15[#「15」は縦中横]
ここは五条の橋である。 今、宵月に照らされて、フラフラ歩いて来る人影がある。古道具買に身をした、香具師の親方の猪右衛門である。両手に人形を持っている。非常に非常に機嫌がよい。独り言を云っている。 「こんなに楽々と苦労もなく、唐寺の謎を持っている。奈良朝時代の貴女人形を、手に入れようとは思わなかったよ。運がよかったというよりも、俺に才智があったからさ。……さて所で人形だが、物を云うということだが、どうしたら物を云うだろう?」 人形の手を引っ張って見た。が、人形は物を云わない。そこで足を引っ張って見た。が、人形は黙っている。今度は首を捻ってみた。しかし人形は音を出さない。 「不思議だな、どうしたんだろう? あんなことを猿若は云ったけれど、物なんか云わないのじゃアあるまいかな。人形が物を云うなんて、どう考えたってへんてこだからなあ。でもし物を云わないとすると、弁才坊めが苦心して、唐寺の謎を解き明かせた、研究材料の有場所を、発見することが出来なくなる。困ったことだ、困ったことだ。……ナーニ、ナーニ、そんなことはないさ。どうかしたら物だって云うだろう。もし又物を云わないようなら、人形の腹を立ち割ればいい。そうしたら秘密は解けるだろう。『この人形を大事にしろ』弁才坊めが民弥めに、こんなように云ったというからな。大事な秘密が人形の中に、隠されているのは確からしい。……どっちみち早く帰るとしよう」 五条の橋を渡って行く。 渡り切った所に柳がある。ちょうどそこまで来た時であった。一つの人影が現われた。柳の陰から現われたのである。 「オイどうだったい猪右衛門さん」 その人影が声をかけた。同じ香具師の女親方、猪右衛門と相棒の玄女であった。 「ヨー、これは玄女さんか」 「首尾はどうかと思ってね、ここ迄様子を見に来たのさ。お迎えに来たと云ってもいい」 玄女はニヤニヤ笑っている。 「首尾は上々この通りさ。うまうま人形を手に入れたよ」 こう云うと猪右衛門は人形を、ヒョイとばかりに突き出した。 「おやマァ大きな人形だねえ。そうして随分立派じゃアないか。どれどれ妾に抱かせておくれよ」 「オッとよしよし抱くがいい」 玄女は人形を受け取ったが、月光に隙かしてつくづく見た。 人形は精巧に出来ている。顔など活きているようだ。今にも物を云いそうである。 「成程ねえ、この人形なら、物を云うかもしれないねえ」 玄女は感心したらしい。で、猪右衛門のやったように、人形の手を引っ張ったり、足を引っ張ったりしたけれども、人形は物を云わなかった。 「とにかくここに突っ立って、人形いじりをしていたって、どうも一向はじまらないよ。家へ帰ってゆっくりと、人形いじりをすることにしよう」と玄女はスタスタ歩き出した。 「それがいいいい」と猪右衛門も、玄女と並んで歩き出した。しかし十間とは行かなかったろう、背後から呼びかける声がした。 「古道具買さん古道具買さん、ちょっとお待ち下さいまし」 それは女の声であった。 驚いた玄女と猪右衛門が足を止めて振り返ると、いずれ走って来たのだろう。息を切らせた若い娘と、若い武士とが立っていた。 娘は民弥、武士は右近丸、うまく二人を目つけたのである。 民弥を見ると猪右衛門は、これは! というような表情をしたが、「オヤオヤこれは先刻方、人形をお売り下された、お嬢さんではございませんか。何かご用でございますかな」こう云いながら猪右衛門は素早く玄女へ眼配せをした。用心しろと云ったのである。 「はい」と云うと娘の民弥は気の毒そうに云い出した。「少し都合がございますので、お売りいたした人形を、買い戻しとう存じます。どうぞお返し下さいまし」 「成程」と云ったものの猪右衛門はどうしてどうして返すことではない。鼻の先でフフンと笑った。「がどうもそいつはいけますまいよ」 「それは又何故でございますか」民弥も後へ引こうとはしない。 「一旦買い取った上からは、この人形は私の物、お返しすることではございません」 「そう仰有らずに是非どうぞ……」 「駄目だあアーッ」とがぜん猪右衛門は兇悪の香具師の本性を、露骨に現わして一喝した。「帰れ帰れ! 返しゃアしねえ!」 「これ!」と叱るように声をかけ、進み出たのは右近丸で見れば両眼を怒らせて、刀の柄へ手をかけている。
16[#「16」は縦中横]
「売りは売ったが金を返し、買い戻そうと申すのだ、何が不足で返さぬと云うぞ! 返辞によっては用捨せぬ! 懲しめるぞよ、どうだどうだ!」 こう云ったが右近丸は感付いた。「ははあ儲けが欲しいのだな」そこで今度は穏しく、「成程なるほど考えて見れば、お前は商人古道具買、せっかく手に入れた品物を、元価で返しては商売になるまい。よろしいよろしい増金をしよう。青差一本余分につける。これでよかろう、さあさあ返せ」 だが香具師の猪右衛門は相手にしようとはしなかった。 「駄目だアーッ」と再び呶鳴ったが、思量なくベラベラ喋苦り出した。「これお侍に娘っ子、聞け聞け聞け、聞くがいい、奈良朝時代の貴女人形、返しゃアしねえよ、返すものか! 青差一本は愚かのこと、黄金幾枚つけようと、返すものかア、返すものかア! オイ!」と云うとヒョイと進み、白歯を剥いて笑ったが、それから尚も云い続けた。「と云うのは他でもねえ、この人形の胎内に、大事な秘密があるからよ。唐寺の謎! 唐寺の謎!」 「おっ!」と叫んだは右近丸である。「ううむ、汝どうしてそれを?」 「知っているのが不思議かな!」猪右衛門はいよいよ嘲笑的に、憎々しく首を突き出したが、「まず云うまいよ、明かすまいよ。が、ハッキリと云って置く、それさえ解いたら素晴らしいものが、手に入ることになっている、南蛮寺の謎――唐寺の謎が、籠っているのだ、人形にはな! だからよ小判一枚と、青差一本というような、破格な高価で買ったのさ! そうでなかったらこんな人形、そんな高価で買うものか! オッと待ったり」と猪右衛門は迂散らしく右近丸と民弥とを、かたみがわりに見やったが。「ははあそうか、ははあそうか、一旦売った人形を、取り返そうとするからには、さては汝等も人形の、胎内の謎に感付いたな。と云うことであってみれば、人形はいよいよ返されねえ。オイ玄女さん」と猪右衛門は玄女の方を見返ったが、「お聞きの通りだ、この連中、人形の秘密に感付いたらしい。まごまごしてはいられない、行こう行こう、急いで行こう」 「それがいいねえ、そうしよう」 こう云ったのは玄女である。胸にしっかり人形を抱き、猪右衛門と右近丸の問答を、面白そうに見ていたが、こうこの時云ったのである。 「それじゃア走って行くとしよう、お前さんも急いで来るがいいよ。さあさあおいでよ、猪右衛門さん!」 「よし来た、急ごう、それ走れ」 そこで玄女と猪右衛門は右近丸と民弥を尻目にかけ、サーッと四ツ塚の方へ走り出した。怒りをなしたのは右近丸である。 「待て!」と一声呼びかけたが、すぐに民弥を振り返った。 「ご覧の通りの彼等の有様、人形の秘密を知った上で、ペテンにかけて買い取った様子、とうてい尋常では返しますまい。もうこうなっては止むを得ませぬ、腕を揮うは大人気ないが、今は揮わねばなりますまい。貴女にもご用意、玄女とやらいう女へ、掛かって人形をお取り返し下され、拙者は一方猪右衛門とやらへ、掛かって懲らすことに致しましょう」 腰の長太刀を引き抜いた。 「はい、それではこの妾も」云うと同時に娘の民弥はグッと懐中へ手を入れたが、キラリと抜いたは懐刀である。 「待て!」ともう一度声を掛け、逃げて行く猪右衛門の背後から、颯と一刀浴びせかけた。 「ワッ」と云う喚き! 猪右衛門だ! もんどり打って倒れたが、不思議と血潮は流れなかった。当然である。右近丸がこんな下人を切ったところで、無駄な殺生と考えて、ピッシリ峯打に後脳を、一つ喰らわせたに過ぎなかったのだから。 香具師の頭の猪右衛門は、しかし右近丸が思ったより、獰猛な性質の持主であった。打たれて地上へは倒れたが、隠し持っていた一腰を、引き抜くと翻然飛び上った。 「こんなものだアーッ」と凄じい掛声! 右近丸を目掛けて猪右衛門は一本「突き」を突っ込んだ。立派な腕前、油断のならぬ気魄、右近丸思わずギョッとしたが、さてその右近丸ときたひには、この時代の剣聖塚原卜伝、その人に仕込まれた無双の達人、香具師の頭猪右衛門などに、突かれるようなヤクザではない。横っ払いに払い捨てた。と、チャリーンと太刀の音! 人通りの絶えた寂しい五条、そこの夜の気に響いたが、さすがに気味の悪い音であった。 と、一方この時分、民弥は懐刀を振りかざし、玄女の行手へ突っ立っていた。
17[#「17」は縦中横]
行手へ突っ立った娘の民弥、 「玄女さんとやら、改めて、貴女へお願い致します。人形をお返し下さいまし」 言葉は優しいが態度は強く、厭と云ったら用捨しない、懐刀で一揮、片付けてやろうと、決心しながら詰め寄せた。素性は名流北畠家の息女、いつの間にか父親多門兵衛尉に、武術の教を受けたものと見え、体の固め眼の配り、寸分際なく神妙である。 しかし一方香具師の頭、玄女も決して只者ではなかった。 「民弥さんとやら、断わりましょう」にべもなくポンと付っ刎ねたが、「この人形の返されない訳は、今も仲間の猪右衛門さんが、お話ししたはずでございますよ。……いわば私達にとりましては、貴女方お二人というものは、唐寺の謎を孕んでいる、この人形の取り遣りの、競争相手でございます。なんのそういう競争相手に、人形をお返し致しましょう。お断わりお断わり、断わります。……オヤオヤ見受ければまだお若い、無邪気な娘さんでありながら、物騒千万懐刀などを、振り冠って何となされるやら、ほほうそれでは腕ずくで、人形を取ろうとなされるので? 怪我をしましょう、お止しなされ! どうでも刃物を揮われるなら、妾も香具師の女親方、二十三十の荒くれ男を、使いこなしている商売柄、何のビクともいたしましょう、お相手しましょう、さあおいでよ!」 胸に抱いていた人形を、左の脇下へ掻い込むと、右手を懐中へ捻じ込んだ。グッと引抜き振り冠った途端、頭上にあたって、キラキラと月光を刎ね返すものがあった。すなわち長目の懐刀である。すなわち玄女が懐刀を抜き、同じく頭上へ振り冠ったのである。 と、玄女飛び込んだ。民弥の肩へズーンと一刀! 刀の切先を突き立てたのである。 なんの民弥が突かれるものか、右へ流すとひっ外しどんと飛び込んで体あたり! 流されたのでヨロヨロと泳いで前へ飛び出して来た玄女の胴へ喰らわせた。それが見事に決まったと見える、玄女は地上へ転がったが、金切声で喚き出した。 「さあさあみんな出ておくれよ!」 するとどうだろう、声に応じ、家の陰やら木の陰やら、橋の下やら、土手の下から、二十人あまりの人影が、獲物々々を打ち振って、黒々として現われた。 こういうこともあろうかと、予め玄女が伏せて置いた、彼女の手下の香具師共らしい。 グルグルと民弥を引っ包んだ。 「さあさあお前達力を合わせ、この娘を手取にするがいい」 飛び起きた玄女は声を掛けた。「仲々綺麗な娘だよ、捕らえて人買へ売り込んだら、相当の金になるだろう。切ってはいけない、傷付けてもいけない、お捕らえお捕らえ捕らえるがいい!」 「合点々々それ捕らえろ!」 「ソレ引っ担げ引っ担げ!」 香具師の面々声掛け合わせ、ムラムラと民弥へ押し逼った。 仰天したのは民弥である。こんな伏勢があろうとは、夢にも想像しなかった。 「これは大変なことになった。……もうこうなっては仕方がない。血を流すのは厭だけれど、切り散らさなければならないだろう」 そこで一躍右へ飛び、ヒューッと懐刀を打ち振った。「ワッ」という悲鳴! 倒れる音! 香具師の一人切られたらしい。 しかし香具師共は二十人以上、しかもその上命知らず、兇暴の精神の持主である。一時サーッと退いたが、すぐまた民弥を取り巻いた。 「女の手並だ、知れたものだ、組み敷け組み敷け、取り抑えろ!」 棒を投げ付ける者もある。足を攫おうとするのである。縄を飛ばせる者もある。引っくくろうとするのである。 今は民弥も必死である。サーッと一躍左へ飛び、「エイ!」と掛声! 裂帛の呼吸! 懐刀をまたもや一揮した。と同時に「ワッ」という悲鳴! そうして続いて倒れる音! 民弥に切られて香具師の一人、ぶっ倒れたに相違ない。 またもや香具師共はサーッと引き、遠巻きにして取り巻いたが、「強いぞ強いぞ、案外強い! と云ったところでたかが女、蹴倒せ蹴倒せ踏み倒せ!」 そこでまたもや寄せて来た。 民弥武道には勝れても、若い女のことである、敵を二人迄切っている。呼吸切れせざるを得なかった。ハッ、ハッ、ハッと大息を吐き、疲労て萎る両足を、グッと構えて姿勢を正し、振り冠った懐刀月光に顫わせ、ムーッと香具師共を睨み付けた。しかし以前程の元気はない。 「一度に寄せろ、占めた占めた! 女は疲労た、からめ捕れ! この機を外すな、からめ捕れ!」 香具師共ドッと押し寄せた。 以前程の元気はないのである。民弥は疲労ているのである。そこを狙って多勢の香具師共、一度に寄せて来たのである。危険だ危険だ捕らえられるかも知れない。 だがこの時声がした。 「強いぞ強いぞ侍めは! あぶないあぶない一時逃げろ!」 他ならぬ猪右衛門の声である。 つづいて右近丸の声がした。「お助けいたす、民弥殿!」 バタバタバタバタと足の音! 右近丸のために切り立てられ、逃げて来た猪右衛門の足音である。それに続いてまた足音! 猪右衛門の後を追っかけて、走って来た右近丸の足音である。 と、「ワッ」という数声の悲鳴! 民弥をグルグルと取り巻いていた香具師の群から起こったが、これは馳せ付けた右近丸が、太刀を揮って背後から、二三人を切って倒したのである。 当然香具師の円陣が崩れ、バラバラと四方へ別れたが、四ツ塚の方へ走り出した。 つと現われたは右近丸、「おお民弥殿!」 「右近丸様!」 「どこもお怪我は?」 「ございませんでした」 力が抜けたのか娘の民弥が、グッタリと右近丸へもたれるのを、胸で支えて左手で抱き、右手に握った血刀を、グーッと高くかざしたが、右近丸大音に呼ばわった。 「人形を返せ! 人形を返せ!」 しかし玄女も猪右衛門も、手下と雑って逃げるばかりで、返辞をしようともしなかった。 「残念々々、人形をみすみす取られる、みすみす取られる!」 「右近丸様!」と血走った声! 民弥は元気を取り返したらしい。 「追っかけましょうどこまでも! 取り返しましょう人形を!」 「しかし」と躊躇た右近丸、「走れますかな、貴女には?」 「無理にも走って参ります! 途中で血を吐き死にましても、きっと走って参ります! 永年の間お父様が、苦心して調べた唐寺の謎、それを解き明かした研究材料、それを持っている人形を、妾の粗相でなくなしては、父に申し訳ございません! どこどこ迄も追い詰めて、取り返さなければなりません」 「立派な決心!」と右近丸は感激した声で叫んだが「それでは一緒に!」 「追っかけましょう!」 「汝等待てーッ」と右近丸は叫びを上げながら走り出した。 負けずに民弥もひた走った。 右近丸の持った血染めの太刀、民弥の持った血染めの懐刀、走るに連れて月光を弾き、凄じくキラキラ反射する。朧の月夜である。四辺がボッと仄明い。薄い紗布を張ったようだ。 不意に、玄女は振り返った。 「オイいけないよ。猪右衛門さん、あいつ等どこ迄も追っかけて来るよ」 猪右衛門も背後を見返ったが「成程々々追っかけて来る。構うものかい、逃げろ逃げろ!」 「だがねえ」と玄女は思量深く「私達の四ツ塚の隠家を、突き止められたら大変だよ、あの見幕なら家の中へ、きっと切り込んで来るからねえ」 「おっ、なるほど、それはそうだ! どうしたらよかろう、よい智慧はないか?」 「道を違えて走ろうよ、そうして途中でまくとしよう」 「そいつァよかった、是非まこう」 そこでにわかに玄女と猪右衛門は部下の香具師共と引き別かれ、北山の方へ走り出した。 早くも見て取った右近丸と民弥は、見失っては一大事と、すぐにそっちへ道を取り、ヒタヒタヒタと追い迫る。 逃げて行く玄女と猪右衛門と、追って行く民弥と右近丸、どっちも足弱連れである。一方まくことも出来なければ、一方まかれもしなかった。 四人いつの間にか町を出て、北野の方へ走っていた。二十人あまりの香具師の群は、とうに四方へ散ってしまい、四辺には一つの姿さえ見えぬ。 北野を過ぐれば大将軍、それを過ぐれば小北山、それを過ぐれば平野となる、それを過ぐれば衣笠山! そっちへドンドン走って行く。道は険しい、森林がある、夜鳥の羽搏き、風の音、光景次第に凄くなった。 四人が四人とも疲労した。だが逃げなければならなかった。だが追わなければならなかった。
ちょうどこの頃のことである、鹿苑院金閣寺、そこから離れた森林の中に、一人の女が坐っていた。
18[#「18」は縦中横]
地上に鏡が置いてある。坐っている女が覗いている。月光が鏡を照らしている。魚の横腹を思わせるような、仄かな煙った光芒が、その鏡から射している。 「いよいよ時期が近付いた。妾には解る。妾には解る。唐寺の謎を孕んでいる、ある何物かが手許へ来る。向こうから来るのだ、飛び込んで! こっちで呼びもしないのに、向こうから来るのだ、飛び込んで! 捕らえなければならない、捕らえなければならない!」 独り言を云っている。だがどうしてその女には、そういうことが解るのだろう? そうして一体この女は、どういう身分の女なのだろう? 年の頃は二十歳ぐらい、頭髪を束ねて背中へ垂らし、白の衣裳を纏っている。すなわち巫女の姿である。 いつぞや京都二条通りで、時世を諷し、信長を譏り、森右近丸を飜弄した、あの時の巫女とそっくりである。そっくりどころかその女なのである。 だがどうしてその女が、こんな寂しい森の奥に、一人で住んでいるのだろう? まったく寂しい森である。巨木が矗々と聳えている。枝葉がこんもりと繁っている。非常に大きな苔むした岩や、自然に倒れた腐木などが、森のあちこちに転がっている。 女の坐っている後方にあたって、一点の燈火がともっている。ぼっとその辺りが明るんで見える。何でもなかった、燈明なのであった。そこに一宇の社があり、そこの神殿に燈されている、それは一基の燈明なのであった。 何という古風な社だろう! その様式は神明造、千木が左右に付いている。正面中央に階段がある。その階段を蔽うようにして、檜皮葺の家根が下っている。すなわち平入の様式である。社の大いさ三間二面、廻廊があって勾欄が付き、床が高く上っている我等が祖先大和民族の、最古の様式の社なのである。 社に添って家がある。おおかた似たような様式である。やはり階段がついている。その正面に扉がある。出入口に相違ない。勾欄を巡らした廻廊が、家の周囲を囲繞いている。これは恐らく社務所なのだろう。 月がそれらを照らしている。で、一切の建物が、紗布に包まれているようである。社を中心に空地がある。その空地の一所に、女は坐っているのであった。 と、女は背後を向き、社務所へ向かって声をかけた。 「乳母々々、ちょっとおいで」 「はい御姫様」と云う声がした。社務所の中からしたのである。と、社務所の戸が開いて、一つの人影が現われた。廻廊を渡り階段を下り、月光の中へ現われたのを見れば、白髪を結んで肩へ垂らした、六十余りの老女であった。質素なみなりはしているが、上品で柔和で慈悲深そうな容貌、立派な素性を現わしている。 「宵も更けましてございます、もうお休みなさりませ」云い云い老女は近寄ったが「これはこれは唐姫様、またお占いでございますか」 並んで鏡を覗き込んだ。 「ね」と巫女は――唐姫は、またもや鏡に見入ったが、「ね、人影がしかも四人、私達の住居の処女造庭境へ、あんなにも走って来るではないか。荒らさせてはならない、入らせてはならない、追い払わなければならないのだが、先に立って来る二人の男女、あれだけは是非とも捕らえることにしよう」 「まあまあ左様でございますか」こうは云ったが老女には、鏡に映っているという、人間の姿など解らないと見え、不安らしく白髪の首を振った。「お姫様には神通力、お鏡を通して浮世の相を、ご覧になることが出来ましょうが、この浮木はほんの凡人、何にも見えませんでございます。ほんとにそんな人達が、走って来るのでございましょうか?」 「ああそうとも走って来るよ、一人は若武士、一人は娘、後の二人は香具師らしいよ。卑しい服装をしているからね」 じっと鏡に見入ったが、尚も唐姫は云い続けた。 「それも普通の人達ではないよ、私達一同が以前から手に入れようと望んでいた、唐寺の謎を解き明かした、研究材料を持っている、そういう好都合の人達なのだよ」尚も熱心に見入ったが、「もう北野も通り過ぎた、大将軍まで走って来た、もう直ぐにも小北山へ来る。……ああもう小北山も通り過ぎた、いよいよ平野へやって来た。……衣笠山! 衣笠山! 衣笠山の裾まで来た!」 ほんとにどうしてそんなことが、この唐姫には解るのだろう? 月光に反射して朦朧と、鏡は光っているばかりである。そんな人影など映っていない。 それにもかかわらず唐姫にだけに、そういうことが解るのなら、唐姫という女には、特別に違った感覚が、備わっているものと見なければならない。 と、唐姫は立ち上った。 「もう間もなく遣って来よう! 私達の住居の秘密境、処女造庭境の入口へ! 乳母!」と云ったが威厳がある。「お呼びお呼び、家来達を!」 「はい」と云うと老女の浮木は逞しい声で呼ばわった。「姫君お呼びでございますぞ! 方々お集りなさるよう!」 声に応じて数十人の人影が森の四方から現われた。刳袴に一刀を帯び、織人烏帽子を額へ載せ、黒の頭巾で顔を包んだ、異形の風采ではあったけれど、これこの時代の庭師なのであった。 唐姫の前方数間の手前で、膝折敷いて下坐をした。慇懃を極めた態度である。 唐姫はスッと見廻したが、 「銅兵衛、銅兵衛」と声をかけた。 「は」と答えると一人の庭師が坐ったままで辞儀をした。 「大儀ではあるが衆を率い、其方造庭境の入口へ参り、潜入者を堅く防ぐよう。……四郎太、四郎太!」と声をかけた。 「は」と答えたが一人の庭師が同じく坐ったまま一礼した。 「大儀ではあるが衆を率い、同じく造庭境の入口へ参り、香具師風の男女をひっ捕らえ、ここまで連れて参るよう」 「かしこまりましてございます」こう云ったのは銅兵衛である。ヌッと立ったが仲間を見た。「いざ方々、おつづき下され!」 「では某も」と四郎太も同じく仲間を見廻したが「拙者におつづきなさるよう」 二派に別れた数十人の庭師、スタスタと歩くと森へ入り、すぐに姿を隠したが、あたかもこの頃猪右衛門と玄女が右近丸と民弥に追いかけられ、衣笠山の坂道を、上へ上へと上っていた。
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