聚楽第の秘密
そもそも幸蔵主とは何者であろうか? 豊臣秀吉の大奥に仕えてそれの切り盛りをしているところの、いうところの老女であった。女ながらもずば抜けた知恵者で、一面権謀術数に富み、一面仁慈寛大であった。加藤清正や福島正則や、片桐且元というような人さえ、幸蔵主には恩顧を蒙り、一目も二目も置いていた。秀吉さえも智謀を愛して、裏面の政治に関与させ、懐中刀として活用した。もう老年ではあったけれど、壮者をしのぐ、意気もあった。 また秀次が孫七郎と宣って、三好法印浄閑なるものの、実子として家にいた頃から、幸蔵主は秀次を知っていた。三好康長が秀次を養い、さらに秀吉が養子として、秀次を殊遇しはじめてから、幸蔵主は一層秀次に眼をかけ、よき注意を与えていた。で、幸蔵主は秀次にとっては、母とも乳母ともあたる人であった。 ところで秀次は累進して、そうして秀吉の後を受けて、関白職に経上って、聚楽の第の主人となって、権を揮うようになって以来、ようやく秀吉と不和になった。 秀吉の謀将の石田三成や、増田長盛というような人と、気が合わなかったのが原因の一つで、秀吉の愛妾の淀君なるものが、実子秀頼を産んだところから、秀頼に家督をとらせたいと、淀君も思えば秀吉も思った。自然秀次が邪魔になる――というのが原因の第二でもあった。 秀吉との不和は秀次にとっては、何よりも恐ろしいものであった。で、甘心を買おうとした。それを中にいて斡旋したのが他ならぬ老女の幸蔵主であった。 その幸蔵主が忍ぶようにして、伏見の秀吉の居城からこの聚楽へ来たのであった。 そうして何やら幸蔵主は、秀次に旨を含ませたらしい。 どういう旨だか解らない。 しかしどうやら秀次にとっては、快くない旨らしい。それには従おうとはしないのであった。 そうして終日不機嫌であった。 で、何となくここ数日、聚楽第の空気は険悪であった。 「ナーニ大丈夫だ大丈夫だ」 不破小四郎は事もないように、さも不雑作にこう云ったが、自信がありそうに一同を見た。 「幸蔵主の姥がやって来て、殿下のご機嫌がよくなくて、終日終夜の乱痴気騒ぎで、上下が昏迷をしているのが、かえって俺には好都合なのさ。どさくさまぎれに申し上げて、殿下のお許しを受けるのさ。よろしい行れ! と仰せられるであろうよ。どっちみち俺は明日か明後日、関白殿下のお使者として、北畠の邸へ出かけて行こう。承知くも承知かないもありはしない。関白殿下よりのご命令なのだ。娘を差し出すに相違ない。承知かない場合には攫って来る」 間違いはないよと云うように、小四郎は額をこするようにしたが、果たして成功するであろうか?
巨人と怪人
その日からちょうど二日経った。 ここは聚楽の奥庭である。おりから深夜で月はあったが、植え込みが茂っているために、月の光が遮られている。 一宇の亭が立っていて、縁の一所が月光に濡れて、水のように蒼白く暈けていた。 そこに腰をかけている武士がある。 思案にあまったというように、胸の辺りへ腕を組んで、じっと足許を見詰めている。 木の間をとおして聚楽第の、宏壮な主殿が見えていたが、今夜も酒宴と思われて、陽気な声が聞こえてくる。間毎々々に点もされた燈が、不夜城のようにも明るく見える。 「どうしたのだろう、遅いではないか」 縁に腰をかけた大兵の武士は、誰かを待ってでもいると見えて、ふとこう口に出して呟いた。 と、その呟きに呼ばれたかのように、巨大な蘇鉄の根元を巡って、小兵の武士があらわれた。 「木村殿かな? 常陸殿かな」 「おお五右衛門か、待ちかねていたよ」 「約束の時刻よりは早いつもりだ」 云い云い静かに歩み寄って、縁へ腰をかけた常陸介と、押し並ぶように腰かけたのは、無徳道人事石川五右衛門であった。 ちょいと五右衛門は主殿の方を見たが、 「相変わらず今夜も盛んだの」 「うん」と云ったものの常陸介の声には、憂わしい不安な響きがあった。 「あの有様だから困るのだ」 「そうさ、あれでは困るだろう」 で、沈黙が二人へ来た。 「ところで五右衛門結果はどうだ?」 ややあって常陸介がこう訊ねた。 「うむ、ともかくも一通りは探った」 五右衛門の声には笑殺がある。 「ただの私用ではないのだよ」 「俺もそうだろうとは感付いていたが、幸蔵主の態度が不明なのでな」 「あれは秀吉の懐中刀さ」 「が、我君にも忠実のはずだ」 「しかしそれは私情だよ。大事に処せば私情などは、古沓のように捨てしまう」 「お互いそれには相違ないさ。……で、幸蔵主が我君を連れて伏見の城へ行こうとするのは、やはり太閤の指し金かな?」 「そうだ秀吉の指し金なのだ」 「伏見へ召してどうするのだろうな?」 「まず詰腹でも切らせるだろうよ」 「詰腹。……ふうむ。……そうかも知れない。……」 常陸介にもそういうことは、以前から心にあったものと見えて、そう云われても驚かなかった。しかし苦悶は感じたらしい。俯向いて足許を睨んでいる。五右衛門もしばらくは物を云わない。で、この境地はひそやかであった。 それと反対の趣をなして、明るい華やかな笑い声が、主殿の方から聞こえてきた。 「五右衛門」と常陸介は呼びかけた。 「ひとつ詳しく話してくれ、伏見はどんな様子なのだ」 「詳しく話せと云ったところで、これと云って詳しく話すところもないが。だがマア探っただけを話して見よう。……お前から依頼を受けたので、その足で直ぐに伏見へ行って、城中へ忍んだというものさ。秀吉め天下に敵がないというので、安心しきっているのだろう。城のかためなんか隙だらけだった。で、奥御殿へ行くことが出来た。それでもさすがに宿直の部屋には、仙石権兵衛だの薄田隼人だのが、肩や肘を張って詰めていたよ、しかしそいつの話と来ては、お話にも何にもならなかった。女の話ばかりしているのだからな。ところで秀吉はどうかといえば、例の淀君めを相手にして、これもやはりたわいないことを、話していたというものさ。と、声が聞こえてきた。 『……幸蔵主に胸を[#「胸を」はママ]含ましておいた。大方うまくやるだろう。……そう心にかけないがよい。……実子は俺だって可愛いいからの……』 秀吉が淀君へ云ったのさ。すると淀めが笑い出したっけ。――これだけ聞けば用はない。で城から抜け出したが、その時つくづく思ったものだ。ナニ秀吉の寝首などは、掻こうと思えば掻けるものだとな。……秀吉だと云ったって人間だ、油断もあれば隙もあるとな。……それから俺は念のために、石田治部めの屋敷へ忍んだ。するとどうだろう増田長盛めが、ちゃんと遣って来ているではないか。 『幸蔵主殿の甘言を以て秀次君をおびき出し、城中で詰腹を切らせましょう』 『いやいや我君のお眼に入れては、血縁のある伯父姪[#「姪」はママ]でござる。いっそ途中の伏見街道で、お腹を召さすがよろしかろう』 これが二人の話なのだ。――これだけ耳にすれば用はない。で俺は直ぐに抜け出したのだが、道々俺は考えたよ。大胆不敵の話だとな。何故というに他でもない。とにかく天下の関白職を、まるで鶏でも絞めるように、無雑作に殺すことに決めているからさ。そうしてにわかに恐ろしくなった。やはり秀吉は偉い奴だ。やろうと思えばどんなことでもやる。とても普通の人間ではない。隙だらけと思っていた伏見の城が、恐ろしいものにも思われて来た。今度忍んだら遣られるだろう――そんなようにも思ったものさ」 黙って聞いていた木村常陸介は、五右衛門の話が終えてからも、いぜんとして沈黙をつづけていた。 で、境地はひそやかである。 それだけに聚楽の主殿における、夜宴の賑かさが気味悪く聞こえる。 と、卒然と常陸介は云った。 「五右衛門もう一度忍んでくれ」 「もう一度伏見城を探れと云うのか?」 「秀吉の寝首を掻いてくれ」 「…………」 またも沈黙がやって来た。 二人ながら黙っている。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >> 尾页
|