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「随分遅いな、猿若は」 こう云ったのは男である。四十格好、大兵肥満、顔はというにかなり凄い。高い段鼻、二重顎、巨大な出眼、酷薄らしい口、荒い頬髯を逆立てている。その上額に向こう傷がある。これが人相を険悪に見せる。広袖を着、胸を寛げ、頬肘を突いて寝ころんでいる。一見香具師の親方である。 「そりゃアお前さん遅いはずさ、あれだけの仕事をするんだからね」 こう云ったのは女である。二十八九か三十か、ざっとその辺りの年格好、いやらしく仇っぽい美人である。柄小さく、痩せぎすである。で顔なども細長い。棘のように険しくて高い鼻、小柄の刃先とでも云いたげな、鋭い光ある切長の眼、唇は薄く病的に赤く、髪を束ねて頸へ落とし、キュッと簪で止めてある。額は狭く富士形である。その顔色に至っては白さを通り越して寧ろ蒼く、これも広袖を纏っている。一見香具師の女親方、膝を崩してベッタリと、男の前に坐っている。 男の名は猪右衛門、そうして女の名は玄女である。 夫婦ではなくて、相棒だ。 家は玄女の家である。 「全く仕事の性質から云えば、かなりむずかしい仕事だからな、うまく仕遂げて来ればいいが、早く結果を聞きたいものさ」こう云ったのは猪右衛門、「まごまごすると夜が明ける。宵の口から出て行って、いまだに帰って来ないなんて、どうもいつものあいつらしくないよ。やりそこなって恥かしくなって、どこかへ逃げたんじゃアあるまいかな」不安だという様子である。 「そんな心配はご無用さ」 玄女には自信があるらしい。 「百人二百人乾児もあるが、度胸からいっても技倆からいっても、猿若以上の奴はないよ。年といったらやっとこさ十五、それでいて仕事は一人前さ」 「だが相手の大将も、尋常の奴じゃアないんだからな」やっぱり猪右衛門は不安らしい。 「そりゃア云う迄もありゃアしないよ。昔は一国一城の主、しかも西洋の学問に、精通している人間だからね」 「だからよ、猿若やりそこない、とっ捕まりゃアしないかな」 「なあに妾から云わせると、相手がそういう偉者だから、かえって猿若成功し、帰って来るだろうと思うのさ」玄女には心配がなさそうである。 「へえおかしいね、何故だろう?」猪右衛門には解らないらしい。 「だってお前さんそうじゃアないか、相手がそういう偉者だから、なまじっか大人などを差し向けると、すぐ気取られて用心され、それこそ失敗しようじゃアないか」 「うん、成程、そりゃアそうだ」今度はどうやら猪右衛門にも、胸に落ちたらしい様子であった。 二人しばらく無言である。 部屋の片隅に檻がある。幾匹かの猿が眠っている。彼等の商売の道具である。壁に人形が掛けてある。やっぱり商売の道具である。いろいろの能面、いろいろの武器、いろいろの衣裳、いろいろの鳴物、部屋のあちこちに取り散らしてある。いずれも商売道具である。紙燭が明るく燈っている。その光に照らされて、そういう色々の商売道具が、あるいは光りあるいは煙り、あるいは暈かされている様が、凄味にも見えれば剽軽にも見える。 コン、コン、コンと山羊の咳がした。庭に檻でも出来ていて、そこに山羊が飼ってあって、それが咳をしているのだろう。 だが何より面白いのは、隣部屋から聞こえてくる、いろいろの香具師の口上の、その稽古の声であった。 「耳の垢取りましょう、耳の垢!」 「独楽は元来天竺の産、日本へ渡って幾千年、神代時代よりございます。さあさあご覧、独楽廻し!」 「これは万歳と申しまして、鶴は千年の寿を延べ、亀は万年を経るとかや、それに則った万歳楽、ご覧なされい、ご覧なされい」 「仰々神楽の始まりは……」 「これは都に名も高き、白拍子喜瀬河に候[#「候」は底本では「侯」]なり……」 「ヤンレ憐れは籠の鳥、昔ありけり片輪者……」 ――などと云う声が聞こえてくる。 隣に香具師の稽古場があって、玄女の率いている乾児たちが、それの稽古をしているのらしい。 「それはそうと、ねえお前さん」 玄女は猪右衛門へ話しかけた。 「例の恐ろしい粉薬だが、どこからお前さん手に入れたのさ?」
9
「あああいつか」とニヤニヤ笑い、猪右衛門は得意らしく話し出した。「南蛮寺すなわち唐寺だが、そこから俺ら盗み出したのさ」 「へえ、なるほど、唐寺からね」 「十日ばかり前のことだったよ。俺ら信者に化け込んで、南蛮寺へ入り込んだというものさ。礼拝なんかには用はない、そこで寺内のご見物だ、ズンズン奥の方へ入って行くと、一つへんてこの部屋があった。いろいろの機械が置いてある、二人の坊主が話している。鼠のような獣がいる。と、どうだろう坊主の一人が、罐の中から粉薬を出して、鼠のような獣へ、ちょいとそいつを嗅がしたじゃアないか。するとコロリと斃ったってものさ、鼠のような獣がな。恐ろしい恐ろしい恐ろしい魔法! 吉利支丹の魔法に相違ない! こう最初には思ったが、直ぐその後で感付いたものさ、ナーニあいつは毒薬だとな。そこで盗もうと決めっちゃった[#「決めっちゃった」はママ]のさ。そうして隙をうかがって、うまうま盗んだというものさ」 「大成功、褒めてあげるよ」玄女は図々しく笑ったが、「でもそいつを風船へ仕込み、弁才坊殺しを巧んだのは、この妾だからね、威張ってもよかろう」 「いいともいいとも、威張るがいいや。だが成功不成功は、猿若が帰って見なけりゃアね」 「ナーニきっと成功だよ」 「うまく秘密を盗んだかしら?」 「あいつのことだよ、やりそこないはないさ」 恐ろしい話を平然と、二人の男女は話している。 と、猪右衛門はニヤニヤした。 「うまくいったら大金持になれる」 すると玄女もニコツイたが、 「そうなった日には妾なんか、こんな商売はしていないよ」 「俺だってそうさ、香具師なんかしない。大きな御殿を押し建ててやるさ」 「つまらないことを云ってるよ」 「アッハハ、つまらないかな」 苦く笑ったが猪右衛門はにわかに聞耳を引き立てた。 「どうやら帰って来たらしい」 なるほどその時門の戸が、ギーッと開くような音がした。 「おや本当だね、帰ったようだよ」 二人同時に起き上った時、部屋へ駈け込んで来た少年がある。例の風船売の少年である。 「おお猿若か、どうだった?」先ず訊ねたのは猪右衛門。 「どうだもこうだもありゃッしないよ、うまくいったに相違ないさ」引き取ったのは玄女である。 「そうだろうね、え、猿若?」 「待ったり」と云うと猿若少年、走って来たための息切れだろう、苦しそうに二つ三つ大息を吐き、胸を叩いたがベッタリと坐った。それから喋舌り出したものである。 「まずこうだ、聞きな聞きな、『秘密の鍵は第三の壁』『この人形を大事にしろ』弁才坊めが云っていたってものさ。ああそうだよ民弥にね。綺麗な綺麗な娘によ。全くあいつア別嬪だなあ。姐ごなんかよりゃアずっといいや。……ええとそれから風船だ、飛ばして置いて引いたってものさ、云う迄もないや、糸をだよ。するとパッチリ二つに割れ、パラパラこぼれたのは毒薬だ。と、ムーッと弁才坊……」 「そうかそうか、斃ったのか?」こう訊いたのは猪右衛門。 「云うにゃ及ぶだ」と早熟た口調、猿若はズンズン云い続ける。「で、窓から忍び込み……」 「偉い偉い、探したんだね」今度は玄女が褒めそやす。 「そうともそうとも探したのさ。目に付いたは人形だ」 「人形なんかどうでもいい、手に入れたかな、唐寺の謎?」 猪右衛門短気に声をかける。 「急くな急くな」と猿若少年、例によって早熟た大人の口調、そいつで構わず云い続けた。 「驚いちゃアいけねえ、喋舌ったのさ。うんにゃうんにゃ呶鳴ったのさ。喚いたと云った方が中っている。『唐寺の謎は胎内の……』――人間じゃアねえ人形だ! 人形がそう云って喚いたのさ。すると隣室から民弥さんの声だ。『どうなさいました、お父様』――つまりなんだな、目を覚ましたのさ。『ワーッ、いけねえ、化物だあ!』『いよいよいけねえ、逃げろ逃げろ!』――スタコラ逃げて来たってものさ。ああ驚いた、腹も空いた、一杯おくれよ、ねえご飯を」 「ご飯は上げるが唐寺の謎は?」訳がわからないと云うように、訊き返したのは玄女である。 「唐寺の謎? 俺ら知らねえ」 「馬鹿め!」と立ち上る猪右衛門。 そいつを止めたのは玄女であった。 「まあまあお待ちよ、怒りなさんな。それだけ働きゃアいいじゃアないか。それにさ随分いろいろの為になる言葉を聞いて来たじゃアないか。『秘密の鍵は第三の壁』『この人形を大事にしろ』『唐寺の謎は胎内の……』――ね、どうだい面白いじゃアないか。ひとつ二人で考えてみよう。三つの言葉をくっ付けたら、唐寺の謎だって解けるかも知れない」 玄女は考えに分け入ったが、その間も春の夜が更け、次第に暁に近付いた。 そうして全然夜が明けた時、一人の立派な若武士が、弁才坊の家を訪れた。他ならぬ森右近丸であった。
10[#「10」は縦中横]
信長の居城安土の城、そこから船で乗り出したのは、昨日の昼のことであった。琵琶湖を渡って大津へ着き、大津から京都へ入ったのは、昨日の夜のことであり、明けるを待って従者もつれず、一人でこうやって訪ねて来たのは、密命を持っているからであった。 庭に佇むと右近丸はまず見廻したものである。 「春の花が妍を競っている。随分たくさん花木がある。いかにも風流児の住みそうな境地だ。だがそれにしてもこの屋敷は、何と荒れているのだろう。廃屋と云っても云い過ぎではない。世が世なら伊勢の一名族、北畠氏の傍流の主人、多門兵衛尉教之殿、その人の住まわれる屋敷だのに。……貧しい生活をして居られると見える」 深い感慨に耽ったようである。 玄関とも云えない玄関へ立ち、「ご免下され」と声をかけた。 「はい」と女の声がして、現われたのは民弥であった。 恭しく一礼した右近丸。 「私ことは織田家の家臣、森右近丸と申す者、弁才坊殿にお目にかかりたく、まかりこしましてござります。何とぞお取次下さいますよう」 粗末な衣裳は着ているが、又お化粧もしていないが、自然と備わった品位と美貌、案内に出たこの娘、稗女などとは思われない、民弥という娘があるということだ、その娘ごに相違あるまい――こう思ったので右近丸は、こう丁寧に云い入れたのである。 「ようこそお越し下されました。織田様お使者おいでに就き、父に於きましても昨日以来、お待ち致しましてござります。然るに……」 と云うと娘の民弥は三指をついて端然と坐り、頸を低く垂れていたが、静かに顔を振り上げた。 「一夜の違い、残念にも、お目にかかれぬ身の上に、成り果てましてござります」 「ははあ」と云ったが右近丸には、どうやら意味が解らないらしい。「それは又何故でござりますな?」 「逝去りましてござります」 「死なられた 誰が」と右近丸。 「父、多門兵衛尉」 「真実かな」一歩進んだ。 「真実! 昨夜! 弑せられ!」 「何!」と叫んだが右近丸は、心から吃驚したらしい。「弑せられたと仰有るか そうして誰に 何者に」 「下手人不明にござります」 「ム――」と云ったが右近丸は思わず腕を組んでしまった。 朝風に桜が散っている。老鶯が茂みで啼いている。 それを背景にして玄関には、父を失い手頼りのない、美しい民弥が頸垂れている。その前に右近丸が立っている。若くて凜々しい右近丸が。 まさに一幅の絵巻物だ。 さてその日から数日経った。 「物買いましょう、お払い物を買いましょう」 こういう触声を立てながら、京を歩いている男があった。他ならぬ香具師の猪右衛門である。古道具買いに身をやつし、ノサノサ歩いているのである。 足を止めたのは南蛮寺の裏手、民弥の家の前であった。 「家財道具やお払い物、高く買います高く買います」一段と声を張り上げて、こう呼びながら眼を光らせ、民弥の家を覗き込んだ。
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