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南蛮秘話森右近丸(なんばんひわもりうこんまる)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-3 7:34:51 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


19[#「19」は縦中横]

 一際こんもりした森林が、行手にあたって聳えている。ちょうどその辺りまで来た時である。傍らの灌木の茂みを抜き、ガラガラと何物か投げ出された。
「あッ」と叫んだは猪右衛門、でもんどり打って転がったが、鎖で足を巻かれている。
 同時に叫んだは玄女である。同じくドッタリ倒れたが、是も鎖で巻かれている。
「先ずは捕った」という声がして、灌木の陰から現われたのは、六七人の庭師であった。
「有無を云わすな、猿轡をかけろ、それから担いで引き上げろ!」一人の庭師が囁いたが、これ他ならぬ四郎太であった。
 ※(「足+宛」、第3水準1-92-36)もがく玄女と猪右衛門を担いで庭師の去った後は、月光が木の葉を照すばかり、沈々ちんちんとして静かである。が、次の瞬間には、驚くべき事件が行なわれた。と云うのは玄女と猪右衛門を、追って来た民弥と右近丸が、ちょうどここまで辿りついた時、荒々しい男の叫び声が、こう聞こえてきたからである。
「帰れ帰れ、巷の者共、穢してはならぬよ、処女造庭境を! そこから一歩踏み込んだが最後、迷路八達岐路縦横、再び人里へは出られぬぞよ!」
 続いてドッと笑う声が天狗倒しの風のように、物凄じく聞こえてきた。「おっ」と云ったは右近丸で、ピッタリ足を止めたが、声のした方へ眼をやった。
 大森林が聳えている。月光もその中へは射し込まない。宏大な城の鉄壁のように、ただ黒々と聳えている。
 気強きじょうとは云っても女である、民弥は思わず身顫いをしたが、「右近丸様!」と寄り添った。「妖怪もののけなどではございますまいか」「なんの!」と右近丸は一笑した。「妖怪ではござらぬ、人間でござる。思いあたることがございます! 不思議な巫女を頭とした、奇怪な庭師の群でござる。かつてこの場でそれ等の者と、邂逅いきあったことがございます。詳しいことはお後で申す。せっかくここ迄追い詰めて来て、猪右衛門と玄女を逃がしては、これ迄の苦心も無になります! 進む以外に法はない! いざ民弥殿手を取り合い!」
 恐れぬ二人、右近丸と民弥は、サーッと森の方へ駈け上った。
汝等おのれら来るか!」と物凄い声がふたたび森林から聞こえたが、すぐにバラバラバラと飛礫つぶてが雨のように降って来た。
 だが恐れない二人であった。サーッと上へ駈け上る。
 と、一つの辻へ出た。森林の中に八本の道が、全く同じ形をとり、八方へ延びているのである。
 と、一方から声がした。「こっちだこっちだ、こっちへ来い!」
 そこで二人はひた走った。とまた一方から声がした。
「こっちだこっちだ、こっちへ来い!」
 そこで二人は方向むきを変え、声のする方へひた走った。
 とまた一方から声がした。「こっちだこっちだ、こっちへ来い!」
 そこで二人は方向を変え、声のする方へひた走った。
 すると今度は八方から、嘲ける声が聞えてきた。「こっちだこっちだ、こっちだこっちだ!」
 怒りを発した右近丸は今は平素の思慮も忘れ、ひたむきに一本の道を辿り、サーッばかり[#「サーッばかり」はママ]にひた走ったが、ハッとばかりに気が付いて立止まって背後うしろを振り返ったが、「南無三宝! 民弥殿が見えぬ」
 ――民弥とはぐれてしまったのである。
 さてその翌日のことである、一人の女が物思わしそうに、京都の町を彷徨さまよっていた。

20[#「20」は縦中横]

 ほかでもない民弥たみやである。
 どうしてさまよっているのだろう?
 右近丸うこんまるを探しているのであった。
 それは昨夜ゆうべのことであったが、洛外北山の山の中で、不思議な迷路へ迷い込み、気が付いた時には右近丸の姿は、どこへ行ったものか見えなかった。で苦心して道を辿り、京都の町へ帰って来て、自分の家へ戻ったが、右近丸のことが気にかかってならない。
 が、ああいう親切なお方だ、今日は訪ねて下さるだろうと、心待ちに待っていたのであったが、今迄待っても姿を見せない。そこで目当てはなかったが、とにかく町へ出てお探ししてみようと、今彷徨っているのであった。
 ここは室町の通りである。午後の日が華やかに射している。道も明るく、家々も明るく、歩いている人も明るかったが、民弥の心は暗かった。
 全く宛がないのであった。
 どこへ行ってよいかわからないのである。
 まるで放心したように、歩く足さえ力なく、ただフラフラと歩いて行く。
 先刻さっきから民弥のそういう姿を、狙うように見ている男があった。
 年の頃は六十前後、半白はんぱく頭髪かみのけ、赭ら顔、腰を曲げて杖を突いているが、ほんとは腰など曲がっていないらしい。鋭い眼、険しい鼻、兇悪な人相の持主である。
 それが民弥へ話しかけた。
 が、話しかけたその瞬間、老人の顔は優しくなった。故意わざと優しく作ったのである。
「これはこれはお嬢様、よいお天気でございますなあ」こんな調子に話しかけた、親切らしい猫撫声である。
「はい」と云ったが吃驚びっくりして、民弥は老人の顔を見た。「よいお天気でございます」
「お寺参りでございますかな」こんなことを云いながら、老人は並んで歩き出した。
「あの、いいえ、人をたずねて」
「おやおや左様でございましたか、どなたをお尋ねでございますな」
「はい、若いお侍様を」
「ほほう、成程、お侍様をな、で、どういうお方なので?」
 何となく老人は訊くのであるが、勿論心中ではよくないことを、きっと巧らんでいるのだろう。
「大事なお方なのでございますの」民弥はられて話して行く。
 平素の民弥なら迂闊うかうかと、こんな見知らぬ老人などと、話しなどするのではなかったが、今は心が茫然ぼんやりしている。で、うかうかと話すのであった。
 おなかっている者は、決して食物を選ばない。水に溺れている者は一筋の藁さえ掴もうとする。民弥の心は手頼たよりなかった。誰であろうとかまわない、親切に話してくれさえしたら、その人に縋って助けて貰おう、そんなように思っているのであった。
「成程々々、大事なお方で。……何というお名前でございますかな?」
「森右近丸様と申します」
「おやおや左様でございましたか。それはまことに幸いで、そのお方ならこの老人が居場所を存じて居りますよ」
「まあ」と云ったが娘の民弥は、驚きもすれば喜びもした。
「それでは本当にお爺様には森右近丸様の居場所を、ご存じなされて居りますので?」
「はいはい存じて居りますとも。実はな、お嬢様、こういう訳で」

21[#「21」は縦中横]

 それからベラベラと喋舌しゃべり出したが、云う迄もなく出鱈目らしい。
「いや全く右近丸様ときては、立派なお方でございますなあ。……へいへい私の親類なので、甥にあたるのでございますよ。ええと年は三十五で……え? 何ですって、違いますって? アッハッハッ、さようさよう、三十五になんかなるものですか。ええと数え年十九歳で。……え、何ですって? 違いますって? さようさよう大違いで、アッハッハッ、ごもっとも。二十三歳でございますよ。……非常な美男で、剣道も達者で、浪人の身分ではありますが。……え何ですって、違ったというので? さようさよう、大違いで、間違いますなあ、よく間違う! アッハッハッハッ、こう間違っても困る。……左様でございますともご家臣で、信長公のご家臣で。蘭丸らんまる様の兄様で。……オットいけないまた違ったか。従兄弟いとこでございますよ、従兄弟々々々……ところで昨日でございますがな、午後から参ったのでございますよ。ハイハイ私の屋敷へな。……え、違うと仰有おっしゃるので? いかさまいかさま、これも間違い。間違いに相違ありませんとも。昨日きのうは一日お嬢様のお家で、くらしたはずでございますからなあ。……実は先刻さっき方参りましたので。へいへい私の屋敷へな。で、只今も居りますので、そうして右近丸が申しました、貴女あなたに是非とも逢いたいとな。……ええと所でお嬢様、何と仰有いますな、お名前は? へい貴女のお名前なので? お菊さんかな? お京さんかな? ……何々民弥? 民弥さんというので? そうそう民弥さんに相違ない。……云っているのでございますよ。是非民弥さんに逢いたいとな。そこで私が来ましたんで、ハイハイ貴女をお迎いにな。……さあさあ急いで参りましょう。私の家へ! 私の家へ!」
 間違ったことばかり云っている。
 でもし民弥が冷静だったら、当然疑いを挿んだろう。ところが民弥は冷静ではなかった。心がとうからぼうっとしていた。で老人の出鱈目が、出鱈目でないように思われた。
 そこで民弥は夢中のように、老人の腕へ縋ったが、
「お爺様! お爺様! お爺様! さあさあ連れて行って下さいまし! さあさあ、逢わせて下さいまし、右近丸様は大事なお方、お逢いしなければなりません! 逢いとうございます、逢いとうございます! どうぞ逢わせて下さいまし! 貴郎あなたのお家へ! 貴郎のお家へ! さあさあお連れ下さいまし!」
「うむ、しめた!」と云ったように、老人は凄く笑ったが、「合点がってん々々お連れしますとも! さあさあ急いで参りましょう。私の家は柏野で。そこにあるのでございますよ。少し遠いが元気を出し、走って行きましょう、走って行きましょう!」
 そこで二人は走り出した。
 往来の人が振り返る。さも不思議そうに二人を見る。一人は兇相の老人である。一人は無邪気な娘である、それが走って行くのである。不思議そうに見るのは当然だろう。
 だが民弥は夢中であった。人に見られようが笑われようが、心に掛けようとはしなかった。一刻も早く右近丸様に、逢いたい逢いたいと思うのであった。
 二人はズンズン走って行く。

22[#「22」は縦中横]

 ここは柏野の一画である。
 そこに一軒の家があった。
 見掛けは極めて陰気ではあったが内は反対に陽気であった。
 その陽気な奥の部屋に、十五六人の男がいた。
 歌をうたっている者、酒を飲んでいる者、詈っている者、議論している者、取っ組み合っている者もある。いずれも兇相の連中である。その風俗も様々である。神主風の者もある。商人風の者もある。坊主風の者もある。武士姿をした者もあれば、香具師やし風をした者もある。老人もいれば若者もいる。女も二三人雑っている。
 ガヤガヤみんな喋舌しゃべっている。
「近来は思わしい仕事がない」
「こう不景気では仕方がない」
「地方へ行かなければならないだろう。都に仕事がないのだから」
「今日も戦、昨日きのうも戦、地方へ行くと戦ばかりだ、若武者の鎧を引っ剥いでも、相当の儲けはあるだろう」
「逃げまどう落城の女どもを引っ攫うのもいいだろう」
 突然一人が歌い出した。

※(歌記号、1-3-28)人買船の恐ろしや

 するともう一人が後を続けた。

※(歌記号、1-3-28)どうせ、売らるる身じゃほどに

 するともう一人が後を続けた。

※(歌記号、1-3-28)しずかに漕ぎやれ船頭殿

 人買船の歌なのである。
 とその時奥の部屋から女の泣声が聞こえてきた。
「まだあの女は泣いているわい」
「どうせ売られて行く女だ、思うさま勝手に泣くがいい」
 昼だというのに部屋の隅に、幾本か紙燭ししょくともされている。話声を戸外へ洩らすまいと、雨戸を閉ざしているからである。壁には影法師が映っている。床の上では狼藉ろうぜきとした、銚子や皿小鉢が光っている。
 綺麗な娘を攫って来て、遠い他国へ売り渡す、恐ろしい恐ろしい人買共の、此処は巣であり会所なのであった。
 そうしてここにいる人間どもは、その恐ろしい人買なのであった。
 と、部屋の片隅に、壁へ背中をもたせかけ、考え込んでいる少年があった。刳袴くくりばかま袖無そでなしを着、鬱金うこんの頭巾を冠っている。他でもない猿若さるわかである。悪人には悪人の交際まじわりがあり、人買の一味と香具師の一味とは、以前まえから交際を結んでいた。で猿若も前々から、よくここへは遊びに来た。
 だがどうしたのだろう猿若少年、今日はいつも程に元気がない。深い考えに沈んでいる。
「おい猿若よ、はしゃげはしゃげ!」
 こう一人が声をかけた。片腕のない小男であった。勘八という人買であった。
「それどころじゃアありませんて」猿若の声は物憂ものうそうだ。
「親方の行方ゆくえが知れないんで」
「へえ、そいつは不思議だね」もう一人の人買が声をかけた。
 片眼が潰れた大男で、その綽名を一ツ目と云い、この仲間での小頭であった。「玄女げんじょさんが居ないというのかい?」
「玄女姐さんも居なければ、猪右衛門ししえもん親方も行方不明なのさ」いよいよ猿若は物憂そうである。
「おかしいなあ、どうしたというのだ?」こう訊いたのは勘八である。
「どうして行方が知れないのか、俺らには訳がわからないよ。二人ながら昨日きのうからいないのさ」
「親方紛失とは気の毒だなあ」こう云ったのは一ツ目である。「どうだ猿若香具師なんか止めて俺達の仲間へ入らないか」
「真平ご免だ、厭なことだ」猿若は早速ばしてしまった。
「若い女を攫って来て、遠い他国へ売るような、殺生な商売は嫌いだよ」
「何だ何だこのチビ公、利いたようなことを云っているぜ。そういうお前達の商売だって、立派なものではないではないか」
「せいぜい盗みをするぐらいさ」
「それ、それ、それ、そいつがいけない」
「娘なんかは盗まないよ」
「金か品物を盗むんだろう」
「人形、人形、綺麗な人形!」
「え?」と一ツ目は訊き返した。
「人形を盗もうとしたってことさ」
「アッハッハッ、馬鹿にしているなあ、一人前の口は利くようだが、やっぱり子供は争われない、人形を盗もうとは可愛らしいや」
 一ツ目が大声で笑ったので、人買共も一斉に、面白そうに笑い出した。
 と、その笑声の終えないうちに、門口の戸が外から開き、二人の人間が入って来た。
 先に立ったは老人であり、後に続いたは娘であった。
 それと見て取るや人買共は、一度にタラタラと辞儀をしたが、「これはお頭、お帰りなさいまし」こう云ったのは一ツ目であった。
 続いて勘八が声をかけた。「素敵な玉でございますなあ」
ざっとした所がこんなものさ」老人は凄じく笑ったが、娘の方を振り返った。「何とか云ったね、民弥さんか! 大概は見当が付いたろうが、ここに居るのは人買だ。そうしてここは人買宿、そうして私は人買の頭、柏野の里の桐兵衛きりべえだよ。……もう、いけない観念おし、どんなに泣こうが喚こうが、ここへ一旦来たからには、一足も外へは出られない。と云って殺すというのではない。当分大事に飼って置き、行儀作法を教えてから、遠国の大名や金持や、廓の主人へ売り渡す。……ナーニ大して心配はいらない。ちょっと心さえ入れ変えたら、案外立身出世もする。だからよ、万端、かして置きな。……オイ野郎共!」と手下を見た、「二階へ連れて行くがいい、手に余るほどあばれたら、体に傷の付かぬよう、革の鞭で手足を引っ叩け!」
合点がってん」と云って立ち上ったは、例の小男の勘八であった。
「さあ娘ッ子、二階へ行こう」
 むっと民弥の手を取ったが、その結果は意外であった。あべこべに民弥に腕を取られ、グッと逆手に返されたのである。
「さてはお前達は悪人だね!」
 いわゆる裂帛の声である! 勘八を向うへ突き倒し、その手を帯へ差し入れたが、抜いて握ったはたしなみの懐刀、振り冠ると凜々しく叱咤した。
「そうとも知らず連れ込まれたは、わたしの油断には相違ないが、ムザムザ手籠に逢うものか! 武士の娘だ、あなどってはいけない!」
 壁を背後うしろにピッタリと背負しょい、つまを片手にキリキリと取り上げ、振り冠った懐刀に波を打たせ、荒くれ男の十数人を、睨んだ様子というものは、若くて美しい娘だけに、凄くもあれば立派でもあった。
 驚いたのは人買共である。

23[#「23」は縦中横]

 一整いっせいに立ち上ったが呶鳴り出した。
「油断をするな、大変な娘だ!」
「一度にかかって手捕りにしろ!」
「相当武芸も出来るらしい。甘く見込んで怪我するな」
 そこで一同ダラダラと並び、隙を狙って飛びかかろうと、民弥の様子をうかがった。
 飛び込んで来い! 叩っ切る! かなわぬまでも防いで見せる! そうして一方の血路けつろをひらき、この屋敷から逃げて見せる! ――民弥は民弥で決心を固め、四方へ眼を配ったが、敵は大勢、民弥は一人、多少武芸の心得はあるが、腕力では弱い女である、助太刀する者がなかったら、ついには手取りにされるだろう。そうなった日には最後である。他国へ売られてしまうだろう。
 父は何者かに殺されてしまった。手頼りに思った右近丸は、どこへ行ったか行方が知れない。それだけでさえ不幸なのに、その上他国へでも売られたら、いよいよ不幸と云わなければならない。
 助ける者はないだろうか?
 人買共はせまって来る。
 助ける者はないだろうか?
 だがこの時何者だろう、家から飛び出した者がある。
 例の猿若少年であった。
 門口から民弥へ声をかけた。
「おい民弥さん民弥さん、往生して捕虜になるがいい。ジタバタ騒ぐと怪我をするぜ。捨てる神があれば助ける神がある。機会をお待ちよ機会をお待ちよ。なのって上げよう猿若だよ!」
 ポイと往来へ飛び出したが、数十間走ると足を止め、腕組みをすると考え込んだ。
「気の毒だなあ、民弥さんは。……どうも大変なことになった。……あの人の人形を盗もうとしたり、お父さんを殺しはしたものの、本心からやったことではない。親分の指図でやった事だ。……俺らの本心から云う時は、綺麗な民弥さんは好きなのだ、人買の奴等に捕らえられ、他国へ売られては可哀そうだなあ。多勢に一人、殊には女、捕らえられるは知れている。……どうぞしてたすけてやりたいものだ」
 この猿若という少年は、元から悪童ではなさそうである。境遇が悪童にしたようである。
 そこで民弥の不幸を見るや、本来の善心が甦えり、真から民弥を助けようと、どうやら考えに沈んだらしい。
 ここら辺りは郊外である。人家もまばらで人通りも少い。木立があちこちに茂っている。その木立へ背をもたせ、夕暮の陽に染まりながら、猿若はいつ迄も考えた。
「……他に手段はなさそうだ。うまく忍び込んで連れ出してやろう。……家の案内は知っている。……裏庭へ入り込み壁をよじ、二階の雨戸をコジ開けてやろう。……と云って日中は出来そうもない。宵闇にまぎれてやってやろう。ナーニ目つかったら目つかった時だ、何とかごまかしが付くだろう、付かなかったら仕方がない、戦うばかりだ、戦うばかりだ。……だがそれにしても今日の日は、どうしていつ迄も暮れないんだろう。同情のないお日様だよ」
 呟いて空を見上げたが、決して決して今日に限って、日が永いのではなさそうである。
 次第に夕空が暮れてきた。
「もうよかろう、さあ仕事だ」
 木立を離れると猿若少年はもと来た方へ引っ返した。

 ところが同じ日のことであったが、鴨川の水を溯り、一隻の小舟がはしっていた。
 四五人の男が乗り込んでいる。
 いずれも不逞の面魂で、善人であろうとは思われない。
 夕陽が川水を照らしている。今にも消えそうな夕陽である。
「久しくよい玉にぶつからない。……今日はそいつにぶつかりたいものだ」
 顔に痣のある男である。
「桐兵衛爺と来た日には、人攫いにかけては名人だ、いずれ上玉の三つや四つは、仕込んでいるに相違ない。真っ先に桐兵衛を訪ねよう」
 兎唇みつくちの若い男である。
 ひそやかに小舟は進んで行く。
 この時代における鴨川は、水量も随分たっぷりとあり、小舟も自由に往来した。
 夕陽が次第に薄れてきた。
 まばらの両側の家々や、木立に夜の色が滲んできた。
 の音を盗んで忍びやかに、小舟は先へと進んで行く。
 これは人買の舟なのであった。乗っている四五人の人間は、諸国廻りの人買なのであった。
「この辺りでよかろう、舟をもやえ」
 で小舟は岸へ寄せられ、傍らの杭に繋がれてしまった。
「さあさあ桐兵衛の隠家かくれがへ行こう」
 夕暗の逼ってきた京の町を、柏野の方へ歩き出した。
 しかるにこの頃北山の方から、異形の人数が五人揃って、京都の町の方角へ、陰森とした山路を伝いストストストストと下っていた。

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