酒乱の関白
ちょうどこの頃主殿の樓の、華麗を極めた大広間で、関白秀次が喚いていた。 「女は死んだか、自害したか、ワッ、ハッ、ハッ、それもよかろう。死にたい奴は死ぬがよい。殺してくれなら殺してもやろう。たかが卑しい女一人だ! 切ろうと縊ろうと俺のままよ! これこれ死骸を片付けろ! 目障りだ目障りだ持って行け! ……さあさあ酒だ! 酌をせい! 今夜は徹夜で飲み明かす。お前達も飲め、俺も飲む」 蒼白の顔色、充血した眼、釣り上った眉、歯を剥いた口、これが関白たる貴人であろうか? そんなようにも思われるほどに、すさみにすさんだ容貌である。髪を茶筌に取り上げて、練絹の小袖を纏っている。盃を握った右の手が、ブルブルと恐ろしく顫えている。癇をつのらせている証拠である。 金泥銀泥で塗り立てられた、絢爛を極めた盃盤が、無数に立てられた銀燭に照らされ、蒔絵をクッキリと浮き出している。朱色に塗られた長柄の銚子が、次から次と運ばれて来る。床の間には黄金の香炉があって、催情的の香の煙が、太い紐のように立っている。 「お那々、謡え! 幸若、舞え! 伴作々々鼓を調べろ!」 またも秀次は喚き出した。 「……何を恐れる! 天下人だぞ! 何を遠慮する、関白だ! 一天四界俺の物だ! 何を怯える、石田、増田に! 巷の童どもが悪口を云わば、用捨はいらない、切ってすてろ! 妻妾の数三十余人! それがどうした、少ないくらいだ! まだまだ美人を集めて見せる! 俺を殺生関白だという! 殺生ならぬ人間がどこにある! 政治に暗く人心離反し衆人俺を笑うという! 伏見の爺が悪いからだ! 爺が政治を執っているからだ。で俺は飾り物だ! 虚器を擁しているばかりだ! 不平もあろう、淫蕩にもなろう、残忍にもなろう、酷薄にもなろう! しかも関白をやめさせようとする。淀君の子を立てようとする。で、俺を迫害する! 僻むのは当然だ当然だ! ……騒げ、はしゃげ、謡え、舞え! 京都の柔弱兒を驚かせてやれ! 注げ! 酒だ! イスパニアの酒だ! ……安南、交趾から献上した、紅玉色をした酒を注げ! バタニア胡椒を酒へ入れろ! さぞ舌ざわりがよいだろう。酔が烈しく廻るだろう。……ソレソレこぼれた酒がこぼれた! スラスの懸布で拭くがいい。……鳥銃をもて、鳥銃をもて、往来の奴を撃ってやろう。象眼入の鳥銃がいい! 暹羅から献じたあいつがいい。……沈香で部屋をくゆらせろ、伽羅で部屋をくゆらせろ! 龍涎香で部屋をくゆらせろ!」 金銀で飾った脇息に倚って、秀次はのべつに喚き立てる。 座に列なっている妻妾や侍女や、近習役や茶道衆や、幸若太夫の面々は、顔を見合わせて黙っている。 たった今女が死んだのである。懐刀で自害をしたのである。で、すっかり怯かされている。その上に例の酒乱が出て、秀次の態度が兇暴になった。果たしてどうなることだろう? で、黙っているのである。 狩野永徳の唐獅子の屏風、海北友松の牡丹絵の襖、定家俊成の肉筆色紙を張り交ぜにした黒檀縁の衝立、天井は銀箔で塗られて居り、柱は珊瑚で飾られて居る。そういう華美の大広間も秀次の喚く兇暴の声で、ビリビリ顫えるばかりである。 と、秀次は眼を据えたが、一人の侍女へ視線を止めた。 「これこれ其方は何というぞ」 「妾は千浪と申します」 オドオド顫えながら答えたのは、秀次の愛妾葛葉の方が、この頃になって召しかかえた、十七の処女らしい侍女であった。 「千浪というか、よい名だよい名だ。参れ参れここへ参れ!」
愛妾の死
淫蕩とそうして兇暴の光を、その眼の中へ漂わせながら、こう秀次に呼びかけられて、千浪はいよいよ顫え出した。 「はい」と云ったものの近寄ろうとはしない。あべこべに葛葉の背後へ隠れて、体を縮めるばかりであった。 「何も恐れることはない。取って食おうとは云っていない。可愛がってやろうと云っているのだ。参れ! 厭かな? 厭なことはあるまい」 秀次はヒョロヒョロと立ち上ったが、千浪の方へ歩き出した。 と、そういう様子を見て、血相を変えた女がある。他ならぬ愛妾葛葉の方で、かばうように千浪を蔽うたが、 「許しておやり遊ばしませ。まだこの子はほんの処女で、可哀そうな子にござります」 しかし葛葉の顔にあるものは、決して同情や愛憐ではなくて、むしろ自分の寵愛を、侍女の千浪に横取られることを、恐れて案じているところの、妾らしい嫉妬の情であった。 「ナニ処女、ははあそうか」 秀次はカラカラと笑ったが、 「一層よいの、処女に限る。……其方は幾年だ? 二十九だったかな。年から云っても盛りは過ぎた。もう俺には興味はない。……代りに千浪をよこすがよい」 秀次はなおもヒョロヒョロと進む。 あれ! というように声を上げて、千浪が立って逃げ出したところを、飛びかかって秀次は小脇に抱いた。 「もがけもがけ、あばれろあばれろ、そのつどお前の軟かい肌が、俺の体へぶつかるばかりだ! 小鳥よ、捕らえた! 可愛い色鳥!」 ズルズルと引き立てて行こうとした。 その秀次の両の足を、しっかりと抱いた者があった。やはり葛葉の方である。 冷やかに秀次は睨んだが、 「嫉妬か!」 「上様!」 「邪魔をするか!」 「はなしておやり遊ばしませ」 「其方こそ放せ! 手を放せ!」 「上様、お慈悲にござります」 「ふん」といかにも憎々しく、秀次は鼻を鳴らしたが 「先刻自害をした女のように其方も自害をしたいそうな」 「いっそお手にかけて下さりませ」 「望みか!」と云うと秀次は、ドンと片足を持ち上げたが、ウンとばかりに蹴仆した。 と、悶絶をする声がした、胸を蹴られた葛葉の方は裾を乱して伏し転んだ。 一瞬間のざわめきの起こったのは、座に侍っていた妻妾や近習が、一時に動揺したからであった。その動揺が静まると、反動的の静けさが、大広間一杯に拡がった。 「今夜はこれで二人死んだ。おそらくまだまだ殺されるだろう。殺せ殺せ、目茶苦茶に殺せ! 聚楽の栄華も先が知れている」 こう呟いた者があったが、刺繍の肩衣に前髪立の、眼のさめるような美少年であった。美童は不破伴作であった。 狂人じみた目付きをして、秀次は大広間を見廻したが、 「目障りになる! 片付けろ! 死骸は厭だ! 井戸へでも沈めろ!」 それから千浪を引きずったが、 「今夜の伽だ! 嬉しそうに笑え!」 で、襖を開けようとした。 と、その襖が向こうから開いて、 「孫七郎様」と云う声が聞こえてきた。優しくて穏かではあったけれど、威厳のある老女の声であった。 つと立ちいでた人物がある。 円頂黒衣鼠色の衣裳、手に珠数をつまぐっている。眉長く鼻秀で、額は広く頤は厳しい。澄んではいるが鋭い眼、頬に無数の皺はあるが、かえって顔を高貴にしている。 これこそ女傑幸蔵主であった。 「相変わらずのお悪戯でござりますか」 あたかも子供でもあしらうように、こう秀次に云いかけたが、咎めるような調子はなくて、なだめるような調子があった。そうしてそれが大広間の殺気と、秀次の兇暴の心持とを、平和な甘いものにした。 「幸蔵主の姥か」と鼻白んだように、秀次は千浪の手を放したが、 「俺はな心が寂しいのだよ」 云い云い元の座へ押し坐った。 と、幸蔵主も膝を揃えて、秀次の前へ坐ったが、手を上げると大広間を撫でるようにした。立ち去れという所作なのである。 これで助かったというように、座に並んでいた妻妾達が近習の武士達と立ち上って、一整に姿をかくした後には秀次と幸蔵主ばかりが残された。
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