忍び込んだ武士は?
石川五右衛門は浪人であった。学者でもあるし茶人でもあるし、伊賀流の忍もよくするし、侠気もあれば気概もあったが、放浪性に富んでいて、物に飽き易くて辛抱がなくて、則に附くことが出来なかった。二三の大名が才幹を愛して、召しかかえたこともあったけれど、朋輩との中が円満にゆかない。 で、すぐに浪人をした。それを知った木村常陸介は、何かの用に立つこともあろうと、莫大な捨扶持を施して、ここ二三年養って置いた。 すると五右衛門のことである、常陸介を主人と崇むべきを、友人のように思ってしまって、対等の交際をやり出した。 大概の人物なら怒ったであろう、ところが常陸介は大人物であった。そのようなことは意にもかけずに、同じように対等の交際をした。これが五右衛門には嬉しかったらしい。知己を得たような気持がした。で、非常に感激をして、この人のためなら死んでもよいと、そんなようにさえ思うようになった。 で、今度も常陸介から、伏見城の様子を探ってくれと、こう頼まれたのに直ぐに応じて、その役目を果たしたのであった。 ところがもう一度伏見城へ忍んで、秀吉の寝首を掻いてくれという。――これには豪快な石川五右衛門も、考え込まざるを得なかった。 で、即答をすることが出来ない。腕を組んだまま黙っている。 が、木村常陸介が、低くはあったが凄愴の口調で、次のようなことを云ったがために、五右衛門は困難な常陸介の頼みを、むしろ勇んで引き受けた。 次のように常陸介は云ったのである。 「お前ばかりを死なせはしないよ。俺もおっつけ死ぬことになろう。……お前の企が破れたならば、捕らえられてお前は殺されるだろう。……そうしてそれが聚楽第の、没落の原因となるだろう。――太閤ほどの人物だ、聚楽からの刺客だと察するからさ。……で伏見と聚楽とは、戦いをひらくことになろう。秀次公におかれては、島津や細川へ金子を貢いで、誼を通じて居るとはいっても、いざ戦いとなった日には、伏見方へ従くに相違ない。勝敗の数は知れて居る。聚楽第は亡ぼされて、秀次公には自害されよう。従って俺も腹を切る。お前の後を追うことになる……がもしお前の企が、成功をした場合には、天下はそれこそ聚楽第の、秀次公のものとなる。で今度の企はのるかそるかの企なのだ。するとお前は云うかもしれない、そういう危険な企を、どういう理由でやるのか? と、で、俺は答えることにしよう。どうやら我君秀次公には、幸蔵主の甘言に乗せられて、太閤との不和をなだめるために、伏見の城へ出かけて行かれて、太閤のご機嫌を取られるらしい。その結果はどうなるか? お前の云った通りになる。伏見城で詰腹を切らせられるか、ないしは途中で殺されるだろう。……それが俺には残念なのだ、同じくその身を失うにしても、太閤ほどの人傑を、向こうへ廻して戦って、華々しくご最後を遂げさせたいのだ。……で、道は二つしかない。太閤を守備よく弑するか、そうでなかったら戦うかだ。で、お前に俺は頼む。もう一度伏見城へ忍んでくれ、太閤の寝首を掻いてくれ、やりそこなったら死んでくれ!」 「わかった」と云うと五右衛門は、縁からユラリと腰を上げた。 「末代までも名が残ろうよ。太閤の寝首を掻いたなら! よしんば失敗をしたところで……」 云いすてると石川五右衛門は、木立を廻って立ち去った。 その足音が消えた時に、木村常陸介も立ち上ったが、思案にくれながら歩き出した。 「どうともして我君秀次公を、危険きわまる伏見の城へ、参第せぬようお諌めしなければならない」 行手に築山が聳えている。 裾を巡って先へ進む。 と、泉水が堪えられていた。 廻って主殿の方へ進んで行く。 「はてな」と呟いて佇んだのは、厳しい聚楽第の石垣の上から、武士姿の一つの人影が庭へ飛び下りたがためである。 「これは怪しい、何者であろう?」 常陸は首を傾げたが、 「伏見方の間者ではあるまいか?」 自分が五右衛門を刺客として、伏見城へやったおりからである。 伏見方の間者ではあるまいかと、ふと考えたのは当然といえよう。 「よしよし後をつけてやろう」 で、足音を盗むようにして、常陸介は後をつけた。 曲者は顔を包んでいる。どうやら年は若いらしい。心が急いてでもいると見えて、走るがように歩いて行く。主殿の方へ行くのである。 「ああこれは間者ではない。ましていわんや刺客などではない。歩き方や態度で自ずとわかる。これは決して悪者ではない。とは云え聚楽第の武士ではない。おかしいなあ何者だろう」 心掛けの深い常陸介ではあったが、これ以上は知ることは出来なかった。
瞬間四人を討って取る
曲者は先へ進んで行く。常陸介はつけて行く。次第に主殿へ近づいて行く。 と、その主殿の方角から、四五人の武士が話しながら、あべこべにこっちへ歩いて来た。 「不破氏、不破氏、小四郎殿、そう憤慨をなさらないがよろしい。何も主命でござるからな」 一人の声が、なだめるように云った。 「さようさよう何も主命で」 相槌を打つ声が直ぐにした。 「それにさ、あれくらいの女なら、この世間にはいくらでもござる。あの女はあのまま差し上げなされ。そうしてその代わりにご愛妾の一人を、頂戴なさるがよろしかろう」 「その方がいい、その方がいい」 また相槌を打つ声がした。 「たかが廻国にやって来て、京へ止まった田舎娘でござる。そのような女に未練をもたれて、殿下のご機嫌を取り損なったら、これほどつまらないことはない。おあきらめなされ、おあきらめなされ」 「さようさようおあきらめなされ」 四人目の声も相槌を打つ。 が、そういう取りなしに答えて、怨みと憤りに充ちたような、狂気じみた声が聞こえてきた。 「いやいやせっかくのご忠告ではあるが、某においてはあきらめられん。……あまりと云えば[#「云えば」は底本では「云へば」]横暴でござる! 某より殿下へお願いしたところ、よかろうよかろう好きな女があるなら、余が懇望だと申して連れて来い。その上で其方にくれてやろう。――で、某は使者という格で、北畠家へ押して行き、あのお紅を引き上げて来た。……と、どうだろう殿下においては、これは以外に美しい。側室の一人に加えよう。こう仰せられて手放そうとはされぬ。某を前に据えて置いて、お紅に無理強いに酌などさせる。寝所へ連れて行こうとされる。誰も彼も笑って眺めている。其のためにあつかおうとはしない! 無体なのは殿下のやり口だ! 庶民に対してはともかくも、臣下の某に対しての、やり口としては余りにひどい! もはや某は聚楽へは仕えぬ。ご奉公も今日限り。浪人をする浪人をする!」 不破小四郎を取り囲んで、朽木三四郎、加島欽哉、山崎内膳、桃ノ井紋哉、四人の若武士が話しながら、こっちへ歩いて来るのであった。 ところで彼らの話によれば、気の毒なことにはお紅という娘は、北畠家から奪い取られて、今、聚楽第にいるらしい。では主殿での夜遊の宴の、その中にも入っていることであろう。 不破小四郎と四人の武士とは、云いつのりながらなだめながら、次第にこっちへ近寄って来る。 と、一所に木立があって、そこの前までやって来た時に、飜然と飛び出した人影があった。同時に月光を横に裂いて、蒼白く閃めくものがあった。と、すぐに悲鳴が起こって、朽木三四郎がぶっ仆れた。すなわち木立から飛び出して来た、覆面姿の侍が、先に立って歩いて来た朽木三四郎を、抜き打ちに切って斃したのである。 「曲者!」と叫んだのは加島欽哉で、太刀柄へ右手をグッと掛けたが、引き抜くことは出来なかった。三四郎を斃した覆面の武士が、間髪を入れないで閃めかした太刀に、左肩を胸まで割られたからである。 「曲者!」とまたも同音に叫んで、山崎内膳と桃ノ井紋哉とが、左右から同時に切り込んで行った。が、それとても無駄であった。片膝を敷いた覆面の武士が、横へ払った太刀につれて、まず内膳が腰車にかけられ、ノッと立ち上った覆面の武士の、鋭い突きに桃ノ井紋哉が、胸を突かれて斃れたからである。 四人を瞬間に打って取った、覆面の武士の腕の冴えには、形容に絶した凄いものがあった。 と、その武士がツと進んだ。 「小四郎! 不破! 極悪人め! よくもお紅殿を奪ったな! 某こそは北畠秋安! 怨みを晴らしにやって来た。お紅殿を取り返しにやって来た! 観念!」 とばかり切り込んだ。 「出合え! 曲者!」と叫んだが、不破小四郎は見苦しくも、主殿をさして逃げ出した。 「逃げるか! 卑怯! 何で遁そう!」 四人を切った血刀を、頭上に振り冠った秋安は、すぐに小四郎を追っかけた。 と、その眼前へ大兵の武士が、遮るようにして現われたが、威厳のあるドッシリとした沈着の声で、 「北畠殿と仰せられるか、まずお待ちなさるよう。某事は木村常陸介、子細は見届け承わってござる。悪いようには計らいますまい」 こう云うと手を上げて制するようにした。
廊下を渡る雪燈の火
現われた武士は誰あろう、聚楽第における第一の智謀で、かつは誠忠無双であって、しかも身分は宿老であって、その上性質は寛仁大度、この人一人があるがために、秀次の生命は保たれて居り、聚楽の生命も保たれて居ると、世評一般に云われて居るところの、木村常陸介と耳にするや、逸り切っていた北畠秋安も、足を止めざるを得なかった。 で、ダラリと刀を下げて、常陸介を見守った。 「さて」と云うと常陸介は、一層物憂しい口調になったが、なだめるように説き出した。 「貴殿のお父上秋元殿は、高朗としたお人柄で、某も平素より尊敬いたし居ります。ご子息の貴殿のお噂も、兼々承わって居りました。清廉潔白でおわすとのこと、これまた敬意を払っていました。……ただ今立ち聞きいたしましたところ、お紅殿とやら申される女子を、不破小四郎が理不尽にも、関白殿下のお旨と申して、聚楽の第へ連れて参り、それを怒られてご貴殿には、この厳重の聚楽第へ、潜入して四人を討って取り、なお小四郎を討ち取った上、更に主殿へ切り入って、お紅殿を奪回なされようとのご様子。……小四郎の不義は申すも憎く、関白殿下のなされ方も、よろしくないことと存じます。しかし」 とここまで云って来て、木村常陸介は叱るようにつづけた。 「聚楽第には強者もござる。貴殿お一人に荒らされるほどの、不用心のことは致して居らぬ! あまりに自己をお頼みなさるな! またそれほどにも聚楽第を、力弱きものとお思いなさるな!」 しかしまたもや優しくなり、慰めるような口調となった。 「余計なことは申しますまい。某をお信じなさりませ。某必ずお紅殿を、無垢の処女として聚楽第から、貴殿にお返し致しましょう、安心して一先ずお引き取り下され、……四人の武士を討たれたことも、某秘密に取り行ない、貴殿にご迷惑のかからぬよう、葬むることにいたしましょう」 こう云われてみれば秋安には、押して云うべきことはなかった。なるほど主殿へ切り入ったならば、討って取られることであろう。決死の覚悟で来たのではあったが、殺されるのを望んでいるのではない。それにお紅を処女のままで、返してくれるというのである。苦情を云うべき筋はない。しかも言葉を誓ったのは、他ならぬ木村常陸介である。充分に信頼してよかった。 で、ひき上げることにした。 「ご芳志忝けのう存じます。ではお言葉に従いまして、立ち返ることにいたしましょう。つきましてはきっとお紅殿を……」 「大丈夫でござる、お案じなさるな」 「は」と恭しく一礼して、木立をくぐって北畠秋安は、忍びやかに後へ引き返した。 しかし十足とは歩かない中に、一つの恐ろしい事件が起こった。 酒宴をひらいている主殿の樓の、明るい華やかな笑声を縫って、悲痛極まる女の声が、一声けたたましく聞こえたかと思うと、一所の襖が仆されて、女の姿がよろめき出たが、欄干へ体をもたせかけると、そのままグッタリと動かなくなり、つづいて何物かが女の手から、秋安の足許へ投げられた。 秋安は驚いて小腰を屈め、投げられた物を取り上げて見た。 「九燿の紋の付いた懐刀だ! 血にぬれている、血にぬれている! ああお紅殿は自害なされた! 常陸介殿!」 と、飛びかかるようにしたが、 「お紅殿は自害を致しましたぞ!」 「うむ」と云うと木村常陸介は、腕をしっかりと胸へ組んだが、しばらくの間は黙っている。 と、グイと顔を上げたが、樓上の女の死骸を見た。四五人の人影が現われて、欄干に仆れている女の死骸を、屋内へ運んで行こうとしている。 と、木村常陸介は、にわかに頭を巡らしたが、主殿と並んで立っている、一宇の奇形な建物を見た。その建物と主殿とを繋いで、長い廻廊が出来ていたが、その廻廊に青い燈火が、一点ユラユラと揺れながら、建物の方へ進んで行く。一人の侍女が雪洞をささげて、廻廊を進んで行くのであった。いやいやその女一人だけではなくて、その後につづいて四五人の侍女が、群像のように固まって、建物の方へ進んでいた。 「なるほど」と呟いたのは常陸介であった。秋安の方へ顔を向けたが、 「誓った言葉に背きはしませぬ。処女のままの娘として、お紅殿をお返しいたしましょう。お信じなされ、お信じなされ」 そういう言葉には確信らしいものが、さも重々しく籠もってもいた。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] ... 下一页 >> 尾页
|