徳二年(西暦六六五)に、之も有名な李淳風の作つた麟徳暦であるが、開元の頃となると、この麟徳暦が不正確となり、暦と天體の運行とが一致を缺くことになり、暦表に日蝕と記載してある日に日蝕がなかつたり、種々の不便が起つたので、改暦の必要を感じた。
 唐の天文臺には早くから、印度人の天文學者が勤務して居つたが、玄宗時代に改暦の氣運が熟すると、當時の太史監で後世の天文臺長ともいふべき位置に在つた、印度人の瞿曇悉達(Gautama Siddh※(アキュートアクセント付きA小文字)rta)といふ天文學者は、印度暦の名譽を發揮するには、この時機を逸してはならぬと考へ、開元六年(西暦七一八)に印度暦を漢譯して九執暦を公にした。九執とは梵語 Navagr※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)ha の意譯である。Nava とは九といふ數で、Gr※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)ha の本來の意味は「執へる」又「掴へる」ことであるが、同時にその本義を延ばしてほしをも意味する。曜は人間の運命を掴へて支配するといふ考から、曜をも Gr※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)ha と稱するのである。印度の天文は日・月・水・火・木・金・土、其他の都合九個の Gr※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)ha を本とするから、その暦を九執暦又は九曜暦と稱したものと思ふ。
 かくて玄宗の開元六年に印度の天文學者の瞿曇悉達が改暦の參考に供すべく、九執暦を漢譯すると、更にその翌年の開元七年(西暦七一九)に中央アジアの吐火羅(Tokhara)國の王が、唐改暦の噂を聞き傳へたと見え、天文學に堪能なる其國の僧侶を長安に送つて、改暦の手傳ひを願ひ出てゐる。また同じ年に今のアフガニスタン地方に當る迦畢試(Kapisa)國の政府からも、天文に關する文獻を唐の朝廷に送呈して居る。兔に角唐の朝廷で改暦の議が始まると、中央アジアのイラン(波斯)系の天文と、印度系の天文と、支那傳統の天文とが、三つ巴となつて優劣を爭うた。この最中に支那に一行といふ偉大な天文學者が出て、開元九年(西暦七二一)から十五年(西暦七二七)までかかつて、最も完全なる大衍暦を作製した。一行は開元十五年に年僅か四十五歳で死んだが、彼の死後に種々の實驗によつて、大衍暦が最も優秀であることが立證されて、開元十六年から唐の朝廷に採用され、やがて又我が國にも採用されたのである。
 この大衍暦の實質については、西洋の天文學者が隨分早くから研究して居り、また我が國の天文學者も相當深く研究して居る。私の友人のさる天文學者の研究によると、この大衍暦は頗る優秀なもので、今日現行の太陽暦に比して、餘り遜色がないといふことである。私の友人から傳へ聞いた所によつて、大衍暦と現行の太陽暦を對比すると、次の如く接近して居る。

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