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東西交通史上より観たる日本の開発(とうざいこうつうしじょうよりみたるにほんのかいはつ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 9:06:46 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 

     大衍暦       太陽暦
太陽年  365日 2444   365日 2422
太陰月  29日  53059  29日  530588

 即ち一年の長さの測量といひ、一月の長さの測量といひ、兩者は殆ど一致といふ程接近して居る。千二百年前の諸事不便な時代に出來た大衍暦としては、その精確なること驚嘆に價ひすべきではないか。
 されば西洋の天文學者の間に於ける一行の名譽は非常なものでフランスのパリ、サント・ジュヌヴィエヴ(St.Genevi※(アキュートアクセント付きE小文字)ve)といふ有名な圖書館の入口に、世界の古今を通じて最も傑出した大科學者三十三人許りの名を鑿りつけてある。その三十三名中に一行が加へられ、一行を現代支那音で現はしたイーシン(Y-hsing)といふ名が、そこに鑿り付けられて居る。コペルニクス(Copernicus)やニュートン(Newton)などの西洋の大科學者の間に伍して、獨り東洋を代表する一行の名が、燦として異彩を放つて居るといふ。此の如き大天才の一行の作製した優秀なる大衍暦は、間もなく日本に將來採用されたに拘らず、新羅は遂に之を採用せなかつた。この一事によつても、兩國人の新しい文化、新しい知識に對する熱心の相違が判然するではないか。
 時代は八百年程降るが、ポルトガル人が西洋の新式鐵砲を東亞に輸入した場合にも、同じ例證を提供することが出來る。この場合にも日本人は支那人に比して、新しい知識を攝取する熱心が、遙に多大であることが證明される。一體鐵砲に必要缺くべからざる火藥は、今から九百年程前に北宋時代に、支那で發明されたもので、この火藥を利用した鐵砲といふ武器が戰場に現はれて來たのは、南宋時代からである。
 元來※(「石+駮」、第3水準1-89-16)又は砲とは石を飛ばす機械で、支那では秦漢時代、若くばその以前から戰爭に使用されて居つた。丁度撥釣瓶の樣な仕掛で、大きい石を敵陣の中へ撥ね飛ばすのである。所が火藥が發明されて、これを武器に利用する樣になると、鐵の器の中へ火藥を充填して之に火を點け、同樣の仕掛けで之を敵陣へ撥ね飛ばして、爆發せしむることとなつた。石を飛ばす普通の砲と區別して、之を鐵砲とも火砲ともいふ。これが鐵砲の本義である。この鐵砲は支那では南宋から元時代にかけて、戰爭に使用されて居る。
 元の世祖が我が國に入寇した時、即ち弘安四年(西暦一二八一)の役に蒙古軍はこの鐵砲といふ新武器を使用して、大いに我が軍を惱ました。この時代の鐵砲などは、事實さして大なる效力はなかつた筈と想はれるが、兔に角日本人にとつては、全く未見未聞の新武器とて、實效以上の威嚇を與へたものと見え、當時の記録にも、

てつほうとて鐵丸に火を包で烈しく飛ばす。あたりてわるゝ時、四方に火炎ほとばしりて、煙を以てくらます。又その音甚だ高ければ心を迷はし、きもを消し、目くらみ、耳ふさがれて、東西を知らずなる。之が爲に打るゝ者多かり。

などあつて、我が將士が敵の鐵砲の攻撃に、困難恐慌した有樣を察知することが出來る。
 支那で發明された火藥は、蒙古時代に歐洲方面へ傳つた。之には從來種々異説もあるが、今日では一般に火藥は東洋から歐洲に傳つたものと認められて居る。火藥が傳ると間もなく之を利用した新式鐵砲、即ち金屬製有筒式火器が製作されて、戰爭に使用されて來た。この新式鐵砲は支那の舊式鐵砲に比して、可なり有效であつたが、それが更に次第に改良されて、十六世紀の初期になると、餘程有效な武器となり、歐洲の在來の戰術も、之が爲に一變する氣運となつた。
 この十六世紀の半頃の天文十二年(西暦一五四三)にポルトガル人が我が大隅の種子島へやつて來て、新式の鐵砲を輸入した。丁度戰國時代の事とて、この舶來の新武器の鳥銃が、瞬く間に日本全國に採用された。我が國に於ける鐵砲傳來の歴史に最も關係のある、ポルトガル人ピント(Fernam Mendez pinto)の記録を信ずるならば、新式鐵砲即ち鳥銃が我が國に傳來して僅に十三年後の一五五六年の頃には、新式鐵砲は驚くべき勢ひで日本全國へ行渡つて、豐後の府中(Fucheo)すなはち今の大分の城下だけでも三萬梃の鐵砲があり、日本全國を總計したならば、恐らく三十萬梃位の鐵砲が使用されて居つたといふ。たつた十三年でこの有樣である。これは日本人が鐵砲の製造法をポルトガル人から學び傳へて、盛んに製造したからで日本人が新式武器を取入れる熱心には、流石のピントも驚嘆して居る。ピントの傳ふる所の鐵砲の數などはしばらく疑問として措いても、當時の日本人が、新式武器を利用する熱心は、外國人をして感心せしむる程であつた事實は疑ふ事が出來ぬ。
 天文十二年に新式鐵砲が我が國に傳來してから、五十年經つた文禄元年(西暦一五九二)になると、豐太閤の朝鮮征伐が始まる。この頃には新式鐵砲は我が國の最も有力な武器となつた。當時朝鮮人は全然新式鐵砲の使用を知らぬ。支那人は我が日本人より約三十年も早くポルトガル人と觸接して居り、從つて我が國人よりも早く新式鐵砲の效能を承知して居つた筈であるが、例の保守的氣質で、我が國人の如く熱心にこの新武器を歡迎せなかつた。故に文禄征韓の頃になつても、舶來の新式鐵砲は、中々支那内地に行渡つて居らぬ。殊に朝鮮に出掛けた北支那遼東方面の明軍などは、朝鮮人以上に新式鐵砲の使用に不案内であつた。それで朝鮮人も明人も、皆我が軍の新式鐵砲に辟易して居る。
 當時日本軍の戰術は、一番先に鐵砲でドーンとやる。かくして敵を威嚇して置いて、向ふが驚いてうろうろする間に、日本刀で斬り捲くる。これが日本軍の戰術であつた。それで支那人や朝鮮人の書いた、この時代の記録を見ると、何れも日本の鐵砲と刀とこの二の武器に非常に閉口して居る。文禄征韓の役に我が軍が勝利を得た原因は、種々あるであらうが、この新式鐵砲を利用したことが、確にその主要なる原因の一と認めねばならぬ。三百年前の弘安の役には、日本は蒙古高麗聯合軍の爲に、舊式の鐵砲で散々に苦しめられたが、三百年後の文禄の役には、竹篦返へしに、新式の鐵砲で明と朝鮮の聯合軍を散々に打ち破つた。鐵砲で受けた苦しみを鐵砲で首尾よく仕返しをしたといふ譯である。これも畢竟我が國人が新しい武器を支那人よりも遙に熱心に歡迎利用した結果に外ならぬ。此等二三の實例によつても我が國人が支那人や朝鮮人以上熱心に、古來知識を海外に求めて、外國の長所を採用した一端を窺知し得ると思ふ。

 さて本題に立ち返つて我が國外と國との交通の跡をたづねると、第一が朝鮮半島との交通で、次が支那大陸との交通である。支那との交通は漢時代から始まり、隋唐時代に盛大を加へた。かくて我が國は支那とは盛に交通したが、支那以西の諸國とは、直接に交通を開かなかつた。されど支那は、殊に唐時代の支那は、世界文化の中心であり、且つ又外交の中心であつたから、あらゆる諸外國の人達がここに來集したから、我が國人は直接西方に出掛けずとも、支那で遠西諸國の人達と觸接の機會が尠くなかつた。
 この唐時代に世界で一番貿易通商に活躍したのはアラビア商人で、彼等アラビア商人は、西はアフリカの西端から、東はアジアの東端に至る間の、即ち舊世界の殆ど端々に至るまでの貿易權を握つて居つて、南支那へも隨分澤山のアラビア商人が來集居留して居つた。殊に揚子江の口にやや近い揚州といふ處は、入唐の日本人が必ず通過せなければならぬ都市であるが、ここに幾千人のアラビア商人が滯在してをつた。自然アラビア商人は支那で日本人と觸接する機會も尠くなく、また日本國に關する知識を得る譯である。
 當時のアラビア商人即ちマホメット教徒は、我が國の名をワクワク(W※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)kw※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)k)と傳へて居る。ワクワクとは申す迄もなく倭國の音譯である。支那人は古く我が國を倭國と呼んだ。唐時代の支那人も同樣に我が國を倭國と呼んだ。唐時代には日本といふ國號も既に出來ては居るが、この日本といふ國號は、日本人自身の付けたもので、唐時代の支那人は餘り使用せぬ。唐時代の支那人は依然我が國を倭國と稱した。直接我が國へ通交せず、支那で日本人と接觸の機會があつたにしても、一般の場合では支那人を通じて我が國號を知つた所のアラビア商人等は、支那人同樣に、我が國を倭國と呼んだことに何等の不思議もない。唐時代の支那人は倭國をワクウオク(Wa-kwok)と稱した筈であるから、そのワクウオクを聞き傳へたアラビア商人達が、ワクワク(W※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)kw※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)k)と訛つたものであらう。
 このワクワクすなはち倭國といふ我が國號が、始めてアラビアの記録に現はれたのは、西暦九世紀の半頃丁度八五〇年の頃即ち唐のやや末期に編纂されたイブン・コルダードベー(Ibn Khord※(サーカムフレックスアクセント付きA小文字)dbeh)といふ人の地理書であつて、その地理書の中に次の如き記事が見える。

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