5
人物と云っても少年である。年の頃は、十四五歳、刳袴に袖無を着、手に永々と糸を付けた幾個かの風船を持っている。狡猾らしい顔付である。だが動作は敏捷である。辻に立って風船を売り、生活を立てている少年商人、だがそれにしても何のために、こっそり弁才坊の屋敷などへ、人目を憚り忍び込んだのだろう? 「うむ、あそこに窓がある、あそこから様子を見てやろう」 呟くと木立を縫いながら、屋敷の横手に付いている小窓の下へ走り寄った。人差指へ唾を付け、窓の障子へ押え付けたのは、小穴を開ける為なのだろう。窓が高いので覗きにくい。 「困ったなア困ったなア」 こんなことを云い出した。 「よし」と云うと一刎ね刎ね、木間へスポリと飛び込んだかと思うと、苔蒸した石を抱えて来た。 「こいつを足場にしてやろう」 そっと窓下へ石を置いたが、やがてその上へヒョイと乗ると、背延びをして小穴から覗き出した。 「ワーッ、有難え、よく見えらあ」 それから熱心に覗き出した。 「ワーッ、姐ごめ、嘘は云わなかった。ほんとにほんとに弁才坊め、いろいろの機械を持ってやがる……ははああいつが設計図、ははああいつが測量機、ははああいつが鑿孔機、うんとこさ書籍も持っていやがる……オヤオヤオヤ人形もあらあ、やアいい加減爺の癖に、あんな人形をいじっていやがる。待てよ待てよ、そうじゃアねえ。ありゃア娘の人形なんだろう。だって娘だっていい年じゃアないか。そうそう確か十八のはずだ。ええとそうして民弥と云ったっけ……おかしいなあ、おかしいや、弁才坊と民弥とが、人形を挿んで話し込んでいるぜ。民弥め別嬪だなあ。家の姐ごよりずっと綺麗だ。俺らの姉さんならいいんだけれど、そうでないんだからつまんねえ。俺らの嫁さんにならねえかな。あっちの方が年上だから、どうもこいつも駄目らしい……え、何だって? 何か云ってるぜ! ……「この人形を大事にしろ」……ウフ、何でえ面白くもねえ、つまらねえ事を云っていやがる……え何だって何か云ってるぜ! ……『秘密の鍵は第三の壁』……何だか些少も解らねえ……何でもいいや、一切合切、みんな姐ごに話してやろう」 こんなことを口の中で呟きながら、風船売の少年は、障子の穴から覗いている。 日がだんだん暮れてきた。南蛮寺の鐘も今は止み、合唱の声も止んでしまった。 庭木の陰が次第に濃くなり、夜が間近く迫ってきた。 と、突然家の内から、「これ、誰だ。覗いているのは!」弁才坊の声がした。 「ワッ、いけねえ、目つかっちゃった」 石から飛び下りた風船売の少年、庭木の陰へ隠れたが、その素早さというものは、人間よりも猿に近い。 と内から窓があき、顔を出したは弁才坊で、グルグルと庭を見廻したが、神経質の眼付、ムッと結んだ口、道化た俤など少しもない。眼を付けたは窓下の石! 「石を足場にして覗いたな、さして高くもない窓だのに……とすると子供に相違ない。が、子供でも油断は出来ない……民弥々々!」と声をかけた。 「はい」と民弥が顔を出した。「近所の子供でございましょう。無邪気に覗いたのでございましょう」 そういう民弥こそ無邪気であった。 「さあそいつが解らない」いぜん弁才坊は不安らしい。「私の探った秘密というものは、一通りならぬものだからな。いろいろの人間が狙っていよう」 「申す迄もございません」――だが民弥は苦にもしないらしい。 「で、ちょっとの油断も出来ない」 「物騒な浮世でございますから」だが民弥はやっぱり無邪気だ。 「全くどうも物騒だよ、北山辺りにも変な人間がいるし、洛中にも変な人間がいる」 「そうして諸方の国々では、今日も戦争、明日も戦争、恐ろしいことでございます」これだけは民弥も真剣であった。 「そればかりではない紅毛人までが、ユサユサ日本へやって来て、南蛮寺などを建立してしまった」弁才坊はひどく不満そうである。 「でもお父様」と娘の民弥は、どうしたものか微妙に笑った。 「その南蛮寺が建ったればこそ、お父様には今回のご研究が出来たのではございませんか」 「それはそうだよ」と云ったものの、やはり弁才坊は不満らしい。だがにわかに態度を変えた。 「どうやら宵も過ぎたらしい。さあさあ民弥さん寝るとしよう」剽軽の態度に帰ったのである。 「かしこまりました、弁才坊さん、おねんねすることに致しましょう」 二人窓から引っ込んだが、つづいて雨戸が閉ざされた。後はシーンと静かである。 とガサガサと庭木が揺れ、現われたのは先刻の少年、「これからが俺の本役さ」とまたもや窓へ近よったが、手を延ばすと窓を開け、そこから一つの風船を、家内へ飛ばせたものである。
6
その風船はユラユラと部屋の中へ入って行った。 さてその部屋の中であるが、弁才坊ただ一人、床を延べて伏せっていた。 うとうと眠っているらしい。部屋の中には燈火がない。で、闇ばかりが領している。その闇の部屋をユラユラと、白い風船が漂っている。スーッと天井まで上ったかと思うと、スーッと下へ下って来る。妖怪のようにも思われるし、肉体から脱け出た魂のようでもある。 しかし少年は何のために、そんな風船を飛ばせたのだろう? どんな役目をするために、風船は部屋の中へ入り込んだのだろう? だがそいつは風船が、弁才坊の真上まで、ユラユラユラユラとやって来た時、ハッキリ了解することが出来た。 風船がパッと二つに割れ、闇の部屋の中へバラバラと、白粉のような粉を蒔き、それが寝ている弁才坊の顔へ、音もなく一面に降りかかるや否や、ムーッと弁才坊呻き声を上げ、両手を延ばすと苦しそうに、胸の辺りを掻き毟ったが、それもほんの僅かな間で、そのまま動かなくなったのである。 と、どうやら風船には、糸でも付けてあったらしい、そうしてそれが手繰られたらしい、窓から戸外へ出てしまった。 後はひっそりと静かである。 コトンと窓も閉ざされてしまった。 春の夜風が出たのだろう、花木の揺れる幽かな音が、サラサラサラサラと聞こえてくる。 弁才坊は寝たままである。弁才坊は微動さえしない。 だんだん夜が更けて行く。 とまたコトンと窓が開き、一本子供の腕が出た。続いて子供の顔が出た。風船売の少年である。今まで窓の外に立ち、様子をうかがっていたらしい。 と、窓から飛び込んで来た。例によって敏捷猿のようである。足音一つ立てようとはしない。窓から射し込む月の光で、部屋中薄蒼く暈かされている。 「さあてどの辺りにあるんだろう? 手っ取り早く探さなけりゃアならねえ」こんな事を呟いている。「隣部屋に寝ている民弥めに、眼を覚まされては大変だ」こんなことも呟いている。 部屋の一所に書棚がある。で、書棚を探し出した。部屋の一所に机がある。で、机を探し出した。壁に図面が張り付けてある。それを素早く探り出した。部屋の一所に測量機がある。その周囲を探し出した。部屋の一所に鑿孔機がある。それを両手で探り出した。 「ないなあ、ないなあ、どうしたんだろう? どこに隠してあるんだろう? こんなに探しても目つからないなんて、どう考えたって箆棒だよ。もっとも途法もなく大事なもので、それこそうんとこさ値打のあるもので、いろいろの人が狙っているもので、そいつを一つさえ手に入れたら、大金持になれるんだそうだ。だからチョロッカにその辺りに、うっちゃってあろうとは思われないが、盗みにかけちゃ俺らは天才、その俺様が克明に、こうも手順よく探すのに、目つからないとは箆棒だよ。……何だこいつあ? 人形か?」 部屋の片隅の卓の上に、二尺あまりの身長を持った、人形が一つ置いてある。奈良朝時代の貴女風俗、そういう風俗をした人形である。 ヒョイと取り上げた風船売の少年、ちょっと小首を傾げたが、そこはやっぱり子供である、小声で節を付けて唄い出した。 「可愛い可愛い人形さん、綺麗な綺麗な人形さん、物を仰有い、物を仰有い、貴郎に焦れて居りまする。――などと喋舌ると面白いんだがな。喋舌らないんだからつまらないよ。もっとも人形が喋舌り出したら、俺ら仰天して逃げ出すだろうが。……が、待てよ」 と考え込んだ。 「そうだ先刻がた弁才坊めが、こんなことを民弥へ云っていたっけ『この人形を大事にしろ』……とすると何か人形に、秘密があるのじゃアあるまいかな? もしも秘密があるとすると、あの秘密に相違ない」ここでまたもや考え込んだ。 「そうだそうだひょっとかするとこの人形のどの辺りかに、あいつが隠してあるのかもしれない。あの素晴らしい秘密の物が」 で、少年は窓口へ行き、仔細に人形を調べ出した。人形は随分貫目がある。少年の手には持ち重りがする。顔は非常に美しい。眼などまるっきり活きているようだ。紅を塗られた口からは、今にも言葉が出そうである。着ている衣裳も高価なもので、唐来もののように思われる。 だがこれといって変わった所もない、単純な人形に過ぎなかった。 「何だちっとも面白くもない、ただのありきたりの人形だアね」 不平らしく呟いた風船売の少年、卓の上へ人形を返そうとした時、驚くべき一つの事件が起こった。
7
と云うのは突然人形が、鋭い高い金属性の声で、次のようにハッキリ叫んだのである。 「南蛮寺の謎は胎内の……」 それだけであった! たった一声! よし一声であろうとも、確かに人形は叫んだのである。しかも驚くべき大きな声で。 風船売の少年が、どんなに吃驚仰天したか、想像に余ると云ってよい。自分が泥棒だということも、忍び込んだ身だということも、何も彼も忘れて声を上げた。 「ワーッ、いけねえ、化物だあ!」 この結果は悪かった。隣部屋に寝ていた娘の民弥が、声に驚いて眼覚めたのである。 「どうなされましたお父様」 まずこう呼ぶ声が聞こえてきた。つづいて起き上る気勢がした。こっちの部屋へ来るらしい。 「いよいよいけねえ、逃げろ逃げろ!」 人形を卓の上へ抛り出すと、窓へ飛びついた風船売の少年、ヒラリと外へ飛び出した。 と、それと引違いに、部屋へ現われたのは娘の民弥で、開けてある窓へ眼をつけたが、「まあお父様の不用心なことは。窓をあけたままで寝ておいでなさる。その上寝言など仰有って」娘らしく明るく笑ったが、例の道化た調子となった。 「弁才坊さん弁才坊さん、民弥さんを嚇してはいけません。『ワーッ、いけねえ、化物だあ……』などと仰有ってはいけません。さあさあお眼覚めなさりませ。さあさあお話し致しましょう」佇んだまま見下ろしたが、窓から射し込む月光に照らされ、寝ている父の寝姿が、何となく異様に見えたらしい。「おや」と云うと跪坐いた。 「お父様!」と声をかけ、額へ指をふれて見た。「あっ!」と叫びを上げたのは、父の額が水のように、冷々と冷えていたからである。 「お父様!」と物狂わしく、もう一度叫ぶと両手を延ばし、父の体を抱き上げた。脈もなければ温気もない、全身すでに硬直している。父はこの世の人ではなかった。父は死んでいるのであった。 これが気弱の娘なら、取り乱したに相違ない。泣き喚いたに相違ない。気絶ぐらいはしただろう。しかし民弥は強かった。眼から涙を流しながらも、しっかり奥歯を噛みしめていた。ブルブル全身を顫わせながらも、気の遠くなるのを我慢した。 しばらく心をしずめたのである。 「誰が、どうして、何の為に、お父様のお命を絶ったのだろう?」 ズーッと部屋の中を見廻してみた。 「窓が一杯に開いている。用心深いお父様、開けたままお寝になるはずはない。誰かが開けたに相違ない。その誰かが下手人なのだ。……部屋の中が乱暴に取り散らしてある。どうやら何かを探したらしい。とするとあれだ! 唐寺の謎!」 父の殺された原因は、これでどうやら解ってきた。 「お父様が苦心して研究された、唐寺の謎の材料を、盗み取ろうとしたものが、お父様のお命を絶ったのだ」 そこで死骸を調べ出した。切り傷もなければ突き傷もない。絞め殺された跟跡もない。 「ああ妾には解らない」 ハッキリ解っていることは、可愛がってくれたお父様が、死んでしまったということであった。一人の父! 一人の娘! 母もなければ兄弟もない。親戚もなければ知己もない。で、お父様の死んだ今は、民弥は文字通り一人ぼっちであった。その上生活は貧しかった。明日の食物さえないのである。 どうするだろう? 可哀そうな民弥? 「お父様!」と叫ぶと新しく涙、澪すと同時に泣き倒れた。 どんなに民弥が気丈でも、その程度には限りがある。泣き倒れたのは当然と云えよう。父の冷たい額の上へ、熱で燃えるような額を宛て、民弥はいつ迄もいつ迄も泣く。 どんどん春の夜は更けていく。咽び泣く民弥の声ばかりが、その春の夜へ糸を引く。泣き死んでしまうのではないだろうか? いつ迄もいつ迄もいつ迄も泣く。 だがこのとき、庭の方から、厳かに呼びかける声がして、それが悲しめる民弥の心を、一瞬の間に慰めた。 「悲しめる者よ、救われなければならない。……民弥よ民弥よ嘆くには及ばぬ。……父の死骸は南蛮寺へ葬れ!」 それはこういう声であった。 窓の向こうに人影がある。月光の中に立っている。輪廓だけが朦朧と見える。痩せてはいるが身長高く、黒の法衣を纏っている。日本の僧侶の法衣ではない。吉利支丹僧侶の法衣である。胸に何物か輝いている。銀の十字架が月光を吸い、キラキラ輝いているらしい。非常な老人と思われる。肩に白髪が渦巻いている。胸に白髯が戦いでいる。 「ああ貴郎様はオルガンチノ僧正!」 その神々しさに打たれたのだろう、民弥は思わず合掌したが、ちょうどこの頃京は八条四ツ塚の辺りの一軒の家で、風変わりの二人の男女によって、こんな会話が交わされていた。
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