2
もうこの辺りは山である。鬱々と木立が繁っている。人家もなければ人気もない。夜の闇が四辺を領している。ズンズン恐れず巫女が行く。着ている白衣が生白く見える。時々月光が木間を洩れ、肩のあたりを淡く照らす。 鹿苑院金閣寺、いつかその辺りも通ってしまった。だんだん山路が険しくなる。いよいよ木立が繁り増さり、気味の悪い夜鳥の啼声がする。 巫女はズンズン歩いて行く。 「一体どこまで行くのだろう?」若武士はいささか気味悪くなった。だが断念はしなかった。足音を忍んでつけて行く。 一際こんもりした森林が、行手にあたって繁っている。ちょうどその前まで来た時であった。巫女は突然足を止め、グルリと振り返ったものである。 「若い綺麗なお侍さん、お見送り有難うございました。もう結構でございます。どうぞお帰り下さいまし。これから先は秘密境、迷路がたくさんございます。踏み込んだが最後帰れますまい」それから不意に叱るように云った。「犯してはならぬよ我等の領地を! 宏大な「処女造庭」境を!」 「おっ」と若武士は驚いたが、同時に怒りが湧き起こった。「何を女め! 不埒な巫女! 二条通りで我君の雑言、ご治世を詈ったそればかりか、拙者を捉えて子供扱い、許さぬぞよ。縛め捕る!」ヌッと一足踏み出した。 「捕ってごらんよ」とおちついた声、それで巫女はまた云った。「悪いことは云わぬよ。帰るがいい、お前が穢い侍なら、北野あたりで殺しもしたろう、可愛い綺麗な侍だったから、ここまで送らせて来たのだよ。だが今夜はお帰りよ。そうして妾を覚えておいで、もう一度ぐらいは会うだろう、お帰りお帰り、さあ今夜は」 馬鹿にしきった態度である。 本当に怒った若い武士は、手捕りにしようと思ったのだろう、「観念!」と叫ぶと躍りかかった。 それより早く、不思議な巫女は、サ――ッと後へ飛び退いたが、「お馬鹿ちゃんねえ」と云ったかと思うと、片手をヌーッと頭上へ上げた。キラキラ光る物がある。巨大な星でも捧げたようだ。カーッと烈しい青光る焔、そこから真直ぐに反射して、若い武士の眼を射た。魔法か? いやいやそうではない。胸にかけていた円鏡そいつを右手に捧げたのである。 だがそれにしても不思議である、いかに月光が照らしたとは云え、そんな鏡がそんなにも強い、焔のような光芒をどうして反射したのだろう? 「あッ」と呻いた若い武士は、二三歩背後へよろめいたが、ガックリ地面へ膝をついた。しかし勇気は衰えなかった。立ち上ると同時に太刀を抜き、 「妖婦!」と一躍切り込んだ。 「勇気があるねえ、いっそ可愛いよ。だが駄目だよ、お止めお止め」 沈着き払った巫女の声が、同じ場所から聞こえてきた。いぜん鏡を捧げている。キラキラキラキラと反射する。それが若武士の眼を射る。どうにも切り込んで行けないのである。 とはいえ若武士も勇士と見える。両眼瞑ると感覚だ。柄を双手に握りしめ「ウン」とばかりに突き出した。 だが何の手答えもない。ギョッとして眼を開いた眼の前に、十数本の松火が、一列にタラタラと並んでいた。 異様の扮装をした十数人の男が、美々しい一挺の輿を守り、若武士の眼前にいるではないか。 いつの間にどこから来たのだろう? 森の奥から来たらしい。町人でもなければ農夫でもない。庭師のような風俗である。そのくせ刀を差している。その立派な体格風貌、その点から云えば武士である。 若武士などへは眼もくれず、巫女の前へ一斉に跪坐いたが、「いざ姫君、お召し下さりませ」 「ご苦労」と家来に対するように、巫女は鷹揚に頷いたが、ユラリとばかりに輿に乗った。 「さようならよ、逢いましょうねえ、いずれは後日、ここの森で……綺麗で若くて勇しい、妾の好きなお侍さん」[#「妾の好きなお侍さん」」は底本では「妾の好きなお侍さん」。」] それから巫女は意味ありげに笑った。 「さあお遣りよ、急いで輿を!」 松火で森を振り照らし、スタスタと奥へ行ってしまった。
3
信長の居城安土の城、そこから乗り出した小舟がある。 春三月、桜花の候、琵琶の湖水静かである。 乗っているのは信長の寵臣、森右近丸と云って二十一歳、秀でた眉、鋭い眼、それでいて非常に愛嬌がある。さぞ横顔がよいだろう、そう思われるような高い鼻、いわゆる皓歯それを蔽て、軽く結ばれている唇は、紅を注したように艶がよい。笑うと左右にえくぼが出来る。色が白くて痩せぎすで、婦人を想わせるような姿勢ではあるが、武道鍛錬だということは、ガッシリ据わった腰つきや、物を見る眼の眼付で解る。だが動作は軽快で、物の云い方など率直で明るい。どこに一点の厭味もない。まずは武勇にして典雅なる、理想的若武士ということが出来よう。 かの有名な森蘭丸。その蘭丸の従兄弟であり、そうして過ぐる夜衣笠山まで、巫女を追って行った若武士なのである。信長の大切の命を受け、京へ急いでいるところであった。 天正七年春の午前、湖水の水が膨らんでいる。水藻の花が咲いている。水鳥が元気よく泳いでいる。舟が通ると左右へ逃げる。だがすぐ仲よく一緒になる。よい天気だ、日本晴れだ、機嫌よく日光が射している。 舟はズンズン駛って行く。軽舟行程半日にして、大津の宿まで行けるのである。 矢走が見える、三井寺が見える、もう大津へはすぐである。 とその時事件が起こった。どこからともなく一本の征矢が、ヒュ――ッと飛んで来たのである。舟の船首へ突っ立った。 「あっ」と仰天する水夫や従者、それを制した右近丸は、スルスルと近寄って眺めたが、 「ほほうこいつは矢文だわい」 左様、それは矢文であった。矢羽根から二三寸下ったところに、畳んだ紙が巻き付けてある。 矢を引き抜いた右近丸はクルクルと紙を解きほぐすと、スルスルと開いて見た。 「南蛮寺の謎手に入れんとする者信長公一人にては候まじ、我等といえども虎視耽々、尚その他にも数多く候」 これが記された文字であった。 「成程」と呟いたが右近丸は些少驚いた様子であった。「俺の用向きを知っていると見える。俺を嚇そうとしているらしい。これは用心をしなければならない。何者がどこから射たのだろう」四辺を見廻したが解らなかった。たくさん舟が通っている。帆船もあれば漁船もある。商船も通っている。だがどの舟から射たものやら、少しも見当が付かなかった。 「さあ、舟遣れ、水夫ども漕げ」 そこで小舟は駛り出した。
その同じ日の夕方のこと――ここは京都四条坊門、南蛮寺が巨然と聳えている。その周囲は四町四方、石垣の中に作られたは、紅毛ぶりの七堂伽藍。金銀を惜まぬ立派なものだ。 夕の鐘が鳴っている。讃美歌の合唱が聞こえている。 「アベ マリア! ……アベ マリア!」 美しい神々しい清浄な声! ボーン! 梵鐘! 神秘的の音! それらが虚空へ消えて行く。 この南蛮寺の傍らに、こんもり庭木にとりかこまれた、一軒の荒れた屋敷があった。 この頃京都で評判の高い、多門兵衛という弁才坊(今日のいわゆる幇間)と、十八になる娘の民弥、二人の住んでいる屋敷である。 今日も二人は縁に腰かけ、さも仲よく話している。 だが本当に多門兵衛という老人、そんな卑しい弁才坊だろうか? どうもそうとは思われない。深い智識を貯えたような、聡明で深味のあるその眼付、高貴の血統を暗示するような真直ぐで、正しい高い鼻、錠を下ろしたような緊張まった口、その豊かな垂頬から云っても、卑しい身分とは思われない。民弥の方もそうである。その大量な艶のよい髪、二重瞳の切長の眼、彫刻に見るような端麗な鼻梁、大きくもなければ小さくもない、充分調和のよい受口めいた口、結んでいても開いていても、無邪気な微笑が漂よっている。身長も高く肉附もよく、高尚な健康美に充たされている。行儀作法を備えているとともに、武術の心得もあるらしく、その「動き」にも無駄がない。 親子であることには疑いない。万事二人はよく似ている。そうして二人ながら貧しいとみえ、粗末な衣裳を着ているが、しかし大変清らかである。
4
「ねえ民弥さん民弥さん、よい天気でございますねえ」 こう云ったのは弁才坊で、自分の娘を呼びかけるのに、民弥さんとさんの字を付けている。ひどく言葉が砕けている。 「はいはい本当によいお天気で、春らしい陽気になりました。こんな日にお出かけになりましたら、お貰いもたくさんありましょうに、弁才坊さん弁才坊さん、町へお出かけなさりませ」 民弥は民弥でこんなことを云っている。自分の父親を呼びかけるのに、弁才坊さんと云っている。 だがこいつは常時なのである。真実の親子でありながら、お友達のような調子なのである。とても二人ながら剽軽なのである。 「お貰いに行くのも結構ですが、今日は二人で遊びましょう。色々の花が咲きました、桜に山吹に小手毬草に木瓜に杏に木蘭に、海棠の花も咲きました」こう云ったのは弁才坊。 「ほんとにほんとにこのお庭は、お花で一杯でございます。往来さえ見えない程で」こう云ったのは民弥である。 「今日はお花見を致しましょう。お酒を一口戴きたいもので」 「お合憎様でございます。一合の酒さえございません」民弥は笑って相手にしない。 「ははあ、左様で、ではお茶でも」 「お茶もお合憎様でございます。久しく切れて居りますので」 「おやおやそいつは困りました。では白湯なりと戴きましょう」 「差し上げたくはございますが、お湯を沸かす焚物がございません」民弥はやっぱり相手にしない。 これにはどうやら弁才坊も少しばかり吃驚したらしい。 「ははあ焚物もございませんので」 「明日の朝いただく御飯さえ、実はないのでございます」 「随分貧乏でございますな」 「今に始まりは致しません。昔から貧乏でございます」 「これはいかにも御尤、昔から貧乏でございます」こうは云ったが弁才坊は意味ありそうに云い続けた。「だが大丈夫でございますよ。苦の後には楽が来る、明日にでもなると百万両が、ころげ込むかも知れません」 「はいはい左様でございますとも。百万両は愚かのこと、大名になれるかも知れません」 「そうなった日の暁には、この弁才坊城を築き、兵を財え武器を調え威張って威張って威張ります」 「そうなった日の暁には、この民弥さんも輿に乗り、多くの侍女を従えて、都大路を打たせます」 「どうやらそういう栄華の日が、すぐ間近く迫ったようで」 「結構なことでございます」 「これまでは苦労を致しました」 「ほんとにお気の毒でございました」 「いえいえ私より民弥さんの方が、一層お気の毒でございました」 「何の何のどう致しまして、弁才坊様あなたの方が、一層ご苦労なさいました」 「苦は楽の種、苦は楽の種、アッハハハ楽になったら、この三年間の苦しみが、笑い話になりましょう」 「そうしたいものでございます」 「きっとなります。きっとなります」 「お父様!」とここで娘の民弥は俄に調子を改めたが、四辺を憚った鋭い声で「遂げられたのでございましょうか? 年月重ねられたご研究が?」 「うむ」とこれも弁才坊、がぜん態度を一変したが「民弥、遂げたぞ、ようやくのことで!」 「で、その旨信長公へ?」 「うむ、昨日云ってやった!」 「では追っつけお使者が参り?」 「そうだ、この私の研究材料をお買い上げ下さるに相違ない」 「ああそうなったら私達は……」 「昔の身分に返れるのだ」 ここで親子は沈黙し、その眼と眼とを見合せた。 まだ梵鐘が鳴っている。 讃美歌の声も聞こえている。 庭の桜が夕風に連れ、ホロホロホロホロと散ってくる。 ヌッと立った弁才坊は、「民弥!」とじっと娘を見た。「秘密の一端明かせてやろう、部屋へおいで、来るがよい」 縁を上って行く後から、従いて行ったのは娘の民弥で、二人家の内へ隠れた時、老桜の陰からスルスルと忍び出た一人の人物があった。
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