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東西交通史上より観たる日本の開発(とうざいこうつうしじょうよりみたるにほんのかいはつ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-4 9:06:46 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 

民百姓まで金銀を取扱ふ事、難有御時代なり。誠に今がみろくの世にやあるらん。

と記してある。十七世紀の末期に我が國を觀光したケンフェル(Kaempfer)の日本史に、當時でも日本の産出する金屬の中で、黄金が最も豐富であるが、その以前は一層豐富で、佐渡から産出する金鑛は、鑛石一斤の中から、黄金一兩時には二兩さへ得られる程、稀有の良質であるとて、『慶長見聞集』の記事の正確さを保證して居る。兔に角ポルトガル人渡來直後に於ける我が國に、金銀の豐富であつたことは疑を容れぬ。
 ポルトガル人は十六世紀の半頃から十七世紀の初半にかけて、約九十年間日本に通商したが、その間に彼等は歐洲や印度から、奇器や香料や藥品や毛織物などを輸入する外に、それよりもマカオ港で仕入れた、支那の絹織物及び生絲を、多量に日本に輸入した。丁度織田豐臣徳川と相承けて、群雄割據の時代が次第に天下一統の氣運に進むと、日本國内の景氣も頓に立ち直り、贅澤高價な舶來品も盛に需要された。ポルトガル人は南蠻物及び唐物を我が國に輸入することによつて、少くとも十割の利益を擧げたといふ。この莫大な利得の外に、彼等は輸入物貨の代償として我が國から主として金銀――當時多量に産出した金銀――を受け取つて、之を海外に輸出した。當時我が國に於ける金の價値は、歐洲や印度に比して可なり低かつた。例へば當時歐洲では金一に銀十三乃至十四内外の相場に對して、我が國では金一に銀十内外の相場であつた。ポルトガル人の輸入物貨の代償として最も多量に銀が支拂はれたが、金も相當に支拂はれた。若し彼等が金を受け取る場合には之を印度以西に輸出して、銀と交換することによつて、二重の利益を收め得たはずである。
 ポルトガル人が我が國に通商したその最盛時期には、一年に約四百二十萬兩の金銀を我が國から輸出したであらうといふ。されば寛永十六年(西暦一六三九)にポルトガル人の通商終結するまでの約九十年の間に、ポルトガル人が我が國から持ち出した金銀は、莫大な額に達せねばならぬ。慶長以前に於ける我が國の金銀流出に關する材料が乏しいから、精確な數字を示すことは出來ぬが、流出額の莫大なる事だけは疑を容れぬ。それで當時のポルトガル人の極東通商根據地のマカオ港は、日本から持ち來れる多量の金銀の置場に困る程で、街道に銀を鋪き詰める程であつたと、十七世紀の後半に出た旅行家などは、回顧的記事を傳へて居る。慶長十四年(西暦一六〇九)からオランダ人が我が國に通商を開き、次第に發展して遂に我が國との通商權を專有するに至るが、このオランダ人も我が國から相當多量に金銀を海外に持ち出した。最初に銀を後に金を輸出した。ヒルドレス(Hildreth)の日本史に、十六世紀の半頃から十八世紀の半頃に至る約二百年間に、日本から海外に流出した金銀は、二億弗以上に達すべしと推測して居る。マルコ・ポーロのヂパングには金銀が無量に存在するといふ傳説と、開國後日本から年々多額の金銀が流出するといふ事實と相待つて、十七世紀の後半期頃まで、我が國は依然として歐洲人から、世界で金銀の産出の多い寶の島であると認められて居つた。彼等の間には日本の奧州の東北海中に、金島と銀島があり、この金島銀島から日本人はその豐富な金銀を發掘するといふ噂が信ぜられて、一六一〇年から一六四三年の間にかけて、慾の淺くないスペインやオランダの官憲がこの方面に再三探檢隊を派遣して、金島銀島の所在を搜索せしめたといふ滑稽な事實もある。今囘の開國文化大展覽會に陳列された世界地圖の一つに、この金島と銀島を特に麗々しく表記してある。
 兔に角アラビアの地理學者イブン・コルダードベーのワクワクから始まり、マルコ・ポーロのヂパングを經て、歐人東漸後のジャパンに至るまで、前後を通じて八百年以上、我が國は世界から黄金國として認められた譯である。我が國を黄金國などとは、勿論訛傳若くは誇張としても、之が爲にコロンブスの新大陸發見の如き、歴史的に重大な事件を惹き起して居れば、この訛傳若くは誇張は、世界にとつて寧ろ幸福といはねばならぬ。我が國の立場からいへば、この訛傳若くは誇張の爲に、開國後歐人の手で、金銀の海外流出を繁くして、果ては國庫の窮乏を招いたのは事實としても、その正貨の流出や國庫の窮乏は、やがて我が國人を刺戟覺醒して、産業を興起せしむる動機となつたとすれば、我が國にとつても、この訛傳若くは誇張は、必ずしも不幸と認むべきでない。現に開國以來の金銀の流出は、主として支那の生絲絹織物の輸入――ポルトガル人もオランダ人も盛に支那の生絲絹織物を輸入した――によつたが、その後我が國の生絲や絹織物の産出が盛大となり、今日では生絲や絹織物が、我が國に於ける第一番の輸出品となつて、過去に失つた所を十分現在に償ひつつあるではないか。

 ポルトガル人が始めて我が國に渡來した年代には異説があるが、天文十二年(西暦一五四三)説が一番正しい。その時我が國に渡來した最初のポルトガル人に就いては所傳區々で、容易に決定し難いが、多くの場合に有名なピント(Fernam Mendez Pinto)がその一人として數へられて居る。ピントが果して最初のポルトガル人の一人であるかは隨分疑問であるが、彼の我が開國に關する記事は、假に彼の體驗でなく、人からの傳聞としても、相當信憑し得る樣に思ふ。彼ピントはポルトガル生れの貧乏人であるが、西暦一五三七年に一身代を起すべく東洋に出掛けた。爾來一五五八年に至るまで二十餘年の間、東洋諸國を放浪して、前後三十囘も捕虜となり、その間に軍人となり、或る時は官吏となり、或る時は商人となり、或る時は僧侶となり、或る時は海賊にもなり、或る時は奴隷にもなり、また或る時は乞食にすらなつたといふ、極めて波瀾の多い冒險的旅行家である。彼の『東洋巡歴記』はその死後に、十七世紀の初期に公にされて、廣く歐洲諸國人に愛讀されたが、その内容が如何にも奇怪で、可なり誇張もあるから出版の當初は荒誕なる虚構談として取扱はれ、シエクスピアの如きもピントを世界第一の虚言者と極印を付けて居る。されど今日では彼の『東洋巡歴記』の内容は、大體に於て事實と認められて來た。
 ピントの『東洋巡歴記』に據ると、彼は生活の爲に他の二人の同國人と共に、支那の海賊船の乘組員となつたが、この海賊船が難船して、我が大隅の種子島(Tanixuma)に漂着したから、ピントを始め三人のポルトガル人も我が國に上陸する事になつた。ピントはこの事件の年代を明記してないが、我が國の史料と對照すると、天文十二年(西暦一五四三)の出來事たること疑を容れぬ。ピントの同伴者の一人であるゼイモト(Diego Zeimoto)の携帶した鳥銃が、偶然その漂着地の領主の種子島時堯ときたかの注意を惹き時堯はその鳥銃を買ひ受け、併せて製銃法、射撃法、火藥製造法などを傳習せしめた。これが我國に新式鐵砲即ち鳥銃傳來の濫觴である。時堯はこの功勞によつて、去る大正十三年に正四位を贈られた。ピントはその後再三我が國に渡來したが、一五四七年に第二囘の來航の時、鹿兒島から二人の日本人を伴ひ、マラッカで東洋傳道の目的で來合せた、有名なザヴィエル(Francis Xavier)の手許に委託した。ザヴィエルはやがて天文十八年(西暦一五四九)に、この日本人の一人を案内者として我が鹿兒島に來て、傳道を始めた。かくて十六世紀の半頃から我が國に於ける歐洲人の傳道や通商が開始されるのであるが、歐洲人が我が國に來航後の宗教、經濟、藝術等に關する諸問題は、他の講師方が既に講演され、また今後講演されるはずであるから、私は唯我が國が歐洲諸國と通交を開くまでに、如何なる風に世界に知られて居つたかといふことを、大略紹介いたしたのである。

 私は今この講演を終るに際して、その結論として一言を申添へ置きたい。我が國は最初は朝鮮を通じて、大陸の文化を輸入し、ついで支那を通じて、支那固有の文化は勿論、印度や西域の文化をも輸入し、最後に歐洲諸國と交通して、西洋の文化を輸入したが決して此等諸種の文化を、漫然と無批判に無分別に我が國に輸入した譯でない。我々の祖先たる我が國の先覺者は、世界の新文化を我が國に輸入するに熱心であつたと同時に、その新文化を我が國體と同化せしむることに熱心であつた。到底我が國體と相容れない文化は、努めてその採用を遠慮した。その結果、西洋の文化でも、東洋の文化でも、我が國に傳來した以上は、渾然我が國體と融合して、我が國の文化となつて仕舞つた。丁度西流の河水も、東流の河水も大海に入りたる後は、等しく海水として、何等の區別なきと同樣である。我が國體を保存しつつ外國の文化を攝取することは、我が國の建國以來の方針で、過去の長い歴史を通じて實行されて來た。我が國には古く和魂漢才といふ言葉がある。日本の精神を保持しつつ、外國(漢)の知識を攝取する意味である。この言葉は菅公から始まつたと傳へられて居るが、言葉は兔に角、言葉に現はされた主義は、菅公以前からも實行され、菅公以後も實行されて居る。國家も生物と等しく、適者が發展して行く。我が國が建國以來連綿として今日に至るまで、適者の位置に立つことが出來たのは、全くこの和魂漢才主義、若くはそれと同一の意味をもつべき和魂洋才主義の御蔭である。昭和の時代にも、矢張りこの主義を遵奉するのが安全である。我が國の過去の歴史を觀れば、將來執るべき方針も自然に理會されるはずである。歴史をかがみといふのは是處のことで温故知新は、此の如くして活用せなければならぬ。今囘朝日新聞社の主催された開國文化大展覽會は誠に結構な催であるが、この大展覽會を觀る諸君は、單に一時の異國情調を味ふといふのみでなく、更に進んで我が先覺者が外國の文化を攝取するに示した熱心と、その外國の文化を我が國體に同化せしむべく拂つた苦心とを、併せて考慮したならば、この催が一層價値を増すことと思ふ。(昭和四年三月二十二日講演)

(昭和四年十一月『開國文化』所載)




 



底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2002年3月4日公開
2004年3月29日修正
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