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東西交通史上より観たる日本の開発(とうざいこうつうしじょうよりみたるにほんのかいはつ)
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作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 9:06:46 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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支那の東方にワクワク(Wkwk)といふ國號を有する群島がある。黄金の極めて豐富な國で、「黄金が豐富なる爲」その國民は飼犬を羈ぐ鎖にも黄金を用ゐ、飼猿の首環にも黄金を用ふる程である。彼等は黄金を鏤めた外套を着用して居る。
これが西アジアの記録に、我が國のことを紹介した最初の記事である。我が國に黄金が多いと吹聽した記事は、如何なる事實に本づいたものか判然せぬ。併し古代からギリシア人や印度人の間に、世界の東方に黄金を多量に産出する土地があるといふ傳説が行はれて居つたから、それをワクワク國即ち我が國に附會したものか、或は唐宋時代には我が國の産業が未だ發達せず、從つて唐の末頃に支那へ出掛けて貿易した我が國人は、金とか銀とか又は砂金などを使用したから、かかる噂が起つたものか、その邊の事情は十分明白でない。 ヂパングは「支那」大陸から東千五百
かくてマルコ・ポーロは蒙古軍の我が國への入寇の有樣や、暴風による蒙古艦隊の大失敗などを、詳細にその旅行記中に記載してある。マルコ・ポーロもアラビアの地理學者のイブン・コルダードベーと同じく、否それ以上に、我國を黄金の寶の島扱ひにして居るが、彼の東洋の榮華繁昌についての紹介、殊にヂパングの黄金無量といふ吹聽は、尠からず慾深の歐洲人を刺戟した。一體元時代に東洋に旅行した人の紀行又は記録も尠くないが、その中でこのマルコ・ポーロの旅行記はその内容に於てその書き振りに於て、一番世間に歡迎せられ、西暦十四世紀から十五世紀にかけて、相當廣く愛讀された。廣く愛讀されるに從つて、愈大なる刺戟を歐洲人に與へ、この刺戟が遂に新大陸の發見といふ世界史上の大事件出現を促す一大原因となつたのである。 上一页 [1] [2] [3] [4] [5] 下一页 尾页
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