能弁の幸蔵主
しばらく幸蔵主は秀次の顔を、まじろぎもせずに見ていたが、いかにもいたわしさに堪えないように、いたわるように話しかけた。 「妾が聚楽へ参りましてこの方、繰返し繰返し申しましたが、まだご決心が付きませぬそうな。よくないことでござりますよ。早うご決心をなさりませ。伏見へおでかけなさりませ。そうしてご弁解なさりませ。太閤殿下と貴郎様とは、血縁の伯父姪[#「姪」はママ]ではございませぬか。親しくお二人がお逢いなされて、穏かにお話をなさいましたら、疑いは自然と解けましょう。ご謀反を巧まれたというのではなし、ただ少しご身分柄として、ご醉興の程度が過ぎるという、それだけのお咎めではござりませぬか。恐ろしいことなどはござりませぬ。何の何の恐ろしいことなどが。……本来このような場合には、伏見からお呼びのない前に、貴郎様から参られて、お咎めの故以のないということを、お申しひらきなさるのが、本当なのでござりますよ。しかるに今回はあべこべとなって、伏見から参れとのご諚があっても、貴郎様には参られようともなされぬ。これではいかな太閤様でも、ご立腹なされるでござりましょう。と、……云いましても今のところでは、太閤様のご立腹とて、大したものではござりませぬ。お逢いしてお詫びをなされましたら、直ぐにも融けるでござりましょう。決してご心配には及びませぬ。が、只今の機会を逃がして、伏見へおでかけなされぬようなら、それこそ一大事になりましょう。あの治部様や長盛様が、あの巧弁で讒言などして、太閤様のご聡明を、眩まさないものでもござりませぬ。そうして貴郎様のお嫌いの、淀様などがそこへつけ込み、姦策を巡らさないものでもなく、何やら彼やらの中傷が入って、今度こそ本当に太閤様のお心持が貴郎様から離れて、貴郎様をお憎みなされようも知れぬ。が、是非ともこの機会に、伏見へおいでなさりませ。……あるいは貴郎様におかれましては、秀頼公に太閤様が、豊臣の筋目や関白職を、お譲りなさろうと覚し召して、それで貴郎様を伏見へ呼び寄せ、殺すのではあるまいかと、ご懸念遊ばすかも知れませぬが、何の何の太閤様が、そのようなお腹の小さいことを、どうしてお企てなさりましょう。そのご心配には及びませぬよ……」 と、ここまで云って来て幸蔵主は、繊細微妙な笑い方をしたが、 「お疑いさえ晴れましたら、貴郎様には直ぐにもご帰洛、ここ聚楽第の主として、いぜんとして一ノ人関白職、どのような栄華にでも耽けられます」 この言葉が何よりも秀次の心を、強く烈しく打ったようであった。 「幸蔵主の姥!」とじっとなったが、 「伏見へ参ってお詫びさえしたら、俺は聚楽へ帰られようかな? 現在の位置に居られようかな?」 「妾をお信じなさりませ。孫七郎様の昔から、膝へ掻き上げてご介抱をした、この幸蔵主ではござりませぬか。今はお偉い関白様でも、妾の眼から見ますれば、可愛らしい和兒様でござります。そういう可愛らしい和兒様に何で嘘など申しましょう」 「行こう行こう、伏見へ行こう!」 子供のように他愛なく、こう秀次は甘えるように云った。 「俺にもお前は懐かしい。母者人のような気持がする。俺はお前の云う通りになろう」 「ようご決心なされました」 「伏見へ行こう! 明日にも行こう」 秀次は決心をしたのである。 と、幸蔵主の眼の中へ、憐愍の情がチラツイたが、直ぐにさり気なく消してしまった。 二人はしばらく無言であった。 と、聚楽第の一所から、人が斬られでもしたような、悲鳴が一声聞こえてきた。 不意に立ち上った幸蔵主は、スルスルと、欄干の側へ行った。で、悲鳴のした方を見た。 主殿と廻廊でつながれている奇形な建物の方角から、どうやら悲鳴は聞こえたらしい。 で、そっちへ眼をやったが、 「今夜はこれで三人斬られた。……それにしても奇形な建物は、何を入れて置く建物なのであろう?」
この部屋は?
奇形な建物の内部の一間で、老婆が喋舌りながら歩いている。 「最初は誰も彼もがんばりますよ。でもこの部屋へ押し入れられて、ものの五日と経たないうちに、大概は往生をしますよ。そうして今度は自分の方から、懇願をするようになりますよ。お側へ行かせて下さいましと。……だからお前様におかせられましても、もうもうそれこそ間違いなく、この部屋をお出し下さいまし、関白様のご寝所へ、お連れなすって下さいまし、男の肌、男の匂い、男の力、男の意志、それが欲しゅうござりますと、有仰ることでござりましょうよ。まあまあ出来るだけご随意に、強情をお張りなさりませ。強情が強ければ強いほど、要求も強くなりましょう。……そうしてお前様の要求が、強まれば強まるほど、関白様は喜ばれますので。……お前様は飛び付いて行きましょう。関白様は引っ抱えましょう。……それから幸福になりますので。はいはい、関白様もお前様も! ……これまで一度の間違いもなく、そうなったのでございますよ。ほんとにこれまで幾十人の娘が、この部屋の中へ入れられて、そうして愛慾の餓鬼となって、飛び出して行ったことでござりましょう。……でもお気の毒でござります。この部屋へ入って出て行って、愛慾を遂げた娘たちは、愛慾を遂げたその後では、九分九厘狂人になりました。一時に遂げた歓楽の力が、その人達を疲労させて、そうさせたのでござりましょう。……たしかお紅殿と有仰いましたな、お紅殿遠慮はいりませぬ。ご馳走をお食べなさりませ。風呂へお入りなさりませ、香水をお浴びなさりませ。床へお伏せりなさりませ。そうしてお眠りなさりませ。今夜が過ぎて明日にでもなったら、効験が現われるでござりましょう。……それでは妾は他のお部屋の、他の女の人達を、見廻って来ることにいたしましょう」 六十あまりの老婆である、脂肪肥りに肥っている。胡麻塩の髪の毛、刺のような鼻、おち窪んだ眼、皮肉な口、それが老婆の風采である。 部屋の朦朧とした光に照らされ、妖怪じみて立っている。 その部屋の様の艶妖なことよ! そうして異国じみていることよ! 部屋の一所に浴槽があって、淡黄色の清らかな湯が、滑石の浴槽の縁をあふれて、床へダブダブとこぼれている。その傍らの壁の高所に、銀製の漏斗型の管があって、そこから香水の霧水沫が、絶間なく部屋へ吹き出している。が、浴槽は呂宋織りらしい、男女痴遊の浮模様のある、垂布の向う側にあるところから、ハッキリ見ることは出来なかった。更に部屋の一所に、一人寝の寝台が置いてあった。張られてあるのは天鵞※[#「糸+戊」、510-下-23]であって、深紅の色をなしていた。が、尋常の寝台ではなく、一度その中へ寝ようものなら、リズムをもって上下へ動き、寝ている人の愛慾を、自然にそそるように出来ていた。寝部屋の天井に描かれてあるのは、曲線ばかりの模様であった。 ………… そういう連想を見る人の心へ、起こさせるように出来ていた。 が、その部屋もバタビヤ織りらしい、これも深紅の垂布によって、入口を蔽われているがために、ハッキリと見ることは出来なかった。 お紅の坐っている部屋のつくりには、これといって特異なものはなかった。 ただ天井から下っている、珊瑚と鋼玉と爐眼石とで、要所要所を鏤められた、朝顔型のアレジヤ龕が、朝顔型に琥珀色の光を、床の上へ一ぱいに投げていた、それの光に照らされて、幾個かの異国的の食器の類が、各自の持っている色と形とを、いよいよ美しく見せて居るのが、いちじるしい特色ということが出来る。 尖形のギアマンの水注がある。そうしてその色は紫である。盛られているのは水だろうか? 喇嘛僧形の薬壺がある。そうしてその色は漆黒である。どのような薬が入っているのであろう? 錫製の椀には獣肉が盛られ、南京産らしい陶器の皿には、野菜と魚肉とが盛られてある。 そういう器類を前にして、坐っているお紅の姿というものは、むごたらしいまでに取り乱していた。髪はほどけて顔へかかり、裾は乱れて脛を現わし、襟はひらけて乳房を見せ、一方の袖が引き千切れて、二の腕があらわに現われている。その腕を烈しく握られたからであろう、一所黒痣が出来ている。
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