東西交通史上より観たる日本の開発(とうざいこうつうしじょうよりみたるにほんのかいはつ)
元來歐洲では、古くギリシヤ時代から、世界は球形をなすものと考へられて居つた。世界が球形をなすものとすると實際以上に擴大膨脹されたアジアの東端は、段々東へ延び廻つて、自然に歐洲の西端に接近して來なければならぬ。それで十五世紀の後半期になると、歐洲の知識階級の間では、殊に地理學者の間では、アジアの東端にあるヂパング即ち日本は、歐洲の西邊のポルトガルやスペインと、實際以上に餘程接近して居るものと信ぜられて居つた。現にコロンブスと同じくイタリー人で當時の天文學者として聞えたトスカネリ(Toscanelli)が一四七四年に製作したといふ世界圖は、歐洲人の作つた地圖の上に、マルコ・ポーロによつて、ヂパングといふ國名を表現した最初の地圖であるが、それにはポルトガルの國都のリスボン(Lisbon)とヂパングとの間の距離が、約百度として表現されて居るといふ。この兩地の實際距離は、經度約二百二十度に相當するから、トスカネリの世界圖では、これを實際の半ば以下に短縮した譯である。このトスカネリの所説に本づいて一四九二年即ちコロンブスの新大陸發見の年に、ドイツ人のマルチン・ベハイム(Martin Behaim)の作製した地球儀――今もドイツのニュルンベルグ(Nrunberg)市の博物館に保存されて居る直經約二尺大の地球儀――その地球儀の上に表現されてゐるヂパングと、歐洲の西端との距離は、約九十度に過ぎぬ。日本と歐洲西端との實際距離二百二十度に對比すると、殆ど五分の二に短縮された譯で、それだけヂパングが實際以上に歐洲の西端に接近せるものと認められて居つた譯である。 アジアの東端に在るヂパングは餘程歐洲に接近して居る。歐洲から西に向つてヂパングに到達する距離は、東廻航路をとり、アフリカの海岸に沿うて、印度や支那に出掛けるより遙に近い。そのヂパングは黄金無量の寶の島である。この二の事項が、コロンブス(Columbus)をして、スペイン皇室の保護の下に、西廻航路をとつて、東洋に航行せしめた最大動機で何れもマルコ・ポーロの旅行記による影響と認めねばならぬ。現にスペインのセヴィル(Sville)市の圖書館(Biblioteca Columbina)に保存されて居る、コロンブスの手澤本のマルコ・ポーロの旅行記――一四八五年の頃に印行されたラテン譯のマルコ・ポーロの旅行記――には彼自身の手で幾多の書き入れが添へられてあつて、彼が如何にこの旅行記を精讀したかを、雄辯に保證するといふではないか。 かくて彼コロンブスは西暦一四九二年の八月のスペインのパロス(Palos)の港から出帆して西に向ひ、同年の十月に今のアメリカ大陸の西海岸に近いキユバ(Cuba)附近に到着して、所謂新大陸を發見といふ意外の大功名を遂げたのである。併しコロンブス自身は、歐洲とアジアの中間に、前人未知の新大陸の存在することなどは夢想もせなかつたから、彼の到着した土地は無論アジアの東端で恐らくマルコ・ポーロのヂパングであらうと確信して居つた。コロンブスは一五〇六年に死去するその時まで、依然として、自分は西廻航路によりアジアの東端に到着したものと確信して疑はなかつた。單にコロンブスのみでなく、當時の歐洲人は一般に同樣で、スペイン人が到着した新土地(Terra Nova)は、即ちマルコ・ポーロのヂパングと信じて居つた故に、十五世紀の末期から十六世紀の初期にかけて、歐洲人の作製した世界地圖には、すべてヂパングといふ國名を記載してない。これはスペイン人の發見したといふ新土地と、ヂパングとを同一と見做したからである。その後この新土地とヂパングとは、各個別々のものと認められてからも、ヂパングは新土地の東海岸に極めて接近して地圖上に表現され、新發見地の今のアメリカに屬するメキシコ(Mexico)等の名稱は、アジア大陸の一部の如く表現されて居る。所が東廻航路をとつたポルトガル人は既に支那の東南海岸を極め、ついでマルコ・ポーロの所謂ヂパングたる日本に達しアジア大陸の東端の状形が次第に明瞭となると共に、スペイン人の發見した新大陸と、アジア大陸の東部との混同も次第に改正されて、十六世紀の後半期に作製された世界地圖には、新大陸及びアジア大陸の位置、及び日本の位置も、ほぼ實際と大差なく表現される樣になつた。 十六世紀の半頃からポルトガル人が我が國へ渡航して來るが、彼等は我が國をジャパン(Japan=Japao)と呼んだ。ジャパンはヂパングのヂパン同樣に、日本といふ國號の支那音で、ポルトガル人は直接に支那人からか、又は間接にマレー人を通じて、我が國號を傳へ聞いたものと想はれる。ポルトガル人はこのジャパンを、位置から觀ても、名稱の類似から觀ても、殊にその金銀の多量なる點から觀ても、マルコ・ポーロの所傳のヂパングに相違ないと信じた。 金銀の多量といふのは、丁度ポルトガル人が我が國に通交を開く頃は、我が國の金銀の最も多量に産出しかけた時代であつた。丁度戰國時代のこととて、諸方に割據せる群雄は、各自の財政を豐にすべく鑛山發掘を奬勵いたし、天下統一の後も秀吉や家康はこの奬勵を繼續した。故に天正時代から慶長元和時代にかけての頃、即ち十六世紀の後半から十七世紀の前半にかけての五六十年間に於て、諸方の鑛山が盛に發掘せられ、金銀の産出が頗る多量であつた。現に三浦茂信の『慶長見聞集』に、諸國に金山銀山多き中にも、佐渡ヶ島は格別で全島金銀より成立する寶の山で、年々この島から發掘される莫大な金銀が内地に運び込まれ、民間にも金銀の行き渡れる事實を述べて、
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